連載小説
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猫村さんと俺の午後から宵の口にかけてA

「とにかくまー、これを機会にいっこ言っておきたいことがあってさ」
「……?」
(……?)

 俺が自分の考えを整理しながら、何気なく、今度は結構な勢いをつけてペットボトルを放り投げた。ペットボトルは、空中で車輪のように一回転した。俺はそれを見上げていた。
 しかし、猫村さんの同僚が口にしたのは、ちょっと想像できないような驚愕の事実だった。

「夜な夜な一人『新藤君』で楽しむのやめてくんない?うるさいのと、こっちもムラムラするのとで、寝れないんですけど」

 俺はどっきりした。
 ベランダの裏に着くかつかないかのぎりぎりの高さまでペットボトルは浮かび上がり、そのわずか何cmか手前で一瞬止まった。しかし、今の猫村さんの同僚の言葉は、ペットボトルが空中にとどまっている時間を、何倍にも引き延ばしたような気がしたのだ。
 俺はそれを聞いてた時、頭の中が真っ白になった。にわかには信じがたかった。こういった驚きは本日二度目だった。
(え、は?え?)
(それって要は、オナ……)
 猫村さんも、しばらくは言葉がなかった。ベランダの向こう側で猫村さんが息を飲んでいるのがなんとなく察せられた。
 俺は、その後どんな言葉が飛び出すのかこれっぽっちも考えることも出来なかった。
 猫村さんが、かろうじて、絞り出すように
「知ってたの…?」
と言うと、宙に制止したペットボトルは落下をはじめた。
 猫村さんは認めた。俺の頭は、後ろからもう一度ガツンと殴られたかのように、衝撃を受けた。
「うん、普通に聞こえてるから。声、かなり大きいから」
「え、え、えーーーっ」
 猫村さんが悲鳴を上げた。
 俺も心の中で悲鳴を上げた
 それと全く同時に、鼻の先を掠めていくペットボトルのことを慌てて思い出し、地面に叩きつけられる直前に、俺は身をかがめてそれをキャッチした。
(っっっぶねえぇぇー)
 半年以上のブランクを経てもなお、バスケで鍛えられた俺の反射神経はちゃんと仕事をしてくれたのだ。
「え、うそ、何で!? ちょっと、え、え!?」
「いや、普通に壁薄いのと、声大きいのと」
「大きいの!?」
「うん。すっげー響く」
「やっ、うそ、ああーーっ」
 猫村さんがたまりかねたように大きな声を上げた。しかし猫村さんの同僚はなおも追撃を続けた。
「あと、ムラムラしたら、所かまわずすぐその場でやるのもどうかと思う。この前はお風呂場、この前はリビング、みたいなのが毎回違うじゃん」
「そこまで詳細に……?」
「うん、わかる」
「ーーーーーーっ!」
 猫村さんが声にならない悲鳴を上げた。
俺は、自分の首筋や背中、脇などから、冷や汗が一挙に噴き出してくるのをありありと感じ取っていた。顔から血の気がどんどん引いていく。
俺は急に自分に激突した衝撃に関して、頭上の会話に必死に意識を集中させた。
「朱莉って………のくせに、そういうとこだけは変に人間臭いよね。こーゆーのばらされて恥ずかしがるところとか」
「中学生のころから暮らしてたら嫌でもこっち寄りの感覚になるよ……」
「私は朱莉とおんなじだけこっちで暮らしてるけど、別に恥ずかしくないぜ。知り合いの男子高校生をネタにしてオナニーとか」
「言わないでよ!!」
俺はもっと情報が欲しかくて、耳をそばだてた。
しかしそれはもう難しそうだった。ハイヒールの高い音が、室内の方に向かって歩きだしていたのだ。
「そーゆーわけだから、隣室のワタクシにもちょっとは気を遣ってねー、ということです」
「……わかりました……」
 今の猫村さんの声は、ちょっと可哀そうなぐらいに小さくなっていた。さっきのことと言い、今日は彼女にとって、結構厄日なんじゃないだろうか。俺にとってはそれどころではないけれど。
続いて猫村さんの足音も室内に入っていった。そうではあるけれども、俺はしばらくその場にとどまって、少しの間呆然としていた。


 俺が駐車場を後にしたのは、それからしばらく経ってからだった。俺は地下鉄に乗り、列車の振動に身をやられながら、ドアにもたれかかって色々なことを考えていた。
(…………マジかー)
 一旦電車が止まり、俺が体重を預けている方の反対側のドアが開き、沢山の人々が乗り込んできた。俺は、その人々の体重と、その歩みによって車両の床が揺れるのを足の裏から感じていた。この頃になってようやく、俺は物事を冷静に考えることが出来るような気がしてきた。
(俺そんな風に見られてたんだー……)
 正直、ラブレターくらいなら高校にいる時何度か貰ったことはあるのだ。卒業式に告白してくれた後輩もいるし。しかし、自分をオカズにする女性なんて言う存在には、ちょっと出会ったことはなかった。
 俺は自分の中にわだかまる思いをなるべく冷静に解析しようと努めた。俺の心の中にあるのは忌諱感か、照れくささか、あるいは一体何なのだろうかと心の内をまさぐるようにして、俺は懸命に考え続けた。
(あー、いやでも、うーん)
 扉がスライドして閉まり、地下鉄は再び走り出した。列車は徐々にスピードを上げ始めた。窓の外から見えるトンネル内のライトが、ガラスに映った俺の像の向こう側を幾つも通り過ぎて行った。ライトはオレンジ色で、それは夜道を走る時に目にする、道に沿って並ぶ街頭の明かりにどこか似ていた。
(まあ…………嫌、ではないんだけれどな。ないんだけど………うーんなんていうか………)
 猫村さんとは、そもそも俺にとっていったいどんな人間であるのかを確かめるため、俺はぼんやりと、あの夜の俺と猫村さんの出会いを、もう一度最初から思い出していた。






19/08/03 10:00更新 / マモナクション
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■作者メッセージ
新藤君はヒューマンドラマ系の映画が好きで、猫村さんの好みは、sawシリーズとか、グリーン・インフェルノみたいな見ていて痛々しい系です。
8月3日 長かったので、本分を分割させていただきました

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