プロローグ
「お前は誰だ」
その言葉は、凄まじい気迫を伴って放たれた。
あまりの迫力に、一瞬息がつまる。
「もう一度訊く。お前は誰だ?」
虎ようなの腕を構え、その爪をギラつかせながら「彼女」は俺に迫ってくる。月に照らされたその姿は、彼女自身の凛とした佇まいと合わさって、まるで一枚の絵のようで。
(綺麗だ)
揺れる蛇の尾が、魅力的な曲線を描く身体が、月に煌めく虎の手足が、真剣な眼差しでこちらを睨む凛々しい顔が。人間のそれとはかけ離れた魅力を放つ、そのどれもが美しい。
ピタリと首に何かが当たり、一瞬遅れてそれが鋭い爪だと認識する。しかし、命の危機に晒されてなお、俺の身体は動かない。
恐怖のせいか――それとも。
「此処から去れ」
爪を首に添えたまま、彼女は言う。
身体は動かない。
「何処かへ行け」
身体は、動かない。
「私の目の前から消え失せろ!」
荒げるような声で言われて、俺の身体はようやく動いた。鋭い爪から逃れて立ち上がると、彼女に背を向けて全力で駆け出した。
後ろは振り返らなかった。
「妖怪ィ?」
最初に祖父にその話を聞いた時、何を言い出したのかわからなかった。
「そうだ。西の森で出たんだとさ」
夕飯を食べている最中に「ああ、そうそう」と急に真剣な顔をして、一体なんの話を始めたかと思えば、子供だましの妖怪の話だった。
この村では子供が森に入らないようにと、恐ろしい妖怪の話を聞かせるという風習がある。まあ結局、好奇心旺盛な子供はこっそり森に入ってしまうのだが。見つかって大人に怒られる子供は毎年必ずいるのだ。
けれども、俺だってつい最近とはいえ成人し、祖父の森の仕事を手伝うようになっている。
だから、祖父がそう言いだしたときは、はっきり言って馬鹿にされている気がした。
「見たやつがいるんだと。だから森に入るなって話だ」
「冗談だろ?何かと見間違えたんじゃないのか?」
「はっきり見たんだとさ。恐ろしい爪を持ったバケモンが森に出た、ってな。森の奥の木に爪痕まで残ってたらしい」
「……マジかよ」
「大真面目さ。こんなことで嘘を吐いたって仕方ないだろう。とにかく、お前もしばらくは森に入るなよ」
その時は、それ以上話を続けなかった。どうせ酔っ払いの見間違いか何かだろうと思ったから。爪の痕だってどうせ熊か何かだろう――熊でも十分危ないけれど。
(熊なら熊ってはっきり言ってくれればいいのに)
もう妖怪なんて信じている歳でもないのに。子ども扱いされているんじゃないかと、少し不満に思った。
けれどもその話は、布団に入って寝ようとする段になっても俺の頭から離れなかった。
(妖怪、ねえ)
(そんなもん、いるわけないだろうに)
なかなか寝付けなかったその時の俺は何を思ったのか、夜の森に妖怪を探しに行くことを決めた。寝ている祖父に気がつかれないよう、寝巻きから着替え、提灯を持ち出して、いるかもわからない妖怪を探しに行くだなんて、今にして思えば気でも狂っていたに違いない。
けれども俺は、薄ら寒い夜の空気の中、不気味な森へと入ってしまった。
そうして俺は、彼女と出会ったのである。
その言葉は、凄まじい気迫を伴って放たれた。
あまりの迫力に、一瞬息がつまる。
「もう一度訊く。お前は誰だ?」
虎ようなの腕を構え、その爪をギラつかせながら「彼女」は俺に迫ってくる。月に照らされたその姿は、彼女自身の凛とした佇まいと合わさって、まるで一枚の絵のようで。
(綺麗だ)
揺れる蛇の尾が、魅力的な曲線を描く身体が、月に煌めく虎の手足が、真剣な眼差しでこちらを睨む凛々しい顔が。人間のそれとはかけ離れた魅力を放つ、そのどれもが美しい。
ピタリと首に何かが当たり、一瞬遅れてそれが鋭い爪だと認識する。しかし、命の危機に晒されてなお、俺の身体は動かない。
恐怖のせいか――それとも。
「此処から去れ」
爪を首に添えたまま、彼女は言う。
身体は動かない。
「何処かへ行け」
身体は、動かない。
「私の目の前から消え失せろ!」
荒げるような声で言われて、俺の身体はようやく動いた。鋭い爪から逃れて立ち上がると、彼女に背を向けて全力で駆け出した。
後ろは振り返らなかった。
「妖怪ィ?」
最初に祖父にその話を聞いた時、何を言い出したのかわからなかった。
「そうだ。西の森で出たんだとさ」
夕飯を食べている最中に「ああ、そうそう」と急に真剣な顔をして、一体なんの話を始めたかと思えば、子供だましの妖怪の話だった。
この村では子供が森に入らないようにと、恐ろしい妖怪の話を聞かせるという風習がある。まあ結局、好奇心旺盛な子供はこっそり森に入ってしまうのだが。見つかって大人に怒られる子供は毎年必ずいるのだ。
けれども、俺だってつい最近とはいえ成人し、祖父の森の仕事を手伝うようになっている。
だから、祖父がそう言いだしたときは、はっきり言って馬鹿にされている気がした。
「見たやつがいるんだと。だから森に入るなって話だ」
「冗談だろ?何かと見間違えたんじゃないのか?」
「はっきり見たんだとさ。恐ろしい爪を持ったバケモンが森に出た、ってな。森の奥の木に爪痕まで残ってたらしい」
「……マジかよ」
「大真面目さ。こんなことで嘘を吐いたって仕方ないだろう。とにかく、お前もしばらくは森に入るなよ」
その時は、それ以上話を続けなかった。どうせ酔っ払いの見間違いか何かだろうと思ったから。爪の痕だってどうせ熊か何かだろう――熊でも十分危ないけれど。
(熊なら熊ってはっきり言ってくれればいいのに)
もう妖怪なんて信じている歳でもないのに。子ども扱いされているんじゃないかと、少し不満に思った。
けれどもその話は、布団に入って寝ようとする段になっても俺の頭から離れなかった。
(妖怪、ねえ)
(そんなもん、いるわけないだろうに)
なかなか寝付けなかったその時の俺は何を思ったのか、夜の森に妖怪を探しに行くことを決めた。寝ている祖父に気がつかれないよう、寝巻きから着替え、提灯を持ち出して、いるかもわからない妖怪を探しに行くだなんて、今にして思えば気でも狂っていたに違いない。
けれども俺は、薄ら寒い夜の空気の中、不気味な森へと入ってしまった。
そうして俺は、彼女と出会ったのである。
15/11/02 12:20更新 / 斑猫
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