猫村さんと俺の午後から宵の口にかけて@
階段を上がり地上に出ると、猫村さんの職場には思ったよりも早くに着いた。一度案内されたことがあるからかもしれない。猫村さんの働くこのビルは、一階がコンクリート製の駐車場になっていて、事務、営業、受付のいずれも階段を上って着く二階から上の階が受け持っていた。どことなく立方体の雰囲気を感じさせるこの建物(本当はちょっとだけ縦に長い)の外壁からは、無骨な金属製のベランダと非常階段から、生垣から飛び出す枝のように飛び出していた。
俺は、代金に加えて、お金を渡し忘れていたことのお詫びにペットボトルのお茶を一本買っていった。
受付の方に言って、窓口のお姉さんに訪ねてみたが、彼女が職場に戻ってから、そんなに時間は立っていないだろうに、猫村さんの姿が見えないという。 受付のお姉さんも、猫村さんに負けず劣らずの、ちょっと信じられないほどの美人で、初めてここに来た時は驚いたものだった。俺はそのお姉さんに若干見惚れながらも、いつ猫村さんに代金を返したものかと考えていた。
お姉さんにお礼を言って、階段を下りて風の吹き抜ける一階駐車場を出る時、頭上から誰かの話し声がした。
(お? この声ってもしかして……)
俺が耳を澄ませると、件の金属製のベランダに何人かが話をしている気配がした。一人の声は、俺の初めて聞くものだった。もう一人の声の主は猫村さんだった。
(いたわ、猫村さん)
俺はそのまま駐車場を抜け、ベランダの見える位置に行き、手を振って来訪を知らせたい様な気もしたが、しかし俺の知らない場所で猫村さんが一体どんな話をしているのかということにも興味が沸いたので、しばらくその場にとどまって彼女の話に耳をそばだてることにした。俺はすぐそばのコンクリートの柱に寄りかかり、なんとなく手土産に持ってきたペットボトルのお茶を空中に放り投げては受け止めてを繰り返しながら、猫村さんと、誰かわからないもう一人の会話の続きを待った。
「で、どこ行ってきたの?」
「んー、食堂。学生食堂」
「なんで」
「なんか知り合いの子がつれてってくれた」
「ふーん」
「美味しかったよ」
「ふーん」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「……なに」
「それって、この前知り合ったっていう?」
「そうだけど」
「誰だっけ、新藤君って言ってたっけ」
「そう」
「なんかすごい仲いいよね」
ここで猫村さんはすぐには返答しなかった。しばらく黙って、なんて応えようか慎重に考えている気配がした。俺はペットボトルを、空中で一回転させた。
「そう?」
「うん」
「そんなことないよ」
「朱莉がここまで何回もご飯一緒に行くのって珍しいから」
「そんな行ってない」
「行ってるよ。今日で5回目くらいじゃん。しかも半年で」
「あー、まあ、ね。あ、そうか、そんなに行ってるんだ」
「うん。すごい行ってる」
「……」
「……」
「しかも、ご飯だけじゃないよね」
「そうだっけ」
猫村さんが答えるまでにわずかな間が生じた。
猫村さんは何かすっとぼけたふりをする時に、ちょっと声が上ずる。今の「そうだっけ」はその中でも相当分かりやすい方だったんじゃないだろうか。
ちなみに朱莉(あかり)と言うのは猫村さんの下の名前である。俺がこの名前を知ったのは知り合ってから四か月以上たってからだった。
しかしこの朱莉と言う名前は実は日本名ではなく、魔界での彼女の本名に一番近い漢字をあてたものだということを、俺は後々知ることになる。
「そうだよ。この前私、お買い物行こうって誘ったら断られたし」
「あー、それは……、ごめん。またどっかいこっか」
「……何か用事あるのかなって思って、しょうがないから一人で言ったら、出先にいるし」
「えっ」
「しかも男の子と映画館入っていったし」
「えっ、えっ」
「年下とは聞いてたけどね」
「いや、それは……。っていうか、見てたの?」
「高校生かよ」
「いや、あれはただの付き合いで」
「そう? 普通に楽しそうだったけど」
「いや、まあ、それは映画面白かったからで」
「ふーん」
「違うの、付き合ってるとか付き合ってないとかじゃなくて」
「いや、デートだよ。あれ完全にデートだったよ」
「違うよ」
「嘘だー」
「本当に違う」
「どう違うのか言ってみなさいよ」
「それは……」
「ほら早く」
「えー……、いや、あれはただ単に、新藤君の誘ってくれた映画が自分の見たいやつだっただけで。ほら、受験生だから秋冬は全然映画とかはいかなかったよ」
「誘われてんじゃん。ていうか、映画の趣味把握されてんじゃん」
「いやでも、話題からそういうのって分かるくない? それにほらいつも話すとき敬語だし? 距離があるっていうか、そこらへんはそんなに近すぎないし」
「敬語関係なくない?」
「いや、まあ、直接は関係しないけど」
「めっちゃフランクな敬語だったよね」
「どこまで見てたの!?」
「朱莉、結構惚れっぽいからなー。意外と単純だよね」
「そんなことない」
「一昨年の今頃、彼女持ちの男の人気になってるって言ってたじゃん。彼に対して、私と彼女の一夫二妻にしてでもって言ってたあれ、どうなったの?」
「いやあれは今関係ないでしょ」
「というか、私たちが親についてきてこの世界に来た時って、13歳ぐらいの時だったっけ。あの頃朱莉って、こっちの学校の先生が好きだったよね。しかも定年間近のナイスミドル」
「槇村先生優しかったじゃん。どう見ても50歳には見えない知的でぐらいかっこよかったじゃん」
「まあ、なんでもいいけどね」
「なんなのよ、もー……」
俺は、よもやこんな場所で猫村さんの過去が聞けるとは思ってなかったので、盗み聞きの分際で大分ふてぶてしいことではあるけれども、だいぶ面白おかしく二人の間に交わされる会話を聞いていた。
俺は笑いをこらえながら、やはりまだペットボトルをもてあそんでいた。ハーレムとは大胆だなとも思う。
それにしても、こっちの世界っていうのは一体何のことなんだろうか。今までの猫村さんとの付き合いの中で感じていた、微かな違和感や妙な経験は、少しずつ蓄積され、そしてこういった場面によって毎回一層深まった。
しかし実を言うと、この頃には、俺は猫村さんの来歴や正体について、大分おおざっぱではあるものの、すでにいくつかの仮説を立てていたのだ。
思うに彼女は……。
「とにかくまー、これを機会にいっこ言っておきたいことがあってさ」
「……?」
(……?)
俺が自分の考えを整理しながら、何気なく、今度は結構な勢いをつけてペットボトルを放り投げた。ペットボトルは、空中で車輪のように一回転した。俺はそれを見上げていた。
しかし、猫村さんの同僚が口にしたのは、ちょっと想像できないような驚愕の事実だった。
俺は、代金に加えて、お金を渡し忘れていたことのお詫びにペットボトルのお茶を一本買っていった。
受付の方に言って、窓口のお姉さんに訪ねてみたが、彼女が職場に戻ってから、そんなに時間は立っていないだろうに、猫村さんの姿が見えないという。 受付のお姉さんも、猫村さんに負けず劣らずの、ちょっと信じられないほどの美人で、初めてここに来た時は驚いたものだった。俺はそのお姉さんに若干見惚れながらも、いつ猫村さんに代金を返したものかと考えていた。
お姉さんにお礼を言って、階段を下りて風の吹き抜ける一階駐車場を出る時、頭上から誰かの話し声がした。
(お? この声ってもしかして……)
俺が耳を澄ませると、件の金属製のベランダに何人かが話をしている気配がした。一人の声は、俺の初めて聞くものだった。もう一人の声の主は猫村さんだった。
(いたわ、猫村さん)
俺はそのまま駐車場を抜け、ベランダの見える位置に行き、手を振って来訪を知らせたい様な気もしたが、しかし俺の知らない場所で猫村さんが一体どんな話をしているのかということにも興味が沸いたので、しばらくその場にとどまって彼女の話に耳をそばだてることにした。俺はすぐそばのコンクリートの柱に寄りかかり、なんとなく手土産に持ってきたペットボトルのお茶を空中に放り投げては受け止めてを繰り返しながら、猫村さんと、誰かわからないもう一人の会話の続きを待った。
「で、どこ行ってきたの?」
「んー、食堂。学生食堂」
「なんで」
「なんか知り合いの子がつれてってくれた」
「ふーん」
「美味しかったよ」
「ふーん」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「……なに」
「それって、この前知り合ったっていう?」
「そうだけど」
「誰だっけ、新藤君って言ってたっけ」
「そう」
「なんかすごい仲いいよね」
ここで猫村さんはすぐには返答しなかった。しばらく黙って、なんて応えようか慎重に考えている気配がした。俺はペットボトルを、空中で一回転させた。
「そう?」
「うん」
「そんなことないよ」
「朱莉がここまで何回もご飯一緒に行くのって珍しいから」
「そんな行ってない」
「行ってるよ。今日で5回目くらいじゃん。しかも半年で」
「あー、まあ、ね。あ、そうか、そんなに行ってるんだ」
「うん。すごい行ってる」
「……」
「……」
「しかも、ご飯だけじゃないよね」
「そうだっけ」
猫村さんが答えるまでにわずかな間が生じた。
猫村さんは何かすっとぼけたふりをする時に、ちょっと声が上ずる。今の「そうだっけ」はその中でも相当分かりやすい方だったんじゃないだろうか。
ちなみに朱莉(あかり)と言うのは猫村さんの下の名前である。俺がこの名前を知ったのは知り合ってから四か月以上たってからだった。
しかしこの朱莉と言う名前は実は日本名ではなく、魔界での彼女の本名に一番近い漢字をあてたものだということを、俺は後々知ることになる。
「そうだよ。この前私、お買い物行こうって誘ったら断られたし」
「あー、それは……、ごめん。またどっかいこっか」
「……何か用事あるのかなって思って、しょうがないから一人で言ったら、出先にいるし」
「えっ」
「しかも男の子と映画館入っていったし」
「えっ、えっ」
「年下とは聞いてたけどね」
「いや、それは……。っていうか、見てたの?」
「高校生かよ」
「いや、あれはただの付き合いで」
「そう? 普通に楽しそうだったけど」
「いや、まあ、それは映画面白かったからで」
「ふーん」
「違うの、付き合ってるとか付き合ってないとかじゃなくて」
「いや、デートだよ。あれ完全にデートだったよ」
「違うよ」
「嘘だー」
「本当に違う」
「どう違うのか言ってみなさいよ」
「それは……」
「ほら早く」
「えー……、いや、あれはただ単に、新藤君の誘ってくれた映画が自分の見たいやつだっただけで。ほら、受験生だから秋冬は全然映画とかはいかなかったよ」
「誘われてんじゃん。ていうか、映画の趣味把握されてんじゃん」
「いやでも、話題からそういうのって分かるくない? それにほらいつも話すとき敬語だし? 距離があるっていうか、そこらへんはそんなに近すぎないし」
「敬語関係なくない?」
「いや、まあ、直接は関係しないけど」
「めっちゃフランクな敬語だったよね」
「どこまで見てたの!?」
「朱莉、結構惚れっぽいからなー。意外と単純だよね」
「そんなことない」
「一昨年の今頃、彼女持ちの男の人気になってるって言ってたじゃん。彼に対して、私と彼女の一夫二妻にしてでもって言ってたあれ、どうなったの?」
「いやあれは今関係ないでしょ」
「というか、私たちが親についてきてこの世界に来た時って、13歳ぐらいの時だったっけ。あの頃朱莉って、こっちの学校の先生が好きだったよね。しかも定年間近のナイスミドル」
「槇村先生優しかったじゃん。どう見ても50歳には見えない知的でぐらいかっこよかったじゃん」
「まあ、なんでもいいけどね」
「なんなのよ、もー……」
俺は、よもやこんな場所で猫村さんの過去が聞けるとは思ってなかったので、盗み聞きの分際で大分ふてぶてしいことではあるけれども、だいぶ面白おかしく二人の間に交わされる会話を聞いていた。
俺は笑いをこらえながら、やはりまだペットボトルをもてあそんでいた。ハーレムとは大胆だなとも思う。
それにしても、こっちの世界っていうのは一体何のことなんだろうか。今までの猫村さんとの付き合いの中で感じていた、微かな違和感や妙な経験は、少しずつ蓄積され、そしてこういった場面によって毎回一層深まった。
しかし実を言うと、この頃には、俺は猫村さんの来歴や正体について、大分おおざっぱではあるものの、すでにいくつかの仮説を立てていたのだ。
思うに彼女は……。
「とにかくまー、これを機会にいっこ言っておきたいことがあってさ」
「……?」
(……?)
俺が自分の考えを整理しながら、何気なく、今度は結構な勢いをつけてペットボトルを放り投げた。ペットボトルは、空中で車輪のように一回転した。俺はそれを見上げていた。
しかし、猫村さんの同僚が口にしたのは、ちょっと想像できないような驚愕の事実だった。
19/08/03 09:33更新 / マモナクション
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