第三話 時間 ヴァンパイア 三章
走るうちに、森がその枝に葉をつけ始めた。下を見れば、落ち葉と肥えた土。館をずいぶん離れ、いかにも、普通の森、という風情になってきた。
エルンストはもうずいぶん後ろで付いてこれていない。道を見失ってはいないと思うが、とヴァーミリオンはふと振り返る。だが今は一刻を争う、少しでも誰かが速く向かうべきだ。彼女はそう判断し、日陰から日陰へ一跳躍で加速する。万全の力の百分の一も出せないが、それでも数メートルを一足飛びにする速度には、さすがに人間は付いてこれないだろう。
緑の生い茂る森。ここに暮らす魔族といえば、奴らしかいない。群れの気配を感じ、一際大きく跳躍して、開けた草原に着地すると。
「…へぇ。本当にきやがったのかい、クソ吸血鬼。」
まず無数と形容して良い数の、毛皮を身に纏った女…アマゾネスが、槍や弓矢を手に、凶暴で嗜虐的な目をこちらに向けていた。
そしてその中央には、一際荒々しく美しい、今しがた言葉を発した女戦士が、その隣に、いつぞや取り逃がした聖歌隊の男を従えていた。
ヴァーミリオンは冷たい表情で一歩進み出る。あざ笑うようなアマゾネス達の視線を意にも介さず…しかし、それ自体が刃物のようですらある、聖歌隊の男が向ける憎悪の瞳だけは無視できないようにチラとそちらを見遣った。
「…意趣返しのつもり、かしらね。…自分から攻めてきておいて。…血袋の考えることはつくづく分からないわ。」
「…アイツを、」その男は奥歯まで剥き出しになるほど口角を釣り上げ、「早く黙らせましょう、ゾネット…。」
暗い声で、傍らにいるアマゾネスのリーダーに呼びかける。ゾネット、と呼ばれた女戦士の長は、美しい顔を笑いに歪ませた。
「おいおいジョナサン、ちょっと落ち着けって。ここまではアンタの言うとおりじゃねぇか。ここから先もアンタの言うとおりにして、それからあのクソ吸血鬼をブチ殺そうぜ、なぁ?」
ヴァーミリオンはそのやり取りもまるで聞かず、さらに数歩踏み出しながら、
「ゾネット、と言ったかしら。…ハレルを早く返しなさい。今なら、それで…日が暮れるまで、貴方達が逃げるのを待ってあげるから。」
「ハァ?逃げるって誰がだよ?アタシらを笑わせたいなら裸踊りでもやってみせろやクソ野郎。」
ゾネットはまるで恐れた様子もなく、下卑た冗談を飛ばす。周囲を囲むアマゾネスがそれぞれに笑い声を響かせる。
「聞こえなかった?ハレルを出せって言ったのよ。」
いよいよ怒りに余裕を失ったヴァーミリオンがさらにゾネットとジョナサンに向かって歩み出す。日光で力を失っているとは思えないほどの迫力にも、アマゾネスの長は目を細めて笑う。
「あーあー、分かったって。よっぽど大切なんだなぁ、あのジジイがよぉ。…おい、見せてやんな。」
近くで固まっていたアマゾネスに向かって首をしゃくると、彼女たちはニヤニヤ笑いながらバラバラと散らばり、そしてそれから見えてきたその中央には。
「…訂正するわ。」吸血鬼の少女は、牙を剥き出しながら歯を食いしばる。
その中央には、ハレルが、左腕を切り落とされた傷口からまだ血を流しながら、全身に槍で突かれた傷を負って、丸太に縛り付けられていた。アマゾネスの一人が、また面白がるように彼の腹に軽く手槍を突き刺す。既に、呻き声すら上がらない。
「貴様らは、もう生かしておかない…!」
その様子についに堪忍袋の緒を切ったヴァーミリオンが、爪を振り乱して駆け出す。ハレルまでの距離を中程まで来たところで。
「ハッ…!考えなしかよ、太陽の下でよぉ!」
ゾネットが叫び、右手を振り上げた。
いつの間にかアマゾネスたちは、弓矢をつがえて、理想的な包囲を築いていた。リーダーの手が、振り下ろされると同時に、殺意に満ちた矢が、嵐となって、力も魔力も日光に封じられたヴァーミリオンに襲いかかる。
しかし彼女は、前進を止めず、その障害となる矢だけを最小の動きでかわす。まるですり抜けるようなその回避に、ハレルを取り囲むアマゾネスの一団が目を剥く。
彼女たちが慌てて蛮刀や槍に持ち替えようとした、その一瞬に、ヴァーミリオンは既にその一団の中央に潜り込んでいた。決してその動きは速くはない。しかし、力でも速さでもなく、ただ技量のみで、『四紅』の少女は、
「…力も魔力も無くても。貴方達と私では、年季が違うのよ、お嬢さん達。」
10名のアマゾネスの、頸動脈、心臓、肺、その他考えうるあらゆる急所を爪で切り裂き、血飛沫の中でゾネットとジョナサンに気怠げな一瞥を送った。
未だ余裕の表情を崩さないゾネット、まずます憎悪を燃え上がらせるジョナサン、そして周囲で絶命し倒れ行くアマゾネス達を気にもとめず、ヴァーミリオンはハレルの縄を解き、彼に語りかける。
「ハレル、ハレル!無事なの、大丈夫なの!?」
打き抱え、揺すると、ハレルはわずかに呻き、身じろぎする。思わず笑みがこぼれた。
と、ゾネットが突然、腹を抱えて笑い出す。隣にいるジョナサンも、暗い感情で笑みの形に顔を歪める。
「アハハッ、何だよそりゃ!?笑えるなぁ、笑えすぎるわぁ!思い通りすぎるってんだよ、クソ吸血鬼!」
と、突如、ヴァーミリオンとハレルの足元に、魔術の術式が浮かび上がる。水魔術のものと取れる青い光を発するそれは、しかしエルンストが使うものとは似ても似つかないほど雑で、乱暴で非効率な素人臭い物。
しかし。元々そこにある地下水脈から、軽い間欠泉を噴き出すには、それで十分だった。
水が地面から大量に噴出し、ヴァーミリオンを直撃する。大した威力では無いはずのその間欠泉が、だがヴァーミリオンの体を巻き上げて吹き飛ばす。糸が切れたように力の抜けた彼女の体は地面にベシャリと落ち、そのまま動かなくなった。
「…ありゃ?おいおいマジかよ、どーしちまったのさ吸血鬼ちゃんよぉ?水を浴びるとヨガるだけって話じゃ無かったのかよ?…あぁ、それとも何かぁ?イッちまって気絶でもしてんのかよ!?」
ヴァンパイアは真水を浴びると、強い性感を覚える。事実として、大量の真水を浴びた結果、ヴァーミリオンはそのまま暴力的なまでの絶頂に達し、失神してしまったのだろう。戦いの場に不似合いなほど肌を紅潮させ、横たわっている。
反してハレルは、間欠泉の衝撃で意識を取り戻したらしいが、こちらも失血でまともに立つことすらままならない。
「…萎えたジジィに興味はねぇ。どうせもうほっといても、二十分ともたねぇだろ。…それより吸血鬼だ!」
戦闘不能となったハレル達を取り囲むように、アマゾネスたちが笑いながら群がってくる。その中央で、ゾネットの手槍に、ジョナサンが手を伸ばした。
「…約束通り…この吸血鬼の、息の根は…」
「分かってるよ、ジョナサン。アンタにやる。…でもさ。簡単に殺しちまうんじゃ面白くねぇだろ?アンタもその方がいいよな?それに、アタシらだってコイツにはイライラ来てんだ…」
暗い嗜虐を浮かべ、それぞれに武器を振りかざすアマゾネス達の中央で、うずくまり、ヴァーミリオンを庇うハレル。そして、手槍が振り下ろされ。
その二人を包み込むように、突如、巨大な泡が表れ、刃をふわりと止めた。そのまま泡が、ハレル達を中に包み込みながら浮き上がり、あ然とするアマゾネス達の頭上を通りすぎて、安全な木の影に着地した。そして、振り向けばアマゾネス達の前に立っていたのは。
「…」
無言で、杖を構えるエルンストだった。
「…何だ、テメェ?」
アマゾネスのリーダー、ゾネットがエルンストに怪訝そうな目を向ける。彼女に、横からジョナサンが声をかける。
「ゾネット、奴も…吸血鬼の味方をする…魔術師です。」
「…ハァ?わけわかんねぇな。何の関係があるってんだよ、そのクソ魔術師は。」
肩をすくめるゾネットに、エルンストが抑揚のない声で言葉をかける。
「…提案ですが。私としてはハレルの治療を優先したい。それに、例えここでヴァーミリオン嬢を殺したとしても、残る『四紅』は黙っていないでしょう。」
「あのさぁ、優男さんよ。…つまり何が言いたいんだ?」
「ここで終わりにしませんか、という話ですよ。」
間髪入れずに答えたエルンスト。ゾネットを含むアマゾネスと、ジョナサンは、毒気を抜かれた顔をしばし彼に向け、そして、爆笑が巻き起こる。
「ハッ…ハァーッハッハ…!」大口を開けて涙を流しながら笑うゾネット。他のアマゾネスも似たり寄ったりで、エルを指さしたりしている。「おいおいおいおい、何かと思えば命乞いかぁ!?もぉホント、笑わせんなって!だいたいよぉ、命乞いするならするで、もっとやり方ってもんがあるだろ、ええ!?せっかくイイ顔してんだからさぁ…。」
「…それに…」ジョナサンはニコリとも笑わずに、エルンストを睨みつける。「私は、ヴァーミリオンさえ討てれば…皆の仇さえ討てれば、構わないのです。それさえ叶えば…明日死んでも、悔いはない。」
「…では、交渉の余地は無い、と。」
「そういうこった。…残念だったなぁ?」
「ええ。…とても。私にとっても…あなた達にとっても、ですが。」
そこで初めて、エルンストは能面のような表情を崩し…いつもどおりの、人を食ったスマイルに戻る。
「ただ、もう一度だけ言っておきます。…私の腕では、これだけの人数を相手に、殺さず事を収める事は難しい。うちの若将軍ならいざ知らず、ね。」
言葉の意味を理解して、アマゾネス達はますますおかしそうに笑う。
「…ハッタリはよせよ、クソ魔術師。アタシらに、アンタの力量が見抜けないと思うかい?」
女族長も喉を鳴らしながら、目だけは眼光鋭くこちらを見据えてきた。
「…まぁ、雑魚ってわけじゃねぇな。むしろかなり腕利きな方か。さっきの泡の術から見りゃ察しはつく。ただまぁ、アタシらの敵じゃないね。こっちが15人くらいなら、まぁ、わかんなかったかもしれねぇけどな。」
エルンストは涼しい顔をしながらも、内心舌を巻いた。自分の魔力、詠唱速度、身体能力を客観的に見るならば、アマゾネス15人というのは実に妥当な数字だ。あのリーダーは伊達ではないらしい。大して、敵はざっと百人。
「それでも、ですよ。」エルはしかし、微笑みを崩さない。「…私とて、許せない程怒ることはあります。」
例えば、もう一歩で、長い永い年月を越えて、幾度もすれ違いながら、ついに幸せになれるかもしれない男女、それも親しくなった二人の未来を、閉ざすような行為は。
「…しゃーねーな…。」ため息をつきながら、ゾネットが右手を挙げる。周囲のアマゾネス達が、弓矢をつがえ、槍を構え、蛮刀を振りかざしてエルンストを狙う。
「そこまで言うんなら…だ。
お望み通り玉砕させてやるから、感謝しやがれクソ魔術師…!」
振り下ろされた右手。同時に矢が放たれ、また数名のアマゾネスが中央に向かって突進する。
包囲網は美しいまでに理にかない、そこからの攻撃も、ここしかない、という位置取り、タイミング。集団戦を得意とする民族、アマゾネスの真骨頂は、個々の戦力ではなくその連携にこそある。
厳正かつ柔軟な指揮系統によって統制された、荒々しい戦闘本能。迫り来る矢の嵐、突撃してくる槍は、理想通りのものだった。
故に。それは、予想通りでもある。エルンストの笑みは、まるで歪まず濁らない。
突如、空中で矢が次々に動きを止め、落下する。熱運動を止めるために使われる氷の魔術を応用し、宙を飛ぶ飛び道具の運動エネルギーを奪い取る、『コールドフィールド』。密かに詠唱され、今の今まで遅延されていた魔術が発動し、まず射撃を無力化する。
さらに、矢は矢尻を下にして落ちる。弧を描く矢の下から馳せていたアマゾネスが、次々に真上からの矢に頭や肩を貫かれて倒れ伏す。
それを見もせずに、エルンストは数歩歩く。決して素早い動きではないが、たった今倒した数名のカバーしていた範囲に入り込む事で、今の攻防を掻い潜ったアマゾネス達の目測を狂わせ、連携の変更を余儀なくさせる。
「…地を穿つは地より深き地の水脈に他ならず、我が敵を穿つはまた是なり…」
移動しながらも、『コールドフィールド』が作った一石二鳥の隙を見逃す手はない。続けて詠唱されるのは『アクアゲイザー』。地面から水柱を噴出させるこの魔術は、さして難しいものではなく、それを鑑みればエルンストの詠唱は過剰に長い。当然その隙を狙うべく、アマゾネスの第二波が迫る。加えて、役立たずと分かった弓矢が投げ捨てられ、それを担当していたアマゾネスは蛮刀に持ち替えてさらなる後詰として控える。
エルンストが杖を振るい、『アクアゲイザー』は発動する。ただでさえ長い詠唱で威力を増幅されたその術は。
そもそもこの地で、先ほど同じ魔術が使われた事、元々そこに大きな地下水脈があるという、天の時と地の利を得て。
「…ヤバイッ、全員離れろ!」
もはや天を衝くほどに遡る、地上の大津波と化して顕現した。
先ほどヴァーミリオンに水をかけた水柱などとは比較にならない、破壊的な水圧は、かすっただけでもアマゾネスを砂利の如く吹き飛ばす。間欠泉から逃れた者でさえも、弾き飛ばされた大地の飛礫で致命傷を負う。
しかし一挙に戦力の三分の一程を削り取られて、なおアマゾネスたちは次の手を緩めない。噴き上がる水が収まると同時に、一瞬で完全な再編を遂げた後詰が動きを見せた。もう大魔術を発動させないように、かつ少なくなった兵力をカバーするために包囲を狭め、しかし次なる罠を警戒して一気に飛びかかる事はせず、様子を伺う。
そして、それこそ。
「…セオリー通り、という話です。」
魔術と、魔術戦の発達したローエンハルトにおいては、しばしば魔術師の戦闘はチェスを始めとするボードゲームに例えられる。故に、そのセオリーは二つ。
先の先を読むこと。そして、少ない手数で最大最多の効果を狙うこと…即ち、一石二鳥を狙うことである。
異音、空気を切る音に、一人のアマゾネスが上を見上げ、そして絶叫する。
間欠泉は吹き上がりながらも、『コールドフィールド』の影響を受けて地上数メートルで巨大な塊となって凍りついていた。そして今、重力による加速を存分に得て、致死弾の集中豪雨となり、降りそそぐ。
直撃すれば骨も残らず、砕けて飛び散った氷ですら砲弾の如き破壊力でアマゾネスを蹂躙する。範囲内の女戦士を文字通り粉砕した氷塊の絨毯爆撃、しかし術者本人はこの、言わば二次災害にも近い攻撃からは守られているのか。後方で生き残った20名ほどのアマゾネスをまとめながら、ゾネットは目を凝らし、エルンストの姿を見つけ、歯噛みした。
「…あん…の…ペテン野郎ォッ!最っ初っから…全部…ッ…!」
エルンストは、泡で安全な場所に運んだハレルとヴァーミリオンのすぐ側に、たった今姿を現した。人や物を運ぶ転移魔術は、そこまで難しいものではない。ただし、予め移動先だけでも魔方陣によって定義しておけば、の話だが。
ヴァーミリオンがアマゾネスと戦っている間に、退路として転移魔術の転移先を指定。弓矢を想定して『コールドフィールド』を待機。アマゾネス達がヴァーミリオンを間欠泉の罠に嵌めたのを見て、同じく『アクアゲイザー』を使う事を決定。そしてその全てを、完璧な形で組み合わせた結果。
「…わずか、三手で…残り、二割、だと…!?チクショウが、ザケンな、この、クソ野郎ッ…!」
悪態をつくゾネット。そして、彼女の優秀な戦略眼は既に、状況はなお悪いことを見抜いている。
エルンストまでは距離がありすぎる。そして、いかにアマゾネスといえど、ここまで一挙に数を減らされては立て直すのに相当な時間がいる。果ては、ハレル達を人質に取るという一発逆転すら、エルンストの立ち位置によって封じられている。その間にも、魔術師は軽量な遅延魔術を次々に仕込み、こちらを迎え撃つどころかこのまま討ち滅ぼす準備を整えている。三手で残り二割、では無い。二手でアマゾネス側の攻撃を無力化しつつ八割を削り、次で残り二割による反攻の芽を完全に摘み取ったのだ。
伏兵を森に潜ませる手があった、と思い至ったところで、いよいよゾネットは愕然とした。実際に、ヴァーミリオンを気絶させるまでは、周囲の森に何人か隠れさせていたのだ…彼女を公開処刑するために、全員を集めるまでは。エルンストが動き始める、わずか数十秒前までは…。
十分な魔術を待機させ、エルンストは、例のスマイルをまるで崩さぬまま、告げた。
「…チェックメイト、です。潔く投了なさい。」
魔力の大きさでもなく、詠唱の速さでもなく、ただチェスのような駆け引きと先読みの果て、それは文字通りの詰みだった。
明かしてしまえば、それこそがエルンスト・マクスウェルという魔術師の最大の強みであり、そして、その二つ名、『水鏡』の真意でもある。
鏡のように敵の思考をトレースし、そして明鏡止水の如く揺るがずそれを迎え撃つ。一般に言われているように、波一つ無い湖水のように崩れない完璧スマイルを浮かべたままで。
既にアマゾネス達は戦意をほぼ失っている。ゾネットは必死な顔でジョナサンに何事か訴えている。彼は首を振ってそれに応じ…恐らく、あの二人の間にも何かしら特別なものが芽吹いているのだろう。
足元に一発打ち込んでやると、いよいよ意を決したのだろう、アマゾネス達は武器を捨て、散り散りになって逃げ出した。ゾネットも、ジョナサンを庇うように抱きながら、こちらを振り向くこともなく去っていく。
それでも、そこは死屍累々と言って良い光景だった。80名あまりのアマゾネスが死んだのだ。エルンストはようやく、戦闘用の仮面、いつものスマイルを消して、重く沈んだ顔で辺りを見回した。
エルは軍人である。宮廷魔術師は、同時に前線の魔術師隊を率いる立場にいる。そこではもっと陰惨な戦場を経験したこともあるし、魔物に魅入られた人間たちを止む無く討ち滅ぼした事すらある。軍にいれば、そんなのは珍しい事では無い。そういう経験に比べれば、相手が非道なだけ自分を正当化出来るのだからマシだ。
こうなることは、予め準備しておいた通り、予想できていた。今使ったよりもう数種類、仕込みはあった。状況によっては、降伏勧告すら出さずに全滅させる選択肢も用意していた。
だが、だからと言って。言葉で、交渉であの場を収めようとしたのは、決して嘘ではない。逃げる間際の、ゾネットとジョナサンの顔が一瞬脳裏に瞬いた。
「…いや…浸っている暇も、ありませんか。」
頭を振って、堂々巡りな思考を追い払う。今はそんな事より大事なことがある。酷なようだが当然、敵の命より仲間の命だ。
エルが樹の幹にもたれかかったハレルに駆け寄ると、彼は残った右腕を伸ばしてそれを制した。嗄れた声を絞り出し、
「…自分の体は…自分が一番…分かっております…。」
唇を噛み締めてそれを聞く。
回復魔術がいかに進歩しようと、回復薬がいかに強力になろうと。元々の生命力が低ければ、取り返しがつかない。失血が多すぎるし、何より、ハレルは年を取り過ぎていた。
「…ありがとうございます…エルンスト、様…。」
彼は穏やかに笑いながら、唇を震わせてエルの名前を呼ぶ。それを、直視できなかった。
「…お嬢様を…私の、愛しい人を…私の、全てを…守ってくださった…。それだけで、十分です…。」
「私が、ここを訪れなければ…」
「それも…少し、考えました。…ですが…」
ハレルは、傍らで気を失っているヴァーミリオンに目をやった。
「…お嬢様は、こうしてまた、私を助けに来て下さいました…。それもきっと、貴方のおかげなのでしょう…?…それに、久しぶりに…友人も、出来ました…。やはり私には…エルンストがいなければ、とは考えられませんな…。」
何も言えないままに、少し時間が流れる。と、ハレルが急に咳き込んだ。そのまま口から、血が溢れ、彼は主を汚さぬとでも言うように、力を振り絞って首を背けた。
「…もし。…耐えられぬほど苦しいのであれば、」声をかけたエルンストに、ハレルは力ない笑みを向ける。「…友人と呼んでくださるのなら、私が、いっそ…!」
「いい、加減に、しなさい、この、愚かな血袋…」
か細い声が、エルの叫びを遮った。ヴァーミリオンが、顔を伏せたまま、
「ハレルに、手でも、出してみなさい…。本当に、刻み殺すわよ…。」
「お、お嬢様…ご無事で…」
ハレルが手を伸ばし、ヴァーミリオンに触れる。彼女も、その手を取って、強く握りしめた。
それを見届けるやいなや、エルンストは術の詠唱を始める。死は避けられないが、遠ざけることは出来る。発動した魔術は、回復というよりは延命を旨としたもので、活力がハレルの体に満ちた。
「…そうよ、エルンスト。気が利くじゃない。…なら、次にどうすればいいかも分かるわね?」
「…では、アマゾネス達が戻ってこないよう、周囲を見張ってきます。…ハレル?」最後にエルンストは振り返り、「…もう一度、チェスのお相手をお願いしたかったです。」
そして答えを待たず、背を向けて立ち去る。いくつもの、大きな悔いを残して。せめて、少しなりと、幸いが残る事を、何かに祈って。
エルンストの足音が、十分に遠ざかった。それを確認したわけでもないだろうが、ハレルが弱々しく話し始めるのを、彼女は聞いた。
「…申し訳、ありませんでした…お嬢様…。」
鏡のことだな、と分かる。今は、そんな事はいいのに。どこまでも律儀な…いつもそう、それがどこか、他人行儀で…。
「…お嬢様の、お気持ちも知らず…。」
「…手紙、読んだわ。」
懺悔のようなハレルの言葉を遮り、おもむろに話しだす。
「…左様で…。あれは…遺書の、つもりでしたが…。」
「そうね。…そうみたいね。…それで?」
精一杯、慣れない笑顔を、愛しい人へ向けてみる。ずっとそうしたかったように。
「貴方、まだ私を…お嬢様、なんて、呼ぶのかしら?」
ハレルが、目を見開いてこちらを見る。そして、ふっ、と、優しい笑顔になった。
「…でしたら…いえ…。なら…呼んでも、いいかな。」ああ、そういえば、会った当初はそんな話し方だった。昨日のように懐かしく、永遠のように遠く思える。
「…ミリー…。」
優しい笑顔で、そんなふうに、呼んでくれる。ずっと、そうしてほしかったように。
愛しくて、たまらなくて、どうしようもなくて。気がつけば私は、ハレルの体を抱きしめていた。彼も、私を、右腕できつく抱きしめてくれる。
それだけで、心臓が、わけがわからないくらいに脈を打つ。多分真水に当てられてしまっているのもあるんだろうけど、体も心も、火照ってしょうがない。
熱に衝き動かされて、奪うように唇を重ねた。驚かれるかと思ったら、ハレルは分かっていたように優しく受け止めてくれて、私のほうが驚いてしまう。
唇が、離れる。見れば、ハレルの瞳は、まるで若かったあの日のようにキラキラと輝いていて。
「…ミリー。…僕は…多分、もう長くは持たない。」
「…分かってるわ。今そんな事聞きたくないわ。」
「…ごめん。だけど…だから、最後に…確かめたい。」
そう言って、もう一度、さっきよりきつく私を抱きしめるハレル。耳元で、振り絞るような声で、
「…ヴァンパイアと人間、だとか…魔物と人間だとか…僕たちは、そういうんじゃなくて…。」
「…ええ。分かってる。…分かってた。…本当は、分かってた。」
腕を回す。もう一度、さっきより深く、キスをする。凄く、幸せ。
そして、ハレルの、その、凄く大きく、硬くなっているのも分かった。それがとても嬉しくて、ますます私の中で何かが弾けそうになる。これはきっと、魔物の本能とか、真水の効果とかじゃ無いんだって思いたい。
服を、脱ぎ捨てる。そんな時間も惜しい。ハレルのズボンも、脱がせてあげる。他のを見たことなんて無いけど、他の人間のなんて見たくもないのに、彼のはすごく愛おしかった。
体を起こし、ハレルと向かい合う。樹の幹にもたれかかった彼と、顔の高さを合わせて、その、いつの間にかシワだらけになってしまった顔を、指でなぞる。
「ハレル…愛してた。…ずっと、愛してたの。…ずっとずっと…愛してるから…。」
「…僕もだよ。…ずっと、ごめんね。…ミリー…。」
一度だけ、そっとくちづけて。一気に、腰を落とした。
「ん、ぅうっっ…や、ぁあ…っん…!」
初めて入ってくる異物は、まるで中から体を焼き尽くすようで。けれどそれは痛みじゃあ無く、もっともっと幸せな何かで。
「…っ…ぅっ…くっ…」
ハレルも、何かをこらえるような表情で、私の背中に腕を回してくれた。
どちらからともなく、動き出す。求め合う。
一つに、なっている。言葉にならないくらい、愛しい。どうにかなってしまいそう、というか、もうとっくにどうかしちゃっているんだろう。マトモな言葉なんて、頭の中に結ばない。お互いのの名前とか、言葉にならない喘ぎ声とか、愛してるって言葉とか、交わされるやり取りはそんな簡単な、大切な事だけ。
そんな激しさと熱さと単純さと純粋さを、何かにたとえるとしたら、何だろう。それはきっと、そのものずばりで…。
男と、女、なのだろう。
気づけばよかった。気づけてよかった。ごちゃごちゃの気持ちで、ただ彼だけを感じる。今はそれだけが全てで、振り向けば、ずっとそれだけが全てだったんだと今更分かる。
くだらない種族の差や、時間の流れの差を吹き飛ばして。もっと、おかしくなってしまいたい。もっと、ハレルに、私を、おかしくしてほしい…!
私はもう何度も絶頂みたいなモノに昇りつめていて、その境目すら分からなくなっていた。めちゃくちゃな自分の喘ぎ声の合間に、ハレルの声が聞こえてきた。
「…せめて…例えば…僕の…子供を…」
ああ。そんな事が出来るのなら、それはどんなに幸せだろう。本当に出来るのだろうか?そんな想像だけで、奥がきゅんとする。
「来て…来てぇ、ハレル!」
何もかも真っ白になりそうな中で、それすらさらなる白で塗りつぶすように、私の中に、ハレルの精が放たれたのが分かった。長い、長い、その例えようもない熱。まるで、私がハレルの命を吸っているようで…。
意識が薄れる。途方も無い幸せと、どうしようもない悲しみが綯い交ぜになった中で、彼の顔から目を離したくなくて、鉛のような瞼を必死に支える。ハレルは、皺だらけの、優しい顔で。
「…ありがとう。会えて、幸せだった。…愛しているよ。」
遺書と同じ、結びの言葉を…。
「…本当に、良かったのですか?」
曇り空の下、エルンストは、黒一色に身を包んだヴァーミリオンに問いかけた。二人の前には、十字架が建てられている。そしてその下には、棺に収められた、ハレル・ハルフェアの躰が眠っていた。
エルンストが伝を使って、魔物にある程度理解のある教会の神父に作ってもらったものだ。教義上さすがに葬儀の進行までは頼めなかったが、手順を聞いて、今それがひと通り終わった。
神の加護を受けたその十字架は、今もこうしているだけでもヴァンパイアであるミリーの躰を蝕んでいるに違いなく、しかも今は曇っているとはいえ昼である。彼女は、黒い帽子を目深にかぶりながら、
「…だって。こうしないと、人間の魂は、神に拾ってもらえないんでしょう?」
自嘲するように、歌うように、そんな事を言った。
「…私が、ずいぶん…ハレルのことを、縛ってしまっていたから。…せめて死んだら、こんな吸血鬼からは自由になって、カミサマの元で…幸せになってほしいもの。」
果たして、それが彼女の本心なのだろうか。それは誰にも、もしかしたらミリー自身にも分かっていないのかも知れない。
「…一つ、答えてくれるかしら。」ぽつりと、彼女は言った。「人間も…人間同士でも、こういう別れは、あるわよね。…そんな時って、どうするの?」
「…私には、経験がありませんが。…2年か3年くらいは、立ち直れないかも知れません、ね。」
「そう…。」ヴァーミリオンは、遠い目でどこかを見ている。やがて、口を開いて、「強いのね、人間って。…私なら、千年は、こんな気持ちから逃げられないと思う。」
「…それは、強さじゃなくて…いえ、止めましょう、こんな話は。」
エルは首を振って話を打ち切る。彼女も、こちらに目を向けた。切なそうに、それでも精一杯気丈に、笑顔を浮かべている。
「…ありがとうね、エルンスト。…こんな事まで、してもらって。…責任とかは、感じなくていいのよ。私たちは、もう十分、幸せだったから。」
何も、言えなかった。ただ、不器用に、微笑みを返す事しか出来ない。二人は、ハレルの眠る墓に、背を向けて。
ゴトリ、と。確かに、土の中から、そんな音を聞いた。
弾かれたように振り返り、墓に駆け寄る。埋め立てたばかりの柔らかい土が、確かに動いている。下から、嗄れた声がする。
「…エルンスト様?…お嬢様…?」
ハレルの声。
「…そんな…確かに、心臓も呼吸も止まって…。」
確かめた。死んでいるのを、確認した。
「…私にも、分かりかねます…。ただ…。」
声は、どこか、苦しそうだった。
「…この、棺、でしょうか?…彫られた十字架が…妙に、体が、痛くて…。外に出たいのですが…」
今度こそエルンストは目を丸くした。それは、つまり。いよいよハレルが、ヴァンパイアの眷属となったと言うことだろうか…?
「ああ…いえ、今外は昼ですから…曇っているとはいえ、恐らく外は外で…。」
「…いえ。やはり私は、外に出なければ。」
今度は決意に満ちた声が返ってきた。理由は、分かっている。エルンストは思わず笑った。
「…そこまで、聞こえているんですね?ハレル。」
「ええ。…聞こえております。」
ならば止める理由はない。
今になって、ハレルがヴァンパイアとなった理由は何だろう。死んだ事によって吸血鬼化、魔物化を妨げる要因が力を失ったのだろうか。性交し、精を放つ事による、他の魔物と同じような機序が働いたのだろうか。寿命はどれだけ伸びるのだろう。興味は尽きないが、今は。
「ぅ…ぁ、わあああぁああん…!えっ、えくっ…あぁあああぁああぁああん…!」
天を仰いで、子供のように泣きじゃくる少女がいて。
その少女を慰めるために、棺の中から蘇った吸血鬼がいる。
柄にもなくエルンストは、こんな事を思うのだった。
吸血鬼にも、神はいるのかもしれない。
エルンストはもうずいぶん後ろで付いてこれていない。道を見失ってはいないと思うが、とヴァーミリオンはふと振り返る。だが今は一刻を争う、少しでも誰かが速く向かうべきだ。彼女はそう判断し、日陰から日陰へ一跳躍で加速する。万全の力の百分の一も出せないが、それでも数メートルを一足飛びにする速度には、さすがに人間は付いてこれないだろう。
緑の生い茂る森。ここに暮らす魔族といえば、奴らしかいない。群れの気配を感じ、一際大きく跳躍して、開けた草原に着地すると。
「…へぇ。本当にきやがったのかい、クソ吸血鬼。」
まず無数と形容して良い数の、毛皮を身に纏った女…アマゾネスが、槍や弓矢を手に、凶暴で嗜虐的な目をこちらに向けていた。
そしてその中央には、一際荒々しく美しい、今しがた言葉を発した女戦士が、その隣に、いつぞや取り逃がした聖歌隊の男を従えていた。
ヴァーミリオンは冷たい表情で一歩進み出る。あざ笑うようなアマゾネス達の視線を意にも介さず…しかし、それ自体が刃物のようですらある、聖歌隊の男が向ける憎悪の瞳だけは無視できないようにチラとそちらを見遣った。
「…意趣返しのつもり、かしらね。…自分から攻めてきておいて。…血袋の考えることはつくづく分からないわ。」
「…アイツを、」その男は奥歯まで剥き出しになるほど口角を釣り上げ、「早く黙らせましょう、ゾネット…。」
暗い声で、傍らにいるアマゾネスのリーダーに呼びかける。ゾネット、と呼ばれた女戦士の長は、美しい顔を笑いに歪ませた。
「おいおいジョナサン、ちょっと落ち着けって。ここまではアンタの言うとおりじゃねぇか。ここから先もアンタの言うとおりにして、それからあのクソ吸血鬼をブチ殺そうぜ、なぁ?」
ヴァーミリオンはそのやり取りもまるで聞かず、さらに数歩踏み出しながら、
「ゾネット、と言ったかしら。…ハレルを早く返しなさい。今なら、それで…日が暮れるまで、貴方達が逃げるのを待ってあげるから。」
「ハァ?逃げるって誰がだよ?アタシらを笑わせたいなら裸踊りでもやってみせろやクソ野郎。」
ゾネットはまるで恐れた様子もなく、下卑た冗談を飛ばす。周囲を囲むアマゾネスがそれぞれに笑い声を響かせる。
「聞こえなかった?ハレルを出せって言ったのよ。」
いよいよ怒りに余裕を失ったヴァーミリオンがさらにゾネットとジョナサンに向かって歩み出す。日光で力を失っているとは思えないほどの迫力にも、アマゾネスの長は目を細めて笑う。
「あーあー、分かったって。よっぽど大切なんだなぁ、あのジジイがよぉ。…おい、見せてやんな。」
近くで固まっていたアマゾネスに向かって首をしゃくると、彼女たちはニヤニヤ笑いながらバラバラと散らばり、そしてそれから見えてきたその中央には。
「…訂正するわ。」吸血鬼の少女は、牙を剥き出しながら歯を食いしばる。
その中央には、ハレルが、左腕を切り落とされた傷口からまだ血を流しながら、全身に槍で突かれた傷を負って、丸太に縛り付けられていた。アマゾネスの一人が、また面白がるように彼の腹に軽く手槍を突き刺す。既に、呻き声すら上がらない。
「貴様らは、もう生かしておかない…!」
その様子についに堪忍袋の緒を切ったヴァーミリオンが、爪を振り乱して駆け出す。ハレルまでの距離を中程まで来たところで。
「ハッ…!考えなしかよ、太陽の下でよぉ!」
ゾネットが叫び、右手を振り上げた。
いつの間にかアマゾネスたちは、弓矢をつがえて、理想的な包囲を築いていた。リーダーの手が、振り下ろされると同時に、殺意に満ちた矢が、嵐となって、力も魔力も日光に封じられたヴァーミリオンに襲いかかる。
しかし彼女は、前進を止めず、その障害となる矢だけを最小の動きでかわす。まるですり抜けるようなその回避に、ハレルを取り囲むアマゾネスの一団が目を剥く。
彼女たちが慌てて蛮刀や槍に持ち替えようとした、その一瞬に、ヴァーミリオンは既にその一団の中央に潜り込んでいた。決してその動きは速くはない。しかし、力でも速さでもなく、ただ技量のみで、『四紅』の少女は、
「…力も魔力も無くても。貴方達と私では、年季が違うのよ、お嬢さん達。」
10名のアマゾネスの、頸動脈、心臓、肺、その他考えうるあらゆる急所を爪で切り裂き、血飛沫の中でゾネットとジョナサンに気怠げな一瞥を送った。
未だ余裕の表情を崩さないゾネット、まずます憎悪を燃え上がらせるジョナサン、そして周囲で絶命し倒れ行くアマゾネス達を気にもとめず、ヴァーミリオンはハレルの縄を解き、彼に語りかける。
「ハレル、ハレル!無事なの、大丈夫なの!?」
打き抱え、揺すると、ハレルはわずかに呻き、身じろぎする。思わず笑みがこぼれた。
と、ゾネットが突然、腹を抱えて笑い出す。隣にいるジョナサンも、暗い感情で笑みの形に顔を歪める。
「アハハッ、何だよそりゃ!?笑えるなぁ、笑えすぎるわぁ!思い通りすぎるってんだよ、クソ吸血鬼!」
と、突如、ヴァーミリオンとハレルの足元に、魔術の術式が浮かび上がる。水魔術のものと取れる青い光を発するそれは、しかしエルンストが使うものとは似ても似つかないほど雑で、乱暴で非効率な素人臭い物。
しかし。元々そこにある地下水脈から、軽い間欠泉を噴き出すには、それで十分だった。
水が地面から大量に噴出し、ヴァーミリオンを直撃する。大した威力では無いはずのその間欠泉が、だがヴァーミリオンの体を巻き上げて吹き飛ばす。糸が切れたように力の抜けた彼女の体は地面にベシャリと落ち、そのまま動かなくなった。
「…ありゃ?おいおいマジかよ、どーしちまったのさ吸血鬼ちゃんよぉ?水を浴びるとヨガるだけって話じゃ無かったのかよ?…あぁ、それとも何かぁ?イッちまって気絶でもしてんのかよ!?」
ヴァンパイアは真水を浴びると、強い性感を覚える。事実として、大量の真水を浴びた結果、ヴァーミリオンはそのまま暴力的なまでの絶頂に達し、失神してしまったのだろう。戦いの場に不似合いなほど肌を紅潮させ、横たわっている。
反してハレルは、間欠泉の衝撃で意識を取り戻したらしいが、こちらも失血でまともに立つことすらままならない。
「…萎えたジジィに興味はねぇ。どうせもうほっといても、二十分ともたねぇだろ。…それより吸血鬼だ!」
戦闘不能となったハレル達を取り囲むように、アマゾネスたちが笑いながら群がってくる。その中央で、ゾネットの手槍に、ジョナサンが手を伸ばした。
「…約束通り…この吸血鬼の、息の根は…」
「分かってるよ、ジョナサン。アンタにやる。…でもさ。簡単に殺しちまうんじゃ面白くねぇだろ?アンタもその方がいいよな?それに、アタシらだってコイツにはイライラ来てんだ…」
暗い嗜虐を浮かべ、それぞれに武器を振りかざすアマゾネス達の中央で、うずくまり、ヴァーミリオンを庇うハレル。そして、手槍が振り下ろされ。
その二人を包み込むように、突如、巨大な泡が表れ、刃をふわりと止めた。そのまま泡が、ハレル達を中に包み込みながら浮き上がり、あ然とするアマゾネス達の頭上を通りすぎて、安全な木の影に着地した。そして、振り向けばアマゾネス達の前に立っていたのは。
「…」
無言で、杖を構えるエルンストだった。
「…何だ、テメェ?」
アマゾネスのリーダー、ゾネットがエルンストに怪訝そうな目を向ける。彼女に、横からジョナサンが声をかける。
「ゾネット、奴も…吸血鬼の味方をする…魔術師です。」
「…ハァ?わけわかんねぇな。何の関係があるってんだよ、そのクソ魔術師は。」
肩をすくめるゾネットに、エルンストが抑揚のない声で言葉をかける。
「…提案ですが。私としてはハレルの治療を優先したい。それに、例えここでヴァーミリオン嬢を殺したとしても、残る『四紅』は黙っていないでしょう。」
「あのさぁ、優男さんよ。…つまり何が言いたいんだ?」
「ここで終わりにしませんか、という話ですよ。」
間髪入れずに答えたエルンスト。ゾネットを含むアマゾネスと、ジョナサンは、毒気を抜かれた顔をしばし彼に向け、そして、爆笑が巻き起こる。
「ハッ…ハァーッハッハ…!」大口を開けて涙を流しながら笑うゾネット。他のアマゾネスも似たり寄ったりで、エルを指さしたりしている。「おいおいおいおい、何かと思えば命乞いかぁ!?もぉホント、笑わせんなって!だいたいよぉ、命乞いするならするで、もっとやり方ってもんがあるだろ、ええ!?せっかくイイ顔してんだからさぁ…。」
「…それに…」ジョナサンはニコリとも笑わずに、エルンストを睨みつける。「私は、ヴァーミリオンさえ討てれば…皆の仇さえ討てれば、構わないのです。それさえ叶えば…明日死んでも、悔いはない。」
「…では、交渉の余地は無い、と。」
「そういうこった。…残念だったなぁ?」
「ええ。…とても。私にとっても…あなた達にとっても、ですが。」
そこで初めて、エルンストは能面のような表情を崩し…いつもどおりの、人を食ったスマイルに戻る。
「ただ、もう一度だけ言っておきます。…私の腕では、これだけの人数を相手に、殺さず事を収める事は難しい。うちの若将軍ならいざ知らず、ね。」
言葉の意味を理解して、アマゾネス達はますますおかしそうに笑う。
「…ハッタリはよせよ、クソ魔術師。アタシらに、アンタの力量が見抜けないと思うかい?」
女族長も喉を鳴らしながら、目だけは眼光鋭くこちらを見据えてきた。
「…まぁ、雑魚ってわけじゃねぇな。むしろかなり腕利きな方か。さっきの泡の術から見りゃ察しはつく。ただまぁ、アタシらの敵じゃないね。こっちが15人くらいなら、まぁ、わかんなかったかもしれねぇけどな。」
エルンストは涼しい顔をしながらも、内心舌を巻いた。自分の魔力、詠唱速度、身体能力を客観的に見るならば、アマゾネス15人というのは実に妥当な数字だ。あのリーダーは伊達ではないらしい。大して、敵はざっと百人。
「それでも、ですよ。」エルはしかし、微笑みを崩さない。「…私とて、許せない程怒ることはあります。」
例えば、もう一歩で、長い永い年月を越えて、幾度もすれ違いながら、ついに幸せになれるかもしれない男女、それも親しくなった二人の未来を、閉ざすような行為は。
「…しゃーねーな…。」ため息をつきながら、ゾネットが右手を挙げる。周囲のアマゾネス達が、弓矢をつがえ、槍を構え、蛮刀を振りかざしてエルンストを狙う。
「そこまで言うんなら…だ。
お望み通り玉砕させてやるから、感謝しやがれクソ魔術師…!」
振り下ろされた右手。同時に矢が放たれ、また数名のアマゾネスが中央に向かって突進する。
包囲網は美しいまでに理にかない、そこからの攻撃も、ここしかない、という位置取り、タイミング。集団戦を得意とする民族、アマゾネスの真骨頂は、個々の戦力ではなくその連携にこそある。
厳正かつ柔軟な指揮系統によって統制された、荒々しい戦闘本能。迫り来る矢の嵐、突撃してくる槍は、理想通りのものだった。
故に。それは、予想通りでもある。エルンストの笑みは、まるで歪まず濁らない。
突如、空中で矢が次々に動きを止め、落下する。熱運動を止めるために使われる氷の魔術を応用し、宙を飛ぶ飛び道具の運動エネルギーを奪い取る、『コールドフィールド』。密かに詠唱され、今の今まで遅延されていた魔術が発動し、まず射撃を無力化する。
さらに、矢は矢尻を下にして落ちる。弧を描く矢の下から馳せていたアマゾネスが、次々に真上からの矢に頭や肩を貫かれて倒れ伏す。
それを見もせずに、エルンストは数歩歩く。決して素早い動きではないが、たった今倒した数名のカバーしていた範囲に入り込む事で、今の攻防を掻い潜ったアマゾネス達の目測を狂わせ、連携の変更を余儀なくさせる。
「…地を穿つは地より深き地の水脈に他ならず、我が敵を穿つはまた是なり…」
移動しながらも、『コールドフィールド』が作った一石二鳥の隙を見逃す手はない。続けて詠唱されるのは『アクアゲイザー』。地面から水柱を噴出させるこの魔術は、さして難しいものではなく、それを鑑みればエルンストの詠唱は過剰に長い。当然その隙を狙うべく、アマゾネスの第二波が迫る。加えて、役立たずと分かった弓矢が投げ捨てられ、それを担当していたアマゾネスは蛮刀に持ち替えてさらなる後詰として控える。
エルンストが杖を振るい、『アクアゲイザー』は発動する。ただでさえ長い詠唱で威力を増幅されたその術は。
そもそもこの地で、先ほど同じ魔術が使われた事、元々そこに大きな地下水脈があるという、天の時と地の利を得て。
「…ヤバイッ、全員離れろ!」
もはや天を衝くほどに遡る、地上の大津波と化して顕現した。
先ほどヴァーミリオンに水をかけた水柱などとは比較にならない、破壊的な水圧は、かすっただけでもアマゾネスを砂利の如く吹き飛ばす。間欠泉から逃れた者でさえも、弾き飛ばされた大地の飛礫で致命傷を負う。
しかし一挙に戦力の三分の一程を削り取られて、なおアマゾネスたちは次の手を緩めない。噴き上がる水が収まると同時に、一瞬で完全な再編を遂げた後詰が動きを見せた。もう大魔術を発動させないように、かつ少なくなった兵力をカバーするために包囲を狭め、しかし次なる罠を警戒して一気に飛びかかる事はせず、様子を伺う。
そして、それこそ。
「…セオリー通り、という話です。」
魔術と、魔術戦の発達したローエンハルトにおいては、しばしば魔術師の戦闘はチェスを始めとするボードゲームに例えられる。故に、そのセオリーは二つ。
先の先を読むこと。そして、少ない手数で最大最多の効果を狙うこと…即ち、一石二鳥を狙うことである。
異音、空気を切る音に、一人のアマゾネスが上を見上げ、そして絶叫する。
間欠泉は吹き上がりながらも、『コールドフィールド』の影響を受けて地上数メートルで巨大な塊となって凍りついていた。そして今、重力による加速を存分に得て、致死弾の集中豪雨となり、降りそそぐ。
直撃すれば骨も残らず、砕けて飛び散った氷ですら砲弾の如き破壊力でアマゾネスを蹂躙する。範囲内の女戦士を文字通り粉砕した氷塊の絨毯爆撃、しかし術者本人はこの、言わば二次災害にも近い攻撃からは守られているのか。後方で生き残った20名ほどのアマゾネスをまとめながら、ゾネットは目を凝らし、エルンストの姿を見つけ、歯噛みした。
「…あん…の…ペテン野郎ォッ!最っ初っから…全部…ッ…!」
エルンストは、泡で安全な場所に運んだハレルとヴァーミリオンのすぐ側に、たった今姿を現した。人や物を運ぶ転移魔術は、そこまで難しいものではない。ただし、予め移動先だけでも魔方陣によって定義しておけば、の話だが。
ヴァーミリオンがアマゾネスと戦っている間に、退路として転移魔術の転移先を指定。弓矢を想定して『コールドフィールド』を待機。アマゾネス達がヴァーミリオンを間欠泉の罠に嵌めたのを見て、同じく『アクアゲイザー』を使う事を決定。そしてその全てを、完璧な形で組み合わせた結果。
「…わずか、三手で…残り、二割、だと…!?チクショウが、ザケンな、この、クソ野郎ッ…!」
悪態をつくゾネット。そして、彼女の優秀な戦略眼は既に、状況はなお悪いことを見抜いている。
エルンストまでは距離がありすぎる。そして、いかにアマゾネスといえど、ここまで一挙に数を減らされては立て直すのに相当な時間がいる。果ては、ハレル達を人質に取るという一発逆転すら、エルンストの立ち位置によって封じられている。その間にも、魔術師は軽量な遅延魔術を次々に仕込み、こちらを迎え撃つどころかこのまま討ち滅ぼす準備を整えている。三手で残り二割、では無い。二手でアマゾネス側の攻撃を無力化しつつ八割を削り、次で残り二割による反攻の芽を完全に摘み取ったのだ。
伏兵を森に潜ませる手があった、と思い至ったところで、いよいよゾネットは愕然とした。実際に、ヴァーミリオンを気絶させるまでは、周囲の森に何人か隠れさせていたのだ…彼女を公開処刑するために、全員を集めるまでは。エルンストが動き始める、わずか数十秒前までは…。
十分な魔術を待機させ、エルンストは、例のスマイルをまるで崩さぬまま、告げた。
「…チェックメイト、です。潔く投了なさい。」
魔力の大きさでもなく、詠唱の速さでもなく、ただチェスのような駆け引きと先読みの果て、それは文字通りの詰みだった。
明かしてしまえば、それこそがエルンスト・マクスウェルという魔術師の最大の強みであり、そして、その二つ名、『水鏡』の真意でもある。
鏡のように敵の思考をトレースし、そして明鏡止水の如く揺るがずそれを迎え撃つ。一般に言われているように、波一つ無い湖水のように崩れない完璧スマイルを浮かべたままで。
既にアマゾネス達は戦意をほぼ失っている。ゾネットは必死な顔でジョナサンに何事か訴えている。彼は首を振ってそれに応じ…恐らく、あの二人の間にも何かしら特別なものが芽吹いているのだろう。
足元に一発打ち込んでやると、いよいよ意を決したのだろう、アマゾネス達は武器を捨て、散り散りになって逃げ出した。ゾネットも、ジョナサンを庇うように抱きながら、こちらを振り向くこともなく去っていく。
それでも、そこは死屍累々と言って良い光景だった。80名あまりのアマゾネスが死んだのだ。エルンストはようやく、戦闘用の仮面、いつものスマイルを消して、重く沈んだ顔で辺りを見回した。
エルは軍人である。宮廷魔術師は、同時に前線の魔術師隊を率いる立場にいる。そこではもっと陰惨な戦場を経験したこともあるし、魔物に魅入られた人間たちを止む無く討ち滅ぼした事すらある。軍にいれば、そんなのは珍しい事では無い。そういう経験に比べれば、相手が非道なだけ自分を正当化出来るのだからマシだ。
こうなることは、予め準備しておいた通り、予想できていた。今使ったよりもう数種類、仕込みはあった。状況によっては、降伏勧告すら出さずに全滅させる選択肢も用意していた。
だが、だからと言って。言葉で、交渉であの場を収めようとしたのは、決して嘘ではない。逃げる間際の、ゾネットとジョナサンの顔が一瞬脳裏に瞬いた。
「…いや…浸っている暇も、ありませんか。」
頭を振って、堂々巡りな思考を追い払う。今はそんな事より大事なことがある。酷なようだが当然、敵の命より仲間の命だ。
エルが樹の幹にもたれかかったハレルに駆け寄ると、彼は残った右腕を伸ばしてそれを制した。嗄れた声を絞り出し、
「…自分の体は…自分が一番…分かっております…。」
唇を噛み締めてそれを聞く。
回復魔術がいかに進歩しようと、回復薬がいかに強力になろうと。元々の生命力が低ければ、取り返しがつかない。失血が多すぎるし、何より、ハレルは年を取り過ぎていた。
「…ありがとうございます…エルンスト、様…。」
彼は穏やかに笑いながら、唇を震わせてエルの名前を呼ぶ。それを、直視できなかった。
「…お嬢様を…私の、愛しい人を…私の、全てを…守ってくださった…。それだけで、十分です…。」
「私が、ここを訪れなければ…」
「それも…少し、考えました。…ですが…」
ハレルは、傍らで気を失っているヴァーミリオンに目をやった。
「…お嬢様は、こうしてまた、私を助けに来て下さいました…。それもきっと、貴方のおかげなのでしょう…?…それに、久しぶりに…友人も、出来ました…。やはり私には…エルンストがいなければ、とは考えられませんな…。」
何も言えないままに、少し時間が流れる。と、ハレルが急に咳き込んだ。そのまま口から、血が溢れ、彼は主を汚さぬとでも言うように、力を振り絞って首を背けた。
「…もし。…耐えられぬほど苦しいのであれば、」声をかけたエルンストに、ハレルは力ない笑みを向ける。「…友人と呼んでくださるのなら、私が、いっそ…!」
「いい、加減に、しなさい、この、愚かな血袋…」
か細い声が、エルの叫びを遮った。ヴァーミリオンが、顔を伏せたまま、
「ハレルに、手でも、出してみなさい…。本当に、刻み殺すわよ…。」
「お、お嬢様…ご無事で…」
ハレルが手を伸ばし、ヴァーミリオンに触れる。彼女も、その手を取って、強く握りしめた。
それを見届けるやいなや、エルンストは術の詠唱を始める。死は避けられないが、遠ざけることは出来る。発動した魔術は、回復というよりは延命を旨としたもので、活力がハレルの体に満ちた。
「…そうよ、エルンスト。気が利くじゃない。…なら、次にどうすればいいかも分かるわね?」
「…では、アマゾネス達が戻ってこないよう、周囲を見張ってきます。…ハレル?」最後にエルンストは振り返り、「…もう一度、チェスのお相手をお願いしたかったです。」
そして答えを待たず、背を向けて立ち去る。いくつもの、大きな悔いを残して。せめて、少しなりと、幸いが残る事を、何かに祈って。
エルンストの足音が、十分に遠ざかった。それを確認したわけでもないだろうが、ハレルが弱々しく話し始めるのを、彼女は聞いた。
「…申し訳、ありませんでした…お嬢様…。」
鏡のことだな、と分かる。今は、そんな事はいいのに。どこまでも律儀な…いつもそう、それがどこか、他人行儀で…。
「…お嬢様の、お気持ちも知らず…。」
「…手紙、読んだわ。」
懺悔のようなハレルの言葉を遮り、おもむろに話しだす。
「…左様で…。あれは…遺書の、つもりでしたが…。」
「そうね。…そうみたいね。…それで?」
精一杯、慣れない笑顔を、愛しい人へ向けてみる。ずっとそうしたかったように。
「貴方、まだ私を…お嬢様、なんて、呼ぶのかしら?」
ハレルが、目を見開いてこちらを見る。そして、ふっ、と、優しい笑顔になった。
「…でしたら…いえ…。なら…呼んでも、いいかな。」ああ、そういえば、会った当初はそんな話し方だった。昨日のように懐かしく、永遠のように遠く思える。
「…ミリー…。」
優しい笑顔で、そんなふうに、呼んでくれる。ずっと、そうしてほしかったように。
愛しくて、たまらなくて、どうしようもなくて。気がつけば私は、ハレルの体を抱きしめていた。彼も、私を、右腕できつく抱きしめてくれる。
それだけで、心臓が、わけがわからないくらいに脈を打つ。多分真水に当てられてしまっているのもあるんだろうけど、体も心も、火照ってしょうがない。
熱に衝き動かされて、奪うように唇を重ねた。驚かれるかと思ったら、ハレルは分かっていたように優しく受け止めてくれて、私のほうが驚いてしまう。
唇が、離れる。見れば、ハレルの瞳は、まるで若かったあの日のようにキラキラと輝いていて。
「…ミリー。…僕は…多分、もう長くは持たない。」
「…分かってるわ。今そんな事聞きたくないわ。」
「…ごめん。だけど…だから、最後に…確かめたい。」
そう言って、もう一度、さっきよりきつく私を抱きしめるハレル。耳元で、振り絞るような声で、
「…ヴァンパイアと人間、だとか…魔物と人間だとか…僕たちは、そういうんじゃなくて…。」
「…ええ。分かってる。…分かってた。…本当は、分かってた。」
腕を回す。もう一度、さっきより深く、キスをする。凄く、幸せ。
そして、ハレルの、その、凄く大きく、硬くなっているのも分かった。それがとても嬉しくて、ますます私の中で何かが弾けそうになる。これはきっと、魔物の本能とか、真水の効果とかじゃ無いんだって思いたい。
服を、脱ぎ捨てる。そんな時間も惜しい。ハレルのズボンも、脱がせてあげる。他のを見たことなんて無いけど、他の人間のなんて見たくもないのに、彼のはすごく愛おしかった。
体を起こし、ハレルと向かい合う。樹の幹にもたれかかった彼と、顔の高さを合わせて、その、いつの間にかシワだらけになってしまった顔を、指でなぞる。
「ハレル…愛してた。…ずっと、愛してたの。…ずっとずっと…愛してるから…。」
「…僕もだよ。…ずっと、ごめんね。…ミリー…。」
一度だけ、そっとくちづけて。一気に、腰を落とした。
「ん、ぅうっっ…や、ぁあ…っん…!」
初めて入ってくる異物は、まるで中から体を焼き尽くすようで。けれどそれは痛みじゃあ無く、もっともっと幸せな何かで。
「…っ…ぅっ…くっ…」
ハレルも、何かをこらえるような表情で、私の背中に腕を回してくれた。
どちらからともなく、動き出す。求め合う。
一つに、なっている。言葉にならないくらい、愛しい。どうにかなってしまいそう、というか、もうとっくにどうかしちゃっているんだろう。マトモな言葉なんて、頭の中に結ばない。お互いのの名前とか、言葉にならない喘ぎ声とか、愛してるって言葉とか、交わされるやり取りはそんな簡単な、大切な事だけ。
そんな激しさと熱さと単純さと純粋さを、何かにたとえるとしたら、何だろう。それはきっと、そのものずばりで…。
男と、女、なのだろう。
気づけばよかった。気づけてよかった。ごちゃごちゃの気持ちで、ただ彼だけを感じる。今はそれだけが全てで、振り向けば、ずっとそれだけが全てだったんだと今更分かる。
くだらない種族の差や、時間の流れの差を吹き飛ばして。もっと、おかしくなってしまいたい。もっと、ハレルに、私を、おかしくしてほしい…!
私はもう何度も絶頂みたいなモノに昇りつめていて、その境目すら分からなくなっていた。めちゃくちゃな自分の喘ぎ声の合間に、ハレルの声が聞こえてきた。
「…せめて…例えば…僕の…子供を…」
ああ。そんな事が出来るのなら、それはどんなに幸せだろう。本当に出来るのだろうか?そんな想像だけで、奥がきゅんとする。
「来て…来てぇ、ハレル!」
何もかも真っ白になりそうな中で、それすらさらなる白で塗りつぶすように、私の中に、ハレルの精が放たれたのが分かった。長い、長い、その例えようもない熱。まるで、私がハレルの命を吸っているようで…。
意識が薄れる。途方も無い幸せと、どうしようもない悲しみが綯い交ぜになった中で、彼の顔から目を離したくなくて、鉛のような瞼を必死に支える。ハレルは、皺だらけの、優しい顔で。
「…ありがとう。会えて、幸せだった。…愛しているよ。」
遺書と同じ、結びの言葉を…。
「…本当に、良かったのですか?」
曇り空の下、エルンストは、黒一色に身を包んだヴァーミリオンに問いかけた。二人の前には、十字架が建てられている。そしてその下には、棺に収められた、ハレル・ハルフェアの躰が眠っていた。
エルンストが伝を使って、魔物にある程度理解のある教会の神父に作ってもらったものだ。教義上さすがに葬儀の進行までは頼めなかったが、手順を聞いて、今それがひと通り終わった。
神の加護を受けたその十字架は、今もこうしているだけでもヴァンパイアであるミリーの躰を蝕んでいるに違いなく、しかも今は曇っているとはいえ昼である。彼女は、黒い帽子を目深にかぶりながら、
「…だって。こうしないと、人間の魂は、神に拾ってもらえないんでしょう?」
自嘲するように、歌うように、そんな事を言った。
「…私が、ずいぶん…ハレルのことを、縛ってしまっていたから。…せめて死んだら、こんな吸血鬼からは自由になって、カミサマの元で…幸せになってほしいもの。」
果たして、それが彼女の本心なのだろうか。それは誰にも、もしかしたらミリー自身にも分かっていないのかも知れない。
「…一つ、答えてくれるかしら。」ぽつりと、彼女は言った。「人間も…人間同士でも、こういう別れは、あるわよね。…そんな時って、どうするの?」
「…私には、経験がありませんが。…2年か3年くらいは、立ち直れないかも知れません、ね。」
「そう…。」ヴァーミリオンは、遠い目でどこかを見ている。やがて、口を開いて、「強いのね、人間って。…私なら、千年は、こんな気持ちから逃げられないと思う。」
「…それは、強さじゃなくて…いえ、止めましょう、こんな話は。」
エルは首を振って話を打ち切る。彼女も、こちらに目を向けた。切なそうに、それでも精一杯気丈に、笑顔を浮かべている。
「…ありがとうね、エルンスト。…こんな事まで、してもらって。…責任とかは、感じなくていいのよ。私たちは、もう十分、幸せだったから。」
何も、言えなかった。ただ、不器用に、微笑みを返す事しか出来ない。二人は、ハレルの眠る墓に、背を向けて。
ゴトリ、と。確かに、土の中から、そんな音を聞いた。
弾かれたように振り返り、墓に駆け寄る。埋め立てたばかりの柔らかい土が、確かに動いている。下から、嗄れた声がする。
「…エルンスト様?…お嬢様…?」
ハレルの声。
「…そんな…確かに、心臓も呼吸も止まって…。」
確かめた。死んでいるのを、確認した。
「…私にも、分かりかねます…。ただ…。」
声は、どこか、苦しそうだった。
「…この、棺、でしょうか?…彫られた十字架が…妙に、体が、痛くて…。外に出たいのですが…」
今度こそエルンストは目を丸くした。それは、つまり。いよいよハレルが、ヴァンパイアの眷属となったと言うことだろうか…?
「ああ…いえ、今外は昼ですから…曇っているとはいえ、恐らく外は外で…。」
「…いえ。やはり私は、外に出なければ。」
今度は決意に満ちた声が返ってきた。理由は、分かっている。エルンストは思わず笑った。
「…そこまで、聞こえているんですね?ハレル。」
「ええ。…聞こえております。」
ならば止める理由はない。
今になって、ハレルがヴァンパイアとなった理由は何だろう。死んだ事によって吸血鬼化、魔物化を妨げる要因が力を失ったのだろうか。性交し、精を放つ事による、他の魔物と同じような機序が働いたのだろうか。寿命はどれだけ伸びるのだろう。興味は尽きないが、今は。
「ぅ…ぁ、わあああぁああん…!えっ、えくっ…あぁあああぁああぁああん…!」
天を仰いで、子供のように泣きじゃくる少女がいて。
その少女を慰めるために、棺の中から蘇った吸血鬼がいる。
柄にもなくエルンストは、こんな事を思うのだった。
吸血鬼にも、神はいるのかもしれない。
11/04/27 01:25更新 / T=フランロンガ
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