一人称視点バトルパート
ラムルピュールへと続く道は、暑くて長い。
一年を通して温暖な気候の続くこの土地は、土地ならではの生態系が広がっていて、いつ通っても驚きを感じる。
だが、過酷な道のりは商人や旅人にとっていつも頭痛の種だ。
大規模な食料品の輸出地であるものの、親魔物国家における食糧需要は案外と低いものだし、ラムルピュールと大都市をつなぐ中間の村や町はあって一つ、その一つで補給を済ませてまた長い道のりを進まねばならない。
また、その暑い気温は体力だけでなく水を多く消耗させるし、生鮮食品なんかはアシが早くなってしまう。
そのため、観光地としてなかなかに人気はあるが、ラムルピュールと他の都市を定期的につなぐ商人というのは、意外なほど少なかったりする。
「ふんふんふ〜んふんふんふ〜ん……♪」
「……くぁ、ァァァァァ……」
そして、そんな数少ない商人が、私の眼下で鼻歌交じりに魔界豚を操る人、ラトゥールさんである。
「ん〜?眠そうだねぇ、ノアくん。眠気覚ましに少しどうだい?」
「仕事中ですから、遠慮しときます」
「つれないねぇ……」
ラトアーヌさんは誘いを断られたことに苦笑しつつ、左手に握るボトルの中身を口に流し込む。
毎日のように見てるけど、相変わらず豪快な飲み方だ。
「さぁロビュスト、頑張ってくれ、もう少し進んだら野営の準備をしよう」
ラトアーヌさんは自分のまたがる生物、魔界豚のロビュストの背中を撫でるように叩き、労いをかけ、ロビュストはそれに応えるように鳴く。
長いこと商いの旅をしている彼女らの信頼は厚いのだろう。
(よくもまぁ、こんな重いもん背負って……魔界獣ってのはすごいもんだなぁ)
私は自分の腰掛ける大きな樽に目をやった。
ロビュストの歩行に合わせてゆらゆらと揺れるその大きな樽にはたっぷりとワインが詰まっている、その樽が四つ。
保存魔法のかけられた樽の中身のこのワインは、ラトアーヌさんの作る『サテュロスワイン』、その中でも特に珍重される『シャトー ラトアーヌ』だ。
ラトアーヌさんは製造するに適した北でこのワインを造り、南の街ラムルピュールへと輸送しているのである。
そして私は、彼女の護衛を務めるしがない雇われ傭兵だ。
「……んっ」
水筒で喉を潤し一息ついた私は、改めて周囲に気を配る。
ラムルピュールと他国を定期的に行き来する商人は、確かにさほど多くない。
しかし、そもそも周辺に街が少ないため街道も少なく、その限られた街道を通らざるをえないため、人の行き来する密度自体はそれなりだ。
そして、それを狙う野盗共というのはなかなか絶えない。
いつ襲いかかられても対処できるよう、私の左手は傍の剣の柄に、右手は盾にかけられている。
「そうピリピリするのはやめたまえよ、山間の忘れられた都市の住人じゃあるまし」
「……?」
「ああいやなんでもない、君は狩人などではないから知る必要はないよ」
なんだかよくわからないことを言われたが、これが私の仕事だ、気をぬくことなどできない。
……しかし、気疲れで肝心な時に力を発揮できないのも困る。
見晴らしのいい草原を見渡して動くものがないことを確認した後、私は両手を膝の上に置いた。
……今日は、暑い。
水筒の中の塩水をもう一口。
汗によって、体の中の水分と塩分が失われて熱中症に陥る。
水だけではなく塩分もまた補給しなければならない。
「and so here we are lovers ♪lost dimensions ♪」
だというのに、ラトアーヌさんが口にするのは先ほどからワインばかり。
この炎天下の中帽子もかぶっていないというのにどうしてピンピンしていられるのだろう、歌まで歌っている。
私は分厚い白マントを頭からかぶっても辟易しているというのに……まぁこれが魔物娘と人間の違いだろうな。
……む。
「burning supernovas……おや、ノアくん、どうしたのかね?」
「仕事の時間のようです」
「む」
私の言葉を聞いた途端、ラトアーヌさんは顔を顰めさせた。
弓を手に取り、矢をつがえ、引き絞る。
(あれで、隠れているつもりなのだろうか)
私は、その矢を放った。
「ガアァッ!」
「うおぉ!?」
「曲がった!?」
悲鳴が響き渡る。
大岩の陰に全身を隠れていた男の肩に、異様な曲がりを見せた矢が命中したのだ。
死にはするまい、魔界銀製の矢だ。
「ノアくん、盾は買い換えたかい?」
「いえ、まだです」
「盾で殴るのはやめたまえよ。前から買い替えるよう言ったのに。向こうで買ってあげよう」
「……」
攻撃手段を、あろうことか傭い主から奪われた、全く向こうは躊躇なく殺しにくるというのに。
まぁ、負ける気はないが、毎度のことだし。
樽から飛び降り、地に降り立つ。
被っていたマントを翻し、黒い魔界銀の剣の切っ先を敵に向ける。
野盗どもは隠れていたのに命中した矢に動揺し、やや引け腰だ、ますます負けない。
「お前ら、今ここで退くのなら追いはしないぞ」
最初で最後の忠告。
野盗共は黙って各々が武器を取り出した。
見たところ武器の質はなかなかのものだ、魔銀でもないため一撃受ければ致命傷は免れまい。
私の装備は頑丈ではあるものの一般的な旅装束に関節部などの要所に厚革が当てられている程度で、マントもただの布製なのだ。
当たってしまえば、だが。
「退かないか、いいだろう」
言い終わる前に、先頭の巨漢が此方へ間合いを詰め、斧を振りかぶる。
他の敵共も私を囲むように展開している、戦術は把握しているようだ、しかし。
「いくぞ」
地を、蹴る。
振り下された斧が頭への直撃コースへ入る、このまま突っ込めば分厚い刃が私の頭を真っ二つにするだろう。
だから、より加速する。
髪の毛数本を犠牲にし、敵の懐へ。
そのまま掌打。
「ぐぅっ!?」
速度の乗った打撃で男をよろめかせ、抜き放った剣の腹で男の足を思い切り殴りつける。
バランスを崩し倒れた男の腹へ、剣を振り上げ。
「死にはしないさ」
「ぐぎゃあっ!!」
突きおろす、一人。
腹を貫通した剣をすぐさま抜き取る、血は当然付着してない。
跳躍、真後ろからの槍の一撃を避ける。
視界反転、頭が下で足が上。自分の『上の』地上に立つ槍兵に頭への一閃、二人。
着地地点に回り込まれた。
3本の剣と槍が此方へ突き出される。
視界反転、正常になる。
「死ねぇ!」
「ありきたりだな」
腕を伸ばし、剣を槍の穂先へと沿わせる、そして。
「なぁっ!?」
剣がグネリと曲がり、槍を絡め取った。
男の掴む槍を支点に力を込める。浮遊時間を延長。
3人のさらに後方に着地、すぐさま突撃、薙ぎはらう。
「くそ、なんだあの剣は……!」
「これで5人。もう半分かい?」
崩れ落ちた3人組から視線を外し、残りの5人を見回す。
弓が二人に、大剣、メイス、そしてナイフを両手に持つ男。
まずはゆみをしとめるか。
腰の矢筒から矢をつかみ出し、
「シッ」
「なっ!?」
投擲。
鏃が大きい特注の矢は投げナイフのような運用も可能とする。
弓兵それぞれの腕と足に突き刺さる、好機。
「くるぞっ……!?」
言った時にはもう遅い。
両者の間に割り込んだ私は勢いよく体を回転させ、その勢いで周囲を一気に薙ぎはらう。
「ぐぅっ!?」
「ぐげっ……!」
弓兵2名が吹き飛ばされる。
大げさな動作のせいでわずかに好きができたのを好機と見たのからツヴァイハンダーを構えた男が此方へ突っ込んできた。
「喰らえ化け物!」
大剣持ちが此方の胴を狙い横薙ぎ一閃。
回避は不可能、ならば剣で受け止める。
「そんな細剣ブチ折って……なぁっ!?」
再び剣で絡め取り、敵に蹴りをかます。
その勢いで大剣は手放された。
その大剣をへし折って、再び俺の剣をまっすぐに戻す。
「くそ!なんなんだよその剣は!」
「答える義理はない」
特になんてことはない、私の魔法でこうなるわけだが、説明するほど暇でもない。
無防備な男を早々に切り捨て、矢を投擲。
盾を持たないメイス兵はあっけなく昏倒。
さて、残るは両手にナイフの男である。
「……バカ野郎どもが、ワラワラかかればいいってもんじゃねえのによ」
今の今まで沈黙を貫いていた髭面の男は、不機嫌そうに頭をガシガシとかいて這いつくばった男たちを睨みつけた。
どうやらこの男がこの集団の頭らしい。
「なんでお前もこなかった。いくら連携が取れてないとて、数で有利ならやりようはあっただろう」
「軽くあしらったお前がそれを言うか。あんな矢の当て方する奴にまだ手札がないか警戒しないアホがいるか」
どうやら頭目だけあり、他の連中より賢いらしい。
「なら何故奴らを止めなかったんだ」
「止めても無駄さ。こいつらは全員頭の中まで筋肉が詰まってやがる、数で攻めればどうとでもなると思ったのだろうさ、今まではそうだったしな」
そこまでいったところで、男は逆手に持ったナイフを構えた。
防御に優れたその構えはなかなかどうに入っている。
「……時間も無限じゃない、さっさと終わらせる」
「ああそうだな、俺がお前さんの首を掻っ切って終わりだ」
下卑た男の笑いに少しイラついて、私は突撃を仕掛けた。
リーチでは優っている、そして古今東西リーチの差というのは決定的な差でもある。
地を蹴って前進した勢いを乗せて、魔剣を横一文字に薙ぎはらった。
「おっと!」
男は無難に一歩下がり、すれすれで一撃を避ける。
軽装なだけあり身軽だ。
男の反撃は直後に二歩踏み込み、此方の懐に入る。
リーチの長さは同時に近距離での取り回しの悪さにつながる。
この距離は不利だ、しかし。
「喰らえ!」
男の斬り払い、ボクサーのフックのような軌跡を描くそれは、逆手持ちのナイフの刃がちょうど私の腹を引き裂く軌道に乗っている。
「ふっ」
「むぅっ!?」
即座に膝蹴り、敵の手をカチ上げる。
足を下ろす勢いに乗せて、斬りおろし、寸前で避けられ地面を深々と抉る。
剣を手放し、接近戦。
「っのやろ!」
「ハァッ!」
矢筒から矢を引き抜き逆手持ち、振り払う、躱された。
反撃の蹴りを躱し、矢を順手にスイッチ。
10センチの鏃はもはや短剣と変わらない。
刺突を繰り出す、躱される、反撃の斬りはらい、躱す、反撃に膝蹴り、反撃の振り下ろし、反撃の殴打。
「フンッ」
「ぐおぁっ!?」
超至近距離の高速戦闘は、先に向こうが根を上げた。
脚のもつれた男の腹に、逃さず矢を投擲する。
深々と突き刺さる魔界銀の矢、しかし少しすると自然と抜け落ち、服は破れど傷はない。
だが、その精神に与えた損傷は大きい。
「く……そ……」
「なかなかいい腕だったが、鍛錬を怠ったのが決定的な敗因だな、スタミナがなさすぎる。それに彼我の実力差を見極めることもできない」
膝をついた男を見据えながら、地に突き立った剣を引き抜く。
これで一思いに終わらせるとしよう、殺すわけではないが……いい加減くどいか。
「目が覚めれば、素敵な嫁さんに美味しく頂かれているだろう、楽しみにしていろ」
「くそがぁぁぁ……!!」
そして、私は剣を振り下ろした。
なんて事のない、いつも通りの仕事は、やっぱりなんてこともなく、変わり映えなく終わった。
ーーーそれからどーしたーーー
「いいかい?ここをキャンプ地とする」
「構いませんよ」
あの後野盗連中を縛り上げて魔物寄せの香を置いてその場を離れた私たちは、念のため一時間ほど進んだ後に、巨木の陰に荷を降ろし、野営の準備を始めた。
ラトアーヌさんは鼻歌を歌いながら地面に結界の人を描き、その間に私はロビュストの背負う荷を降ろしてやる。
横っ腹のあたりを撫でてやればロビュストは大人しく膝を曲げて地に伏し、その荷物を取りやすくしてくれる。
荷を解き、樽を慎重に下ろす。
相変わらず結構な重量だが、ラトアーヌさんはこれを涼しい顔で積み込んでいる、魔物はやはり見かけによらないものだ。
「ふぅ」
「お疲れ様だ、ノアくん。こちらも終わったよ」
振り向いてみれば、描かれた陣が暗い輝きを放っている。
陶酔の果実の一際濃い部分を触媒にしたこの結界は、範囲内を完全に外から遮断し、一時的に異次元と化すものだ。
この結界の中にはもはや巨木と少々の虫、私たちくらいしか存在しないし、結界を解くまで外部から介入されることもないだろう。
かなり大掛かりな魔術だが、触媒さえあれば後は魔法陣を覚えればいいだけ。
移動中に使えないのが残念だ……いや、使われると我々傭兵は食いっぱぐれてしまうのだが。
「これで一息つけるね……ロビュスト、遊んでおいで、明日の朝までには帰ってくるんだよ」
その声にロビュストは頷くように一鳴きすると、踵を返して歩き始めた。この空間から出ることはできないはずだが、今まで遊びに行ったロビュストを見つけることは終ぞなかった、いったいどういうことなのだろう。
「さぁ、これでやっとゆっくりできるね」
「いえ、まだ薪を拾ってこなければ」
「こいつがあるだろう」
私の言葉に、ラトアーヌさんは腰元の袋から魔石を一つ取り出した。
炎の魔石。
イグニスの魔力が込められたこの石は一晩程度なら消えることのない大きな火を作り出す、これさえあれば、確かに薪を拾い集める必要はない。
「しかし、集められるのだから集めてきた方がいいでしょう。無駄遣いは控えるべきです」
「キミと過ごす時間が減ってしまうじゃないか。旅の最中の唯一の楽しみは、君と話す時間なんだからね」
サラッと紡がれる言葉に、私は思わず詰まった。
最近ラトアーヌさんは私に対して口説き文句としか取れない言葉をよくかけてくる。
まぁ、つまりそういうことなんだろう、彼女は魔物なのだ。
「それに、今回は少しばかり小競り合いもあったじゃないか。君の圧勝ではあったけど疲れたろう?君の体が心配なんだ、こんな小石の一つくらい安いもんさ」
こちらの返答を待たずに、ラトアーヌさんは魔石を地面に置いて魔力を注ぎ込んだ。
途端に、大きな火がたちあがる。
暖かく、人を傷つけることのない、優しくも激しいイグニスの焔だ。
「……困ったものです」
「なんとでもいいたまえ、いい男のためならたとえ財産投げ打ってでも勝負かけるよ、それだけの価値があるんだからね」
こうもストレートに好意をぶつけられると、さすがに恥じらいが生まれる。
誤魔化そうと思い、傍の荷物袋から乾パンと干し肉を取り出した。
「……ノアくんまたそんなもので済ますつもりかい」
「いいじゃないですか、栄養あるし」
事実である。
旅人向けに工夫の凝らされたこの二つは高い栄養価を持ちおまけにかさばらない。
私のような傭兵にはうってつけの品である、喉が乾くけど。
「ダメだダメだ。今日こそは言うぞ、そんな佗しい食事だとせっかくの旅が台無しじゃないか」
「私護衛任務中ですからね」
「知ったことかい。よし決めた、今日は私が君に料理をふるまってあげようじゃないの」
「え?」
言うが早いか、ラトアーヌさんは傍の食料を詰め込んだ木箱から食材を取り出し始めた。
保存魔法のかけられた木箱の中から、塩漬けの牛肉に玉ねぎや人参、調味料まで、そして……
「これがメインだ」
掲げられたのは『シャトーラトアーヌ』。
しかも、ラトアーヌさん自身が会心の出来と語っていた62年ものだ。
「いいんですか、市場に出せば100万は下らないでしょう」
「金なんざどうでもいいんだ、酒は私にとって道楽であり趣味からね。だからこそ手を抜かないんだけど……今日こそ、君には僕のワインを味わってもらおうか、まずは料理で」
ナイフと水の容器を側に置き、ラトアーヌさんは見事な手つきで料理を開始した。
手の内であっという間に食材がカットされていき、鍋の中へと投入されていく。
「こういう野営では細かい調理はできないからね、それならばいっそ大胆にやるべきだよ」
いつのまにやら大半の作業は終わったらしく、赤ワインと水を鍋に注ぎ、蓋をしてしまった。
料理の出来ない私には何をしていたのかさっぱりわからなかったが、準備完了らしい。
「あとはたまにアクをとるだけさ。簡単簡単。ただ、とろ火で煮込むから結構時間がかかりそうだ、その間は……」
魔力を調整したのか、薪が若干暗くなり、辺りの景色が薄暗くなる。
いつの魔にすっかり日は暮れていた。
ラトアーヌはこちらへ少し距離を詰めてきて、コップを差し出してくる。
「本当はワイングラスでいただいて欲しいんだけど、あんな割れ物はさすがにね」
私の了承も取らずに、ラトアーヌさんはその濃厚なサテュロスワインをコップの中に注ぐ。
芳醇な香りがあたりに漂い、思わず引き込まれてしまった。
「さ、飲みたまえ。遠慮はしなくていい」
「……では、お言葉に甘えて」
笑顔で差し出されたコップを、私は素直に受け取った。
さすがにここまでされて断るのは悪いと思ったのもあるが、正直これを前にして我慢するのは無理というものだ。
コップに鼻を寄せて、香りを吸い込む。
それだけで安物のワインなど鼻で笑えるほどの華やかで深い香りが鼻腔を満たす。
これだけでも酔っ払ってしまいそうだ。
「いい顔をしているね、やはり君は仏頂面よりそういう顔の方がよっぽどいいよ」
「……あまり見ないでください」
「惚れた男の顔、1秒でも長く見ていたいのは当然だろう?」
全く今日は一段と激しいな、早く飲んでしまおう。
返答をせずに、私はそのコップの中身を口に運んだ。
「……」
美味い。
美味い。
それ以外の言葉が思いつかないほどに美味い。
例えるなら深い森の奥。
木漏れ日がわずかに入り込む薄暗い森の中で深緑に包まれながら深呼吸をしたかのような。
深く、それでいてフルーティな、繊細かつ豪奢な味わいだ。
思わず、中身を全て口に含み、たまらず、呑みほす。
しばらくの間は呆然と、そのコップを眺めていた。
「ふふ、気に入ったみたいだね」
ハッと我を取り戻す。
私の顔をラトアーヌさんが覗き込んでいた。
先ほどよりも、なんだか距離が近い。
「可愛い顔をしていたよ。ふふ、私のワインをここまで美味しそうに飲んでくれると、生産者冥利につきるね。これがあるからやめられない」
そういってラトアーヌはさぞ嬉しそうに、自分のワインを口にした。
こくこくと、小さく動く喉がたまらなく色っぽい。
……もう酒に飲まれたかな、思考があらぬ方向に飛ぶ。
「……まだ煮えるには時間があるね。もう一本空けてしまおう、今日は盛大に語り明かそうじゃないか」
そういって、ラトゥールさんはもう一本、62年もののボトルを取り出した。
今度は私のコップにそれをなみなみと注ぐ。
「では、もう今更だけど、私たちの出会いと、これまでの関係に乾杯」
「……ええ、乾杯」
かつんと、コップを鳴らし合う、
この極上のワインを前に柄にもなく浮かれてしまったのか、私はなんの躊躇もなくその中身を口腔に運んだ。
一年を通して温暖な気候の続くこの土地は、土地ならではの生態系が広がっていて、いつ通っても驚きを感じる。
だが、過酷な道のりは商人や旅人にとっていつも頭痛の種だ。
大規模な食料品の輸出地であるものの、親魔物国家における食糧需要は案外と低いものだし、ラムルピュールと大都市をつなぐ中間の村や町はあって一つ、その一つで補給を済ませてまた長い道のりを進まねばならない。
また、その暑い気温は体力だけでなく水を多く消耗させるし、生鮮食品なんかはアシが早くなってしまう。
そのため、観光地としてなかなかに人気はあるが、ラムルピュールと他の都市を定期的につなぐ商人というのは、意外なほど少なかったりする。
「ふんふんふ〜んふんふんふ〜ん……♪」
「……くぁ、ァァァァァ……」
そして、そんな数少ない商人が、私の眼下で鼻歌交じりに魔界豚を操る人、ラトゥールさんである。
「ん〜?眠そうだねぇ、ノアくん。眠気覚ましに少しどうだい?」
「仕事中ですから、遠慮しときます」
「つれないねぇ……」
ラトアーヌさんは誘いを断られたことに苦笑しつつ、左手に握るボトルの中身を口に流し込む。
毎日のように見てるけど、相変わらず豪快な飲み方だ。
「さぁロビュスト、頑張ってくれ、もう少し進んだら野営の準備をしよう」
ラトアーヌさんは自分のまたがる生物、魔界豚のロビュストの背中を撫でるように叩き、労いをかけ、ロビュストはそれに応えるように鳴く。
長いこと商いの旅をしている彼女らの信頼は厚いのだろう。
(よくもまぁ、こんな重いもん背負って……魔界獣ってのはすごいもんだなぁ)
私は自分の腰掛ける大きな樽に目をやった。
ロビュストの歩行に合わせてゆらゆらと揺れるその大きな樽にはたっぷりとワインが詰まっている、その樽が四つ。
保存魔法のかけられた樽の中身のこのワインは、ラトアーヌさんの作る『サテュロスワイン』、その中でも特に珍重される『シャトー ラトアーヌ』だ。
ラトアーヌさんは製造するに適した北でこのワインを造り、南の街ラムルピュールへと輸送しているのである。
そして私は、彼女の護衛を務めるしがない雇われ傭兵だ。
「……んっ」
水筒で喉を潤し一息ついた私は、改めて周囲に気を配る。
ラムルピュールと他国を定期的に行き来する商人は、確かにさほど多くない。
しかし、そもそも周辺に街が少ないため街道も少なく、その限られた街道を通らざるをえないため、人の行き来する密度自体はそれなりだ。
そして、それを狙う野盗共というのはなかなか絶えない。
いつ襲いかかられても対処できるよう、私の左手は傍の剣の柄に、右手は盾にかけられている。
「そうピリピリするのはやめたまえよ、山間の忘れられた都市の住人じゃあるまし」
「……?」
「ああいやなんでもない、君は狩人などではないから知る必要はないよ」
なんだかよくわからないことを言われたが、これが私の仕事だ、気をぬくことなどできない。
……しかし、気疲れで肝心な時に力を発揮できないのも困る。
見晴らしのいい草原を見渡して動くものがないことを確認した後、私は両手を膝の上に置いた。
……今日は、暑い。
水筒の中の塩水をもう一口。
汗によって、体の中の水分と塩分が失われて熱中症に陥る。
水だけではなく塩分もまた補給しなければならない。
「and so here we are lovers ♪lost dimensions ♪」
だというのに、ラトアーヌさんが口にするのは先ほどからワインばかり。
この炎天下の中帽子もかぶっていないというのにどうしてピンピンしていられるのだろう、歌まで歌っている。
私は分厚い白マントを頭からかぶっても辟易しているというのに……まぁこれが魔物娘と人間の違いだろうな。
……む。
「burning supernovas……おや、ノアくん、どうしたのかね?」
「仕事の時間のようです」
「む」
私の言葉を聞いた途端、ラトアーヌさんは顔を顰めさせた。
弓を手に取り、矢をつがえ、引き絞る。
(あれで、隠れているつもりなのだろうか)
私は、その矢を放った。
「ガアァッ!」
「うおぉ!?」
「曲がった!?」
悲鳴が響き渡る。
大岩の陰に全身を隠れていた男の肩に、異様な曲がりを見せた矢が命中したのだ。
死にはするまい、魔界銀製の矢だ。
「ノアくん、盾は買い換えたかい?」
「いえ、まだです」
「盾で殴るのはやめたまえよ。前から買い替えるよう言ったのに。向こうで買ってあげよう」
「……」
攻撃手段を、あろうことか傭い主から奪われた、全く向こうは躊躇なく殺しにくるというのに。
まぁ、負ける気はないが、毎度のことだし。
樽から飛び降り、地に降り立つ。
被っていたマントを翻し、黒い魔界銀の剣の切っ先を敵に向ける。
野盗どもは隠れていたのに命中した矢に動揺し、やや引け腰だ、ますます負けない。
「お前ら、今ここで退くのなら追いはしないぞ」
最初で最後の忠告。
野盗共は黙って各々が武器を取り出した。
見たところ武器の質はなかなかのものだ、魔銀でもないため一撃受ければ致命傷は免れまい。
私の装備は頑丈ではあるものの一般的な旅装束に関節部などの要所に厚革が当てられている程度で、マントもただの布製なのだ。
当たってしまえば、だが。
「退かないか、いいだろう」
言い終わる前に、先頭の巨漢が此方へ間合いを詰め、斧を振りかぶる。
他の敵共も私を囲むように展開している、戦術は把握しているようだ、しかし。
「いくぞ」
地を、蹴る。
振り下された斧が頭への直撃コースへ入る、このまま突っ込めば分厚い刃が私の頭を真っ二つにするだろう。
だから、より加速する。
髪の毛数本を犠牲にし、敵の懐へ。
そのまま掌打。
「ぐぅっ!?」
速度の乗った打撃で男をよろめかせ、抜き放った剣の腹で男の足を思い切り殴りつける。
バランスを崩し倒れた男の腹へ、剣を振り上げ。
「死にはしないさ」
「ぐぎゃあっ!!」
突きおろす、一人。
腹を貫通した剣をすぐさま抜き取る、血は当然付着してない。
跳躍、真後ろからの槍の一撃を避ける。
視界反転、頭が下で足が上。自分の『上の』地上に立つ槍兵に頭への一閃、二人。
着地地点に回り込まれた。
3本の剣と槍が此方へ突き出される。
視界反転、正常になる。
「死ねぇ!」
「ありきたりだな」
腕を伸ばし、剣を槍の穂先へと沿わせる、そして。
「なぁっ!?」
剣がグネリと曲がり、槍を絡め取った。
男の掴む槍を支点に力を込める。浮遊時間を延長。
3人のさらに後方に着地、すぐさま突撃、薙ぎはらう。
「くそ、なんだあの剣は……!」
「これで5人。もう半分かい?」
崩れ落ちた3人組から視線を外し、残りの5人を見回す。
弓が二人に、大剣、メイス、そしてナイフを両手に持つ男。
まずはゆみをしとめるか。
腰の矢筒から矢をつかみ出し、
「シッ」
「なっ!?」
投擲。
鏃が大きい特注の矢は投げナイフのような運用も可能とする。
弓兵それぞれの腕と足に突き刺さる、好機。
「くるぞっ……!?」
言った時にはもう遅い。
両者の間に割り込んだ私は勢いよく体を回転させ、その勢いで周囲を一気に薙ぎはらう。
「ぐぅっ!?」
「ぐげっ……!」
弓兵2名が吹き飛ばされる。
大げさな動作のせいでわずかに好きができたのを好機と見たのからツヴァイハンダーを構えた男が此方へ突っ込んできた。
「喰らえ化け物!」
大剣持ちが此方の胴を狙い横薙ぎ一閃。
回避は不可能、ならば剣で受け止める。
「そんな細剣ブチ折って……なぁっ!?」
再び剣で絡め取り、敵に蹴りをかます。
その勢いで大剣は手放された。
その大剣をへし折って、再び俺の剣をまっすぐに戻す。
「くそ!なんなんだよその剣は!」
「答える義理はない」
特になんてことはない、私の魔法でこうなるわけだが、説明するほど暇でもない。
無防備な男を早々に切り捨て、矢を投擲。
盾を持たないメイス兵はあっけなく昏倒。
さて、残るは両手にナイフの男である。
「……バカ野郎どもが、ワラワラかかればいいってもんじゃねえのによ」
今の今まで沈黙を貫いていた髭面の男は、不機嫌そうに頭をガシガシとかいて這いつくばった男たちを睨みつけた。
どうやらこの男がこの集団の頭らしい。
「なんでお前もこなかった。いくら連携が取れてないとて、数で有利ならやりようはあっただろう」
「軽くあしらったお前がそれを言うか。あんな矢の当て方する奴にまだ手札がないか警戒しないアホがいるか」
どうやら頭目だけあり、他の連中より賢いらしい。
「なら何故奴らを止めなかったんだ」
「止めても無駄さ。こいつらは全員頭の中まで筋肉が詰まってやがる、数で攻めればどうとでもなると思ったのだろうさ、今まではそうだったしな」
そこまでいったところで、男は逆手に持ったナイフを構えた。
防御に優れたその構えはなかなかどうに入っている。
「……時間も無限じゃない、さっさと終わらせる」
「ああそうだな、俺がお前さんの首を掻っ切って終わりだ」
下卑た男の笑いに少しイラついて、私は突撃を仕掛けた。
リーチでは優っている、そして古今東西リーチの差というのは決定的な差でもある。
地を蹴って前進した勢いを乗せて、魔剣を横一文字に薙ぎはらった。
「おっと!」
男は無難に一歩下がり、すれすれで一撃を避ける。
軽装なだけあり身軽だ。
男の反撃は直後に二歩踏み込み、此方の懐に入る。
リーチの長さは同時に近距離での取り回しの悪さにつながる。
この距離は不利だ、しかし。
「喰らえ!」
男の斬り払い、ボクサーのフックのような軌跡を描くそれは、逆手持ちのナイフの刃がちょうど私の腹を引き裂く軌道に乗っている。
「ふっ」
「むぅっ!?」
即座に膝蹴り、敵の手をカチ上げる。
足を下ろす勢いに乗せて、斬りおろし、寸前で避けられ地面を深々と抉る。
剣を手放し、接近戦。
「っのやろ!」
「ハァッ!」
矢筒から矢を引き抜き逆手持ち、振り払う、躱された。
反撃の蹴りを躱し、矢を順手にスイッチ。
10センチの鏃はもはや短剣と変わらない。
刺突を繰り出す、躱される、反撃の斬りはらい、躱す、反撃に膝蹴り、反撃の振り下ろし、反撃の殴打。
「フンッ」
「ぐおぁっ!?」
超至近距離の高速戦闘は、先に向こうが根を上げた。
脚のもつれた男の腹に、逃さず矢を投擲する。
深々と突き刺さる魔界銀の矢、しかし少しすると自然と抜け落ち、服は破れど傷はない。
だが、その精神に与えた損傷は大きい。
「く……そ……」
「なかなかいい腕だったが、鍛錬を怠ったのが決定的な敗因だな、スタミナがなさすぎる。それに彼我の実力差を見極めることもできない」
膝をついた男を見据えながら、地に突き立った剣を引き抜く。
これで一思いに終わらせるとしよう、殺すわけではないが……いい加減くどいか。
「目が覚めれば、素敵な嫁さんに美味しく頂かれているだろう、楽しみにしていろ」
「くそがぁぁぁ……!!」
そして、私は剣を振り下ろした。
なんて事のない、いつも通りの仕事は、やっぱりなんてこともなく、変わり映えなく終わった。
ーーーそれからどーしたーーー
「いいかい?ここをキャンプ地とする」
「構いませんよ」
あの後野盗連中を縛り上げて魔物寄せの香を置いてその場を離れた私たちは、念のため一時間ほど進んだ後に、巨木の陰に荷を降ろし、野営の準備を始めた。
ラトアーヌさんは鼻歌を歌いながら地面に結界の人を描き、その間に私はロビュストの背負う荷を降ろしてやる。
横っ腹のあたりを撫でてやればロビュストは大人しく膝を曲げて地に伏し、その荷物を取りやすくしてくれる。
荷を解き、樽を慎重に下ろす。
相変わらず結構な重量だが、ラトアーヌさんはこれを涼しい顔で積み込んでいる、魔物はやはり見かけによらないものだ。
「ふぅ」
「お疲れ様だ、ノアくん。こちらも終わったよ」
振り向いてみれば、描かれた陣が暗い輝きを放っている。
陶酔の果実の一際濃い部分を触媒にしたこの結界は、範囲内を完全に外から遮断し、一時的に異次元と化すものだ。
この結界の中にはもはや巨木と少々の虫、私たちくらいしか存在しないし、結界を解くまで外部から介入されることもないだろう。
かなり大掛かりな魔術だが、触媒さえあれば後は魔法陣を覚えればいいだけ。
移動中に使えないのが残念だ……いや、使われると我々傭兵は食いっぱぐれてしまうのだが。
「これで一息つけるね……ロビュスト、遊んでおいで、明日の朝までには帰ってくるんだよ」
その声にロビュストは頷くように一鳴きすると、踵を返して歩き始めた。この空間から出ることはできないはずだが、今まで遊びに行ったロビュストを見つけることは終ぞなかった、いったいどういうことなのだろう。
「さぁ、これでやっとゆっくりできるね」
「いえ、まだ薪を拾ってこなければ」
「こいつがあるだろう」
私の言葉に、ラトアーヌさんは腰元の袋から魔石を一つ取り出した。
炎の魔石。
イグニスの魔力が込められたこの石は一晩程度なら消えることのない大きな火を作り出す、これさえあれば、確かに薪を拾い集める必要はない。
「しかし、集められるのだから集めてきた方がいいでしょう。無駄遣いは控えるべきです」
「キミと過ごす時間が減ってしまうじゃないか。旅の最中の唯一の楽しみは、君と話す時間なんだからね」
サラッと紡がれる言葉に、私は思わず詰まった。
最近ラトアーヌさんは私に対して口説き文句としか取れない言葉をよくかけてくる。
まぁ、つまりそういうことなんだろう、彼女は魔物なのだ。
「それに、今回は少しばかり小競り合いもあったじゃないか。君の圧勝ではあったけど疲れたろう?君の体が心配なんだ、こんな小石の一つくらい安いもんさ」
こちらの返答を待たずに、ラトアーヌさんは魔石を地面に置いて魔力を注ぎ込んだ。
途端に、大きな火がたちあがる。
暖かく、人を傷つけることのない、優しくも激しいイグニスの焔だ。
「……困ったものです」
「なんとでもいいたまえ、いい男のためならたとえ財産投げ打ってでも勝負かけるよ、それだけの価値があるんだからね」
こうもストレートに好意をぶつけられると、さすがに恥じらいが生まれる。
誤魔化そうと思い、傍の荷物袋から乾パンと干し肉を取り出した。
「……ノアくんまたそんなもので済ますつもりかい」
「いいじゃないですか、栄養あるし」
事実である。
旅人向けに工夫の凝らされたこの二つは高い栄養価を持ちおまけにかさばらない。
私のような傭兵にはうってつけの品である、喉が乾くけど。
「ダメだダメだ。今日こそは言うぞ、そんな佗しい食事だとせっかくの旅が台無しじゃないか」
「私護衛任務中ですからね」
「知ったことかい。よし決めた、今日は私が君に料理をふるまってあげようじゃないの」
「え?」
言うが早いか、ラトアーヌさんは傍の食料を詰め込んだ木箱から食材を取り出し始めた。
保存魔法のかけられた木箱の中から、塩漬けの牛肉に玉ねぎや人参、調味料まで、そして……
「これがメインだ」
掲げられたのは『シャトーラトアーヌ』。
しかも、ラトアーヌさん自身が会心の出来と語っていた62年ものだ。
「いいんですか、市場に出せば100万は下らないでしょう」
「金なんざどうでもいいんだ、酒は私にとって道楽であり趣味からね。だからこそ手を抜かないんだけど……今日こそ、君には僕のワインを味わってもらおうか、まずは料理で」
ナイフと水の容器を側に置き、ラトアーヌさんは見事な手つきで料理を開始した。
手の内であっという間に食材がカットされていき、鍋の中へと投入されていく。
「こういう野営では細かい調理はできないからね、それならばいっそ大胆にやるべきだよ」
いつのまにやら大半の作業は終わったらしく、赤ワインと水を鍋に注ぎ、蓋をしてしまった。
料理の出来ない私には何をしていたのかさっぱりわからなかったが、準備完了らしい。
「あとはたまにアクをとるだけさ。簡単簡単。ただ、とろ火で煮込むから結構時間がかかりそうだ、その間は……」
魔力を調整したのか、薪が若干暗くなり、辺りの景色が薄暗くなる。
いつの魔にすっかり日は暮れていた。
ラトアーヌはこちらへ少し距離を詰めてきて、コップを差し出してくる。
「本当はワイングラスでいただいて欲しいんだけど、あんな割れ物はさすがにね」
私の了承も取らずに、ラトアーヌさんはその濃厚なサテュロスワインをコップの中に注ぐ。
芳醇な香りがあたりに漂い、思わず引き込まれてしまった。
「さ、飲みたまえ。遠慮はしなくていい」
「……では、お言葉に甘えて」
笑顔で差し出されたコップを、私は素直に受け取った。
さすがにここまでされて断るのは悪いと思ったのもあるが、正直これを前にして我慢するのは無理というものだ。
コップに鼻を寄せて、香りを吸い込む。
それだけで安物のワインなど鼻で笑えるほどの華やかで深い香りが鼻腔を満たす。
これだけでも酔っ払ってしまいそうだ。
「いい顔をしているね、やはり君は仏頂面よりそういう顔の方がよっぽどいいよ」
「……あまり見ないでください」
「惚れた男の顔、1秒でも長く見ていたいのは当然だろう?」
全く今日は一段と激しいな、早く飲んでしまおう。
返答をせずに、私はそのコップの中身を口に運んだ。
「……」
美味い。
美味い。
それ以外の言葉が思いつかないほどに美味い。
例えるなら深い森の奥。
木漏れ日がわずかに入り込む薄暗い森の中で深緑に包まれながら深呼吸をしたかのような。
深く、それでいてフルーティな、繊細かつ豪奢な味わいだ。
思わず、中身を全て口に含み、たまらず、呑みほす。
しばらくの間は呆然と、そのコップを眺めていた。
「ふふ、気に入ったみたいだね」
ハッと我を取り戻す。
私の顔をラトアーヌさんが覗き込んでいた。
先ほどよりも、なんだか距離が近い。
「可愛い顔をしていたよ。ふふ、私のワインをここまで美味しそうに飲んでくれると、生産者冥利につきるね。これがあるからやめられない」
そういってラトアーヌはさぞ嬉しそうに、自分のワインを口にした。
こくこくと、小さく動く喉がたまらなく色っぽい。
……もう酒に飲まれたかな、思考があらぬ方向に飛ぶ。
「……まだ煮えるには時間があるね。もう一本空けてしまおう、今日は盛大に語り明かそうじゃないか」
そういって、ラトゥールさんはもう一本、62年もののボトルを取り出した。
今度は私のコップにそれをなみなみと注ぐ。
「では、もう今更だけど、私たちの出会いと、これまでの関係に乾杯」
「……ええ、乾杯」
かつんと、コップを鳴らし合う、
この極上のワインを前に柄にもなく浮かれてしまったのか、私はなんの躊躇もなくその中身を口腔に運んだ。
16/04/05 01:04更新 / Y
戻る
次へ