連載小説
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疑念
 放課後の校舎には、徐々に夕焼けが差し込んでいた。
 友人たちから「一緒に寄り道しよう」と誘われても、悠真の視線は無意識のうちに図書室の方へ向いていた。

 そこには佐奈がいる。

 理由を言葉にできるわけではないが、彼女の笑顔を思い浮かべるだけで、心のどこかが落ち着かなくなるのだ。

 佐奈は今日も待っていた。ノートを広げて、けれど勉強は進んでいないようで、ページの隅に小さなイラストや文字が並んでいる。
 彼女は悠真に気づくと、ぱっと花が咲くような笑顔を向けた。
 その瞬間、周囲のざわめきが遠のいて、二人だけの空間に閉じ込められたような錯覚を覚える。

「先輩、今日も来てくれたんですね」

 何気ない一言に、胸が熱くなる。
 別に義務があるわけではない。
 ただ、来ないと落ち着かなくなっている自分に気づき、悠真は内心で小さく首を振った。
 後輩に頼られているから、それだけのことだ――そう言い訳しながら。

 机を並べて教科書を開く。
 佐奈はわからない箇所を素直に尋ねてきて、時折「やっぱり先輩はすごいです」と小さく呟いた。
 その声音には無邪気さがあったが、視線の奥に潜むものはそれだけではないように思える。
 悠真はその違和感を深く考えず、むしろ自分が必要とされていることに安心を覚えた。


 帰り道も自然と二人で歩くようになっていた。最初は偶然が重なっただけのはずだった。
 だが今では、友人と帰るよりも佐奈と並んで歩くことが当たり前になりつつある。
 街灯に照らされた横顔は、すらりとした輪郭に柔らかな笑みを湛えていて、その整った顔立ちは夕暮れに映えてひときわ輝いて見えた。

「先輩、今日も一緒に帰れて嬉しいです」

 そんな言葉を素直に言われてしまえば、拒む理由は見つからなかった。
 ただ並んで歩くだけの帰り道が、奇妙に心地よい。
 まるで彼女がそう仕向けているかのように――しかし悠真はその可能性を考えない。
 ただ、『佐奈が笑っているから』という理由で、足を止められなくなっていた。

 気がつけば、悠真の日常は少しずつ佐奈に絡め取られていた。
 友人との約束よりも、部活の雑務よりも、彼女の存在が優先される。
 

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 別の日、夕暮れの教室に差し込む橙色の光の中、悠真は机に突っ伏していた。
 今日は佐奈が部活のため、放課後に残って一人でノートをまとめていた。
 しかし、静かな空間なのにも関わらず、心は一向に落ち着かなかった。頭の片隅に、佐奈の姿がちらついて離れない。

 彼女が笑うときの柔らかい表情。クラスの誰に対しても気さくに接する姿勢。
 そして、ふとしたときに向けられる、他の誰にも見せていないはずの視線。
 それを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びてしまう。自分が彼女をかなり意識しているのだと、否応なく認めざるを得なかった。

 ——だが同時に、奇妙な感覚もあった。

 彼女の明るさに救われる一方で、どうしようもなく絡め取られていくような圧迫感。
 その笑顔が、自分だけに向けられているのではないかと錯覚し、逆に逃れられないような恐怖を覚える瞬間があるのだ。

 「先輩、まだ残ってるんですね」

 不意に背後から声を掛けられ、悠真は顔を上げた。
 そこには、夕陽を背にした佐奈が立っていた。すらりとした体つきに、柔らかく整った顔立ち。
 笑うと一層少女らしく可憐さを増すその表情は、教室の中でも際立っていた。

 「ちょっとな。……佐奈こそ、部活は?」
 「今日は休みになりました。だから、また先輩と一緒に帰れるかなって思って」

 そう言って微笑む彼女の声音は、なんの疑念も抱かせないほど自然だった。
 だが悠真の胸中には、微かな違和感が残る。まるで彼女の中で、自分と過ごすことが“当たり前”に組み込まれているかのような口ぶり。
 それは心地よさと同時に、じわじわとした重さを伴って胸に積もっていく。

 歩き出した帰り道、佐奈が無邪気に話しかける声を聞きながら、悠真はふと自分の足取りがいつもより重いことに気づいた。彼女の隣を歩くことは嫌ではない。むしろ嬉しい。
 それでも——なぜか、逃げ場をひとつずつ塞がれていくような予感が、拭い切れずに残っていた。

25/08/31 08:21更新 /
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