駅前に小さなケーキ屋がある。そこの質素なショーケースには、様々なケーキの模造品が飾られていた。黄金に輝く栗が乗せられたモンブラン、固い生地でクリームを包んだシュークリーム。
　男はじっとりと湿った視線でショーケースを眺めまわすと、喉仏が動いた。生唾を飲み込んだのだ。視線は苺のショートケーキで止まる。銀紙の上に愛らしく座りながらも、気が強そうな三角にカットされている。断面からは鮮やかな小麦色とクリームの白がのぞいていた。天辺に坐した赤い苺は艶かしく誘惑する。模造品であるはずだが、まるで匂い立つかのようだった。事実、店内からは小麦粉を焼く甘い香りがこぼれ、店から去るカップルの手にはふわりとした袋が握られている。彼はもう一度口内にあふれる唾液を飲み込み、ゆっくりと扉に手をかけた。
　店内は見かけ通り大きくはない。人間２人がやっとすれ違えるくらいだろう。カウンターには愛想の良いラミアが客の応対をしており、いらっしゃいませ、と声をかけた。明るい声が店内に響く。
　ラミアが接客業を務めることは珍しい話ではなかった。彼女たちの声には特有の魔力がこめられており、他者、特に男性を魅了することに長けている。接客ではその魔力を巧みに扱い、必要以上にものを買わせることができた。笑顔を浮かべた蛇は仕事の合間に店の内外を眺めた。その瞳は獲物を探す狩人の光を湛えていた。
　ほかの店員がその声に続いて挨拶を行う中、男はショーケースに飾られていたものと同じケーキを注文した。注文を聞いたラミアの笑顔が深みを帯びた。桜色の唇からは鈴を転がすような声。現在、こちら人気のチョコレートケーキがのこり1個となっております。ご一緒にいかがですか？また、バームクーヘンの切り落としもございます、つまみながらこちらの紅茶などどうでしょう？
　蛇が話す営業トークは手慣れたものであった。誘惑に長けた者が仕事の中でその才を磨くことででしか得られない、能力に裏打ちされた確信に満ちていた。
　「ん……チョコケーキと保冷剤、それとその切れ端を２人分。それとミートパイも同じく２人分下さい」
　男の鼓膜はラミアの声に心地よく揺れた。彼の財布の中は普段とは違い、給料で温まっている。このくらいの贅沢は悪くない、彼は蛇の誘惑に乗ることとした。
　残ったチョコケーキを定価で売り、利率の良いミートパイも売ることができた。店員は会心の笑みを浮かべながら男の会計を行った。
　　
　「食べ物を粗末にしたらダメです」彼女は至極まっとうなことを言った。
　男とオウルメイジはアパートの一室で共に暮らしていた。初めのころはただの同居人であった。人間と夜行性の魔物との生活時間帯はわずかな時間に重なる程度であった。
　ある朝に男の目が覚めると寝る前の女が食事を作っている。男が帰宅した後には表情の読み取れない瞳が、ぼんやりと二人分の食事を作る姿を見つめていた。洗濯や掃除などは手の空いたほうが手早く済ませた。細々した家事は目についたほうが先にやる、二人の生活の感覚――部屋の汚れがどれほどなら不快か、など—―が同じラインだったことが幸いした。
　一緒に暮らしているため衝突することもあったが、男は彼女の冷静さと我慢強さによく助けられていると思っていた。
　オウルメイジの瞳はわずかな光も受容し、夜闇に鬱蒼と茂る森での狩りを可能とする。しかし、その能力は人里で暮らすには些か敏感すぎた。彼女は部屋に電気をつけないことを好んだが、人間には暗すぎる。部屋を分けられればよいのだが、安いアパートにはそのような余裕はない。そのため、彼女が不快にならず、男が歩くのに支障がない明るさを探さねばならなかった。今では室内の照明は暖色で目を刺激しないものに取り換えられ、人間とオウルメイジの生活に支障のない明るさになっている。
　男の考えとは違い、女は彼の穏やかさや物事を深く考えない性質を気に入っており、そのために生活が上手くいっていると考えていた。二人の生活は互いの気遣いと好意からうまくいっているといってよかった。しかし、魔物である以上逃れられない時期がある。発情期だ。
　深夜、男が玄関のドアを開けると室内は真っ暗であった。普段は足元が見えるように小さな照明がつけられているが、それすらもない闇であった。電球でも切れたか、それにしては早い。彼女にしては珍しく付け忘れていたかなどと考えながら、彼は暗闇に目が慣れてから靴を脱ぎ、部屋へと続くドアを開いた。
　暗闇の中で薄く何かが光っている。彼女の瞳が男を凝視していた。
　彼女はゆっくりと近づき、男をその翼で抱き締める。汗と石鹸が混ざった匂いが彼の鼻孔をくすぐる。背中は大きな翼に覆われ、その暖かさと柔らかさに安心感を覚えた。
　二人は同居人から同棲相手となり、時間が合えば肌を合わせることとなった。
　そんな同棲相手として共に住んでいる男から求められたことは、彼女が想像していないことだった。
　暗いアパートの一室で彼と彼女は向かい合っている。ケーキは男の手によって冷蔵庫にしまわれていた。彼は冷たい菓子を好んでいたからだ。胡坐をかいた男はゆっくりとうなずいた。
　「いや、全部食べれば粗末にはならないと思う」屁理屈だった。
　「食べ物を踏むこと自体が非常識です。それに」
　女の瞳は正面に座る男を凝視している。布団の中では情熱的に見つめる瞳には冷たさが宿っていた。続けられた言葉にも同じく冷気が宿っている。
　「わたしの足についたものを食べるんですか？汚いです」
　「君は汚くないし、綺麗だよ。気にするならシャワーを浴びたらいい。洗ってあげようか」
　冗談に気を悪くしたのか、女の視線は温度を下げた。男はそれ以上何も言わずに大きな瞳に映る自分の顔を眺めていた。やがて、女は根負けしたようにため息をついた。
　「……わかりました。１回だけです」
　対照的に男は満面の笑みを浮かべていた。準備しようか、先にシャワー浴びてきなよ。と彼は声をかけ、ケーキを乗せる皿の準備を始めた。まるでその姿が明日の旅行を待ちきれない子供のようで、彼女は頬を緩ませた。

　女は脱衣所で服を脱いでいた。ハーピー種の服装にはある種の特徴がある。淫魔とは違った理由から露出度が高いことが多い。
　空中を自在に飛び回るため、身に着けるものは最小限にすること。空中での動きを阻害しないようにすること。この二つが求められていた。現在でも野生に近い生活を選んだものは全裸で狩猟生活を営む者も多い。
　彼女の翼手が器用にボタンを外していき、来ていた服は体から滑り落ちる。空気を含んで柔らかい羽毛に包まれたはだかが露わになった。女の体を隠すものは最小限の衣服だけだった。狩りを行う機会に乏しい彼女だが、身に着けるものは最小限のほうが居心地が良い。
　猛禽類のような翼手は器用に蛇口をひねる。シャワーヘッドから緩やかに湯が噴出し、女を頭から濡らしていった。
　彼女の栗色の髪はショートボブに整えられている。前頭部からはミミズクがもつ羽角のようなくせ毛が１対、後ろに流れるように生えていた。その羽角はシャワーの勢いを受け流して揺れる。たっぷりと生えた彼女の髪から流れ落ちる湯は、彼女の首元から肩回り、翼までを覆う羽毛に吸い込まれていく。水分を含んだ羽毛はぴったりと裸体に張り付き、彼女の豊満な肉体を強調させた。こぼれる滴は胸元を流れ、谷間へと飲み込まれていく。渓谷をくぐり抜けると臍のくぼみにたまり、また溢れていく。その先は下半身を滑り、陰毛を濡らしていった。女の瞳は垢やほこりが落ちていく己の姿を眺めていた。
　これからわたしは食器になるのか。それとも菓子を潰す破砕機になるのだろうか。肌を重ねるたび、食事を共にするたび、生活を共にするたびにあの男の性癖に対する興味がわいていた。犬のようにわたしの肌を舐め上げて奉仕する姿、食事の際に咀嚼する口をどこか発情したように向ける視線。掃除の際に不要物を踏み潰すわたしの足に向けられていた湿った関心。
　湯気に曇る鏡は妖しく笑う女の唇を映していた。

　彼はベッドに腰かけた女の足を見た。バスローブからのぞく太ももは黒く染まっている。その黒さは衣服からなるものではなかった。細かな鱗が密集することで運動性と強靭さを確保している。触れば滑らかな凹凸が心地よく、女性らしい柔らかさを味わうことができるだろう。その膝上あたりからは灰色と茶色の柔らかな羽毛が密集していた。羽毛は足首までを覆い、彼女が足を動かすたびに石鹸の香りが煽情的に散らばった。不快の匂いではない、早朝の森のような香りだった。緊張しているのか、足指を何度も握っては開く動作を繰り返している。彼女の足首から鋭い爪先にかけては太ももと同じく鱗に覆われていたが、色が違う。それは闇に紛れる黒ではなく、樹上で自らを支える木に紛れる樹皮色の鱗。鋭い爪は短く整えられ、力を込めて握ればネズミなどは切り裂いてしまいそうだった。
　彼女の足は梟の特徴が強く出ており、まるで冬の森で獲物を待つためにあつらえたかのような足だった。彼女に言わせれば狩りを行う必要はもうない、ただの進化の名残だというのだろう。彼は彼女のそういった理屈屋な面が好きだった。もちろん内面だけではない。柔らかな曲線を描くふわりとした体つき。それを隠すように覆う羽毛、それは今のように湯上りでは水分を含んで体に張り付く。彼にとってその肢体は彼の性的な関心を引くに余りある宝であった。
　女の足元には大皿がおいてあり、その上には苺のショートケーキが乗っている。まだ冷たいそれは甘い香りを部屋に漂わせていた。皿を挟んだその向かい、男が食い入るように足とケーキを見つめている。
　「じゃあ、頼む」
　よほど緊張しているのか、男の声はかすれている。その乾いた唇は自らの舌が舐めていった。視線は女の顔を見ていない。鋭く整えられた爪先に注がれていた。女の瞳が細まり、どこか恥ずかしそうに足指が動く。清められた爪が赤い果実をつかみ、男の瞳に焼き付けるようにつぶした。垂れ落ちる薄赤い果汁は純白のドレスを汚していく。初夜に散らされる花嫁の処女を思わせるような光景であった。男の喉仏が動き、ごくり、と音が鳴った。知らず、女の唇は笑みの形に歪んでいく。
　赤く染まった爪先は甘い雲をくすぐるように撫でた。美しく整えられた菓子、その表面を爪が通るたびに無残な姿に変わっていく。可愛らしいクリームの飾り、黄金色の生地がまとった白い絹、それらを爪が切り裂いていった。その光景を男の瞳は余すことなく記憶に焼き付けている。彼は子供じみた卑しい遊びをしていることを自覚していた。
　おれは何ということをしているのだろう。食物を遊具に見立てて付き合っている女に踏ませるなど。しかし、この胸を灼く感覚はなんだ？背徳感か。あるいは幼児退行か。何にしてもおれはこの卑しい遊びで充足感を覚えている。……もっと、この女に踏ませたい。白い洋菓子だけじゃない、黒や褐色のチョコレートで彩られた足を見たい。小麦の殻を猛禽の足が握りつぶし、樹皮色が白く汚れていくのを眺めたい。おれはこの女の汚れた足を舐めとりたい。男は自らの薄汚い欲望を実感し、知らずのうちに笑みを浮かべた。
　先ほどまでケーキだったものは白と赤、黄色が混ざった何かになっていた。甘く芳醇な香りを放つそれは勢いよく踏みつぶされ、水の入った袋を踏み潰したような音が鳴る。薄桃色の破片が皿から飛び出し、床に飛び散った。女は自らの足に伝わる爽やかな冷たさを楽しみながら、男の眼前に足を運んだ。
　男は菓子に汚れた女の足に視線を滑らせた。柔らかな瓦礫が付着した足。鈍色の爪を汚す赤い果汁と白い破片。女の爪先は誘うように握っては開く。そのたびに女の足は匂い立つ。石鹸や果実、砂糖菓子、それらがないまぜになった極彩色の香りは男の鼻を通るたび、肺に充満するたびに、彼の欲望を膨らませた。
　たっぷりと匂いを楽しんだ男は口を開き、舌を足に這わせていく。桃色の肉は白く崩れた瓦礫を舐めとっていく。舌が這った後には爪や足があらわになり、それらは唾液で艶かしく光った。
　舌が動くたびに男の口内は甘くなる。それは菓子の甘さではなく、女の肉体の味だった。
　彼は普段の情交においても女の体を舐めることを好んだ。彼女の体は鱗や羽毛に覆われ、男の舌を飽きさせることはなかった。
　男の舌が崩れた洋菓子に突き刺さる。白い甘さの中を探ると固いものに突き当たった。鱗である。舌先は鱗と鱗の間を丁寧になぞりあげると、唾液と混ざった菓子を口に含んだ。
　何度か繰り返すうちに、女の爪先や足裏を覆ったものは男の口の中に溶けていった。
「ふふ、くすぐったいですね」
　女の唇は薄く開き、その端から小さな笑い声が漏れる。その声は低く、山間に響く風を思わせた。
　「いいですよ、すごく。そう、指の間も忘れずに」
　示されたとおりに彼の口は指の股を口に含んだ。果汁やクリームを纏ってべたつくそれは、女体と混ざった複雑な甘さの中、微かに汗ばんでいた。
　男の口は水音を立てながら女の指の股をしゃぶっている。左手は足首に添えられ、右手は足裏を支えていた。
　梟の瞳は男の姿を眺めていた。自らの足元に膝をつき、頭を垂れながら足を舐めしゃぶる姿。愛する男と戯れる充実感と同時に、発情期に入ったペットの世話をしているかのような優越感が彼女の心に芽生えていた。
　男は足の甲に飛び散った果汁を舐めとり、唾液にぬめる爪先に口づけをした。彼が見上げると大きな瞳が笑みを浮かべていることに気づいた。
　「きれいにしましたね。ご褒美です」
　口付けている爪先が離れる。唾液やべたつきを拭きとるように、もう一度踏み潰すように、彼の頭を撫でた。
　差し込んだ月の光が女の顔にかかり、女の喜悦を青く染めた。