連載小説
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出会い
 昼休みの終わりが近づく頃、校舎の廊下を歩いていた悠真は、ふと視線の端に、小さな影が立ち尽くしているのを見つけた。
 昇降口の前、所在なげに足元を見つめる少女。彼女の周囲だけ、ざわめく昼の空気から切り離されたように感じられた。

 普段なら、他人のことに深入りする必要はないと割り切る。悠真は一人でいる時間を好む方で、他人と群れることに強い執着はなかった。
 けれども、放っておけない場面というものが世の中には存在する。友人たちから『面倒見がいい』と笑われるのも、結局はそういう性分だからだろう。

 近づくと、少女の足元にある下駄箱がわずかに開いていて、その中にはあるはずの上履きが見当たらなかった。それだけで状況は察せられた。
 いたずらか、悪意か。いずれにせよ、困っているのは目の前の後輩だ。

 声をかけるべきか迷う一瞬があった。見なかったふりをすることもできる。だが、それを選べば後で胸にしこりが残るだろう。そんな未来が容易に想像できてしまった。
 だからこそ、悠真の足は自然に彼女へと向かっていた。

「どうした?」

 短い問いかけに、少女が小さく顔を上げた。怯えと不安が混じったその表情は、助けを求めるよりも先に、周囲に迷惑をかけまいとする遠慮をにじませていた。
 その姿に、悠真の胸の奥で何かがざらつく。――守らなければならない。そんな感情が静かに芽生えていた。
 少女は一瞬、ためらうように視線を伏せたが、やがて小さな声で口を開いた。

「……あの、先輩。靴が……見つからなくて」

 言葉はかすれていたが、必死に勇気を振り絞っていることが伝わってきた。普段からよく笑う子なのかもしれない。
 けれど今は、不安と戸惑いがその表情を曇らせていた。その姿に、悠真は胸の奥にざわめきを覚える。見過ごすことなどできない、と。
 悠真は小さく頷くと、周囲を見回した。下駄箱の隙間や廊下の端を確かめるが、それらしいものは見当たらない。
 少女の上履きは、誰かの悪意で隠されたのだろうか。そんな考えが胸をよぎる。

 「……一緒に探そうか」

 自然に口からこぼれた言葉に、少女はっと顔を上げる。その瞳には一瞬、光が宿った。助けを求める心細さと、頼れる相手を見つけた安堵が入り混じったような輝きだった。
 悠真はその反応を見て、自分が彼女を放っておけない理由をはっきりと自覚する。

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――ようやく下駄箱の隅に目当てのものを見つけた。

 悠真がしゃがみ込み、埃を払いながら取り出したのは、確かに少女のものと思しき上履きだった。

「あったぞ」

 声をかけると、少女がぱっと顔を明るくして駆け寄ってくる。
 その仕草はどこか子犬のようで、普段は冷静に立ち回る悠真の心を少し揺さぶった。

「ありがとうございます、先輩……!」

 両手で上履きを受け取る彼女の指先はわずかに震えていたが、それ以上に嬉しさが全身からにじみ出ていた。
 彼女が笑うと、整った顔立ちが一層際立ち、周囲の空気さえ華やぐように感じられた。

――こんな子が、どうしてこんなことをされたんだろう。

 悠真は胸の奥にわずかな違和感を抱えながらも、それを深く追及することはなかった。
 ただ、目の前の後輩が心から安堵している姿を見て、助けられてよかったと素直に思ったのだった。

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 放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 窓から差し込む夕陽が、廊下の床を淡く照らし、長い影を伸ばしている。悠真は鞄を肩にかけながら、先ほどの出来事を思い返していた。
 靴をなくしたと困り顔で伝えてきた少女。
 そして、探し出した靴を差し出したときに見せた、はにかむような笑顔。その一瞬が脳裏から離れなかった。

『本当に助かりました。ありがとうございます、先輩』

 柔らかい声が、何度も反芻される。
 心地よく響くその音色は、普段の学校生活の中ではあまり感じることのなかった温かさを伴っていた。

 悠真が昇降口を出ようとしたとき、不意に後ろから声がかかった。

「あの、先輩。少しだけ……一緒に帰ってもいいですか?」

 振り返ると、鞄を胸に抱え、上目遣いでこちらを見つめる彼女がいた。
 人懐っこい笑顔を浮かべながらも、どこか遠慮がちなその表情に、悠真は断る理由を見つけられなかった。
 自然と「ああ、いいよ」と口をついて出る。

「ありがとうございます!私、佐奈っていいます!」
「よろしくね、佐奈ちゃん。俺は悠真」

 軽く自己紹介を交わし、二人並んで歩く帰り道。
 夕暮れに染まった街並みを背に、佐奈は楽しそうに学校での出来事や、部活の話を語っていた。
 何気ない会話だったが、彼女の一言一言が新鮮に感じられた。
 普段は大勢に囲まれている彼女と、こうして二人だけで歩いているという事実が、妙に特別なもののように思えた。

「先輩って、頼りがいがありますよね。みんなから慕われてるの、わかる気がします」

 そんな言葉を聞いたとき、悠真の胸に不意打ちのような温かさが広がった。

――どうしてだろう。
 彼女の笑顔を見ていると、自然と心が安らいでいく。
 その笑顔が自分にだけ向けられているように感じた瞬間、悠真の鼓動は、ほんの少しだけ早くなっていた。

25/08/31 07:45更新 /
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