連載小説
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第三話 時間 ヴァンパイア 二章
 ハレルと親しくなり、良く話すようになったことで、間接的にヴァーミリオンとの距離も縮まった、というのは現実問題として大きい。エルンストはすでに翌日起きだした夕方には、それを実感していた。
 起きて割り当てられた部屋を出て、広間に歩いて行くと、中央を、ヴァンパイアの少女、ヴァーミリオンが横切っている最中だった。向こうもこちらに気づいたらしく、眠そうな目を向けてくる。
「これはどうも、お早うございます…で、いいんですかね。」
「本当に、ずいぶん早く起きてしまったわ。日が沈む前に起きるなんて、何年ぶりかしらね…。」
 それだけ言って、さっさと歩いて行ってしまおうとする彼女。しかしエルンストは、その後姿に奇異なものを見つけ、一瞬迷ってから、
「…そういえば、昨日、ハレルさんとチェスをさせて頂きましたよ。…お強いですね、彼は。」
「あら、そう。それはさぞ、盛大に負けたのでしょうね。」
「いえ、ギリギリで、運良く勝ちを拾うことが出来ましたよ。」
「…冗談、でしょう…?」
 本当に驚いた様子で、ヴァーミリオンが体ごと振り返る。見開かれた眼は昨日の一戦以来に見るが、こうしてみると割と童顔である。
「貴方のような若造が…あのハレルに勝てるわけが…。」
「いやはや、本当にハレル翁はお上手でしたよ。私如きが勝てたのは、実に幸運で…。」
「幸運で…勝てたら苦労しないわよ…!」
 今度は目を閉じ、苛立った様子で珍しく声を荒げる。昨日の無表情一色という印象から変わって、こちらの少女にも、急に親しみが湧いてきた。
「どうせ嘘よ。…いいわ、ハレルに聞いてあげる。…絶対に、信じない…」
「いえお嬢様、本当でございます。」
 噂をすれば何とやら、ハレルがゆっくりとヴァーミリオンの後ろから現れた。彼女はちらと後ろに目をやり、渋い顔でため息を付いた。
「…才能ってあるのかしらね。本当に忌々しいわ、エルンスト…この血袋は。」
「お褒めに預かり光栄です。名前も、覚えていただけたようで。」
 恭しく一礼する。それを憎々しげに見つめた後、ヴァーミリオンはふっと力を抜き、口元に軽く笑みを浮かべて、
「エルンスト、貴方…後ろ髪跳ねてるわよ。間抜けね。」
 と言い捨てて、そのまま去っていった。後ろ髪に手をやると、確かに寝ぐせが立っている。エルは苦笑しながら肩を竦め、ハレルと顔を見合わせた。彼女が十分遠くまで行った事を確認してから、口を開く。
「いやはや…『私も』、ですか。それは気づきませんでした。…ハレルさん、彼女の髪は…」
「ええ、気付かれないうちに。いつもそうしております。」
 ハレルが後ろ手に持っていた櫛を出す。やはりそういう事だった。最初に、ヴァーミリオンのストレートに伸ばした金の後ろ髪の一部が可愛らしく跳ね上がっているのに気づいたときに指摘しなかったのは正しかった。
「お心遣い、誠にありがとうございます、エルンスト様。」
「いえいえ、それより私も寝癖を直したいので…櫛を貸して頂けませんか?」
「それは出来かねます。」ハレルは穏やかな笑顔のまま答える。「これはお嬢様の為の櫛ですので。」
「それは失礼。手櫛で何とかしますか…ああ、そうだ。」一礼して去ろうとしたハレルを呼び止める。
「せっかくこういう所に来たのですから…少し、お願いしたいことがあるのですが。」
「はい、私めに出来る事であれば何なりと。」
 エルは一つ咳払いをして、手を広げ、話し始めた。
「このような歴史ある場所でしたら、さぞ文献も多く残っておいででしょう。『四紅』の話などについても詳しい書物があるかもしれません。単純に好奇心ですが…宜しければ、見せては頂けませんか。」
「左様ですか…それは、私からは何とも申し上げられませんな。」申し訳なさそうにハレルが言う。「文献、と申されましても…ここにそのような物があるかも、存じません。お嬢様にお取次ぎしてみましょうか?」
 お願いします、と一礼して、ハレルを見送る。少しヴァーミリオンとの距離は近づいたと思うが、そこまでの頼みが通るほどの仲にはなっているだろうか、とエルは自問しながら首をかしげた。

 結果、許可はすぐに降りた。最もそれはエルンストのネゴシエイターとしての腕や目とは関係なく、
「本?そういえば地下にあったわね。…あれの何が面白いのかは知らないけど、読みたいなら勝手になさい。興味ないわ。」
 という、そもそもヴァーミリオン嬢がまるで本を読まない上その価値にまるで無頓着であったという結果だが。
 まぁとはいえ、地下書庫に向かう階段を、先頭に立ってランプで道を照らすハレル、その後ろを歩くエルンストのさらに後ろから優雅に歩いて来る彼女の姿を見ると、少しは気を許してもらっているらしい、とも思える。
 ハレルもまるで来たことがないというその地下書庫は物々しい鉄の扉で閉ざされており、そこを開くと。
「…埃っぽい…と言うより、煙いわね。」
 本棚が立ち並ぶその大きな地下書庫には、ものすごい量の埃が舞っていた。
「申し訳ございませんお嬢様、こちらの部屋を掃除したことは一度もなく…」
「無くて当然よ。しろと命じた覚えが無いもの、私。…けれど…これはさすがに不快ね。」
 顔をしかめたヴァーミリオンを、埃の雲から庇うようにハレルがスーツのジャケットを広げた。
「お嬢様、すぐに空気を入れ替えますので、上でお待ちを…」
「ああいえ、こう言う事は…魔術師にお任せください、という話です。」
 エルは一歩進みでて、少し頭を捻り、杖を構え、普段より少しぎこちない詠唱を行う。何故なら、今から扱うのは、エルンストが得意とする水の魔術ではなく…風属性の呪文だ。
 『バキューム』の呪文は、大体思ったとおりの出力で大体予想通りに起動した。周囲の空気を吸い込み、埃を一点に集めていく。あらかた集めてみると、埃はまるで鞠のように巨大な塊になった。汚いのでそのまま今度は軽快に呪文を唱えて氷漬けにしてしまう。
「ではハレルさん…これ、どこかに捨ててきてもらえますか?」
「これは…はい、畏まりました。エルンスト様、誠にありがとうございます。」
 彼は深々とお辞儀をすると、どこからか取り出した布に氷をくるんで階段を登っていった。ヴァーミリオンも感心した様子で辺りを見回している。
「…しかし、本当にここ数十年誰も入っていなかったようですね。…その割にはずいぶん…」
いくつも立ち並ぶ本棚には、どれもぎっしりと本が詰まっており、さながら小さな図書館並である。中にはそれこそ、数千年前のものと思える史書から、数百年前に著された名文学の初版など、様々なものがある。
「…どれも、私のものじゃないわ。…先代『ヴァーミリオン』…お父様やお母様の物よ。」
 手にとった一冊から顔を上げ、彼女の方を見ると、まるで本当に見た目通りの年の少女がそうするような、懐かしそうな遠い目をしていた。
「もう何年になるかしらね…。五百くらいかしら。二人とも、揃って死んでしまったわ。天界かどこかと戦争があった時だったと思うけど…そういえば、ずっと本を読んでいらした…。」
「…辛いことを、思い出させてしまって申し訳ありません。」
「いいの。…血袋に気遣われる事では無いわ。…本が読みたいのでしょう?早くしたらどう?」
 すぐに無表情に戻り、手近な椅子に腰掛ける。エルは少し本棚を探し周り、面白そうな一冊を見つけて抜き取った。本棚そのものに、本の劣化を防ぐ魔術があるのだろう、取り出した本のページは少し黄ばんではいたが、綺麗なものだった。
「『四紅、ヴァーミリオンの歴史』ですか…。」
 読み上げた本のタイトルは、表紙に書かれていた。背表紙の埃を手で払うと、それは古い日記帳だった。
「なるほど、ヴァーミリオンの歴史はこうやって手ずから、ご本人によって書き足されていくわけですか。」
「そうなのかしら?知らなかったわ。…私もつけなければ駄目かしら。」
彼女は少し目を丸くしている。エルンストは苦笑して応じた。
「まぁ既に…五百年近い空白期間が出来ていますね。けれどもし何もつけなければ、後世の子孫から、『この時代のヴァーミリオンは怠け者だったのかな』なんて思われてしまうかも、しれませんね。」
「それは…確かに癪ね。スカーレットのおばあ…コホン、お姉様と似たようなものだと思われるのは。」
 話によればその『四紅』の一人、スカーレットは齢六千七百、つまり人間年齢67歳だったが、新魔族の魔力で若返り、魔王に並ぶと言われる魔力と美貌を振りかざし、魔界でやりたい放題楽しんでいるらしい。
「そういう方もいらっしゃるのですね。…ああ、ちなみにヴァーミリオン嬢はお幾つで?」
「女性に年を訊くのね、不躾な血袋。」袋を躾けるのだろうか。「私も新魔族になっているけれど、見た目と変わらないわ。千七百…ええと、それくらいよ。」
「それは誤魔化されたととっても?」
 冗談めかして聞くと、ヴァーミリオンは首を横に振った。
「違うわ。…大体、私、自分の誕生日も良く分かっていないのよ。…そうだ、その日記」エルンストが開いた日記帳を指差す。「何か書いていないかしら?私が生まれたときの事とか。」
 言われて日記の最後のほうからペラペラとページを捲る。少し今とは違った言い回しもあるが、基本的に公用語は一万年前から殆ど変わらないと言われている。スラスラと読みながら、目的の記述はすぐに見つかった。
「…これですね。…ええと?日付は…だから…」
 少し空中に指で文字を書くようにして計算する。ヴァーミリオンも興味深そうにこちらを見ている。答えはすぐに出た。
「1751年前の…待ってください…明日で丁度1752年になりますね。」
「あら…つまり、私は明日で1752歳になる、という事かしら?明日が私の誕生日だと?」
「それは」嗄れた声がヴァーミリオンの後ろで聞こえた。彼女は弾かれたように立ち上がり、ハレルの方に向き直った。「おめでとうございます、お嬢様。」
 深々と頭を下げるハレル。しかし、それに向かい合うヴァーミリオンの顔は、驚きから、次第に曇っていく。
「…いたの。ハレル。」
「ええ、たった今戻りました。…お嬢様、誠におめでとうございます。」
 やはりにこやかな顔をしているハレル。しかしヴァンパイアの少女は、彼に一瞥もくれずに通り過ぎ、階段に向かった。
「気分が…悪いわ。やっぱり埃が完全には取れていなかったのかしらね。…部屋に戻るわ。」
「それは大変です。お嬢様、お供します…」
「要らない。…私はいいから…エルンストについていてあげなさい。」
 そのまま振り返りもせず、ヴァーミリオンは金色の髪をなびかせて階段を登っていった。
「…エルンスト様。私、何か…。」
「さあ…私にも判りかねますね。それよりハレルさん、紙とペンをお貸し頂けますか?興味深い事がいくつか分かりましたので、まとめておこうかと…」
 ハレルはそれを聞いて、腕を組んで考え込んだ。
「…そうですね…今はどちらも殆ど使いませんので、申し訳ありませんが切らしております。今日、昼の間に、町へ買出しに向かうつもりですので、その時に…ああ…そうだ…。」
 なにか思いついたように、ハレルが顔を上げて、エルンストに歩み寄る。
「エルンスト様。その買出しに、宜しければ付いてきては頂けませんか。少し、お願いしたいことが…。」

 かなり離れた町へ向かったその買い出しが終わり、ヴァーミリオンの館前にたどり着いたときには、既にすっかり夜の帳が降りていて、もはや既に夜明けが近かった。事実上、エルンストとハレルの二人は一日眠っていないが、まぁどうという事は無い。これはいわゆる…徹昼とでも言うのだろうか?
 買ってきた食料や日用品をひと通り並べるハレルを手伝った後、エルは二人でヴァーミリオンのいる部屋の前に向かった。ハレルがノックすると、彼女は中から返事をした。
「帰ったの、ハレル?それにエルンストもいるのかしら。…何か用?」
「いえ、少し…お嬢様、お部屋に入っても宜しいでしょうか?」
「…構わないわ。二人とも、入りなさい」
 ハレルがドアを開け、エルンストを先に進ませようとしたが、エルはその肩に手をおいて、それをたしなめる。
「ハレルさん、今は貴方が主役ですから…」
「…左様ですか。…では、失礼して…。」
 そして彼が先に進んでから、エルンストは後から入り、ドアを閉めた。頭を垂れるハレルを見下ろすヴァーミリオンは、窓から差し込む、妖しく煌めく月の光を純金のような髪に吸い込み、しかしどこか気怠げな様子だった。
「…お嬢様、昨日も申し上げましたが…誕生日、誠におめでとうございます。」
 彼女は何も答えず、目を細めたまま梁にもたれ、窓を開けた。冷たい夜風が吹きこんでくる。
「…そうね、昨日も聞いたわ。…それで?」
「はい。…一度も、こうしてお嬢様の誕生日を祝ったことは…ございませんでしたね。」
 ヴァーミリオンは窓から下をじっと見下ろしている。ハレルは言葉を続ける。
「それで、初めての事になりますが…その、人間には…誕生日には、その人に贈り物をする、という習わしがございまして。…僭越ながら、私めからも、お嬢様に贈り物がございます。」
「…何、かしら。」
 少女はこちらを振り向いた。エルンストの位置からは、窓から吹く夜風に流れた金沙の髪が邪魔で表情はうかがい知れない。ハレルもその顔を見ることはせず、いそいそと懐からプレゼントを取り出す。
 プレゼントは、ハレルに頼まれて、エルンストが選ぶのを手伝ったものだ。ずっと気になっていた、この館に唯一無かった物。それが無い理由が、ヴァンパイア特有の性質なのかという事については、ハレルに既に確認済みである。彼も、そういえば60年ずっと気に留めなかったが、今思うと必要なもののはずだ、と手を打ってエルンストの案を喜んだ。
「はい、こちらにございます。」
 ハレルが取り出した小包。跪いてヴァーミリオンに差し出したそれを、彼女は両手で受け取った。
「…今開けていいものかしら?」
「もちろんでございます、どうぞ。」
 吸血鬼の少女は、包を解いていく。リボンと包装紙を外すと、木箱が表れ、それを開くと、中から姿を見せたのは。
「…お嬢様、この屋敷には…鏡が、ございませんでした。」
 装飾を施された、30センチくらいの、手鏡だった。これもここからは見えないが、今丁度彼女の顔を映しているだろう。
「何かお考えがあっての事かとも存じましたが、是非これをお使いになって…」

 突然。
 クスクス、と、女性の笑い声が聞こえた。ヴァーミリオンが肩を震わせている。次第にその笑いは、かすかずつだが大きくなっていく。
「…喜んでいただけて、光栄です…」
ハレルは穏やかに微笑みながら、顔をあげようとして。
「あはっ…ハハッ…アハハハハハハハッ!アーッハッハッハッハッ!」
 その笑い声が。爆発したように、大きく響き渡った…それは、ある種の…狂気を孕んで。
 エルンストは身を乗り出し、ハレルも驚いて顔を上げた。ヴァーミリオンは笑い続ける。どう聞いても、それは、喜びや楽しみの笑いではない。ヒステリックな、笑いだ。滑稽で仕方がない、というようであり、あるいは…悲しくて、しょうがないというようですらある。
「ねぇ、ハレル?」笑いながら、ヴァーミリオンが問いかける。「ねぇ、『お誕日おめでとう』って?ねぇ、鏡なんてどうして?ねぇ、この館に鏡が無いのに、考えがあるんじゃないかって聞いた?ねぇ、私が、本当に、これで、喜ぶと、思った?」
 畳み掛けるように、ねぇ、ねぇ、と、何度も何度も問いかける。エルンストもハレルも、あっけに取られて、豹変した、物静かだった吸血鬼の貴族を見つめる。
「ねぇ、ハレル、ねぇ、一年経ってしまった!また一年経ってしまったわ!ねぇ、これで、何年になるの!?ねぇ、あと…何年…残ってるの?」
「…お嬢…様…」
 気づいた。ヴァーミリオンの頬に。透明な雫が、伝っているのに。そしてハレルも、彼女が言いたいことに、気づいた。気づいて、しまった。
「年が経つごとに、貴方は、老いていく!そうよ、変わっていくの。最近、咳が増えたね。食べる量も減ってきているわ。自分で気づいてない?何より、血が、血の味が、そこに…死の、匂いが…しはじめてるの…」
 ずっと、触れなかったこと。ハレルが、気づいていながら、ずっと触れずにいた事。
 どうして、考えなかったんだろう。もしかしたら、彼女も、同じ気持ちでいたかも知れないと…。
「いいえ、違うわ…老いていくのは、構わない。老いたから醜いとも、汚らわしいとも、私は思わない。…でも、でもね!?」
 またヒステリックにひとしきり笑い、そして、手鏡をハレルに向けた。そこには、年老いたハレルが映っていた。
「貴方って本当に、私の心を、ねぇ、逆撫でるのが上手ね!…ねぇ、どう?自分の姿はいかが?それを見て、どんな気持ち?」
 年老いた自分。それは、それだけならば、仕方ない事だと思えた。けれど。鏡の隣には。
「ハレル。それと、私を、見比べられる?
分かる?…こんなにも、私と貴方が、違ってしまったって。
認められる?…こんなにも、時間の流れが、違ってしまったって。
…答えて。…答えなさいよ!ねぇ、ハレル!?」
「…申し訳…ございません。…考えが…至らず…」
 切れ切れの言葉で謝罪する。そうだ。自分が、愚かだった。彼女の気持ちを、もっと推し量っていれば…誕生日を祝う、ということすら、まずしなかっただろうに…。
「…考えが、至らず…ね。」しかし。
 少女は、その謝罪の言葉で、今度こそ無表情に戻った。そして…こちらを見る目は、まるでモノを見るような…そういえば、自分だけは、そんな目を向けられてはいなかったと、今にして気づいた…。
 目が合う。しばらく、じっと空気が凍る。ふっと、吸血鬼の少女は、一瞬だけ、その視線を和らげ…しかし、その瞳には、どうしようもないくらいに、あきらめだけが宿っていた。
「…分かって、くれていると、思っていたわ。同じ…気持ちだと。」
 同じ、気持ちだ。そう言おうとした。けれど、言えるわけがなかった。その気持ちを踏みにじってしまったのだ。
「…けれど、今は。私と貴方は、同じ気持だと思う。…同じことを、考えてると思う。」
 優しい声だったが、分かる。分かっている。何が言いたいのか。彼女が、何を考えているのか。何故なら、自分も、そうだから。
 ハレルは立ち上がり、彼女に背を向けた。そのまま、振り向かず、歩き出す。
「…そうよ。分かっているじゃない、ハレル。」
 ああ、その若い、高い声を聞いてはいられない。時間の違いを、受け入れられない。自分の姿を、見せつけられた今では。

「私、貴方の顔を、見たくないの」

 いつの間にか、夜が明け始めていて、空は紫に染まっていた。
魂が抜けたように、ヴァーミリオンはベッドに腰掛けている。エルンストは、窓を閉め、カーテンを閉じて、彼女の前に歩み寄り、跪いた。
「…今回の件は…全て、私の責任ですね。」
「…いいえ。いつか、来る事、だったのよ。それに…そうよ、私がずっと、ハレルを束縛していたんだわ。残りわずかな人生だろうけど…もう、好きに生きてくれたほうがいい。私なんかに、付き合わないほうが、いいのよ。」
 つっかえながらも、彼女は最後までそれを言い切る。エルンストが何も言えずにいると、ヴァーミリオンは一度息を吸い込み、
「頭では…そう分かってるわ。…だけど、ね。エルンスト。…ここ数日のよしみで、忠告してあげる。」
 そして、次の瞬間、エルンストは全身の血が凍るような錯覚を覚えた。目の前の、世界最強の生物が、自分に、全身全霊の殺意を叩きつけている。
「早くお逃げなさい。今、私、貴方を、塵も残さないくらいバッラバラに切り裂いてやりたいの。」
 それで、刃のような殺意は止んだ。もう少し続いていれば、エルンストはまともな精神状態ではいられなかっただろう。目を合わせてでもいれば、それだけで人が死ぬかも知れない。
 しかし、エルンストは、聞いて置かなければならない事を、訊くことにした。
「…貴方は、ハレルさんを…愛していたのですね。」
 ヴァーミリオンは、じっと黙り込んだ後、口を開いた。
「…愛していても。結局は、人間とヴァンパイアは、違いすぎるのよ。」
 そして、また自嘲して笑う。
「貴方は…パンに恋したりしないでしょう?…ふふ、多分貴方達から見たら、全然それとは話が違うんでしょうね。言葉も思いも通じるのに。どうして違うのかって、思うんでしょうね。理解、できない、でしょうね…。」
 彼女は、また手鏡を覗き込んだ。
「年のとり方についてもそうだけど…私たちは、本当に…歪な生き物ね。人間が、こぞって殺したがるのが、分かるわ。」
 そんな悲しい言葉で、けれど話は終わりだと分かった。エルンストは立ち上がり、彼女に背を向け、立ち去ろうとして、
「…そうだ。最後に、一つだけ宜しいですか?」
「手短になさい。本当に殺すわよ。」
「では。…その手鏡の、裏をご覧になられましたか?」
 後ろで、彼女が、手にずっと持っていた手鏡を裏返す気配がした。
「…中央の板ですが、仕掛けがありまして。ネジを何度も左右に回すと、外れて開くようになっています。」
「…ええ。…何か、入っているみたいね。」
 何が入っているのかは知らない。ハレルが、それだけは秘密にしたい、と言ったので、エルンストもそれ以上は聞かなかった。
 部屋を後にする。大広間は、先日の爪痕を残している。思えばあの時も、彼女は、ハレルが危機に晒されると血相を変えた。その事から、この結果を想像できなかったのは、本当に不覚と言う他無い。エルンストは唇を噛み締めながら、大広間を突っ切り、門を開き、外に歩み出た。
 日は東から登り始めており、すでに空はすっかり青い。朝の8時頃、といったところか。
 数歩、そこから歩み行かぬうちに。
 後ろで、門が開いた。
 驚いて振り向くと、日が照る中を、ヴァンパイアの少女が、歯を食いしばりながらこちらに進んできていた。
「な…」エルは目を見開いて、彼女に駆け寄った。「馬鹿な、何を考えて…!?」
「大丈夫よ…。『四紅』を甘く見ないで…。少し、苦しい、程度だわ…。」
 明らかに強がりと分かる、呻くような声。確かに、日光だけで死んだりはしないのだろうが、既にその力は人間の少女と同レベルまで落ちているはずであり、その落差は途方も無い苦しみをもたらしているはずである。
 ローブを頭からかぶせる。少しはマシになるだろうが、焼け石に水。その下から、ヴァーミリオンは、訥々と話し始めた。
「…手紙が…入ってたわ。…ううん、あれは、遺書って言うのかしら…。」
 手鏡の中。恐らく、ハレルは自分が死ぬときにでも、手鏡の仕掛けを教えるつもりだったのだろう。
「…本当に、馬鹿。そう思わない?…駄目よ、内容は教えないわ。…死ぬまで、絶対に、誰にも言わない。…だけど…だけど…!」
 フードをかなぐり捨てると、ヴァーミリオンは泣きはらした目で、エルンストを見上げてきた。
「お願い、お願いします、私は、昼は外を、長くは歩けないから…!」
「ええ、お手伝いしましょう。」皆まで聞かずに、エルは答える。「遠くへ行く前に…ハレルさんを、探し出さなくては。行きましょう、ヴァーミリオン嬢。」
 それを聞くと、彼女は微笑んで、
「それ、なんだけどね。これだけは教えてあげる…あの馬鹿、手紙の中で…『ヴァーミリオンという名前は長いから』って…『本当は、ミリー、なんて呼んでみたかった』…って…。」
 瞳に、また、涙をたたえて。嗚咽で声を詰まらせて。愛しさを溢れされながら、悪態をつく。
「馬鹿よ。馬鹿の、極みよね。…遺書で、そんな事、書いてるんじゃないわよ。60年前から、そう呼べば良かったのよ。『ミリー』…可愛いじゃない。あの、馬鹿にしては、いい考えじゃない。そう呼んでくれたら…私、だって…。」
 また泣き出した吸血鬼の少女の頭を優しくさすりながら、エルンストは語りかけた。
「…さっきは、正直…貴方にビビって言えませんでしたが、私の話を聞いてくれますか?」
 正直な告白に、彼女が少し笑うのが分かった。
「…私は、人間と魔物の間の、交渉役をしています。そして…交渉とは、お互いの自由を、織り合わせる事だと、考えています。」
「…そうかもしれないわね。それぞれの自由に折り合いをつけて、その二つを昇華させる。…でも、それがどうかしたの?」
「…パンを愛する人間が、いてもいい。自由とは、そういう事ではありませんか?」
「…そういう、格好いいセリフは…」少しの沈黙の後、彼女は笑いながら、「さっき、部屋の中で言いなさいよ。」
「これは失礼。ですが、既に私は十分格好いいですから。」
「言ってなさい、血袋の分際で…。」吸血鬼は、心底おかしそうに笑う。
 エルンストは一歩下がって、その少女に語りかけた。
「では、行きましょうか…ヴァーミリオン。」
「ちょっと、貴方…私の話、聞いていたの?」
 胡乱気な目をしてこちらを見るヴァーミリオンに、エルンストはいつものスマイルで答える。
「いえいえ。その名前を最初に使う栄誉は、ハレルにお譲りしますよ。」
 それに対し、ヴァーミリオンは、肩をすくめながらローブをかぶり直した。
「…ふん。心底キザね、貴方。」

 そして、その捜索は。わずか数分で、大きくその状況を変えた。
 そこでは、枯れ木が数本折れていた。周囲には矢が何本も刺さっており、うち2本はハレルの弩から放たれた物だとわかった。
何より、切り株の上に、『貴様の大事な物を預かった。我らの里へ来い』という手紙と、老いた男の、切り落とされた左腕が剣で縫い付けられていた。
 狂ったように走るヴァーミリオン、恐らく心あたりがあるのだろう、エルンストはそれを追いかける。照りつける太陽こそが、吸血鬼の上に立ち込める暗雲だった。
11/04/27 01:35更新 / T=フランロンガ
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■作者メッセージ
 今回も今回とて救えないお話です。いや本当は二章で終わるつもりだったのですが、ちょっと長くなりそうなのでもう一章使わせていただきます。
 えっと…ちょっと今回分かりにくいシーンがありまして、『突然』の所から、『いつの間にか』の所まで、ハレル主観です。
 自由とは、そういう事だ。元ネタはタイトルそのものの元ネタですね。

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