読切小説
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鬱々と戦乙女

ただひたすらにイライラしていた。

私はリンカーン家の長女アリス。リザードマンらしく、文武両道が我が家の家訓だった。武術が得意で、父の剣技を一番に会得したのは優秀な妹たちを差し置いて私だった。父はいつも長女だから姉だからなどど説教はせず、姉妹みなを等しく指導してくれていた。だからこそ、父母共にお前の武術は私たちの誇りだと言ってもらえたことは何より嬉しくて、一生をかけて大切にしたいものだった。幼い頃から厳しく教え込まれたのは剣技だけではなく、特に母からは嫁入り修行をみっちりと叩き込まれた。いつも母は、よい旦那を見つけて、うんと幸せになるんだよと教えられた。早くから自分を律して生まれたての妹たちの世話をすれば、母決まってお前はいいお嫁さんになると褒めてくれた。それが本当に嬉しくて、私はずっと、理想の旦那さんを見つけて幸せになれるんだと思っていた。

優しくも厳しい尊敬できる両親、気配りのできる世話のかからない妹たち、一緒にいると時が経つのを忘れてしまうほど魅力的な友人たち、近所の人々、先生、何をとっても私は恵まれていた。本当に幸せだった。でも、二十歳になった私は、その幸せを歪ませる疑念を抱いてしまった。

「本当に私は父母のような幸せな家庭を持てるのか?」

二十歳の私に強く根付いてしまった。何一つ不満も不安も無かった私の心に入り込んだ疑念は、日々膨れ上がり、圧迫してきた。考えればどれも答えがないものばかりだった。私を幸せにしてくれる旦那さんとは誰なのか?それは本当に私が日々築き上げたものを捧げるのに値する人なのか?そもそも理想の旦那さんとはどんな人なのか?些細であり、ちっぽけで、向こう見ずな疑念のはずなのに、私を押しつぶした。気持ちが抑えきれなくなりそうで、父母に問いただしたかったが、両親の教えを否定したい訳じゃない。ただ答えが欲しかっただけなのに、ただ質問するという選択肢を見つけれず、あげくに私は両親と喧嘩して家を飛び出してしまった。

ただ、イライラしているだけだった。幸せだったのに、それを壊してしまう愚行を犯した私。心の奥では理解していたけど、今表面に出ている私は聞いてくれなかった。あてもなく、武具だけを身にまとっただけの私は、気が付くと人間たちのいる地域とつながっている森を歩いていた。人間の男に会いに行くつもりなんて、無かったけど、私自身はそれを求めているようで、まっすぐ森を横断していた。

その日はずっと悶々と自責に駆られていた。悪いことをした。でも、それを完全に否定したわけじゃなかった。どうしても確かめたかった。父母のようになる答えを。毎日教え込まれた幸せの正体を知りたかった。と、自分のことだけを考えて森をさ迷い歩いていたら、体が空腹だと訴えかけてきた。もう半日経っていた。自分でも驚きだった。日は真上に上り、森は熱を持った。木々の傘があるとはいえ、湿度があり、蒸し暑かった。のどが渇き、すきっ腹にも拍車がかかる。
「お腹がすいた…喉も乾いて…、どうしよう…」
引き返す選択肢を持ち合わせていなかったアリスは、途方に暮れた。その時に、何かが焼ける匂いがした。誰かが野営してるのが見えた。天の救いだと、目を見開いて駆け寄った。野営の全貌が見えた。こんな気持ちの時に、よりにもよって、人間の男の野営場所に転がり込むなんて、私の運命は悪戯が過ぎるわと、アリスは頭を抱えるのだった。



ただひたすらに困惑していた。

さっき捕ってきたウサギを美味しくいただこうと下ごしらえをしていたら、いかにも空腹でのども乾いたので水と食料を分けてはいただけませんかという顔をした女の子が出てきた。めちゃくちゃ美人だったから、最初は目にしていなかったがよくみると立派な鱗を備えた尻尾とそれぞれ爬虫類の特徴を備えた部位があった。話に聞くリザードマンという魔物娘か。初めて見た。
「ど、どうも。こんな深い森で人に会うなんて奇遇ですね」
とりあず、あいさつをした。彼女も困惑しているようだが、それにしたって驚きすぎでは?お腹がすいて、飯の支度をしている人を見つけたなら、すぐに我に返ってこのウサギを要求するだろうに。何をそんなに驚くことがあったんだろう?
「あ、あっ。ああ。そうですね。焚火が見えたので、つい」
ようやく戻ってきたらしい。変な娘だ。てかウサギ肉を見てるのかと思ったら、めっちゃ俺のこと見てる。すっごい見てる。ていうか睨んでるよねこれ。さっきの柔和な挨拶と表情が合ってない。声すごい綺麗なのに、表情がすごい強張ってる。

「これも何かの縁、昼食をとるところなんですがご一緒にどうです?」
どうしていいか分からなかったが、このまま社交辞令の対応を続けよう。彼女に目的があるなら断ってどこかへ行くだろうし、飯が食いたいならさっさと食べてご退席願おう。うん。よく見たらこの人おっぱい大きい。わぁい。怖いけど全然ウサギ肉をごちそうする価値はありそうだ。
「本当ですか、…えっと、ちょうど食料が尽きて困り果てていた所なんです。恩に着ます」
食料が尽きたというには、長旅をしているような装備じゃないから、何か他の理由があってここにいるのはすぐに分かった。嘘が下手なことは悪いことじゃない。ある程度の浅い付き合いなら、これほど付き合い易い人もいない。

…え?なんでこの人俺の隣に座ったの?向かい側に丸太置いてるんだから、そっちに座ればいいのに。あれ?えぇ?この人分かんない。怖い。近い。おっぱい大きい。
「食料が尽きてしまったのですか。それでは喉も乾いたでしょう。水筒の水をどうぞ」
おっかなびっくりが続いたが、美人が傍にいてくれるなんて事は、この短い20年の人生でそうなかったから、俺はつい舞い上がってしまった。貴重な水も、美味として知られるウサギ肉も、何でも貢ごう。ご機嫌になって、綺麗な笑顔一つ向けてもらえば、この生涯に悔いなしといったところだ。やっぱりこの人さっきから表情強張ってる。うーん、俺が原因…なのか?
「ありがとうございます。いただきます」
俺から水筒を受け取ったリザードマンさんは、ぐいと飲みほした。一瞬だった。どんだけ喉乾いてたの?俺の分を残すとか、そういう考えがなかったみたいだ。関節キスだわ〜いなんて思う前に、飲むものがなくなったんじゃ、水筒の飲み口を舐めまわすという変態行為しかできなくなってしまった。

それからはずっとリザードマンさんとの会話はほどんどなく、ただウサギ肉を頬張る横顔を見ながら非常食の乾パンで飢えをしのいだ。俺の昼食はみごと全部食べられた。俺の分を残せなんて言ってないから、俺にも責任はあるのだが、それにしたってあんまりだ。よほどお腹がすいていたのだろう。ウサギ肉にかぶりつき、一瞬で平らげた。もう無いのかという、無言の抗議を向けられたが、あれだけ食ってまだ言うかと、無言の反論を向けたら、素直に引き下がってくれた。
「おいしかったです。ありがとうございます。」
そりゃそうだ。俺が丹精込めて味付けしたウサギ肉。ちょっとしか持ってない赤ワインを贅沢に使ったんだ。そりゃ美味しいさ。ちくしょう。
「申し遅れました。私リザードマンのアリス・リンカーンと申します」
「ご丁寧に。俺は涌井一郎といいます」
「イチロー。この森で野営なんて珍しいですね。何かあったんですか?」
こちらの事情を詮索してきた。旅人同士のなれ合いとしては、メジャーなもの。隠す必要もないし、食後の談笑としては一興。
「ええ、このあたりに山賊たちのねぐらがあると聞いてやって来たんですよ」
「山賊?となると傭兵のお仕事を?」
「ただの賞金稼ぎです。定職にはついていないので、日銭稼ぎの為に」
「ということはイチローも武術を習得なさっているのですか?」
リザードマンとは、戦士として修業に励む種族だと聞いた。なんでも世界各地を練り歩いては腕を磨く日々を送るんだと。なんとも武芸者な種族だ。この話題もそこからだろう。
「剣道をやっています」
「ケンドウ?それは何で戦うものなのですか?」
ぐい、と体を乗り出して迫ってきた。純粋に興味があるのだろう。見たこともない、かわいい顔をしている。近い。かわいい。香水の香りが脳を突き刺す。さっきの強張った表情はどこへやら、くりくりの目を見開いて俺を見つめている。吸い込まれそうだ。
「剣術の、武士道版ですよ。アリスさんも聞いたことありませんか?」
「ブシドー!聞いたことがあります!ヤマトダマシイという誇り高いものだと父から教わりました」
う〜んこの世間知らず感。かわいい。凛とした雰囲気からは考えられない。もとよりそんな雰囲気も最初の方で消し飛んでたが。それからずっと「ケンドウ」について質問責めにあった。彼女自身は剣術を身に着けた戦士であり、俺は剣道以外に才能がない男。話は大いに盛り上がった。社交辞令の間柄はすぐに溶け、笑いあっていた。話が弾み、気が付けば日が落ちて夜になっていた。
「イチローはケンドウに誇りを持っているんですね。その気持ち、わかります」
「これ以外に誇れるものがなかったということもあるが、何より父の唯一の贈り物だからな。大切にしなきゃ」
「わかります。わかります!」
物凄い共感をもったのだろう。うんうんと大きく何度もうなずいて相槌を打ってくれた。彼女も家族思いだ。話をすればするほど、アリスさんの良さが見えてくる。愚直だが、視野は広く、当たり前の日々に感謝できる徳の高さもあり、尊敬に値する人だ。正直、どうして今まで友達じゃなかったんだろうと、悔やむほど、一緒にいて楽しい人だ。
「ふふ、イチローが仕事を控えた身でなければ、今からでも手合わせを願いたいところです」
「そんな。きっと俺じゃアリスさんには敵いませんよ」
俺は日銭を稼ぐ生活を続けているため、剣道に精を出す日を最近送れていない。そんな俺と違って、アリスさんは日々勉学に励みながらも鍛錬を続けているという。本当にすごい人だ。きっと、俺なんかでは敵わないだろう。でも握手感覚で手合わせを願いに来るのも、やはりリザードマンという種族からなのだろう。スキンシップの感覚で試合とは、本当に戦いに生きてる。できれば仕事前じゃなくても、手合わせは勘弁願いたい。魔物娘とは、そもそも身体能力に歴然の差があるのだ。きっと話にならないだろう。
「…。」
急に黙ってしまったアリスさん。やばい。何かまずいことを言っただろうか。忘れていたが、会った最初の方はなんだか虫の居所が悪そうだったし、地雷を踏んでしまったか?
「どうして、そんなことが言い切れるんですか?」
どうやら地雷だったらしい。口調も、顔つきも、さっきとは全く違う。どうやらここから先は、言動には十分に注意を払わないといけないみたいだ。
「そりゃあ、僕は人間で、アリスさんが魔物という、差があるからですよ」
至極当たり前で、当然のことだ。それを、一辺倒な言葉で説明した。
「手合わせもしてないのに?」
「話を聞く分に、鍛錬を積んでいる年月はあなたの方が長い。確かに憶測だけど」
彼女は真面目そうだし、あの話から嘘があるとは思えない。まっとうな考えから導き出された、十分な回答のはずだ。
「私の話が嘘とは思わないのですか?」
火がついたのは、間違いなくこの時だろう。妙に突っかかるな、とは思っていた。だが、敵対的な気持ちは感じなかった。感じようとしなかったし、あるとは思っていなかったが、この時には明確に感じ取った。明らかな「苛立ち」と「言葉による攻撃」を。俺はムッときた。わずかな時間ではあったが、アリスという女性は信用するに足りる人だ。その人を、嘘つき呼ばわりをするなんて許せなかった。なにより、その彼女自身から飛び出た言葉だから、なおさら反論すべきと身を乗り出した。
「ええそうですよ。俺はそう判断したんです。だから、アリスさんに勝てないという結論は正当な答えです」
「どうして簡単に信用するのですか。信じるだけがブシドーなのですか!」
喧嘩腰で、それ以上に喧嘩をしたがっている彼女で、それを買うつもりだったが、彼女自身誇りと自負している「武」を使ってまで俺を否定しにかかるのは、怒りというより疑問が浮かんだ。何か変だ。
「どうしたのですかいきなり。おかしいですよ」
「おかしいのはイチローの方です!本当にイチローがケンドウを誇りに思うなら、私の質問に対してそんな答えは出ないはずです!イチローは嘘をついているのですか!あなたのお父様から受け継いだブシドーは嘘なのですか!」
これにはカチンときた。いくら日銭稼ぎの為におろそかになっているとはいえ、俺の人生の一部の剣道を、こんなよく分からない、よくわかっていない人に、否定されるのは腹が立った。アリスさん、いや、アリスの様子が変なのはわかったが、もうそんな事を気遣ってやれる俺じゃない。腹が立ったんだ。キレてやる。
「自分を嘘つき呼ばわりした後は俺を嘘つき呼ばわりか!信じるより疑うほうが楽だもんな。そんな考えにいきつく剣術とやらも、程度が知れるな」
「なんだと!お前に私の剣術の何がわかる!」
「何も信じていない、剣術使いの言葉なんざ理解できっこないね!」
火に油、水かけ合戦、いたちごっこの論争。はたから聞けば、稚拙な口喧嘩だが、俺たちは本気だった。短い間でも、尊敬した人からでも、自分のアイデンティティを否定されるのは我慢ならなかった。子供が自分の得意なことをバカにされて、喧嘩に発展する、子供時代ではよくある光景だがら、なんだか懐かしく思えた。
「同じ剣を扱う武の者としても、愚かで臆病な、すぐに負けを認めるような弱い男なぞ武の風下にも置けん!叩き斬る!」
「志のない剣を振るうやつが武を語るんじゃねぇ!ぶっ飛ばしてやる!」
口ではどうしようもできなくて、困り果てて、簡単な暴力に逃げるこの感覚も、懐かしく思えた。



何を言っているのか、私自身もよくわかっていなかった。ただ、イチローは、私の癇癪に、付き合ってくれた。父と母の教えを信じれなかった私が、一体なぜイチローの信用を疑うようなことを言ったのだろう。イチローが私のことの話を何一つ疑いもせず、信じてくれたことが嬉しくて、嬉しかったはずなのに。どうしてあんな見え透いた八つ当たりをしてしまったんだろう。本当に、ほんとうにイチローには申し訳のないことをした。後で、誠心誠意誤ったら、許してくれるだろうか。また、ブシドーの話をしてくれるだろうか。イチローと話しているときは、家族や友達とは感じたことのなかった、不思議な感覚がした。あれをもう一度…。イチロー、イチロー…。

「イチロォォォ!!」
「アリスゥゥゥ!!」

深い、深い森の中心で、二つのけものの唸り声が響いていた。これはもはや手合わせや試合でもなく、ただお互いが持っている鉄の棒を、ただ力任せにぶつけ合っているだけだった。到底長く武を嗜んだ者たちの成す技とは思えない。その金属音は、片方はただ自らの内にたまる黒いナニかを払拭するかのように、もう片方はそれに対してただ力任せに鉄の棒を叩きつけていた。それは剣ではなく、鉄の棒きれに成り果てていた。
勝負の行方として、力任せに殴り合うなら、魔物娘であるアリスが絶対的な有利を持っていたはずだが、イチローの方はまだアリスに比べれば冷静なほうであったため、多少の剣道を使いこなし、アリスの馬鹿力をいなすことができていた。比べてアリスは、今までの疑念から生まれたストレスに完全に精神を乗っ取られ、暴走した感情に身を任せていた。そのため、イチロー自身も勝機を感じていた。もっとも、この殴り合いを勝負と受け取っているのはイチローだけだったが。
「何が分かる!何が分かる!お前に!お前に!」
アリスの言葉が多くなるほどに、一撃に重みが増してくる。イチローは試合中でもアリスの言葉に耳を傾けていた。少しずつ、アリスの胸に巣食う黒いナニかの正体に気が付きはじめた。同じ青春時代を鍛錬につぎ込んだ身として、通じるものがあった。そしてアリスの言葉を聞けば聞くほど、アリスの攻撃を受ければ受ける程、イチローは冷静になっていった。―いける。勝てる。今のアリスなら、勝てる。あまりにも強い力であるため、それを受け止めていたイチローの腕はもう限界に近かった。早めに勝負を決めないともたない。少しずつ算段をつけ、活路を見出す。ブシドーは、一本の道を見出すに在る。
「何が信じるだ!綺麗ごとばかり言って!」
武士道とは、一本の道を見出すに在る。アリスの怒りに満ちた顔に、変化が訪れる。少しずつ、歪んで、脆くなって、崩れそうになる。目は決壊寸前のダムであり、心はパンパンに膨らんだ風船になっている。
「私だって…!私だって…!」
一本の道を見出すに在る。
「私だって…信じたかった…!!」
一本の道を
「うああああ!!!!」
道を!
「イチロォォォ!!」
「アリスゥゥゥ!!」



勝負ありを告げていた。夕刻の沈みかけた日が、地面に転がったアリスの剣を赤く染めていた。すぐにアリスは地面にへたりこみ、両手を確認する。ずっと、昔から、つらい稽古の時にずっと握っていた自分の剣がない。脇を確認すれば、そこに転がっていることが確認できた。目の前には、自分の首に剣を突き立てている男がいる。この人が私を打ち負かした人なのか。一体どんなひとなんだろう。そうだ、この人が、わたしの、りそうのだんなさま
「―俺の、勝ちだ」
だんなさま?
「何が起きたか理解できてない、そんな顔だな。アリス」
わたしのなまえをよんでる。
「俺の一番の得意技だ。しかと身に染みたか。これが剣道だ」
この人に、体さばきで、剣が持っていかれて、わたしがまけた。
「少しは落ち着いたかアリス」
そうだ。あやまらないと。わたしはイチローに、ひどいことを言った。あやまらないと。そうじゃないと、イチローに
「まぁ、…その、なんだ」
イチロー?
「仕事が終わったら、また手合わせでも…」
そうか。
分かった。
見つけた。
私の探し求めた。
理想が。
目の前に。
ガラガラと、音を立てて崩れ去っていくのが聞こえた。ぐるりと、一変したことが見えた。そうなんだと、思わず声に出た。涙で、感動で、頬が濡れているのが分かった。
「―アリス?」
今まで払拭しきれなかった、理想を疑う疑念がいともたやすく崩れ落ちていた。今まで汗水流して鍛錬して磨き上げたモノを向ける矛先を見つけた。永らく恵まれた人々の間で培った倫理観の使い道の本当に意味を知った。
すべては貴方の為に。
父に厳しく教え込まれた剣術は、貴方と心を通わすために。
母に事細かく指導された花嫁修行は、貴方に尽くすために。
幼い妹たちに教えてもらった子守のノウハウは、貴方との間に訪れる子のために。
友人たちと笑い合った日々の談笑は、貴方と笑い合うために。
人知れず手入れを欠かさなかったこの体は、貴方に好きになってもらうために。
今まで見たもの聞いたもの学んだものすべて一度バラバラになり散乱した。それは一つの縄になるように、一つの方向へと伸び、収束する。今まで見たものは貴方の為、聞いたものも貴方の為、学んだものも貴方の為、すべてが貴方に収束した。
今なら胸を張って家族の下へ帰れる。この胸いっぱいに広がる感謝の気持ちを大声で伝えて抱きしめたい。母が言った幸せは、この人、イチローだったんだ。イチロー、イチロー、私の、幸せの人。
「うわあああああああああん」
涙腺のダムは崩壊し、パンパンに膨れ上がった風船は、破裂することなく出口から空気が抜けていった。嬉しいから、満たされたから、安心したから、申し訳なかったから、その気持ちが大粒の涙となってぼろぼろと零れ落ちた。困惑するイチローの胸に飛び込んでむせび泣いた。イチローは何も言わず、私を受け入れてくれた。もっと涙が出た。あんなひどいことを言った私に、胸を貸してくれた。そうだ。あやまらないと。
「うぅっ、いち、いちろうっ、いちろううええええん」
どうやらこの体は気持ちがあふれ出るのが先みたいなので、言葉がもつれてうまく出てこなかった。
「分かった、分かったから、全部吐き出してから喋ろう、な?」
イチローがそう言ってくれたんだから、遠慮なく泣くことにした。



イチローに貰った水筒の水分は全部出た。なんて冗談を言えばイチローは笑ってくれるだろうか。でも、さすがに今の状況で言うようなことじゃないので、後に取っておくことにした。嗚咽するぐらい泣く私を気遣って、イチローは私の頭を撫でてくれた。ものすごく嬉しくて、胸の奥が温かくなる感じがして、気持ちに拍車がかかって余計涙が出た。するとさらにイチローが撫でて、今度は優しい声をかけてくれたから、水分が持つなら一生このままでもいいかなと思った。
「落ち着いたか?アリス」
まだ撫でてくれているから、あまり返事をしたくなかった。撫でられるのを辞めてしまいそうで怖かった。無視するのももっと嫌だからすぐに返事をした。
「…グスッ。…うん…」
「ひとつ、聞いていいか?」
「…うん…なんでも…聞いて」
イチローにだったら、私のすべてをさらけ出したってかまわない。でも恥ずかしいことも沢山あるから、できれば少しづつにして欲しい。
「どうしてあんなことを?」
あんなこと。どう考えても、あの癇癪のことだろう。イチローから切り出してくれた。これ以上イチロー任せにしたくなくて、私はすぐに話し始めた。あの森にいた理由。自分の気持ち、いきさつ。そしてイチローに当たり散らした時の気持ち。そして…
「ごめんなざい…イヂロー…わだじ…あんなこと言いたい訳じゃなかったの…」
謝罪の言葉。許されるかどうかは、分からない。自分勝手で図々しいけど、私としては許して欲しかった。そして、また話がしたい。
「そんなことがあったのか…」
ドキドキと、心臓が強く脈打った。どんな答えが来るのか、怖かった。
「ちゃんと説明してもらえたし、俺は気にしてないし、怒ってないよアリス」
「うぇ?」
腑抜けた声が出てしまった。
「あー…うん、その、あの喧嘩はもうこれでトントンということで…」
「ゆるじでぐれるの…?」
ぼろぼろと、また涙が出てきた。よかった、イチローと、これからがある。
「わ、わわ、うん!そうだ、怒ってない!許すよ!だから泣くなって!」
「うん…イチローがそういうなら…泣き止む…グズッ」
泣き止んだ私を見て、イチローはふぅと一息ついた。迷惑をかけっぱなしだった。
「ごめんね…イチロー」
「そうだな…もう夜だ、晩飯作ってくれよ。昼飯のお返しをしてくれ」
晩御飯…そうだ。もう真っ暗の夜。イチローは長旅用に食料を沢山持ってるから、何も持ってない私でも晩御飯を作ってあげれそうだ。そうだ。イチローに私の料理の腕を知ってもらう。イチローが作ったウサギ肉、調味料が全然足りなくて臭みが出てたし、赤ワイン入れすぎ。イチローは料理がイマイチ。嬉しいこと。だって私は料理が得意だから、イチローにうんと食べてもらって、いっぱい笑顔にしてあげるんだ。そして明日の朝のごはんも作って、夫婦みたいに…って、あ。
大事なこと言うの忘れてた。
「イチロー!!」
「うわびっくりした!なんだよアリス」
この言葉が思いついてから、涙が吹っ飛んだ。

「イチローのことが大好き!!結婚してほしい!!」

すぐにイチローの弱々しい驚きの声あげて私から離れようとした。だけど腕力では私の方が上よ。がっちり抱き着いてはなさい。そんな弱々しい声出して、泣きたいなら、私の胸でたんと泣くといいわ。姉妹の中で一番大きい、自慢の胸なのよイチロー。寝るならきっと寝心地がいいと思うわ。うふふ。
絶対に離さないんだから。理想の旦那さま。
18/08/23 16:25更新 / 知恵しっぽ

■作者メッセージ
このあと二人たっぷりしっぽりしたのは言うまでもない。

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