前編
朝、目が覚める。
それはたいていの人が毎日繰り返す『当たり前』の事で、それを数えている人なんて、ほとんどいないだろう。
ボクの母は例外の一つだ。
ヴァンパイアであるボクの母は当然だが夜行性で、月が昇るとともに目を覚まし太陽が顔を出しかける頃には眠りにつく。
たまーに気まぐれで朝ふかししたり大事な用事で朝に起きたりすることもあるが、その回数は生きた年月に対してごく少ない。
最後に聞いたとき、確か52回と言っていたか。
ボクは母の娘ではあるが、ヴァンパイアではなくダンピールである。
だから朝目が覚めるのが当然のことで、母とは違い朝目覚めた回数なんて数えていない。
されどボクは夜に目を覚ますことだって多い。
暑い季節や地方によっては太陽の出ていない夜のうちに歩みを進めることだってあるからだ。
だからボクは夜に目覚めた回数だって数えていない、そもそもそんなことに意味が見出せない。
だけど、どちらが多いかと言えば当然朝日とともに目が覚めることが多い。
運命とは奇妙なもので、母はその数少ない朝目覚めた日に、
ボクは比率で言えば少ない夜に運命の出会いを果たした。
何もかもが真逆なボクと母だけれど、こういうところは似通ってしまうらしい。
***
「……ん、んん」
今日は、朝の目覚め。
また少し目覚めの比率を人間的常識の方に傾かせながら、掛け布団をどかした。
「ん、んん〜っ……はぁ」
勢いよく、伸びをする。
寝ている間に凝り固まった筋がググッと伸びて気持ち良い。
朝6時、うん、いつもの時間だ
生理現象で出てきた涙を拭いながら、ベッドから立ち上がる。
宿の寝衣を脱いでシャワールームへ。
少し熱めのシャワーを浴びて、寝汗を流す。
髪を拭いながら、元の部屋へ。
ピッチャーから一杯冷たい水を注いで飲み干して、木枠の窓を開けた。
うん、良い朝だ。
早朝ゆえにまだ人通りは少ないが、早いとこではもう煙突から煙が昇り始めている。
「さて、と」
ボクはクルリと体を右回れして、先ほどまでボクが眠っていたベッドの横にもう一つあるベッドへと歩み寄る。
そこには掛け布団にくるまった小さな人の姿。
横向きに寝転んで呼吸で僅かに動くその肩に、ボクは手をかけた。
「朝だよ、起きて」
ゆさゆさと優しく揺さぶってあげる……しかし、まるで反応が返ってこない。
なんだかいつもよりも更に眠りが深い気がする……そういえば昨日、ラガーを少し強引に飲ませたっけ、それかもしれないな。
「こらー、おーい、起きるんだ」
もうすこしだけ強めに。
うん、少しだけ身じろぎした、あと少しあと少し。
「ぐっも〜に〜〜ん、おきなよーー朝だよ〜〜」
ひょっこり除く耳をくにくに指先で揉みながら、間延びした声で呼びかける。
そこまでしてやっとお布団ミノムシがモゾモゾと動いて、掛け布団に埋まっていた顔がこちらを覗いた。
「うん、おはようダヴィ」
「……おはようございます、キトリーさん」
ダヴィ=ロスレック。
浅黒い肌にほっそりとした体のこの寝坊助さんは、このボク、キトリー=ヴォーコルベイユの旅のパートナーである。
***
朝市の活気というものはいつ見ても心がウキウキしてしまう。
あの後ダヴィはパパッと身支度を整えて出発の準備を終わらせたので、ボクらは活気賑わう市場ををゆったりと眺めて歩いていた。
人ごみの中でもはぐれないようにダヴィの手はしっかりと握ってある。
ダヴィの方からもぎゅっと握り返してくれるから、なんだか少し気恥ずかしいきもする。
「馬車を借りてあるから、それに積みこむ食料を買わなければいけないね、それと水。あとは……お酒も、少々」
「ラガーですか?」
「いやダメだ、ラガーは冷えてなければ認めない。ジパングのコキジにも書いてある。ここはワインにしよう、この市場ならラトアーヌワインがあるかもしれない」
ダヴィにそう告げて、かのラトアーヌワインの味を思い出す。
あのワインは、素晴らしいものだった。
あまりなの知られていない、知る人ぞ知るという製作者の名を冠したワインは極々シンプルながら、故に深い味わいを創り出している。
ボクが飲んだのは64年ものだったけど、いつかは傑作と言われている62年ものを頂きたいものだ。
「まぁそれは余裕があったら、ね。まずは食べ物だ。さあ行こう。ダヴィは希望はあるかい?」
「いえ、キトリーさんの好きなものを選んでください」
「……うん、そうか。じゃあ食事に出てくるとダヴィがすぐに手をつけるチーズを買っちゃおうかな」
「……チーズ……ですか」
「チーズやめた、見ながら決めよう。ほら、ダヴィおいで」
ダヴィの手を軽く引いて、雑踏をかき分けながら生鮮市場へと向かっていく。
……しかしまぁ5ヶ月前と比べて随分なついてくれたものだと、出会った日のことを思い出しながらボクはしみじみと感じた。
***
その日は、いい夜だった。
明るく輝く星が空一面に広がる様はまさに満天の星空。
月が明るいせいで全てをくっきりと見ることはできないが……
そして月も同様に素晴らしい。
中天に輝く銀月は大地をほのかに青白く照らして、夜道を歩く僕の行く末を映し出してくれる。
「うん……いい夜だ」
本当に素晴らしい夜だった。
気温も暑くもなく寒くも無い過ごしやすいもので、魔物の研ぎ澄まされた感覚は暗く閉じられた夜の世界でもあたりの情報を正確にさぐりだす。
微かに香る草花の香り、小さく鳴く虫の唄。
そよそよと緩やかな風に頬を撫でられ、ボクは夜道を進んでいた。
(夜の旅路も、やっぱりいいもんだね)
種族柄夜に恐怖を感じないボクは、一人であるにもかかわらず、夜道を歩く。
この時期この土地は昼間の気温が30度を越す。
耐えられないことは無いが汗びっしょりになるのはごめんこうむりたい、風呂も入れないのに。
なので今は昼間に休み夜に進む昼夜逆転生活を送っていた。
「〜♪」
ついつい機嫌が良くなって、鼻歌なんか口ずさんで、僕は黒い世界を歩む。
目指す国はまだまだ遠い、なるべく距離を稼がなければ。
ーーー不意に感じる、人の気配。
「ーーーーっ」
即座に僕は腰に携えた細剣を引き抜いて構える。
それに怯えたのかあたり一帯から虫の鳴き声が消えて、風もピタリと止んでしまった。
暗闇に包まれた周囲に気を張り巡らせ、周囲の生物のオーラを探る。
(……気配は微弱だ。こちらを狙っているのか、いないのか、それすらもわからない。相当な手練れなのか?こんな夜中の、なんの変哲もない街道で?)
こちらを襲撃しに来たとしては不自然だ。
この街道は開けていて見晴らしが良く襲撃には不向き。
今は夜で視界こそ悪いがそれは相手も同じ、獲物を探すのも一苦労だ。
夜行性の魔物が男を狙ってるのだとしたら、女である僕を襲うだろうか。
人間の女性と勘違いした過激派の魔物か。
(……違うな)
しかし、その気配は明らかに弱すぎた。
抑えているにしても小さすぎる、まるで死にかけているような……
(死に、かけ?)
その発想が頭をよぎった瞬間、ボクは辺りへ走らせた気配をより一層鋭敏にさせた。
捉えろ、捉えろ、オーラの出所を……
(そこか!)
気配をとらえ、道から数は外れた草むらへと目を向ける。
見えないが、何かがいる。
身長に歩み寄って、目をこらす。
「っ!!」
そこには、血の染み込んだ服を……否、服じゃない、ただのボロ布を纏った少年が倒れ込んでいた。
「大丈夫かい!?」
大声で呼びかける、返事はない。
体を揺さぶるのは危険だ、というより体勢を変えること自体推奨できない。
しかしここに放置すれば遠からず死ぬ。
そんなことは、許容できない。
(これが効けばいいんだけど……)
ボクはバックパックから指の第一関節ほどの欠片を取り出した。
これは、切り落とされたユニコーンの角のかけら。
夫とまぐわうのに邪魔という大胆な理由で切除された純白の魔力の宿った角には、欠片といえど強い魔力が込められている。
「頼む……!」
欠片を少年の体に乗せて、封印を解く。
すると、輝かしい光が欠片から溢れ出し、少年の体を包み込む。
光に包まれた中で、照らされてあらわになった傷跡が見る間に小さくなって、消えていく。
やがて徐々に光は治まっていき、あたりがすっかり元の暗闇に包まれる頃には、少年の傷はほとんど完治していた……すでにふさがっている古傷以外は。
「これなら……」
というか、これ以上ほとんど手の施しようがない。
地図を開き、最寄りの新魔物派の町村への最短ルートを確認する。
少年の口に一口水を口移しで飲ませてやり、ついでにボクの魔力も注ぐ。
彼を負ぶさり、なるべく揺らさないように走り出す。
(間に合ってくれ……!!)
闇を切り裂く矢の如く駆ける。
一刻たりとも猶予はない、少しでも早く、彼を設備の整った医療機関へ届けなければ。
背負う少年の異様なほどの軽さが、逆に死の重圧でボクを押しつぶそうとしていた。
***
「さて……このくらいかな」
1週間分の旅糧を借りた馬車に詰め込んで、ボクは改めて荷物の確認をした。
羊皮紙に書かれている品目を確認していく。
えーと、ダヴィの好物(おそらく)に、ダヴィの好きなもの(予想)だろ?
ダヴィのお気に入り(可能性)にダヴィのソウルフード(決めつけ)……よし完璧だ(発狂)。
結構な値段がしたけど、パパッと金策したおかげで特に懐はダメージを受けていない。
剣の腕ってのはそれだけで食べていけるから助かるよ、このご時世でも役に立つから素晴らしい。
「他は……大丈夫かな」
「あの、ワインは」
「ああそうだワイン!」
すっかり忘れてた。
ダヴィの普段の食事の姿から好物を割り出すことに夢中になりすぎた、なんたる不覚。
「すぐに買いに行くとしよう。行こうダヴィ」
「はい」
再び手を握って、ボクらは先ほどまで食材を吟味していた市と違う方へと向かう。
趣向品が並べられているこの区画は、魔界ハーブの香料や魔界の植物を用いた葉巻など、珍しい品が多く並べられている。
探し始めて間もなく、僕は目当てのものを見つけることができた。
「お、これこれ……63年ものか」
日の当たらない位地に並べられた深紅のワインボトル。
隣の樽に入った生ワインも捨てがたいけれど、日持ちを考えるならこちらのほうがいいだろう。
「これを1本」
「ふふ、ありがとう」
店員のサテュロスに金を渡す。
ラトアーヌワインの製作者は自分の名をワインに冠したサテュロスだというが、彼女がそうなのだろうか、それとも単なる売り子か?
包装を待つ間に他の商品にも目を通す。
奥にいるのは護衛だろうか、白い髪の男が腰掛ける側にはなんだか不思議な存在感を放つ樽が置かれている。
あれは、一体なんなのだろう。
それに興味を持った途端だった。
真後ろから、甲高い悲鳴と、肌を打つ音。
思わず振り向けば客たちの視線を集める中、腕を抑えるワーラビットと、ダヴィの、姿。
(しまった……!)
「な、なにするの!?」
「はっ……はっ……!」
腕を思い切り払われたのだろうか、怯えた瞳ででダヴィを見つめるワーラビット。
対するダヴィは普段の無表情が嘘のように目を見開いて獣のような荒い呼吸をしている。
その顔に張り付いているのは明確な恐怖と嫌悪だ。
「ダヴィっ!」
ボクはすぐにダヴィを抱きすくめて押さえつけた。
ダヴィの目を手のひらで覆って、腹の辺りを優しく撫でてやる。
「大丈夫……大丈夫だ……」
少しの間そうやってあやしてやると、ダヴィは徐々に体から力が抜けて、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「……すまない、この子は訳ありで、人に触られるのが怖くてたまらないんだ。どこかに触れたりしたかい?」
「え、あ……その、その子の奥にあった商品を取ろうとして……」
「そうか……とにかく、ボクがもう少し気を払っておけばよかった。本当にすまない、怪我は大丈夫?」
「あ、それは大丈夫です」
ワーラビットは若干たどたどしい様子で受け答えしてくれるが、その目はチラチラとダヴィを見ている。
若干の怯えを孕む視線で。
……これ以上ここに長居するのは良くない。
「そうか、よかった……では、これで。お元気で」
軽く一礼をし、ダヴィを抱えて借りた馬車へと駆ける。
噂話は二つの意味でアシが早い、さっさとこの町を出るとしよう。
次訪れる時はみんな忘れているに違いない。
***
彼を抱えて2時間ほど全力で走って駆け込んだのは、「ルシール」という長閑な村だった。
すでに夜が白み始める5時頃にもかかわらず、流石に息も絶え絶えだったボクはそれでも叫んだ。
「誰か助けてくれ!」
恥もなにもあったものじゃないかそれだけ必死だった。
寝間着姿のまま何人かの村人が駆けつけてくれる。
中にはあられもない格好の魔物夫婦もいたが、ボクと少年の姿を見てすぐ様身なりを整え、なにがあったのかを尋ねてくる。
たくましい男性に背負っていた彼を預け、水を汲んできてくれたホルスタウロスの女性につっかえながらも事情を話す。
村は少しずつ騒がしくなり、村長まで起きてくる事態になった。
しかし、軽いとはいえ人を背負って全力で延々と走り続けた僕はもう体力が限界で、そのまま倒れてしまった。
だからその先どうなったかを詳しく知ることはできなかったが、結論から言うと少年は無事峠を越え、命をつなぎとめることができた。
それから2週間ほど、ボクは村に滞在していた。
少年のことが気がかりだったからだ。
3日目で意識は取り戻していたのだが会う人会う人全員に拒絶反応を起こしてしまいとても会話にならず、食事だって気絶同然に寝ている最中に置くことしかできない。
毎日顔を出し続けたボクと医師、そしてその村の教会の神父さんだけが、なんとか警戒心を解くことができた。
「気分はどうだい?」
「……大丈夫、です」
蚊の鳴くような細い声は、良いとは言ってはくれない。
あまり無理はさせたくないのけど。
「君の名前を、教えてくれないかな」
「……二十三番です。」
神父さんの問いへの答えは、なんとも寂しいものだった。
きていたボロ布といい、彼の素性の予想が半ば確信へと至る。
「もしよければ、君が行き倒れていた経緯を教えてくれないか?ボクが君を発見した場所は、とても君ほどの子供が一人で来れる場所だとも思えない」
ボクの言葉に彼はすぐには答えなかった。
しばらく俯いて、やがてポツポツと口を動かし始めた。
彼は生まれたときから、名前すら与えられず、唯二十三番という識別番号だけを刻まれた奴隷だった。
満足な食事も取れず睡眠もろくに無く、端た金で売り払われた先で嬲られ足蹴にされ。
さらに安い金で取引され重労働を課せられ、時には男娼として肥えた貴族共にいたぶられて弄ばれて。
ただただそんな日々を繰り返し続けていた。
彼は、自分の歳が15歳だという。
彼の身長は120センチにも満たない。
成長期に過度の栄養失調に陥ると、体を維持する栄養素を節制するために成長が止められると聞いたことがある。
そんな日々を受け入れざるをえない彼の人生を、一気に狂わせる出来事が起こった。
彼の買われた奴隷商隊が国から国へと移る途中、浅黒い肌の集団に襲われたというのだ。
馬車もあっという間に破壊され、商人も護衛も、奴隷だってあっという間に取り押さえられていく中、唯一彼だけは小柄な体が幸いして破壊された馬車の破片に隠れて見えなかったそうだ。
……いや、災いして、といったほうがいいかもしれない。
やがてあたりが静かになって彼がそこから抜け出すと、そこには破壊された馬車の残骸と僅かな布袋だけが転がっていた。
人は誰もいなかった。
布袋の中に収まっていたごく僅かな食べ物と水を手にした彼は、生まれて初めて得た極限の自由に踏み潰されそうになりながら、足を踏み出した。
逃げているうちに道も見えなくなった草原の中から、あてもなく、波に揺れる木の葉のように。
何のあても、ないままに。
彼の断片的な話をつなぎ合わせて、ボクは彼の全てを知った。
たったこれだけしか話してないのに、彼の人生は説明できてしまった。
ボクは歯を噛みしめることしかできなかった。
(なんで……こんなっ……!酷すぎる!彼が何をした!こんなの、あんまりじゃないか!)
あまりにも悲惨な彼の人生に、ボクは涙をこらえることができなかった。
想像するだけで悔しくて、彼を弄んだ運命が憎くて、仕方がなかった。
彼がだらりと伸ばしているその手を、知らず知らずのうちに両手で握りしめていた。
「……そうですか」
神父さんはそう呟いて、黙り込んだ。
その顔に表情はないけれど、神が彼に与えた仕打ちに言葉を失っていることは明確だった。
「ダヴィ」
やがて神父さんは、一つの言葉を口にした。
「南の国でよく子供へとつけられる名です。意味は、親愛なる……といったものでした。親愛、きっとこの名前には、如何なる人とでも家族のごとく、慈しみをもって接し、絆を深めてくれるように、そんな願いが込められているんです」
唄うような神父さんの言葉に、僕と彼も耳を奪われた。
「あなたは、今までに過酷な人生を送ってきたようだ。しかし、人生とはロープのごとし。ジパングに伝わるマジナイの言葉です。悪いことと良いことはロープのようにより合わさっている。悪いことが起きれば、いつか良いことがあなたに巡ってくる。あなたは、ずっと過酷な運命に翻弄されていました。ですから、ここから先はきっと、あなたに素晴らしい幸福が訪れることでしょう」
神父さんの諭すような語りは、正しく聖職者にふさわしい威厳と優しさに満ち溢れていた。
「君に、名前をつけさせてほしい。そんな忌まわしい番号ではなく、君のためにつけられた、君だけの名前をつける権利を、どうか私に許してくれないか」
「……名前、名前」
彼はポツポツとそう呟いて、小さく頷いた。
「あぁ、ありがとう。今日から君はダヴィだ。そうだな、苗字は……うん、私が名付け親なのだから、私の名、サント=ロスレックから取るとしよう。今日から君は、ダヴィ=ロスレックだ」
神父さんは懐から取り出した手帳に文字を書き、それをダヴィに手渡した。
表紙には無骨ながらも丁寧な文字で『Davi=Lothrec』と記されている
「それは、私から息子への最初の贈り物だ。安物の手帳だけれど。君に文字を教えよう。そして書けるようになったなら、その手帳に好きなことを書いてごらん。今の気分でもいい、見たものの感想でもいい、なんだっていい。埋め尽くしてしまったら次の手帳をあげよう。そうして少しずつ、君の知識を積み重ねていくんだ」
「そして、たまにそれを見返してみてほしい。君だけの手帳に書かれた君だけの文字は、きっと何よりも君のためになることが書いてある……今はわからなくてもいい。まずは文字を覚えることから、だからね」
神父さんの言っていることがよくわからないのか、ダヴィはコクリと首を傾げた。
ボクもイマイチよくわからない。
でも、きっとこれは彼のことを思った素晴らしい言葉なのだと思った。
「さぁ、たくさん話して疲れたろう、今はやすみなさい。そして、疲れが取れたら私を呼んでくれ、やることが山ほどあるからね」
ダヴィをそっと寝かしつけて、サント神父は我が子を慈しむように優しく頭を撫でた。
それを受け入れたダヴィはゆっくりと瞳を閉じ、あっという間に眠りに落ちる。
「……さぁ、キトリーさん。少し話したいことがあります、お付き合いいただけますか?」
「え?ボクに?」
「貴方にしか頼めないことだと思っています」
きっと、彼、ダヴィ絡みのことだ。
そう悟った僕は、サント神父に連れられてダヴィの眠る部屋を後にした。
それはたいていの人が毎日繰り返す『当たり前』の事で、それを数えている人なんて、ほとんどいないだろう。
ボクの母は例外の一つだ。
ヴァンパイアであるボクの母は当然だが夜行性で、月が昇るとともに目を覚まし太陽が顔を出しかける頃には眠りにつく。
たまーに気まぐれで朝ふかししたり大事な用事で朝に起きたりすることもあるが、その回数は生きた年月に対してごく少ない。
最後に聞いたとき、確か52回と言っていたか。
ボクは母の娘ではあるが、ヴァンパイアではなくダンピールである。
だから朝目が覚めるのが当然のことで、母とは違い朝目覚めた回数なんて数えていない。
されどボクは夜に目を覚ますことだって多い。
暑い季節や地方によっては太陽の出ていない夜のうちに歩みを進めることだってあるからだ。
だからボクは夜に目覚めた回数だって数えていない、そもそもそんなことに意味が見出せない。
だけど、どちらが多いかと言えば当然朝日とともに目が覚めることが多い。
運命とは奇妙なもので、母はその数少ない朝目覚めた日に、
ボクは比率で言えば少ない夜に運命の出会いを果たした。
何もかもが真逆なボクと母だけれど、こういうところは似通ってしまうらしい。
***
「……ん、んん」
今日は、朝の目覚め。
また少し目覚めの比率を人間的常識の方に傾かせながら、掛け布団をどかした。
「ん、んん〜っ……はぁ」
勢いよく、伸びをする。
寝ている間に凝り固まった筋がググッと伸びて気持ち良い。
朝6時、うん、いつもの時間だ
生理現象で出てきた涙を拭いながら、ベッドから立ち上がる。
宿の寝衣を脱いでシャワールームへ。
少し熱めのシャワーを浴びて、寝汗を流す。
髪を拭いながら、元の部屋へ。
ピッチャーから一杯冷たい水を注いで飲み干して、木枠の窓を開けた。
うん、良い朝だ。
早朝ゆえにまだ人通りは少ないが、早いとこではもう煙突から煙が昇り始めている。
「さて、と」
ボクはクルリと体を右回れして、先ほどまでボクが眠っていたベッドの横にもう一つあるベッドへと歩み寄る。
そこには掛け布団にくるまった小さな人の姿。
横向きに寝転んで呼吸で僅かに動くその肩に、ボクは手をかけた。
「朝だよ、起きて」
ゆさゆさと優しく揺さぶってあげる……しかし、まるで反応が返ってこない。
なんだかいつもよりも更に眠りが深い気がする……そういえば昨日、ラガーを少し強引に飲ませたっけ、それかもしれないな。
「こらー、おーい、起きるんだ」
もうすこしだけ強めに。
うん、少しだけ身じろぎした、あと少しあと少し。
「ぐっも〜に〜〜ん、おきなよーー朝だよ〜〜」
ひょっこり除く耳をくにくに指先で揉みながら、間延びした声で呼びかける。
そこまでしてやっとお布団ミノムシがモゾモゾと動いて、掛け布団に埋まっていた顔がこちらを覗いた。
「うん、おはようダヴィ」
「……おはようございます、キトリーさん」
ダヴィ=ロスレック。
浅黒い肌にほっそりとした体のこの寝坊助さんは、このボク、キトリー=ヴォーコルベイユの旅のパートナーである。
***
朝市の活気というものはいつ見ても心がウキウキしてしまう。
あの後ダヴィはパパッと身支度を整えて出発の準備を終わらせたので、ボクらは活気賑わう市場ををゆったりと眺めて歩いていた。
人ごみの中でもはぐれないようにダヴィの手はしっかりと握ってある。
ダヴィの方からもぎゅっと握り返してくれるから、なんだか少し気恥ずかしいきもする。
「馬車を借りてあるから、それに積みこむ食料を買わなければいけないね、それと水。あとは……お酒も、少々」
「ラガーですか?」
「いやダメだ、ラガーは冷えてなければ認めない。ジパングのコキジにも書いてある。ここはワインにしよう、この市場ならラトアーヌワインがあるかもしれない」
ダヴィにそう告げて、かのラトアーヌワインの味を思い出す。
あのワインは、素晴らしいものだった。
あまりなの知られていない、知る人ぞ知るという製作者の名を冠したワインは極々シンプルながら、故に深い味わいを創り出している。
ボクが飲んだのは64年ものだったけど、いつかは傑作と言われている62年ものを頂きたいものだ。
「まぁそれは余裕があったら、ね。まずは食べ物だ。さあ行こう。ダヴィは希望はあるかい?」
「いえ、キトリーさんの好きなものを選んでください」
「……うん、そうか。じゃあ食事に出てくるとダヴィがすぐに手をつけるチーズを買っちゃおうかな」
「……チーズ……ですか」
「チーズやめた、見ながら決めよう。ほら、ダヴィおいで」
ダヴィの手を軽く引いて、雑踏をかき分けながら生鮮市場へと向かっていく。
……しかしまぁ5ヶ月前と比べて随分なついてくれたものだと、出会った日のことを思い出しながらボクはしみじみと感じた。
***
その日は、いい夜だった。
明るく輝く星が空一面に広がる様はまさに満天の星空。
月が明るいせいで全てをくっきりと見ることはできないが……
そして月も同様に素晴らしい。
中天に輝く銀月は大地をほのかに青白く照らして、夜道を歩く僕の行く末を映し出してくれる。
「うん……いい夜だ」
本当に素晴らしい夜だった。
気温も暑くもなく寒くも無い過ごしやすいもので、魔物の研ぎ澄まされた感覚は暗く閉じられた夜の世界でもあたりの情報を正確にさぐりだす。
微かに香る草花の香り、小さく鳴く虫の唄。
そよそよと緩やかな風に頬を撫でられ、ボクは夜道を進んでいた。
(夜の旅路も、やっぱりいいもんだね)
種族柄夜に恐怖を感じないボクは、一人であるにもかかわらず、夜道を歩く。
この時期この土地は昼間の気温が30度を越す。
耐えられないことは無いが汗びっしょりになるのはごめんこうむりたい、風呂も入れないのに。
なので今は昼間に休み夜に進む昼夜逆転生活を送っていた。
「〜♪」
ついつい機嫌が良くなって、鼻歌なんか口ずさんで、僕は黒い世界を歩む。
目指す国はまだまだ遠い、なるべく距離を稼がなければ。
ーーー不意に感じる、人の気配。
「ーーーーっ」
即座に僕は腰に携えた細剣を引き抜いて構える。
それに怯えたのかあたり一帯から虫の鳴き声が消えて、風もピタリと止んでしまった。
暗闇に包まれた周囲に気を張り巡らせ、周囲の生物のオーラを探る。
(……気配は微弱だ。こちらを狙っているのか、いないのか、それすらもわからない。相当な手練れなのか?こんな夜中の、なんの変哲もない街道で?)
こちらを襲撃しに来たとしては不自然だ。
この街道は開けていて見晴らしが良く襲撃には不向き。
今は夜で視界こそ悪いがそれは相手も同じ、獲物を探すのも一苦労だ。
夜行性の魔物が男を狙ってるのだとしたら、女である僕を襲うだろうか。
人間の女性と勘違いした過激派の魔物か。
(……違うな)
しかし、その気配は明らかに弱すぎた。
抑えているにしても小さすぎる、まるで死にかけているような……
(死に、かけ?)
その発想が頭をよぎった瞬間、ボクは辺りへ走らせた気配をより一層鋭敏にさせた。
捉えろ、捉えろ、オーラの出所を……
(そこか!)
気配をとらえ、道から数は外れた草むらへと目を向ける。
見えないが、何かがいる。
身長に歩み寄って、目をこらす。
「っ!!」
そこには、血の染み込んだ服を……否、服じゃない、ただのボロ布を纏った少年が倒れ込んでいた。
「大丈夫かい!?」
大声で呼びかける、返事はない。
体を揺さぶるのは危険だ、というより体勢を変えること自体推奨できない。
しかしここに放置すれば遠からず死ぬ。
そんなことは、許容できない。
(これが効けばいいんだけど……)
ボクはバックパックから指の第一関節ほどの欠片を取り出した。
これは、切り落とされたユニコーンの角のかけら。
夫とまぐわうのに邪魔という大胆な理由で切除された純白の魔力の宿った角には、欠片といえど強い魔力が込められている。
「頼む……!」
欠片を少年の体に乗せて、封印を解く。
すると、輝かしい光が欠片から溢れ出し、少年の体を包み込む。
光に包まれた中で、照らされてあらわになった傷跡が見る間に小さくなって、消えていく。
やがて徐々に光は治まっていき、あたりがすっかり元の暗闇に包まれる頃には、少年の傷はほとんど完治していた……すでにふさがっている古傷以外は。
「これなら……」
というか、これ以上ほとんど手の施しようがない。
地図を開き、最寄りの新魔物派の町村への最短ルートを確認する。
少年の口に一口水を口移しで飲ませてやり、ついでにボクの魔力も注ぐ。
彼を負ぶさり、なるべく揺らさないように走り出す。
(間に合ってくれ……!!)
闇を切り裂く矢の如く駆ける。
一刻たりとも猶予はない、少しでも早く、彼を設備の整った医療機関へ届けなければ。
背負う少年の異様なほどの軽さが、逆に死の重圧でボクを押しつぶそうとしていた。
***
「さて……このくらいかな」
1週間分の旅糧を借りた馬車に詰め込んで、ボクは改めて荷物の確認をした。
羊皮紙に書かれている品目を確認していく。
えーと、ダヴィの好物(おそらく)に、ダヴィの好きなもの(予想)だろ?
ダヴィのお気に入り(可能性)にダヴィのソウルフード(決めつけ)……よし完璧だ(発狂)。
結構な値段がしたけど、パパッと金策したおかげで特に懐はダメージを受けていない。
剣の腕ってのはそれだけで食べていけるから助かるよ、このご時世でも役に立つから素晴らしい。
「他は……大丈夫かな」
「あの、ワインは」
「ああそうだワイン!」
すっかり忘れてた。
ダヴィの普段の食事の姿から好物を割り出すことに夢中になりすぎた、なんたる不覚。
「すぐに買いに行くとしよう。行こうダヴィ」
「はい」
再び手を握って、ボクらは先ほどまで食材を吟味していた市と違う方へと向かう。
趣向品が並べられているこの区画は、魔界ハーブの香料や魔界の植物を用いた葉巻など、珍しい品が多く並べられている。
探し始めて間もなく、僕は目当てのものを見つけることができた。
「お、これこれ……63年ものか」
日の当たらない位地に並べられた深紅のワインボトル。
隣の樽に入った生ワインも捨てがたいけれど、日持ちを考えるならこちらのほうがいいだろう。
「これを1本」
「ふふ、ありがとう」
店員のサテュロスに金を渡す。
ラトアーヌワインの製作者は自分の名をワインに冠したサテュロスだというが、彼女がそうなのだろうか、それとも単なる売り子か?
包装を待つ間に他の商品にも目を通す。
奥にいるのは護衛だろうか、白い髪の男が腰掛ける側にはなんだか不思議な存在感を放つ樽が置かれている。
あれは、一体なんなのだろう。
それに興味を持った途端だった。
真後ろから、甲高い悲鳴と、肌を打つ音。
思わず振り向けば客たちの視線を集める中、腕を抑えるワーラビットと、ダヴィの、姿。
(しまった……!)
「な、なにするの!?」
「はっ……はっ……!」
腕を思い切り払われたのだろうか、怯えた瞳ででダヴィを見つめるワーラビット。
対するダヴィは普段の無表情が嘘のように目を見開いて獣のような荒い呼吸をしている。
その顔に張り付いているのは明確な恐怖と嫌悪だ。
「ダヴィっ!」
ボクはすぐにダヴィを抱きすくめて押さえつけた。
ダヴィの目を手のひらで覆って、腹の辺りを優しく撫でてやる。
「大丈夫……大丈夫だ……」
少しの間そうやってあやしてやると、ダヴィは徐々に体から力が抜けて、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「……すまない、この子は訳ありで、人に触られるのが怖くてたまらないんだ。どこかに触れたりしたかい?」
「え、あ……その、その子の奥にあった商品を取ろうとして……」
「そうか……とにかく、ボクがもう少し気を払っておけばよかった。本当にすまない、怪我は大丈夫?」
「あ、それは大丈夫です」
ワーラビットは若干たどたどしい様子で受け答えしてくれるが、その目はチラチラとダヴィを見ている。
若干の怯えを孕む視線で。
……これ以上ここに長居するのは良くない。
「そうか、よかった……では、これで。お元気で」
軽く一礼をし、ダヴィを抱えて借りた馬車へと駆ける。
噂話は二つの意味でアシが早い、さっさとこの町を出るとしよう。
次訪れる時はみんな忘れているに違いない。
***
彼を抱えて2時間ほど全力で走って駆け込んだのは、「ルシール」という長閑な村だった。
すでに夜が白み始める5時頃にもかかわらず、流石に息も絶え絶えだったボクはそれでも叫んだ。
「誰か助けてくれ!」
恥もなにもあったものじゃないかそれだけ必死だった。
寝間着姿のまま何人かの村人が駆けつけてくれる。
中にはあられもない格好の魔物夫婦もいたが、ボクと少年の姿を見てすぐ様身なりを整え、なにがあったのかを尋ねてくる。
たくましい男性に背負っていた彼を預け、水を汲んできてくれたホルスタウロスの女性につっかえながらも事情を話す。
村は少しずつ騒がしくなり、村長まで起きてくる事態になった。
しかし、軽いとはいえ人を背負って全力で延々と走り続けた僕はもう体力が限界で、そのまま倒れてしまった。
だからその先どうなったかを詳しく知ることはできなかったが、結論から言うと少年は無事峠を越え、命をつなぎとめることができた。
それから2週間ほど、ボクは村に滞在していた。
少年のことが気がかりだったからだ。
3日目で意識は取り戻していたのだが会う人会う人全員に拒絶反応を起こしてしまいとても会話にならず、食事だって気絶同然に寝ている最中に置くことしかできない。
毎日顔を出し続けたボクと医師、そしてその村の教会の神父さんだけが、なんとか警戒心を解くことができた。
「気分はどうだい?」
「……大丈夫、です」
蚊の鳴くような細い声は、良いとは言ってはくれない。
あまり無理はさせたくないのけど。
「君の名前を、教えてくれないかな」
「……二十三番です。」
神父さんの問いへの答えは、なんとも寂しいものだった。
きていたボロ布といい、彼の素性の予想が半ば確信へと至る。
「もしよければ、君が行き倒れていた経緯を教えてくれないか?ボクが君を発見した場所は、とても君ほどの子供が一人で来れる場所だとも思えない」
ボクの言葉に彼はすぐには答えなかった。
しばらく俯いて、やがてポツポツと口を動かし始めた。
彼は生まれたときから、名前すら与えられず、唯二十三番という識別番号だけを刻まれた奴隷だった。
満足な食事も取れず睡眠もろくに無く、端た金で売り払われた先で嬲られ足蹴にされ。
さらに安い金で取引され重労働を課せられ、時には男娼として肥えた貴族共にいたぶられて弄ばれて。
ただただそんな日々を繰り返し続けていた。
彼は、自分の歳が15歳だという。
彼の身長は120センチにも満たない。
成長期に過度の栄養失調に陥ると、体を維持する栄養素を節制するために成長が止められると聞いたことがある。
そんな日々を受け入れざるをえない彼の人生を、一気に狂わせる出来事が起こった。
彼の買われた奴隷商隊が国から国へと移る途中、浅黒い肌の集団に襲われたというのだ。
馬車もあっという間に破壊され、商人も護衛も、奴隷だってあっという間に取り押さえられていく中、唯一彼だけは小柄な体が幸いして破壊された馬車の破片に隠れて見えなかったそうだ。
……いや、災いして、といったほうがいいかもしれない。
やがてあたりが静かになって彼がそこから抜け出すと、そこには破壊された馬車の残骸と僅かな布袋だけが転がっていた。
人は誰もいなかった。
布袋の中に収まっていたごく僅かな食べ物と水を手にした彼は、生まれて初めて得た極限の自由に踏み潰されそうになりながら、足を踏み出した。
逃げているうちに道も見えなくなった草原の中から、あてもなく、波に揺れる木の葉のように。
何のあても、ないままに。
彼の断片的な話をつなぎ合わせて、ボクは彼の全てを知った。
たったこれだけしか話してないのに、彼の人生は説明できてしまった。
ボクは歯を噛みしめることしかできなかった。
(なんで……こんなっ……!酷すぎる!彼が何をした!こんなの、あんまりじゃないか!)
あまりにも悲惨な彼の人生に、ボクは涙をこらえることができなかった。
想像するだけで悔しくて、彼を弄んだ運命が憎くて、仕方がなかった。
彼がだらりと伸ばしているその手を、知らず知らずのうちに両手で握りしめていた。
「……そうですか」
神父さんはそう呟いて、黙り込んだ。
その顔に表情はないけれど、神が彼に与えた仕打ちに言葉を失っていることは明確だった。
「ダヴィ」
やがて神父さんは、一つの言葉を口にした。
「南の国でよく子供へとつけられる名です。意味は、親愛なる……といったものでした。親愛、きっとこの名前には、如何なる人とでも家族のごとく、慈しみをもって接し、絆を深めてくれるように、そんな願いが込められているんです」
唄うような神父さんの言葉に、僕と彼も耳を奪われた。
「あなたは、今までに過酷な人生を送ってきたようだ。しかし、人生とはロープのごとし。ジパングに伝わるマジナイの言葉です。悪いことと良いことはロープのようにより合わさっている。悪いことが起きれば、いつか良いことがあなたに巡ってくる。あなたは、ずっと過酷な運命に翻弄されていました。ですから、ここから先はきっと、あなたに素晴らしい幸福が訪れることでしょう」
神父さんの諭すような語りは、正しく聖職者にふさわしい威厳と優しさに満ち溢れていた。
「君に、名前をつけさせてほしい。そんな忌まわしい番号ではなく、君のためにつけられた、君だけの名前をつける権利を、どうか私に許してくれないか」
「……名前、名前」
彼はポツポツとそう呟いて、小さく頷いた。
「あぁ、ありがとう。今日から君はダヴィだ。そうだな、苗字は……うん、私が名付け親なのだから、私の名、サント=ロスレックから取るとしよう。今日から君は、ダヴィ=ロスレックだ」
神父さんは懐から取り出した手帳に文字を書き、それをダヴィに手渡した。
表紙には無骨ながらも丁寧な文字で『Davi=Lothrec』と記されている
「それは、私から息子への最初の贈り物だ。安物の手帳だけれど。君に文字を教えよう。そして書けるようになったなら、その手帳に好きなことを書いてごらん。今の気分でもいい、見たものの感想でもいい、なんだっていい。埋め尽くしてしまったら次の手帳をあげよう。そうして少しずつ、君の知識を積み重ねていくんだ」
「そして、たまにそれを見返してみてほしい。君だけの手帳に書かれた君だけの文字は、きっと何よりも君のためになることが書いてある……今はわからなくてもいい。まずは文字を覚えることから、だからね」
神父さんの言っていることがよくわからないのか、ダヴィはコクリと首を傾げた。
ボクもイマイチよくわからない。
でも、きっとこれは彼のことを思った素晴らしい言葉なのだと思った。
「さぁ、たくさん話して疲れたろう、今はやすみなさい。そして、疲れが取れたら私を呼んでくれ、やることが山ほどあるからね」
ダヴィをそっと寝かしつけて、サント神父は我が子を慈しむように優しく頭を撫でた。
それを受け入れたダヴィはゆっくりと瞳を閉じ、あっという間に眠りに落ちる。
「……さぁ、キトリーさん。少し話したいことがあります、お付き合いいただけますか?」
「え?ボクに?」
「貴方にしか頼めないことだと思っています」
きっと、彼、ダヴィ絡みのことだ。
そう悟った僕は、サント神父に連れられてダヴィの眠る部屋を後にした。
16/05/06 12:36更新 / Y
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