第二夜
「……来てしまったなぁ」
次の日の夜、俺はまた森に居た。
昨夜の興奮なんて寝て起きてみれば案外覚めるもので、朝起きた時には、あれは夢だったんじゃないかと、寝起きの頭でぼんやりと思った。誰に言っても(誰にも話す気はないが)信じてもらえるわけもない――夜中に森に入って、美女に会ったなんて。けれど、あの後どこを探しても見つからなかった提灯とはっきり思い出せる手の感触が、夢じゃないぞとはっきり告げる。せめて狸とか狐に化かされたんじゃありませんように。そう念じつつ、俺は夜、森へと足を踏み入れた。
おかしなものだけど、彼女が居るかもしれないと思うと、森はあまり怖くなくなった。彼女がやってくる音がしないかと耳を澄まし、彼女の姿が見えないかと闇の中に目を凝らす。我ながらバカバカしいとも思うが、それぐらいの衝撃だったのだ、彼女と会ったことは。そうして灯りのないまま、俺は森の奥にたどり着く。
はたして、彼女はそこに待っていた。
広場にいくつかある切り株の椅子の一つに腰掛け、何かを探すようにきょろきょろと首を動かしていた。蛇の尻尾はゆらゆらと揺れていて、なんだか落ち着かない様子だ。なんだか親を探す子供の様で可愛らしい。その姿に誘われるようにして、俺は広場に足を踏み入れた。
「っ!」
彼女の反応は早かった。俺が少しも歩かないうちに、たたたっと駆けてくる。
「……本当に来たんだな」
「ええ、来ました」
そう返せば、きりりとした瞳が嬉しそうに細められて、本当に来たんだと繰り返す。勘違いでなければ、俺が来たことを喜んでくれているらしかった。尻尾がゆらゆらと揺れ続けている。
それじゃあ早速、と言って、彼女は肩や首を軽く回し始めた。俺は適当な切り株に座る。
「では」
ハッ、と短く息が吐かれ、彼女は構えた。同時に広場の、森全体の空気が引き締まる。自然と、背筋が伸びた。
昨日見た時の凛とした雰囲気をまとって、彼女は虚空に拳を突き出す。すかさず片足を軸にして蹴り上げ、そのまま二度、三度と空気が切り裂かれる。次の瞬間後ろへと飛び、再び鋭い突きが繰り出される。
食い入るように彼女の動きに見入っていた。昨日と同じ、うっかり触れれば切れてしまいそうな鋭い刃物のような美しさ。それでいて、何処か艶めかしい。
獣のごとく動く彼女と、それを見ている俺。世界には二人だけしかいなかった。
彼女は最初の構えに戻り、ふうっと息を吐き出した。
「……どうだった、だろうか」
そう問われて、いつの間にか息を止めるほどに見入っていたことに気が付いた。
「凄かった」
もっと何かないのか、と思いはしたが、すごい、とか、綺麗、とかそんなありきたりな言葉しか浮かばなかった。そんな自分が少し悔しかったが、それでも彼女は満足そうに微笑んでくれた。
「こうしてみて誰か褒めてもらえる、それだけで嬉しいんだよ」
そう笑って、彼女は近くの切り株に座った。そういうものなのだろうか。
「…………」
ふと、彼女の体を見れば、うっすらと汗をかいているように見えた。
(あれだけ動いてたんだし、当たり前か)
改めて見ると、あれだけの動きをしていたのに、彼女の腕や足にはそれほど筋肉がついているようには見えない。むしろ触ったらやわらかそうな――
「っ!」
「どうかしたか?」
「いえ、何も」
気が付いてしまえば、むき出しの手足が、首元から見えている鎖骨がとてつもなく視線を引き付ける。服の下の二つのふくらみは、あれだけ動いていても邪魔にならないのかと思うほどに大きい。不思議そうにこちらを見つめる瞳の奥の何かは、まるで自分を誘っているようで。
(触ってみたい、なんて)
「触ってみる?」
「はぃっ!?」
突然の申し出に、声が裏返った。勢いのままに咳込みながら、驚いて彼女の顔を見ると、
(…………え?)
先ほどまで凛としていた彼女の表情はそこにはなく、代わりにニヤニヤとした面白がっているような笑みが浮かんでいた。あまりの雰囲気の変わりように、一瞬、そこに居るのは別人じゃないかと錯覚した。
「ほら、遠慮しなくてもいいんだよ?」
からかうような声と共に彼女は立ち上がり、俺の手首を掴む。昨日と同じ柔らかい、彼女の手のひら。そしてその手はそのまま、彼女の胸元へと押し付けられた。
「んっ♥」
「っ!!」
手のひらに押し付けられた感触に体は反射的に逃げようとしたけれど、ガッチリ掴まれた手首は万力で固定されたかのように少しも動かない。動かせるのは、手首から先だけ。
さらに、突然の出来事に動けない俺を、彼女はもう片方の腕で引き寄せた。柔らかい感触が今度は全身に押し付けられる。
「んん、いい身体してる」
耳元でささやかれる声に、さらに体が硬くなる。突然押し寄せた気持ちよさに、頭が追いついていない。漂ってくる甘い匂いに、意識がぼんやりと不確かになる。
「うぁ……」
背中が撫でられる。すぅっと背筋を撫でる手のひらのせいで、思わず変な声が出てしまった。
ふぅ、と首筋に生暖かい息が当たった。抱き心地を確かめるかのように、時折強く抱きしめられる。昨日とは違った意味で、俺は動けなくなる。そのまま膝が崩れ落ちそうになる。そんなこともお構いなしに、んふふ、と彼女は楽しそうだ。
ちろり、と首筋を何かが這った――彼女の舌か。
吐息がやけにはっきり聞こえる。また舌が這う。体が一瞬しびれたようになる。今度は歯がふれた気がした。また舌が這う。気持ちがいい。そして、とうとう首に噛みつかれて――
(喰われる)
首に彼女の牙が軽く食い込んだ。じゅるり、舌が円を描くように動く。
「ぁ、あぁ……」
ついに膝から力が抜け、そのまま彼女にしなだれかかった。そんな俺を、彼女は優しく受け止める。
「ふふふ。それじゃあ、もっと気持ちいいことを――――」
最後まで言い切ることなく、彼女の身体がビクッと跳ねた。
「…………すまん」
突然、甘い香りが強くなったかと思うと、俺の意識は遠のいていった。一体何があったのか分からないまま。
「だから!あれほど!自重しろと!」
しなだれかかっている彼を支えたまま、私は小声で叫んだ。
『えー、いいじゃん、ちらちら「私」の身体みてたし。というか、「虎」だってちょっと誘ってたでしょ?』
「そういう問題じゃない!こんな、突然、あんな……」
『ほらほら、顔赤くなってる。ホントは名残惜しかったりして?』
「なっ、別にそういうわけじゃ」
『ふーたーりーとーもー?』
『そうそう、今は彼をどうするかが先でしょう?』
『はいはい、分かったよぅ』
「あんな……あんなコト……」
『「虎」もシャキッとする!もう起きちゃったことは仕方ない!』
『そうです、問題はこの後です』
『この後って、そんなの「私」の家に連れて帰っちゃえばいいじゃん』
「お前は話を聞いていたのか!?」
『……いや、それアリなんじゃない?だって「私」、この人の家、どこか知らないでしょ?』
『まあ、そうですね』
「そんな、『蛇』まで!?」
『このまま連れ帰って、起きてから事情をお話ししましょう。「私」の事も含めて』
『村の人たちに見られるわけにもいかないし。それこそ化物扱いされちゃうよ』
「ううう……わかったよ……」
『「猿」も。夜は虎にまかせるように決めたでしょう?』
『うっ、だって……すごいいい匂いがして、我慢ができなくてぇ……』
『わからないでもないけどさ。ほらほら、『蛇』もそれは後でね。さっさと帰ろう?』
『 。 ?』
『 。 !』
「 っーーー!」
『…… 』
『 』
「 」
「…………水でも汲みに行ったのか?」
翌朝、老人が目を覚ますと、彼の孫は寝床に居なかった。普段は起こすまで寝ている癖に珍しいものだ。明日は雨でも降るんじゃないだろうか。
(まあ、はやく目ェ覚めることくらいあるか。さてと、朝飯の準備を――)
そうして、彼は慣れた手つきで二人分の朝食の準備を始める。早起きして水を汲みに行ったであろう孫をねぎらう言葉を考えながら。
結局、彼の孫が戻ってきたのは昼飯時を過ぎてからだった。
次の日の夜、俺はまた森に居た。
昨夜の興奮なんて寝て起きてみれば案外覚めるもので、朝起きた時には、あれは夢だったんじゃないかと、寝起きの頭でぼんやりと思った。誰に言っても(誰にも話す気はないが)信じてもらえるわけもない――夜中に森に入って、美女に会ったなんて。けれど、あの後どこを探しても見つからなかった提灯とはっきり思い出せる手の感触が、夢じゃないぞとはっきり告げる。せめて狸とか狐に化かされたんじゃありませんように。そう念じつつ、俺は夜、森へと足を踏み入れた。
おかしなものだけど、彼女が居るかもしれないと思うと、森はあまり怖くなくなった。彼女がやってくる音がしないかと耳を澄まし、彼女の姿が見えないかと闇の中に目を凝らす。我ながらバカバカしいとも思うが、それぐらいの衝撃だったのだ、彼女と会ったことは。そうして灯りのないまま、俺は森の奥にたどり着く。
はたして、彼女はそこに待っていた。
広場にいくつかある切り株の椅子の一つに腰掛け、何かを探すようにきょろきょろと首を動かしていた。蛇の尻尾はゆらゆらと揺れていて、なんだか落ち着かない様子だ。なんだか親を探す子供の様で可愛らしい。その姿に誘われるようにして、俺は広場に足を踏み入れた。
「っ!」
彼女の反応は早かった。俺が少しも歩かないうちに、たたたっと駆けてくる。
「……本当に来たんだな」
「ええ、来ました」
そう返せば、きりりとした瞳が嬉しそうに細められて、本当に来たんだと繰り返す。勘違いでなければ、俺が来たことを喜んでくれているらしかった。尻尾がゆらゆらと揺れ続けている。
それじゃあ早速、と言って、彼女は肩や首を軽く回し始めた。俺は適当な切り株に座る。
「では」
ハッ、と短く息が吐かれ、彼女は構えた。同時に広場の、森全体の空気が引き締まる。自然と、背筋が伸びた。
昨日見た時の凛とした雰囲気をまとって、彼女は虚空に拳を突き出す。すかさず片足を軸にして蹴り上げ、そのまま二度、三度と空気が切り裂かれる。次の瞬間後ろへと飛び、再び鋭い突きが繰り出される。
食い入るように彼女の動きに見入っていた。昨日と同じ、うっかり触れれば切れてしまいそうな鋭い刃物のような美しさ。それでいて、何処か艶めかしい。
獣のごとく動く彼女と、それを見ている俺。世界には二人だけしかいなかった。
彼女は最初の構えに戻り、ふうっと息を吐き出した。
「……どうだった、だろうか」
そう問われて、いつの間にか息を止めるほどに見入っていたことに気が付いた。
「凄かった」
もっと何かないのか、と思いはしたが、すごい、とか、綺麗、とかそんなありきたりな言葉しか浮かばなかった。そんな自分が少し悔しかったが、それでも彼女は満足そうに微笑んでくれた。
「こうしてみて誰か褒めてもらえる、それだけで嬉しいんだよ」
そう笑って、彼女は近くの切り株に座った。そういうものなのだろうか。
「…………」
ふと、彼女の体を見れば、うっすらと汗をかいているように見えた。
(あれだけ動いてたんだし、当たり前か)
改めて見ると、あれだけの動きをしていたのに、彼女の腕や足にはそれほど筋肉がついているようには見えない。むしろ触ったらやわらかそうな――
「っ!」
「どうかしたか?」
「いえ、何も」
気が付いてしまえば、むき出しの手足が、首元から見えている鎖骨がとてつもなく視線を引き付ける。服の下の二つのふくらみは、あれだけ動いていても邪魔にならないのかと思うほどに大きい。不思議そうにこちらを見つめる瞳の奥の何かは、まるで自分を誘っているようで。
(触ってみたい、なんて)
「触ってみる?」
「はぃっ!?」
突然の申し出に、声が裏返った。勢いのままに咳込みながら、驚いて彼女の顔を見ると、
(…………え?)
先ほどまで凛としていた彼女の表情はそこにはなく、代わりにニヤニヤとした面白がっているような笑みが浮かんでいた。あまりの雰囲気の変わりように、一瞬、そこに居るのは別人じゃないかと錯覚した。
「ほら、遠慮しなくてもいいんだよ?」
からかうような声と共に彼女は立ち上がり、俺の手首を掴む。昨日と同じ柔らかい、彼女の手のひら。そしてその手はそのまま、彼女の胸元へと押し付けられた。
「んっ♥」
「っ!!」
手のひらに押し付けられた感触に体は反射的に逃げようとしたけれど、ガッチリ掴まれた手首は万力で固定されたかのように少しも動かない。動かせるのは、手首から先だけ。
さらに、突然の出来事に動けない俺を、彼女はもう片方の腕で引き寄せた。柔らかい感触が今度は全身に押し付けられる。
「んん、いい身体してる」
耳元でささやかれる声に、さらに体が硬くなる。突然押し寄せた気持ちよさに、頭が追いついていない。漂ってくる甘い匂いに、意識がぼんやりと不確かになる。
「うぁ……」
背中が撫でられる。すぅっと背筋を撫でる手のひらのせいで、思わず変な声が出てしまった。
ふぅ、と首筋に生暖かい息が当たった。抱き心地を確かめるかのように、時折強く抱きしめられる。昨日とは違った意味で、俺は動けなくなる。そのまま膝が崩れ落ちそうになる。そんなこともお構いなしに、んふふ、と彼女は楽しそうだ。
ちろり、と首筋を何かが這った――彼女の舌か。
吐息がやけにはっきり聞こえる。また舌が這う。体が一瞬しびれたようになる。今度は歯がふれた気がした。また舌が這う。気持ちがいい。そして、とうとう首に噛みつかれて――
(喰われる)
首に彼女の牙が軽く食い込んだ。じゅるり、舌が円を描くように動く。
「ぁ、あぁ……」
ついに膝から力が抜け、そのまま彼女にしなだれかかった。そんな俺を、彼女は優しく受け止める。
「ふふふ。それじゃあ、もっと気持ちいいことを――――」
最後まで言い切ることなく、彼女の身体がビクッと跳ねた。
「…………すまん」
突然、甘い香りが強くなったかと思うと、俺の意識は遠のいていった。一体何があったのか分からないまま。
「だから!あれほど!自重しろと!」
しなだれかかっている彼を支えたまま、私は小声で叫んだ。
『えー、いいじゃん、ちらちら「私」の身体みてたし。というか、「虎」だってちょっと誘ってたでしょ?』
「そういう問題じゃない!こんな、突然、あんな……」
『ほらほら、顔赤くなってる。ホントは名残惜しかったりして?』
「なっ、別にそういうわけじゃ」
『ふーたーりーとーもー?』
『そうそう、今は彼をどうするかが先でしょう?』
『はいはい、分かったよぅ』
「あんな……あんなコト……」
『「虎」もシャキッとする!もう起きちゃったことは仕方ない!』
『そうです、問題はこの後です』
『この後って、そんなの「私」の家に連れて帰っちゃえばいいじゃん』
「お前は話を聞いていたのか!?」
『……いや、それアリなんじゃない?だって「私」、この人の家、どこか知らないでしょ?』
『まあ、そうですね』
「そんな、『蛇』まで!?」
『このまま連れ帰って、起きてから事情をお話ししましょう。「私」の事も含めて』
『村の人たちに見られるわけにもいかないし。それこそ化物扱いされちゃうよ』
「ううう……わかったよ……」
『「猿」も。夜は虎にまかせるように決めたでしょう?』
『うっ、だって……すごいいい匂いがして、我慢ができなくてぇ……』
『わからないでもないけどさ。ほらほら、『蛇』もそれは後でね。さっさと帰ろう?』
『 。 ?』
『 。 !』
「 っーーー!」
『…… 』
『 』
「 」
「…………水でも汲みに行ったのか?」
翌朝、老人が目を覚ますと、彼の孫は寝床に居なかった。普段は起こすまで寝ている癖に珍しいものだ。明日は雨でも降るんじゃないだろうか。
(まあ、はやく目ェ覚めることくらいあるか。さてと、朝飯の準備を――)
そうして、彼は慣れた手つきで二人分の朝食の準備を始める。早起きして水を汲みに行ったであろう孫をねぎらう言葉を考えながら。
結局、彼の孫が戻ってきたのは昼飯時を過ぎてからだった。
15/11/26 15:01更新 / 斑猫
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