連載小説
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渇望
 大学に進学してからの一年間、悠真はようやく自分のものとなった時間を噛みしめていた。朝、慌ただしく支度をして通学し、講義を受け、友人と笑い合う。
 講義が無い時にはカフェで課題を広げたり、サークルの仲間と他愛もない話をしたり。
 高校の頃とはまるで違う、自由で健やかな日々。――そのはずだった。

 けれども、夜。静まり返ったワンルームのベッドに横たわると、胸の奥にぽっかりと穴が開いているのを否応なく思い知らされる。

「……佐奈は今、どうしてるだろう」

 無意識に浮かぶその名に、悠真は苦笑をこぼす。
 あれほど愛してくれた彼女の束縛より、自由を求めて去ったのに。
 実際に自由を得てみれば、そこには奇妙な寂しさが広がっている。

 キャンパスで笑顔を向けてくれる女子学生もいた。
 好意を匂わせる視線に気づかないほど鈍感ではない。
 けれど、誰に微笑まれても胸の奥は冷たいまま。
 あの、屈託のない笑顔と、甘えるように絡みついてきた声色――佐奈のものと比べてしまう。
 比べれば比べるほど、どうしようもなく彼女を求めてしまう。

 自由とは、こんなにも空虚なものだったのか。
 束縛されていた日々は確かに重苦しく、出口のない甘い牢獄のようだった。
 だが同時に、あの視線に絡め取られ、名前を呼ばれ、逃げ場を奪われる心地よさもあった。
 自分を必要とし、絶対に離そうとしない存在が傍にいた――その事実が、今になって胸を締め付ける。

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 ある晩、夢を見た。
 暗い部屋の中で、佐奈が微笑んでいる。高校の頃と変わらぬ制服姿で、無邪気にこちらへ手を伸ばしてくる。

「先輩……どこにいるんですか?」

 囁くような声が、耳の奥に焼き付いた。
 悠真は思わず彼女の手を握りしめ――その瞬間、目が覚めた。
 狭い天井を見つめながら、額に汗がにじむ。胸は痛いほどに脈打ち、喉は渇いているのに言葉が出なかった。

「……会いたい」

 声にならないほど掠れた呟きが、虚空に落ちて消えた。

 その日からだ。佐奈の夢を繰り返し見るようになったのは。
 彼女の姿は日に日に鮮明になり、笑顔は甘く、視線は絡みつくように濃くなる。
 昼間は友人と笑って過ごせる。だが夜になると、孤独と渇望が全てを塗りつぶしていく。

 悠真は気づき始めていた。
 あの一年間は、ただの監禁でも束縛でもなかった。自分の心を形作る「基準」そのものを佐奈が塗り替えてしまっていたのだ。
 自由を得ても、解き放たれても――すでに心の根っこは彼女に絡め取られている。


 佐奈に会いたい...
 この気持ちが抑えきれない。思い浮かぶのは全て佐奈。

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 講義を終えて夜の街を歩く悠真の足取りは、重かった。
 友人と笑い合った帰り道なのに、心は晴れない。
 頭の片隅には、あの夢がこびりついて離れなかった。黒い影と共に立つ佐奈の姿――。

 大学の門を出た時、ふと、冷たい風が頬をかすめた。
 冬の夜気にしては妙に重く、湿った気配を孕んでいる。
 足を止めた悠真の耳に、低く甘やかな囁きが滑り込んだ。

「……先輩」

 全身が総毛立つ。
 振り向けば、街灯の影の中に、一人の女が立っていた。

 それは間違いなく佐奈だった。
 しかし――記憶にある彼女の姿とは、どこか決定的に違っていた。
 漆黒の衣の裾が夜風に揺れ、その身を覆う布にはまるで祈祷の紋様のような黒い線が流れている。
 かつては健康的な少女の輝きを帯びていた瞳は、今や夜空の星を飲み込んだような深淵の光を宿し、微笑む口元からは抗いがたい魔性が覗いていた。

「……さ、佐奈……?」

 かすれる声で名前を呼ぶ。
 彼女は小さく首を傾げ、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「やっと会えましたね、先輩」

 低く響くその声には、甘美な響きと同時に、背筋を凍らせる威圧が混ざっている。
 悠真は後ずさりしようとするが、足は地面に縫い付けられたように動かない。

「な……なんで……ここに……」
「先輩が呼んでくれたからです」

 佐奈は微笑む。
 その笑みは懐かしくもあり、同時に異形の気配をはらんでいた。

「ずっと我慢していたでしょう? 一人で……私から離れて……でも、心は私を求めていた。だから、応えに来ました」

 悠真の胸が激しく波打つ。
 否定したいのに、彼女の言葉は痛いほど正確だった。
 確かに、自分は佐奈を求めてしまっていた。夢の中で、心の底で。
 その弱さを、彼女は見透かしている。

「……佐奈……お前……変わったな……」

 震える声でやっと告げる。
 すると佐奈は、まるで喜ぶように小さく息をついた。

「ええ。あの時、闇に出会ったのです。堕ちた天使に。そこで私は誓いました。先輩を永遠に手放さない、と」

 彼女の瞳が光を帯びる。その奥に、悠真には理解できない深淵の影が揺らめく。

「だから私はもう、人ではありません。先輩を守り、縛り、愛し尽くすための存在になったのです」

 その言葉と同時に、夜風が渦を巻き、黒衣の裾が宙に広がる。
 悠真は思わず目を細めるが、視線の先で佐奈は確かに微笑んでいた。
 少女の面影を残したまま、異形の輝きを纏って。

 恐怖と安堵がないまぜになった感情が、胸の奥を貫く。
 逃げたいはずなのに、どうしても目を逸らせない。
 佐奈は、もう自分の知らない存在になっている。
 けれど――その声、その瞳、その微笑みは、どうしようもなく懐かしく、愛おしい。

「さあ、帰りましょう、先輩」

 佐奈は囁き、悠真の頬にそっと手を添える。
 その手は冷たくも温かく、決して逃がさないと告げるように強く包み込む。

 ――逃げられない。
 悠真はその瞬間、悟った。
 自分はもう、佐奈から逃げ切ることなどできないのだと。

 佐奈の手は頬から首筋へ滑り、優しくも抗えない力で引き寄せる。
「先輩。今日から、私と一緒に暮らしましょう」
 その声音は静かで、しかし絶対の命令のように胸に沈んだ。

「……な、何を言って……」

 言葉を返そうとするが、喉は渇いて掠れた。
 彼女の目を直視すると、すべてを見透かされるようで、否定が喉の奥に貼りついて消えていく。

 佐奈は微笑みを崩さず、悠真の手を取った。

「寂しかったでしょう? 一人暮らし、つらかったはずです」

 その囁きに、胸の奥で何かが軋む。
 本当は自由を得たはずの一年。だが、夜になるたび佐奈の面影を思い出してしまっていたことを、彼女は知っているかのようだった。

 気づけば、佐奈に手を引かれるまま、アパートの扉の前に立っていた。
 彼女の指先が鍵に触れると、不思議なことに錠は音もなく開いた。

「……ほら、帰りましょう」

 その自然さに抗弁を失い、悠真は足を踏み入れてしまう。

 部屋に入った途端、空気が変わった気がした。
 いつもの小さな一人暮らしの部屋が、佐奈の気配に塗り替えられていく。
 彼女は靴を揃え、台所を見回し、棚の食器を指でなぞった。まるで元から自分の家であったかのように。

「……勝手に入るなよ……」

 やっとの思いで言葉を絞り出すが、その声は弱々しい。
 佐奈は振り返り、澄んだ瞳で悠真を見つめる。

「嫌なんですか? 私がここにいるのは」

 問われた瞬間、返答は胸に張りついた。
 ――嫌なはずだったのに、嫌だと言えない。
 その矛盾が喉を詰まらせ、ただ立ち尽くすしかできなかった。

 佐奈はゆっくりと近づき、悠真の肩に額を寄せた。

「もう一人にしません。どこへも行かせません。……これからは、ずっと一緒です」

 囁きは甘美で、背筋を凍らせる呪縛だった。
 悠真は気づく。
 ――これはもう、同棲などという生易しいものではない。
 彼女は自分を囲い込み、二度と外の世界に戻さないつもりなのだ。

 
25/08/31 17:25更新 /
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