前編
「お、『鬼』だ、鬼がいる……」
襤褸布が如き満身創痍の身体を引き摺り、阿鼻叫喚の地獄絵図を這い進む男が一人。
両膝があらぬ方向に曲がった足は足としての役目を果たせず、辛うじて無事な腕を使って男は地獄から逃げようと芋虫の如く這い進む。
男の周囲は酷い有様だった……生者は這い進む男以外に存在せず、骸が大地を覆い尽くし、流れ出た血が河のように流れる光景はまさに屍山血河。
一〇〇人近い部隊は『たった一人』の手で、この男を残して全滅した。
軍事用語での『全滅』は部隊の三〜四割を失い、部隊が機能しなくなった事を指す。
つまり、『部隊の全滅』と言っても最小で部隊の六割が生きている事になるが、この惨状は軍事用語での『全滅』に当てはまらない。
軍事用語上では生き残っている六割も全て―正確には一人生存している為、九割九分か―死に絶え、物言わぬ骸と化している。
まさに文字通りの全滅……天災に見舞われ、為す術も無く飲み込まれた町の如き惨状だ。
「何処に行くつもりだ?」
「ひぃっ!?」
這い進む男の背に足が踏み下ろされ、恐怖で歯を鳴らしながら男は背を踏む者を見る。
恐怖に震える男の背を踏む者は少女……『可愛い』よりも『凛々しい』が似合う端整な顔、ポニーテールで束ねた藍色の長髪、一八七センチという女性としては破格の長身。
臍の下辺りからスリットの入った空色の袖無しワンピース、手には指の出る蒼い革手袋、男踏みつける足には紺色の布地のジョッキーブーツ。
全身青一色の少女は男なら誰でも口説きたくなる美少女だが、全身に浴びた夥しい鮮血と血の臭いが整った容姿を台無しにしている。
「た、たす、助けてくれぇ!」
「貴様はそう叫んだ無辜の民を何人その手で殺したのだ? 少なくとも、十指に余る程は殺してきたのだろう?」
命乞いをする男を氷の如き冷たい目で見下ろす青い少女は、背を踏む足に力を入れる。
「ひ、ひぃ!?」
その足が出す力を男は知っている……鎧兜を紙屑のように砕いた足だ、ボロボロになった鎧を踏み抜くのは赤子の手を捻るより簡単だろう。
魔物を超えた地上最強の生物、そんな言葉が死の瀬戸際に立たされた男の脳裏に浮かぶ。
冷たい目で見下ろす血塗れの美少女は、そう表現するに相応しい威圧感を放っている。
「い、嫌だ! し、死にたくない! 俺は死にたくないぃ!」
死の恐怖から逃れようと男は四肢をばたつかせるが、背を踏む足は微塵も揺らがない。
それどころか、ジワジワと恐怖を煽るように力を強めていく。
「し、死にたく」
「死ぬがいい」
叫ぶ男の背を青い少女は無慈悲な言葉と共に踏み抜き、男は絶命する。
死んだ男から青い少女は足を引き抜くと、男の下の地面には一〇センチ程の深さの靴跡の形をした穴があった。
恐ろしいのは穴の周囲には『微かな罅すら無い』事……たった一人で一〇〇人近い部隊を全滅させた事もあり、この青い少女は想像を絶する鍛練を積んでいる事が分かる。
「全く、功の足りん連中だ……我(オレ)に挑むなら、せめて素手の貫手で鉄板を貫ける程の功を積んでくる事だ」
彼女以外の生者無き戦場跡で、青い少女は溜息と共に呟く。
その言葉、青い少女を知らぬ者が聞けば『そんな事が出来る者はいない』と言い、彼女を知る者なら肩を竦めながら『彼女なら出来る』と言うだろう。
事実、青い少女は車のドアを『素手で貫いた』事がある……而も、一度も事故に遭った事の無い新車同然の車のドアを、だ。
その細身の身体に、一体どれだけの筋肉を青い少女は詰め込んでいるのだろうか。
「さて、用も済んだ。迅速に帰るとしよう」
周囲を見渡し、己以外の生者がいない事を確認した青い少女は数度深呼吸をすると一気に走り出すが、その速度は人間が出せる速度を上回っていた。
ほんの数秒、瞬く間に青い少女は数十メートルの距離を駈け、その一歩は最早『走る』と言うより『跳ねる』と言った方が適切だ。
およそ人間として有り得ない、跳躍じみた疾走を見せる青い少女の名は藍香東(アイカ・アズマ)。
魔の為に悪を討つ、天才格闘少女。
×××
『く、うぅ……此処は何処だ?』
一ヶ月前の事だ……家族揃っての夕食の途中、耳鳴りに襲われた東は紫色の光に包まれ、気が付けば大人程はある大きな燭台が並んだ薄暗い部屋の中にいた。
『何だ? このファンタジー感漂う場所は?』
『確か、突然耳鳴りがして……』
『それよりも早く退いてくれ、流石に重い……』
周囲を見渡せば、顔の上半分を覆う鉄仮面を被った純白のスーツを纏う少年と淡い紫色の燕尾服を着た眼鏡の少年が、東と同じように周囲を見渡している。
その二人の下では、真っ黒な胴着を着た巨漢が上に乗っかる二人の体重で悶えていた。
『琴乃(コトノ)、武人(タケヒト)、堯明(タカアキ)!』
『ん? 東か、足りんな』
『義弟』三人を見つけた東に向こうも気付いた―と言っても、目と鼻の先だが―らしく、仮面の少年が東の姿を確認するのと同時に『足りない』と呟く。
その呟きで東は気付く……この場で感じられる気配は自身も含めて四つ、確かに『四つ』足りない。
『そうだ、紅蓮(グレン)……紅蓮達は何処だ!?』
『落ち着け、東! 今は現状把握が最優先事項だ!』
絶対の信頼を寄せる義兄弟の不在に気付き、何処かに駆け出そうとする東を仮面の少年が引き留める。
『止めるな、琴乃! 我は紅蓮達を探す!』
『紅蓮達を探したい気持ちは理解出来る……正直、私も即座に捜索を開始したい。だが、右も左も判別出来ん状態で飛び出しても、その果てにあるのは無駄死だ』
険しい表情で振り返る東に仮面の少年―琴乃、というらしい―の正論がぶつけられ、正論の向こうに見え隠れする感情で東は冷静さを取り戻す。
そうだ、義兄弟達の安否を心配しているのは自分だけではない。
仮面の少年も、眼鏡の少年も、胴着の巨漢も、この場にいる全員が義兄弟達の行方不明に心を痛めている。
『先ずは現状の把握……』
此処は何処で、何故自分達はこんな場所にいるのか?
ソレを調べようと仮面の少年が言おうとした瞬間、キィ…と扉の軋む音が四人の耳に届く。
『お、おぉっ!? 『異界召喚(サモン・アナザルド)』の魔法陣に反応が出たから来てみりゃ、四人もいらぁ! 条件、ちょいキツめで設定したのに四人も来るたぁ、三年も待った甲斐があるじゃん!』
扉を開けて現れたのは、同性の東も思わず見蕩れる美女。
『って、デカっ!? デカい、デカいよ、この人達! アテもデカい部類に入るけどさぁ、アテよりデケェなんてどんだけだよ!』
が、現れた美女は東達の身長に『ピョイ〜ン』と擬音が付きそうな程に驚き、飛び退いた。
現れた美女は目算でも一七〇センチ弱……確かに女性としては身長が高い部類に入るが、彼女を含めたこの場に居る五人の中では彼女が『一番背が低い』。
謎の美女<東<仮面の少年<眼鏡の少年<胴着の巨漢、と背が低い順に並べればこうなる。
『……………………』
突然現れた美女の滑稽さを感じさせる仕草に、すっかり緊張感が抜けてしまったらしい。
戦闘もやむなし、と構えていた東達は互いの顔を見合わせた後、改めて美女を観察する。
同性の東も思わず見蕩れる程に整った顔立ち、新雪を思わせる純白の長髪は耳の上辺りでピョコンと横に跳ねている以外に癖の無いストレート。
白地に黒の縞模様―虎柄ならぬ白虎柄か―の武骨な胸当てと肩当て、手の甲に短い鉤爪が付いた白虎柄の武骨な籠手以外、正面から見る限り上半身は何も着けていない。
下半身に視線を移せば真っ黒なズボン、その裾は膝から下を包む武骨なグリーブ―勿論、このグリーブも白虎柄だ―の中に詰めてある。
軽装の女兵士とでも言える服は思わず目を奪われる美貌と不思議と噛み合い、一種独特な魅力を醸し出している。
『刀のような女だな……』
そう、仮面の少年が言うように目前の美女の美貌を例えるなら刀。
綺麗な状態は勿論、血や泥に塗れていても美しさを損ねない……寧ろ、塗れる事で美しさを一層引き立てる、そんな美しさを目前の美女は備えている。
『いや、女……なのか?』
『おいこら、テメェ。アテが女以外の何に見えんのさ』
次いで紡がれた言葉に美女がジト目で反論するが、疑問形になるのも当然だ。
何故なら、人ならざるパーツが美女に付いているのだから。
頭頂部には闇夜が如き漆黒の二本角、腰には髪と同じ純白の蝙蝠じみた翼、不機嫌そうに小刻みに震える先端がハート型の白い尻尾。
悪魔を想起させるパーツを付けている以上、疑問形になっても仕方がないと言える。
『ま、しょうがねぇか。『異世界』の人間から見りゃ、アテはヒトに見えにきぃだろうしな』
反論のジト目が一転、ヒトとは言い難い美女は自嘲するような……己がヒトではない事を、重々理解しているような笑みを浮かべる。
が、ヒトとは言い難い美女の言葉、その中の一つの単語に東達は眉間に皺を寄せる。
異世界、ソレは一体どういう事なのか?
『ついてきな、ゆっくり話せる場所に案内すっからさ』
『……………………』
踵を返して歩き出すヒトとは言い難い美女の背を見ながら、東達は思案する。
このヒトとは言い難い美女、信用に値するか否か。
『ほらほら、ボケッと突っ立ってねぇでさ』
『……………………』
ついてこないのを感じ取ったのか、数歩程歩いた所でヒトとは言い難い美女は振り返ってついてくるように促す。
その促しに東達は思考を一時中断し、ヒトとは言い難い美女の後を追う。
―ガンッ!
『……………………』
『あぁ〜……オメェ、大丈夫か?』
直後、この面子で一番大きい胴着の巨漢が入口に額をぶつけて声にならない呻きを上げた。
『んじゃ、適当に座ってくり。ダチの家に遊びに来たみてぇに、気楽にしてくれよ』
険しい表情を浮かべる東達が案内されたのは、何かの事務所を思わせる実用性本位の部屋。
机や箪笥等の必要最低限の家具だけ置かれ、部屋の隅にベッドは牢屋に置かれていた方がしっくりくる程に質素な造りだ。
『見たくなんのも分かるけどさ、レディの部屋をジロジロ見んなって』
入口正面、部屋の奥に置かれた大きな机……その上に積まれていた何かの書類を退かし、腰を下ろすヒトとは言い難い美女の言葉からして、どうやらこの部屋は彼女の私室らしい。
『はっきり言わせてもらうが、『魔王の娘』とは思えぬ程にみすぼらしい部屋だな』
『ぎゃふん!?』
来客用らしいソファーに座ると同時に仮面の少年が口を開き、率直過ぎる感想にヒトとは言い難い美女は銃に撃たれたかの如く仰け反る。
『はっきり言い過ぎだろ! 肩書とアテの趣味は関係ねぇ!』
『それでも、もう少し飾る事を覚えたらどうだ? 魔王オリジナ・フォン・ラブハルトが第五王女、アステラ・フォン・ラブハルト』
『うっせぇ! つぅか、みすぼらしいって何だよ! せめて、控えめって言えよ!』
『控えめも過ぎれば卑屈と同義だ』
仮面の少年とヒトとは言い難い美女……アステラのやり取りを尻目に、東は案内の途中で語られた事を脳内で反芻する。
此処は異世界、東達の世界とは異なる世界。
此処は異世界、人間と魔物が存在する世界。
この世界の魔物はアステラの母、現魔王であるオリジナ・フォン・ラブハルトの力に因り、その姿は嘗ての面影を残しながらも見目麗しい美女となった。
姿の変化と同時に精神も変わり、人食いだった魔物は人間を愛するようになった。
嘗ての面影を残しながら、魔物が人を心から愛する美女になったのは魔王の理想の第一歩、この世界を平和にする為だ。
嘗て、この世界ではオリジナ・フォン・ラブハルトが魔王に就任するまで、人間と魔物が種の存亡と世界の覇権を賭けて血で血を洗う争いを繰り広げていた。
当時、次期魔王候補と謳われるサキュバスだったオリジナは長きに亘る戦争を憂い、この戦争に終止符を打つべく行動を開始した。
人間と魔物、二つの異なる種族がいるから戦争が起きる。
なら、『束ねてしまえばいい』。
人間と魔物を一つの『人類』として束ねる事で、オリジナは世界に平和を齎そうと考えた。
そして、魔王の座に就いたオリジナは魔王と魔物は魔力で常時リンクしている事を利用し、己が理想、己が精神を伝播。
伝播と同時に魔物の根幹、『人間を襲い、喰らう生物的上位存在』の改竄に着手。
無論、オリジナの試みはこの世界を創造した主神の反感を買う事になったが、当時最強の人間である勇者アスル・D・ベイナーがオリジナの理想に共感しての謀反。
本来実力主義で同族殺しも辞さない魔物が何故か彼女に協力した事に加え、神族の中からオリジナに同調する者達が現れた。
今の主神は先代から交代したばかりの女性神格だった事もありオリジナへの粛清は失敗、彼女に同調した神族の保護もあって主神は迂闊に彼女に手を出せない状態に陥った。
然し、オリジナの目指す世界平和は未だ達成されていない……この世界を創造した主神に匹敵する存在と化したオリジナでも、その設定は簡単に改竄出来る代物ではなかったのだ。
結果、魔物の設定改竄は『人間を襲う』、『魔物は生物的に上位存在』という設定が残った中途半端な改竄に終わってしまう。
その為、魔物が人間との間に子を為したとしても、生まれてくる子供は一部例外を除いて母方と同じ魔物となってしまい、それでは種族統合は夢のまた夢。
何れ人間も魔物も子孫を残せず共倒れになってしまうが、ソレはオリジナの力が高まれば何れ解決出来る問題だそうだ。
オリジナの世界平和への課題はもう一つ。
主神を崇拝し、魔物の殲滅を目指す武装宗教組織・『教団』の存在だ。
教団は善良・禁欲・高潔を教義の軸とし、長年に亘って積み重ねられてきた怨恨もあって、教義を真っ向から否定する魔物を敵視している。
ソレに加え、魔物と人間の間では魔物しか生まれないという人類絶滅への危機感が教団を魔物の殲滅に駆り立てている。
争いを好まない温和な性格のオリジナは度々和平の使者を教団に派遣しているが、成果は芳しくないそうだ。
『ラブハルト殿、我々を貴殿の世界に招いたのは一体如何なる理由なのでしょうか?』
『あ、いっけねぇ、すっかり忘れてた』
ソファーに座らず、扉の直ぐ横に立つ胴着の巨漢の問いに、アステラは思い出した―事実、今まで忘れていたらしい―ように口に手を当てる。
『アテがオメェ等を呼んだのは、『勇者』をやってもらいたいからさ』
魔物側のだけど、と締め括ったアステラの言葉に東達は互いの顔を見合わせ、
『あはははは!』
『ふはははは!』
『わ、私達が勇者を? ソレは冗談か、何かですか? あはははは!』
『……………………』
『え、何? アテ、そんな大爆笑されるような事言った?』
東、仮面の少年、眼鏡の少年は腹を抱えて大爆笑、胴着の巨漢は顔を俯かせて笑いを堪え、突然笑い始めた四人にアステラは困惑を隠せない。
『いや、くくっ、失敬……我々とは、ぬふっ、最も縁の無い、くふっ、言葉が、ぷふっ、出てきた、ぶぷっ、のでな?』
『笑うか、喋るか、ドッチかにしろっての。オメェ等が落ち着くのを待つのも面倒だし、話を続けんぞ』
未だに笑い続ける東達に呆れながら、アステラは彼女達をこの世界に呼んだ理由を語る。
『さっきも話したけど、教団はアテ等魔物や魔物と仲良しの人間を敵視してる。だけど、アテ等の方が強い部分が多いから、連中はアテ等に勝てねぇ』
魔物と人間は身体能力等に絶対的な差があり、『勇者』と呼ばれる主神に選ばれた存在でもアステラを始めとした上位の魔物を相手にすれば敗色濃厚。
故に魔物に人間は勝てず、魔物に挑んで真実を知った人間は彼女達と共に生きる事を選び、魔物を敵視する教団は徐々に勢力を減らしていく、ソレがこの世界の現状『だった』。
『ところがぎっちょん、『ゴリアテ』と『アイアンマン』……この二つの登場で、アテ等は一気に劣勢へ追い込まれたのさ』
アステラの重い声で笑っている場合ではないと分かったのか、東達は一転して真剣な表情を浮かべる。
『何だ? その『ゴリアテ』と『アイアンマン』とやらは』
『オメェ等の言葉で言えば前者は人型巨大ロボット、後者はアンドロイドって奴さ』
東の問いに対するアステラの答えは、彼女達に衝撃を与えるには充分過ぎた。
『どうやって連中がソッチじゃ空想の産物に過ぎねぇ代物を知って、全体的に見りゃ劣るアテ等の世界の技術でソレを造れたのかは分からねぇ……けど、アテ等の世界にゃ、人型巨大ロボットとアンドロイドが実在してる』
衝撃で言葉が出ない東達を尻目に、アステラは忌々しさを籠めながら話を続ける。
『人間は魔物に勝てない』という半ば常識化した認識は教団の開発した新兵器で覆された。
『ゴリアテ』と『アイアンマン』、人型巨大ロボットとアンドロイド。
東達の世界では空想の産物に過ぎない代物がこの世界に存在しており、その『ゴリアテ』と『アイアンマン』を開発したのはネルカティエという軍事都市だ。
一五年前、教団圏内でも第二の規模を誇るレスカティエを、アステラの姉であり第四王女であるデルエラ・フォン・ラブハルトが陥落させた。
無論、教団はレスカティエ奪還を試みるが見事失敗、人類の希望は一転して教団の汚点と化し、それでも諦めきれなかった教団の一部が興したのがネルカティエである。
レスカティエ奪還を当面の目標にオリジナの殺害を狙うネルカティエだったが、魔物側の妨害でソレは遅々として進まなかった。
だが、今から五年前、『ネフレン=カという女に気を付けろ』という報告を最後に工作員の潜入は尽く失敗し、ほぼ同時に親魔物派領にゴリアテとアイアンマンが現れた。
ゴリアテとアイアンマンは次々と親魔物派領を壊滅させ、優勢だった親魔物派は瞬く間に劣勢へと追い込まれた。
『これじゃ不味いって気付いたアテは『異界召喚』の使用をお袋に申請、許可が下りると直ぐに『異界召喚』を使ったのさ』
完全にオーバーテクノロジーであるゴリアテとアイアンマンの登場に、アステラは異世界のモノを召喚する古代の大魔術・『異界召喚』の使用をオリジナに申請。
許可が下りると同時にアステラは『異界召喚』を行った、ソレが今から三年前の事である。
『何で使ってから三年経ってオメェ等が来たのか、ソレはアテも分かんねぇよ……まぁ、召喚の条件にちぃと無理があったからってのが、アテの推測だけどねぇ』
『異界召喚』は使用する際に召喚するモノに対して条件の付加が可能らしく、アステラは『ゴリアテとアイアンマンに対抗出来る人間』という条件を付加した。
普通に考えれば、人型巨大ロボットとアンドロイドに対抗出来る人間はいない。
それでも条件に合致する人間を探し続けた結果、遂に東達が条件に合致。
故に使用から召喚まで三年も掛かったのではないか、というのがアステラの推測だ。
『当分、オメェ等は元の世界に帰れねぇ。その代わり、その間の衣食住はアテが用意する』
『異界召喚』はアステラですら一瞬で魔力を空にする程に膨大な魔力を必要とし、魔力を溜める事に専念しても最速で半年は掛かる。
然し、アステラは魔王軍の要職に就いている為ソレだけに専念する訳にもいかず、仕事をこなしながらでは早くとも一、二年は掛かる。
魔王が使えばいいじゃないか、とも思うが『異界召喚』を使えるのはアステラだけらしく、彼女の母であり現魔王であるオリジナですら『異界召喚』を使えないらしい。
その代わり、滞在中の衣食住はアステラが用意してくれるそうだ。
『まぁ、戦闘力じゃなくて知識を買われて召喚されたって可能性もあるけどね』
『……成程、な』
戦闘力か知識のどちらを買われたかは分からないが、兎に角この世界に召喚された東達は当分元の世界に帰る事は出来ないそうだ。
その事実に仮面の少年は溜息交じりに納得―所々、納得していない部分もあるが―したと告げ、残る三人も彼に追従するように頷く。
『納得してくれて何よりさぁねぇ。ま、取り敢えず』
東達の頷きにアステラは人懐っこい笑みを浮かべ、
『ようこそ、異世界へ』
彼女達の来訪を歓迎した。
×××
「おかえり。服、脱いで」
「あぁ」
一〇〇人近い部隊を一人で全滅させ、当面の拠点であり現魔王オリジナ治めるアーカムに戻ってきた東。
門番に軽く帰還報告を済ませ、医務室の扉を開けると同時に服を脱げと言われる。
突然服を脱げと言われたのに東はソレに動じる事無く―ソレが何時もの事のように―服を脱ぎ、その身長のように大きく育った胸がプルン…と揺れる。
東の一張羅でお気に入りのワンピースの下はサラシと褌、下手な勝負下着よりも扇情的だ。
因みに東は女性としては致命的なまでに服に無頓着で、彼女が敬愛する義父に『せめて、下着は着けるように』と言われるまでワンピースの下はノーパンノーブラだった。
「それじゃ、始めるね」
「うむ」
服を脱ぎ、ベッドの上にうつ伏せで横になった東の元に寄るのは少年……くすんだ銀髪は職務上短く切り揃えられ、声変わりがまだ来ていないような若干高めの声と童顔。
一四〇センチ程しかない小柄な体躯は少女にも見える童顔もあってショタコンホイホイ、その手の趣味の者には垂涎物だが、これでも少年は東の二つ上の『一九歳』である。
子供にしか見えない少年が纏うは清潔感溢れる白いポロシャツにベージュのハーフパンツ、その上には染みは無いが皺は在る草臥れた白衣。
少年の名はヘルガ・ゼーレンボルグ、アーカム常駐の魔王軍の中でも名高い軍医である。
「ん、んんっ……あふっ、あっ……」
「気持ち良い?」
「あぁ、そうだ……んんっ……」
艶めかしい声が東の口から漏れるが何という事はない……ヘルガが行っているのは単なるマッサージであり、二人の関係はスポーツ選手とマッサージ師に近い。
元の世界には当分帰れず、この世界に残る事を余儀無くされた東は召喚直後、戦力として召喚されたのかを見定める為の模擬戦を行った。
結果はアステラを始めとした軍上層部を唖然とさせる圧勝、ソレ以降東達は連日―分担はしているが―親魔物派領を襲撃する教団の迎撃に駆り出されている。
『アステラ、今戻ったぞ』
『おぉ、お帰り……って、何じゃこりゃぁぁ――――――――――!?』
『ん? 何を驚く? 別に大した怪我ではないぞ』
『ソレの何処が大した怪我じゃねぇんだよ!? め、メディック、メディ―――ック!』
召喚された翌日、早速教団の迎撃に赴き、全身血塗れで帰還した東に仰天したアステラは大慌てで医師を手配した。
結論から言えば東の全身を染めた血は全て返り血であり、彼女自身の怪我は自己申告通り大した怪我ではなく精々軽い打撲だけだったが、全身血塗れで現れれば誰でも驚く。
その時アステラが手配した医師がヘルガであり、ソレを切欠に二人の交流が始まったが、二人の交流は魔物から見れば非常につまらない。
教団の迎撃から戻る度に東は医務室に顔を出し、ヘルガはマッサージと軽い問診を行い、その後は他愛無い雑談を交わすだけ、と実に健全な交流だ。
「何時も思う事だけど、何故東は魔物化しないの?」
「はふっ、さぁ、んんっ、なぁ?」
マッサージを休めずに問うヘルガに、気持ち良さそうな表情を浮かべながら東は答える。
現魔王たるオリジナの直轄地であるアーカムの大気には超高密度の魔力が含まれており、早ければ一時間、遅くとも二四時間以内で人間は魔物へと変わる。
女性は大抵オリジナの眷属であるサキュバスへ、男性なら快楽主義者の魔物との性生活に適応した半人半魔のインキュバスへ変化する。
コレは所詮人間でしかない勇者でも同じ―実際、ヘルガも既にインキュバス化している―事なのだが、未だ東には魔物化の兆候が見られない。
故に東はアーカムで唯一の人間の女性という事になり、コレにはアステラは勿論、彼女の母であるオリジナも首を傾げている。
「マッサージ、問診、共に終了。お疲れ」
「ふっ、毎度毎度済まないな」
「仕事だから」
マッサージと問診が終わり、服を着ながら礼を言う東にヘルガは素っ気ない答えを返すが、恋愛事に鋭い魔物が聞けば、返した答えに微かな喜びがあるのを察知しただろう。
その容姿故に頻繁に未婚の魔物に狙われるヘルガにとって、東の下心無し―彼を男として見ていないという可能性もあるが―の健全な交流は心地良い物がある。
「さて、長居をして仕事を滞らせるのも気が引ける。門外漢はさっさと退散するに限るな」
「…………?」
マッサージと問診の後は雑談を交わす―魔物は滅多に医務室の世話にならない為、仕事は少なく意外と暇なのだ―のに、東はそそくさと医務室から立ち去る。
「では、な」
「う、うん……」
何時もの凛々しさ漂わせる微笑を浮かべながら去る東に、ヘルガは珍しさと同時に漠然な不安を感じた。
×××
「はぁ……何とか、持ってくれた、か」
医務室を立ち去った東はまるで隠れるように壁に靠れ、遠い目で天井を見上げる。
「はぁ、はぁ……ごふっ、げふっ、がふっ!」
病気とは無縁そうな東の顔は青褪め、息も荒い……先程までは何事もなかったのに、突然東は口に手を当てて激しく咳き込む。
口に当てた手の隙間、指の間から石造りの床に滴るは赤黒い雫。
血
咳き込む度に血は掌を紅く染め、隙間から漏れて滴り落ちる。
咳が落ち着き、幾分顔色が良くなった―それでも普段の活気は見る影も無いが―東は血に濡れた己が掌を見て、無理矢理作ったような硬い笑みを浮かべる。
「は、ははっ……随分とまた、寿命を縮めたか。『あと一回』、といったところか」
「ソレは……あと一回、武を遂行すれば『お前が死ぬ』という事か」
「あぁ、琴乃、か……」
背後から不意に聞こえた声に東が振り返ってみれば其処には仮面の少年、東の義弟である白城(シラギ)琴乃がいた。
顔の上半分を覆う鉄仮面を被っている為に表情の判別がつかないが、それでも東の身体を心配し、危惧しているのは声で分かる。
「お前の推測通りだ……あと一回、その一回で我は死ぬ。ふっ、もう我の身体は崩壊まで秒読みの段階だ」
言われなくても分かっている、身体の事は他ならぬ東自身が知っている。
「何故……何故、そうなるまで身体を放置していた! いや、ソレ以前に何故アステラに身体の事を話さなかった! 我々の世界では無理だった治療も、魔術の発展したこの世界の医術なら完治するかもしれなかったのだぞ!」
「それでも、だ」
何故身体の事を黙っていたのかを語気荒く問う琴乃に、東は血に濡れた掌を見つめながら冷たく答える。
「我は武……武の為ならこの身、この命、惜しむ必要は無い」
感情の消えた、冷たい言葉に琴乃は頬を噛む。
東の信じる『武』は大衆の信じる『武』とは違う。
大衆は言う、戈を止めるのが武の一文字。
東は言う、戈『で』止めるのが武の一文字。
如何に取り繕っても振るわれるのは所詮暴力、所詮殺法。
結局の所、暴力に勝てるのは同じ暴力だけという現実。
ならば、罪を背負ってでも弱き者の為に暴力を振るう。
ソレが東の信じる『武』だ。
「言いたい事は分かるが、それでも明日を考えろ! お前は紅蓮達と会いたくないのか! せめて、再会する時まで生きようと」
「諄い! 我の命の采配は我が決める! 我の命は、他ならぬ我のモノだ!」
あと一回戦えば死ぬ、それでも自分の信じる『武』を遂行する。
今は行方の掴めていない義兄弟達との再会するまで生きろ、と言う琴乃に東は自分の命の末は自分で決めると叫ぶ。
「ふぅ、ふぅ……少し、興奮したな。先に失礼させてもらう」
「…………東」
フラフラと普段の活気が見る影も無く失せた足取りでアステラの用意した部屋に向かう東、その背中を琴乃は見送るしかない。
東の背中が見えなくなった琴乃は決意の表情―仮面で隠れてはいるが―を浮かべ、カツ、カツ…と靴音を鳴らして『ある部屋』へと向かう。
自分の後をつける者がいるとは気付かずに。
×××
「おっ、琴乃じゃねぇか。アテに何か用?」
「あぁ、用ならある……ソレも私にとっても、『貴殿』にとっても大事な用だ」
「……話、聞かせてくれよ」
琴乃が訪れたのはアステラの私室。
ノックもせずに入室してきた琴乃にアステラは真剣な表情を浮かべる。
真剣さを帯びた声、呼び捨てでいいのに態々畏まった呼び方、その二つが単なる世間話をしにきたのでは無い事を悟らせる。
「東の事で話がある」
「東の? 東に何か起きたのか?」
「『起きる』、のではなく『起こる』のだ。それも近い内に、な」
東の身に何かあったのか、とアステラは思ったが琴乃の言い回しからどうやら違うらしい。
東の身に何が起きるのか、アステラは想像がつかない。
「結論から言おう、今度東が教団の迎撃に出れば『東は死ぬ』」
「…………冗談、でもねぇな。マジか」
「無手の近接格闘に於いては無敵、地上最強の生物と称されても不思議ではない東だが、東には『病弱』という致命的な弱点がある」
「……………………」
付き合いは短いものの、琴乃はこんな冗談を言う男ではない事は知っているが、それでも俄かに信じ難い言葉にアステラは言葉を失う。
東の力をアステラは身を以て知っている、なにせ彼女の模擬戦の相手を務めたのだから。
アステラ・フォン・ラブハルト、無手での戦いならリリム……いや、大陸の中でも並ぶ者無し、と謳われる武力を誇り、『アーカムの白虎』と反魔物派領で恐れられる武闘派。
ソレを真っ向から完全粉砕したのが東だ。
模擬戦の際、東は対戦相手を本人的には『牽制の軽い一撃』で一〇メートルは吹き飛ばし、城壁に叩き付けた。
御身が危うい、と止めるギャラリーを振り切ってアステラが相手を申し出た結果、彼女は『たった二撃』で先の相手と同じように吹き飛び、叩き付けられたのだ。
「アレで病弱? ソレ、何かのギャグ? 奥深過ぎて笑い所がわっかんねぇよ……」
「ギャグでも冗談でもない、東は生まれつき人として致命的欠陥を持って生まれたのだ」
魔王の娘をたった二撃で倒した人間が病弱、確かに東の事を知らぬ者が聞けば性質の悪い冗談にしか聞こえない。
「東は生来、免疫力が異常までに低い……我々と同年代、且つ健康な者を一〇〇とすれば、東の免疫力は一〇に届くか届かないかという低さだ」
驚愕の事実に目を見開き、絶句するアステラを尻目に、琴乃は過去を思い出すように語る。
東の秘密、東の過去を。
藍香東は生まれつき免疫力が低く、琴乃の例えは彼女の免疫力の低さを如実に示している。
普通の人間なら罹る事の無い病気に罹り、その免疫力の低さ故に罹った病気が治り難い。
普通の人間なら『たかが』で済む病気も、東にとっては致命的な重病と化す。
最悪なのは、この異常な免疫力の低さは改善の余地が無いという事。
故に東は両親から見捨てられ、医者も匙を投げた。
薬代も入院費もタダではない……有限の貯蓄を一人で食い潰す金食い虫、ソレが両親の東に対する認識だった。
両親の東への嫌悪に拍車を掛けたのが、彼女から『漏れ出る冷気』。
東の病室は南極海産の氷を直送で持ち込んだのかと思える程に寒く、幾等暖房を回しても機械仕掛けの温かさを凌駕する冷気を東は放っていた。
金食い虫という認識、不可解な冷気、その二つが東から両親の愛情を奪った。
その為、幼い頃の東は今の彼女とは違って自己主張が極めて薄い、人形のように無感情な性格だった。
ソレを変えたのが、後に東の義父となる一人の男。
何処から聞いてきたのか、男は東を養女として引き取りたいと申し出た。
男の申し出に両親は快諾するが、肝心の東本人は『変な人』という認識しかなかった。
どうせ直ぐに愛想を尽かす、当時の東はそう思っていたがソレは良い意味で裏切られた。
東を引き取った男は如何なる手を用いたのか……煩雑な手続きを魔法の如く手早く済ませ、東を自宅に運び込むと献身的に彼女の面倒を見た。
男は東に愛情を注ぎ続け、絶え間無く注がれる愛情は次第に東に心を取り戻させた。
男の自宅には東と似た境遇の、何らかの事情で両親に捨てられた孤児が集まった。
心を取り戻した東は直ぐに他の孤児達と仲良くなり、義兄弟の契り―言い出しっぺは炎の如き真っ赤な髪をした男の子で、戸籍上では既に義兄弟だったが―を結んだ。
そして、男の献身的な介護で、免疫力の低さは変わらなかったが東は動けるようになった。
動けるようになった東は己の身体を呪った。
何故、こんなに自分の身体は弱くて脆い。
ソレが嫌で堪らなかった東は、『もう少し身体を治してから』という義父の反対を押し切り、武術を『独学で』学び始めた。
己の吐いた血反吐の中に倒れる事、数百回。
案山子の如く立ったまま気絶する事、数千回。
その壮絶な修練に止める事を諦めた義父の手解きもあり、『病弱』というコンプレックスを発条に東はどんどん強くなり、現在に至る。
「ほぇ〜……陳腐な表現だけど、壮絶だね」
「コンプレックスからくるその執念、我が義姉ながら恐ろしかったが……話を続けよう」
コンプレックスを発条とした壮絶な修練は、東に人智を超えた業を与えた。
中国内家拳法、血流や呼吸を律する事で鍛えた『氣』を駆使する千古の知恵。
内家拳法は極める事は至難でも、極めた果てには人智を超えた驚異の世界が待っている。
元々病弱な東では、身体の『外側』を鍛えたところで直ぐに限界が訪れる。
故に、身体の『内側』を鍛える内家拳法を東は学んだ。
深淵無辺の世界を見せる千古の知恵は、東に人智を超えた業を与えた。
『氷結発頸(ヒョウケツハッケイ)』、特殊な錬気で拳足に極低温の冷気を孕ませ、触れると同時に放出する。
壮絶な修練の果てに東が編み出した魔性の気功術、その拳足に触れた者を問答無用で屠る殺戮の絶技(アーツ・オブ・ウォー)。
この『氷結発頸』、その正体は本来ならば東達の世界には存在せず、アステラの世界にのみ存在する『魔術』である。
幼少の東が放っていた冷気も無意識的な魔術の発現であり、東は本来なら存在しない筈の魔術の才を備えていたのだ。
尤も、東自身は自分には魔術の才能は無く、『氷結発頸』も壮絶な修練の果てに編み出した我流の内家拳法だと思っている。
いわば、東は『無自覚の魔術師』なのである。
「んで? 東が本人無自覚の魔術師っつぅのは、アテも知ってる。けど、あと一回戦えば東が死ぬのと何の関係があんのさ?」
「関係はある。東の『氷結発頸』は諸刃の剣、使えば使う程に死へ近付く」
『氷結発頸』は創始者にして唯一の使い手である東の身体に、相当な負担を強いる。
数多の病魔に侵された身体は魔術の行使に耐えられるような代物ではない上に、極低温の冷気を生み出す錬気法は只でさえ大きな負担を掛けている身体に更なる負担を強いる。
病魔で衰弱した臓腑は一度の錬気で深く傷付き、使えば使う程に傷は加速的に深まる。
『氷結発頸』は触れた者を問答無用で屠る絶技であるのと同時に、使い手の命までも蝕む諸刃の剣であり、無論、編み出した東がソレを知らない筈が無い。
東は自身が編み出した絶技が、己が命を削っているのを承知で『氷結発頸』を使っている。
自ら死に赴くような真似をする東だが、周囲の人間がソレを見過ごすような事はしない。
たまに『バイト』を用意する義父は東の事情を考慮し、バイトの合間には内傷を少しでも癒せるように充分なインターバルがある。
「……ちょい待ち、魔術を使う必要のある『バイト』って何だよ? まさか、テロリストに殴り込みとかでもすんのかぁ?」
「……………………話を続けよう」
「無視すんじゃねぇ! そして、その間は何だよ!」
更に負担を少しでも減らす為、東は一撃必殺を狙うようになった。
一撃必殺を狙えば戦闘所要時間は自然と短縮され、臓腑の内傷も小さくなるからだ。
そういった考慮のお陰で東の身体は何とか命を繋いできたのだが、今の状況は些か厳しい。
琴乃達と分担しているとはいえ、連日連夜の攻撃は身体を労わり、内傷を癒す暇が無い。
度重なる『氷結発頸』は使い手(東)を追い詰め、その臓腑は最早回復不能な内傷だらけ。
生きているのが不思議な程の内傷を負いながら東が生きているのは偏に鍛え抜かれた鋼の精神の賜物だが、ソレも限界寸前なのだ。
あと一回教団の迎撃に出れば東の身体は崩壊し、その命は潰える。
「話というのは他でもない……アステラ、貴殿に東の魔物化を依頼したい」
「本人の了承は、ねぇよなぁ」
「当然だ、全ては私の独断……まぁ、東の身体の状態を知れば、武人と堯明も私の提案に賛成するだろう」
魔物化は対象を魔物に変えると同時に病気や先天的な欠陥、損傷を治癒・修復し、健康な身体にするという副次効果がある。
元の世界では為し得なかった東の免疫力改善……東の身体の限界を知った琴乃は魔物化に一縷の望みを賭け、アステラに東の魔物化を頼む為に彼女の私室を訪れたのだ。
今は行方不明の義兄弟、その四人と再会を果たすまで東を死なせたくない。
その想いが琴乃を動かしている。
「可能か?」
「出来る、出来ないで言えば出来る。けど、あの東には何が相応しいかにゃぁ」
「相応しい、だと? ソレはどういう事だ?」
「あぁ……アテは姉ちゃん達みてぇな遊び半分の魔物化は絶対やらねぇ、アテの魔物化は最初から最後まで真面目な魔物化さ」
全ての魔物の魔力をその身に宿すリリムはエンジェルやエルフ等、元々魔物ではない種族とリリム以外なら、どんな魔物にでも―対象の素質次第だが―変える事が出来る。
アステラの姉達は『魔物化したら、どんな交わりをするのか?』という面白半分の理由で魔物化させる事が多いが、武闘派のアステラはそんな『遊び』を持ち込まない。
徹頭徹尾、アステラは対象の素質や性格等を考慮した魔物化―サキュバスが相応しいならサキュバス、ラミアが相応しいならラミア、といった具合だ―を行う。
「東の性格とか考えると……やっぱ、武闘派の魔物だな」
「武闘派、と言うが具体的には誰だ?」
「うぅ〜ん……リザードマンにサラマンダー、あとデュラハンってとこか」
「ふむ、確かに彼女達の種族的特徴を考えればソレは妥当と言える。だが……」
東に相応しい魔物は誰か、を本人の了解無しに討論する琴乃とアステラ。
東の命が賭かっている以上、討論は急速に熱を帯びる。
故に、二人は扉の向こうで聞き耳を立てていた者が走り去る足音を聞く事は無かった。
「はぁ……はぁ……」
どのくらい走り続けていたのだろうか……心臓の猛抗議に屈して足を止め、肩で息をするヘルガは扉越しに聞いた話にショックを隠せなかった。
(嘘、嘘、嘘……)
東が死ぬ。
(否定する、否定する、否定する……)
東が死ぬ、という言葉が耳から離れない。
耳元で鐘を鳴らされているかの如く、ガンガンと頭の中で音が響く。
(だって、だって……)
では、な
(普段と同じように笑ってた……!!)
知らない内に溢れてきた涙で視界が歪む。
胸が締め付けられるように痛く、そして苦しい。
様子がおかしい事を感じ取ったヘルガは東を探そうと廊下に出た。
その時に聞こえたのだ、東と琴乃の会話が。
最初は性質の悪い冗談だと思った。
性質の悪い冗談だと願う自分がいれば、冷静に内容を分析する自分もいた。
冗談であってほしいと願いながら、会話を切り上げた―強引に終わらされた―琴乃の後を追い、扉越しに聞いた琴乃とアステラの会話で廊下の会話が真実だと知った。
あと一回戦えば、東は死ぬ。
その事実に打ちのめされたヘルガは二人の会話の途中で逃げ出し、何処をどう通ったのか分からない程に走り続けた。
(否定したい、のに……コレが現実、なんだ)
幾等否定しても琴乃の言葉が耳から離れない……琴乃は物事を冷静に捉え、言動に一切の遊びや諧謔心を排した軍人気質なのをヘルガは知っている。
自分も似たような性格だ、冷静でなければ軍医はやっていけない。
故に、琴乃の言葉は真実だという事が嫌でも分かる。
(だけど……やっぱり、信じたくない)
それでも、東が死ぬという事実をヘルガは受け入れられない。
否定する自分と肯定する自分に挟まれ、ヘルガは一人悶え苦しむ。
「扉の前に気配を感じてみれば……ヘルガよ、何故我の部屋の前で煩悶しているのだ?」
「……え?」
不意に聞こえた、扉を開く音と声にヘルガは振り向く。
其処には扉を開けたまま、不思議そうに首を傾げる東が居た。
×××
「……そう、か」
与えられた部屋の前で煩悶していたヘルガを中に招いてベッドに座らせ、彼の隣に座った東は彼が何に煩悶していたのかを尋ねた。
そして暗く沈んだ声でヘルガは扉越しに聞いた琴乃とアステラの会話の内容を語り、東は彼が何に煩悶していたのかを理解した。
どうやら、ヘルガは自分が死の瀬戸際に立たされている事を知ってしまったらしい。
「……ねぇ、東」
「あぁ、事実だとも……我の身体は崩壊寸前、辛うじて指先が引っ掛かっている状態だ」
ヘルガが何を聞きたいのか、ソレが分かっている東は彼が言い切る前に答える。
自分は死の瀬戸際に立たされている、と。
「……何で、言わなかったの」
「言う必要が無かったからだ……我と琴乃の会話は聞いていたのだろう? 我が信じる『武』の為なら、我は」
「死んでもいい、なんて言わないで!」
命を惜しまない、と言い切る前にヘルガは叫び、その叫びに東は驚く。
「誰かを守って、助ける……ソレが出来たら死んでもいいなんて、自己満足だよ! 東が死んだら悲しむ人達がいるのに、何で東は死んでもいいって言うの!」
「…………」
「残される側の気持ちも考えてよ! 確かに時間が経てば、悲しいのも忘れる……だけど、少なくとも僕は忘れられない」
感情の起伏が小さいヘルガの、珍しく感情の籠もった叫び。
その叫びに気圧され、何も言う事が出来ない東にヘルガは抱きつき、涙で潤んだ目で彼女の顔をジッと見つめる。
「好き」
「……………………な、に?」
「僕は東が好き、東は僕の事をどう思っているかは知らないけど僕は東が好き」
「え、あ、な…………」
「誰かが死ぬのを僕は何度も見てきた。だから、誰かが死ぬのを見るのは怖くなかった。けど、東が死ぬって聞いて、僕は初めて誰かが死ぬのを見るのが怖くなった」
「あ、う、あ…………」
「死なれるのが嫌だって感じたのは、東が初めて。そして僕は知った、残されるのが嫌になる程に僕は東が好きだって」
突然の告白は東の思考は停止し、困惑させる。
ヘルガは言葉を矢継ぎ早に紡ぎ、突然の告白に東は言葉にならない呻きを上げるだけ。
東が戸惑うのも無理は無い。
なにせ、東を異性として見る者は元の世界には存在しなかった。
義父に引き取られて以来、学校にも通わず自己研鑽に励み続けた東は義兄弟と義父以外の男性と交流を持った事が無い。
当然、『家族』としての付き合いが長かった為に東は義兄弟達を異性として見た事は無く、同時に彼等も彼女を異性として見る事も無かった。
故に、異性として見られる事も、異性としての好意を向けられるのも、東にとってコレが初めてなのだ。
「だから死なないでほしい、生きていてほしい。好きな人に残されるのは、嫌」
ジッと見つめるヘルガの瞳に、耳まで真っ赤になった自分の顔が映っている。
そんな自分の顔を見られていると思うと、更に恥ずかしさが募って顔が赤くなる。
「正直、東の事が何時から好きになったのか、自分でも分からない。けど」
「ま、待て、ヘルガ! お、お、落ち」
「残されるのが嫌なくらいに東が好きって気持ちは事実。僕は東が好きって気持ちは」
「えぇい、落ち着けと言っているだろうが! 『女神断罪鉄貫手・簡略版(ゴッデスハンドスマッシュ・コンパクト)』!」
「嘘いつ(ビシィッ!)あうっ!?」
生まれて初めて向けられた好意に慌てる東のチョップがヘルガに振り下ろされ、頭頂部に刺さったチョップで彼の告白は止められる。
羞恥心込みのチョップは地味に痛かった。
「お、お、落ち着けヘルガ! お前はショックで気が動転して自分が何を言っているのか、分かっていないのだろう!?」
「人の感情を勝手に決めないで。あと、落ち着いた方がいいのは東」
「う、五月蠅い! 我は充分落ち着いている! それと、何処の世界に我を女として見る男が居るというのだ!」
「此処に居る。それと、はい深呼吸」
「う、うむ。すぅ……はぁ……」
動揺で顔を赤くした東は早口で捲し立てるが、どう見ても落ち着くべきは彼女の方だ。
慌てふためく東にヘルガは深呼吸を促し、ソレに素直に従って東は何度か深呼吸をする。
「落ち着いた?」
「あ、あぁ……済まぬ、我とした事が取り乱した」
東の慌てる姿にヘルガはクスクスと笑い、そんな姿を見られた東は苦笑交じりに頬を掻く。
「改めて聞くぞ……ヘルガ、お前は我を女として見ているのか?」
「肯定、一人の男として僕は東が好き」
「……そう、か」
東の問いに間髪入れずに答えるヘルガに、東は困ったような笑みを浮かべる。
難儀な男だと東は思う……ヘルガの周囲にはアステラを始めとした見目麗しい女性―東も世間一般的な視点で見れば美少女なのだが、本人はそう思っていない―が多い。
絶世の美女が絶賛大売出し中のアーカムの中で態々女とは言い難い、更にポンコツ同然の身体である東を選んだヘルガ。
女である事を捨て、弱者を護る為の暴力になる事を選んだ東にとって、自分が女である事を再認させられるヘルガの告白は嬉しいモノがある。
「お前は我が好きだというのは分かった。だが、な……」
戦う事を捨て、一人の女として生きるのも悪くはない。
だが、ソレは自己否定も同然だ。
一七年という短い人生、その大半を自己研鑽と暴力を暴力で止める戦いに費やした。
戦う事を捨てれば、ソレは振りかざされる戈を戈で止める為に己を鍛え、戦い続けてきた自分を否定する事になる。
そもそも自分は老い先短い身、治癒に専念した所でそう長くは生きられない。
「我のような」
そんな血腥いポンコツはヘルガに相応しくない、そう言おうとした瞬間だった。
―ドンドンドンドンッ!
「藍香さん、いますか!? 緊急事態です!」
「「っ!!」」
乱暴なノックと切羽詰まった声に、磁石の反発を思わせる速さでヘルガは東から離れる。
ベッドから立ち上がった東は扉を開けると、
「スゥチェか、一体何が起きた!」
其処には息を荒げるラージマウス―スゥチェと言うらしい―が一人。
小柄な体格と敏捷性から偵察等を任され、実際東も彼女を伝言役で何度か使った事がある。
そんな彼女の切羽詰まった声に、不穏な気配を悟った東は何が起きたのかを問う。
「しゅ、襲撃です! アーカム郊外の結界施設が教団の攻撃を受けています! その数、其々一〇〇名程です!」
「何だと!? 全く、昼間に痛い目を見たというのに懲りない連中だ」
ラージマウスの報告にヘルガは言葉を失い、東は驚き混じりに溜息を吐く。
今日の昼頃、アーカムへ接近中の教団部隊を発見し、東がソレを全滅させたばかりだ。
減った人員の補充もせず、無謀にも攻撃を行う教団は何を考えているのだろうか?
だが、頭が何を考えていようと東のすべき事は一つ。
『武』の遂行、弱者の為に暴力を振るうのみ。
「琴乃と武人、堯明は?」
「紫法院さんは北側、黄嶋さんは南側に出撃、既に防衛部隊と共に教団と交戦しています。白城さんは部屋に居なかったので、今探している途中です」
「分かった、我はどちらに向かえばいい」
「藍香さんは西側に向かってください。防衛部隊の報告では、部隊の中にアイアンマンを多数確認したそうです」
「了解した。スゥチェ、お前は琴乃を見つけ次第東側に向かうように伝えろ!」
「了解です。御武運を!」
報告を終えたラージマウスは東に敬礼を取った後、部屋に居なかった琴乃を探して襲撃を伝えるべく走り出す。
伝令に走るラージマウスを見送った東は肩を竦め、背後で固まっているヘルガに振り向く。
「済まんな、どうやら我は此処で死ぬようだ」
「……………………」
生きる事を諦めた東の笑みに、ヘルガは涙を堪えるので精一杯だった。
何故神はこうも無慈悲なのだろう、何故運命はこうも残酷なのだろう。
愛する女に好きだと伝えた直後に、愛する女に死を強いるのだろうか。
行かないで、と泣き喚いた所で東は足を止めないだろう。
東の事だ、例え死ぬのが分かっていても死地に向かうに違いない。
「…………コレ」
「何だ、コレは?」
ヘルガは首に提げていたネックレスを東に渡し、渡されたネックレスに彼女は首を傾げる。
渡されたネックレスは、尖った何かに紐を通しただけのシンプルなネックレス。
黒く、鈍い輝きを放つソレは一見した限り大型肉食獣の牙―爪か?―に見える。
「孤児院の先生から貰ったお守り。東に『貸して』あげる」
「…………分かった」
『あげる』のではなく『貸す』、ソレが何の意味を持っているのか分からない東ではない。
生きて戻ってきてほしい、ソレがヘルガの切実な願い。
「借りる以上、返さねばならんな」
「…………」
「了解した。我はこの戦いで死ぬが、このお守りを返すまでは生きる事を約束しよう」
「…………」
「藍香東、出撃する!」
渡されたネックレスを首に提げ、東は戦場へと走り出す。
明日を捨て、好意を捨て、全てを捨てて東は廊下を走る。
「……残されるのは嫌だって言ったばかりなのに、何で僕を残すの?」
部屋の主が飛び出し、主無き部屋に残されたヘルガは呟く。
もう、限界だった。
「馬鹿……東の、馬鹿ぁ……うっ、うぅっ、うあぁああぁぁあぁあぁぁあああぁ!!」
涙が溢れ、叫びが響く……愛する女を止められなかった自分、愛する女に死を強いる神を呪いながらヘルガは哭いた。
「何!? 教団の襲撃だと!?」
「はい! 既に藍香さん、紫法院さん、黄嶋さんは迎撃に出ました!」
「東を迎撃に出したのかよ!? 冗談じゃねぇ!」
「え? え? 何か、不味い事でも」
「東の身体は、もう戦えねぇくれぇにボロボロなんだ! 今なら多分間に合う、さっさと見つけて縛り上げて、倉庫にでもぶちこんどけ!」
「は、はい!」
×××
「ははっ、あははっ! あはははははっ!」
アーカムを覆う結界を維持する為、東西南北に置かれた結界施設。
その西側への最短ルートを走りながら、東は子供のように笑う。
生まれて初めて女として見られた。
生まれて初めて異性としての好意を向けられた。
恋愛とは無縁の己が人生に、自ら遥か彼方に蹴り飛ばしたモノが転がり込んできた。
一生向けられる事が無いと思っていたモノが、死に間際で向けられた。
「今日は良い、今日は死ぬには良い日だ!」
ソレが嬉しい。
只管に嬉しい。
手に入らないと思っていたモノが手に入った事が嬉しい。
「この短き一生、悔いはあるが……」
悔いがあるかどうか、と問われれば在ると答えよう。
行方不明の義兄弟と再会を果たせなかった事、家族として愛する義兄弟を残してしまう事。
そして、自分を好きだと言ってくれたヘルガを残してしまう事。
ソレが悔い無きように歩んできた東の、あまりにも短い一生の数少ない後悔。
「だが、構わぬ!」
だが、それでも構わない。
「手に入らないと思っていたモノを、我は手に入れた」
生まれて初めて向けられた好意を抱いて死ぬ事が出来るとは、自分はなんて果報者だ。
「ならば、良し!」
死に間際で得られたモノを抱えて死ねる、コレで満足しない程自分は強欲ではない。
「本当に、本当に……今日は死ぬには良い日だ!」
東は叫ぶ。
今日は死ぬには良い日だ、と。
だが――東の頭がそう思っても、彼女の身体はそうは思わなかったらしい。
「あははははははははははははははは!」
笑いながら走る東の身体に異変が起きる。
笑みを浮かべる口元から覗くのは、牙と呼べる程に鋭く尖った歯。
凛々しさを漂わす顔の頬、左右其々に二本ずつ黒い縞が滲み出るように現れる。
風に靡く藍色の髪、その頭頂部からピョコンと一対の丸い何かが飛び出す。
その手足からは毛が生え始め、内側から押し上げる毛に手袋とジョッキーブーツが弾ける。
突然生え始めた毛は上腕と太腿の半ば辺りまで覆い、その指先から鋭い爪が生える。
そして、尾骶骨がある部分からズルリ…と長く、先端の丸っこい尻尾が生える。
「あはっ、あははっ! あはははははははは!」
己が身に起きた異変に気付かず、笑いながら疾走する東。
その姿は黄金色に黒い縞ではなく、果て無き空を想起させる青に紺の縞である事を除けば、虎と人を足して二で割ったような姿に変わっていた。
もし、この変化を東の身を案じていた琴乃とアステラが見たのなら、諸手を上げて自分の事のように喜ぶだろう。
そう、この異変は魔物化、東はヒトの殻を脱ぎ捨ててヒトを愛する魔物と化したのだ。
魔物化を果たした東の姿を魔物、若しくは魔物に詳しい人間が見たなら、皆が口を揃えてこう言うだろう。
人虎、強靭な肉体と高潔な精神を兼ね備えた誇り高き武人、と。
「はっはぁ―――!!」
内から湧き上がる活力に興奮したような声を上げ、東は力強く一歩踏み込む。
脚で床を踏む、その動作一つを取っても、その瞬発のタイミングと重心の移動だけで東と常人では根底が違う。
腿、膝、腰を稼働させる腱、筋、血流のリズム。
その全てを『把握』し、『同調』させるだけの集中力で駆使される肉体は人体の運動能力についての常識を覆す、ソレが内家拳法の『軽功術』。
ヒトの身でヒトを超えた常識外れの機動力を生む軽功術、ソレを基本的な身体能力の時点で人間を上回る魔物が使ったらどうなるのか。
ソレは――
―ドォォンッ!!
爆音、そして衝撃波。
若し、この廊下に誰か居たのなら、誰もが東の姿を目に捉える事は出来ず、不意の爆音に首を傾げる暇も無く衝撃波で壁に叩き付けられるだろう。
深々と爪痕残す無人の廊下、其処に残されるはヒラヒラと舞う空色の残骸だけ。
襤褸布が如き満身創痍の身体を引き摺り、阿鼻叫喚の地獄絵図を這い進む男が一人。
両膝があらぬ方向に曲がった足は足としての役目を果たせず、辛うじて無事な腕を使って男は地獄から逃げようと芋虫の如く這い進む。
男の周囲は酷い有様だった……生者は這い進む男以外に存在せず、骸が大地を覆い尽くし、流れ出た血が河のように流れる光景はまさに屍山血河。
一〇〇人近い部隊は『たった一人』の手で、この男を残して全滅した。
軍事用語での『全滅』は部隊の三〜四割を失い、部隊が機能しなくなった事を指す。
つまり、『部隊の全滅』と言っても最小で部隊の六割が生きている事になるが、この惨状は軍事用語での『全滅』に当てはまらない。
軍事用語上では生き残っている六割も全て―正確には一人生存している為、九割九分か―死に絶え、物言わぬ骸と化している。
まさに文字通りの全滅……天災に見舞われ、為す術も無く飲み込まれた町の如き惨状だ。
「何処に行くつもりだ?」
「ひぃっ!?」
這い進む男の背に足が踏み下ろされ、恐怖で歯を鳴らしながら男は背を踏む者を見る。
恐怖に震える男の背を踏む者は少女……『可愛い』よりも『凛々しい』が似合う端整な顔、ポニーテールで束ねた藍色の長髪、一八七センチという女性としては破格の長身。
臍の下辺りからスリットの入った空色の袖無しワンピース、手には指の出る蒼い革手袋、男踏みつける足には紺色の布地のジョッキーブーツ。
全身青一色の少女は男なら誰でも口説きたくなる美少女だが、全身に浴びた夥しい鮮血と血の臭いが整った容姿を台無しにしている。
「た、たす、助けてくれぇ!」
「貴様はそう叫んだ無辜の民を何人その手で殺したのだ? 少なくとも、十指に余る程は殺してきたのだろう?」
命乞いをする男を氷の如き冷たい目で見下ろす青い少女は、背を踏む足に力を入れる。
「ひ、ひぃ!?」
その足が出す力を男は知っている……鎧兜を紙屑のように砕いた足だ、ボロボロになった鎧を踏み抜くのは赤子の手を捻るより簡単だろう。
魔物を超えた地上最強の生物、そんな言葉が死の瀬戸際に立たされた男の脳裏に浮かぶ。
冷たい目で見下ろす血塗れの美少女は、そう表現するに相応しい威圧感を放っている。
「い、嫌だ! し、死にたくない! 俺は死にたくないぃ!」
死の恐怖から逃れようと男は四肢をばたつかせるが、背を踏む足は微塵も揺らがない。
それどころか、ジワジワと恐怖を煽るように力を強めていく。
「し、死にたく」
「死ぬがいい」
叫ぶ男の背を青い少女は無慈悲な言葉と共に踏み抜き、男は絶命する。
死んだ男から青い少女は足を引き抜くと、男の下の地面には一〇センチ程の深さの靴跡の形をした穴があった。
恐ろしいのは穴の周囲には『微かな罅すら無い』事……たった一人で一〇〇人近い部隊を全滅させた事もあり、この青い少女は想像を絶する鍛練を積んでいる事が分かる。
「全く、功の足りん連中だ……我(オレ)に挑むなら、せめて素手の貫手で鉄板を貫ける程の功を積んでくる事だ」
彼女以外の生者無き戦場跡で、青い少女は溜息と共に呟く。
その言葉、青い少女を知らぬ者が聞けば『そんな事が出来る者はいない』と言い、彼女を知る者なら肩を竦めながら『彼女なら出来る』と言うだろう。
事実、青い少女は車のドアを『素手で貫いた』事がある……而も、一度も事故に遭った事の無い新車同然の車のドアを、だ。
その細身の身体に、一体どれだけの筋肉を青い少女は詰め込んでいるのだろうか。
「さて、用も済んだ。迅速に帰るとしよう」
周囲を見渡し、己以外の生者がいない事を確認した青い少女は数度深呼吸をすると一気に走り出すが、その速度は人間が出せる速度を上回っていた。
ほんの数秒、瞬く間に青い少女は数十メートルの距離を駈け、その一歩は最早『走る』と言うより『跳ねる』と言った方が適切だ。
およそ人間として有り得ない、跳躍じみた疾走を見せる青い少女の名は藍香東(アイカ・アズマ)。
魔の為に悪を討つ、天才格闘少女。
×××
『く、うぅ……此処は何処だ?』
一ヶ月前の事だ……家族揃っての夕食の途中、耳鳴りに襲われた東は紫色の光に包まれ、気が付けば大人程はある大きな燭台が並んだ薄暗い部屋の中にいた。
『何だ? このファンタジー感漂う場所は?』
『確か、突然耳鳴りがして……』
『それよりも早く退いてくれ、流石に重い……』
周囲を見渡せば、顔の上半分を覆う鉄仮面を被った純白のスーツを纏う少年と淡い紫色の燕尾服を着た眼鏡の少年が、東と同じように周囲を見渡している。
その二人の下では、真っ黒な胴着を着た巨漢が上に乗っかる二人の体重で悶えていた。
『琴乃(コトノ)、武人(タケヒト)、堯明(タカアキ)!』
『ん? 東か、足りんな』
『義弟』三人を見つけた東に向こうも気付いた―と言っても、目と鼻の先だが―らしく、仮面の少年が東の姿を確認するのと同時に『足りない』と呟く。
その呟きで東は気付く……この場で感じられる気配は自身も含めて四つ、確かに『四つ』足りない。
『そうだ、紅蓮(グレン)……紅蓮達は何処だ!?』
『落ち着け、東! 今は現状把握が最優先事項だ!』
絶対の信頼を寄せる義兄弟の不在に気付き、何処かに駆け出そうとする東を仮面の少年が引き留める。
『止めるな、琴乃! 我は紅蓮達を探す!』
『紅蓮達を探したい気持ちは理解出来る……正直、私も即座に捜索を開始したい。だが、右も左も判別出来ん状態で飛び出しても、その果てにあるのは無駄死だ』
険しい表情で振り返る東に仮面の少年―琴乃、というらしい―の正論がぶつけられ、正論の向こうに見え隠れする感情で東は冷静さを取り戻す。
そうだ、義兄弟達の安否を心配しているのは自分だけではない。
仮面の少年も、眼鏡の少年も、胴着の巨漢も、この場にいる全員が義兄弟達の行方不明に心を痛めている。
『先ずは現状の把握……』
此処は何処で、何故自分達はこんな場所にいるのか?
ソレを調べようと仮面の少年が言おうとした瞬間、キィ…と扉の軋む音が四人の耳に届く。
『お、おぉっ!? 『異界召喚(サモン・アナザルド)』の魔法陣に反応が出たから来てみりゃ、四人もいらぁ! 条件、ちょいキツめで設定したのに四人も来るたぁ、三年も待った甲斐があるじゃん!』
扉を開けて現れたのは、同性の東も思わず見蕩れる美女。
『って、デカっ!? デカい、デカいよ、この人達! アテもデカい部類に入るけどさぁ、アテよりデケェなんてどんだけだよ!』
が、現れた美女は東達の身長に『ピョイ〜ン』と擬音が付きそうな程に驚き、飛び退いた。
現れた美女は目算でも一七〇センチ弱……確かに女性としては身長が高い部類に入るが、彼女を含めたこの場に居る五人の中では彼女が『一番背が低い』。
謎の美女<東<仮面の少年<眼鏡の少年<胴着の巨漢、と背が低い順に並べればこうなる。
『……………………』
突然現れた美女の滑稽さを感じさせる仕草に、すっかり緊張感が抜けてしまったらしい。
戦闘もやむなし、と構えていた東達は互いの顔を見合わせた後、改めて美女を観察する。
同性の東も思わず見蕩れる程に整った顔立ち、新雪を思わせる純白の長髪は耳の上辺りでピョコンと横に跳ねている以外に癖の無いストレート。
白地に黒の縞模様―虎柄ならぬ白虎柄か―の武骨な胸当てと肩当て、手の甲に短い鉤爪が付いた白虎柄の武骨な籠手以外、正面から見る限り上半身は何も着けていない。
下半身に視線を移せば真っ黒なズボン、その裾は膝から下を包む武骨なグリーブ―勿論、このグリーブも白虎柄だ―の中に詰めてある。
軽装の女兵士とでも言える服は思わず目を奪われる美貌と不思議と噛み合い、一種独特な魅力を醸し出している。
『刀のような女だな……』
そう、仮面の少年が言うように目前の美女の美貌を例えるなら刀。
綺麗な状態は勿論、血や泥に塗れていても美しさを損ねない……寧ろ、塗れる事で美しさを一層引き立てる、そんな美しさを目前の美女は備えている。
『いや、女……なのか?』
『おいこら、テメェ。アテが女以外の何に見えんのさ』
次いで紡がれた言葉に美女がジト目で反論するが、疑問形になるのも当然だ。
何故なら、人ならざるパーツが美女に付いているのだから。
頭頂部には闇夜が如き漆黒の二本角、腰には髪と同じ純白の蝙蝠じみた翼、不機嫌そうに小刻みに震える先端がハート型の白い尻尾。
悪魔を想起させるパーツを付けている以上、疑問形になっても仕方がないと言える。
『ま、しょうがねぇか。『異世界』の人間から見りゃ、アテはヒトに見えにきぃだろうしな』
反論のジト目が一転、ヒトとは言い難い美女は自嘲するような……己がヒトではない事を、重々理解しているような笑みを浮かべる。
が、ヒトとは言い難い美女の言葉、その中の一つの単語に東達は眉間に皺を寄せる。
異世界、ソレは一体どういう事なのか?
『ついてきな、ゆっくり話せる場所に案内すっからさ』
『……………………』
踵を返して歩き出すヒトとは言い難い美女の背を見ながら、東達は思案する。
このヒトとは言い難い美女、信用に値するか否か。
『ほらほら、ボケッと突っ立ってねぇでさ』
『……………………』
ついてこないのを感じ取ったのか、数歩程歩いた所でヒトとは言い難い美女は振り返ってついてくるように促す。
その促しに東達は思考を一時中断し、ヒトとは言い難い美女の後を追う。
―ガンッ!
『……………………』
『あぁ〜……オメェ、大丈夫か?』
直後、この面子で一番大きい胴着の巨漢が入口に額をぶつけて声にならない呻きを上げた。
『んじゃ、適当に座ってくり。ダチの家に遊びに来たみてぇに、気楽にしてくれよ』
険しい表情を浮かべる東達が案内されたのは、何かの事務所を思わせる実用性本位の部屋。
机や箪笥等の必要最低限の家具だけ置かれ、部屋の隅にベッドは牢屋に置かれていた方がしっくりくる程に質素な造りだ。
『見たくなんのも分かるけどさ、レディの部屋をジロジロ見んなって』
入口正面、部屋の奥に置かれた大きな机……その上に積まれていた何かの書類を退かし、腰を下ろすヒトとは言い難い美女の言葉からして、どうやらこの部屋は彼女の私室らしい。
『はっきり言わせてもらうが、『魔王の娘』とは思えぬ程にみすぼらしい部屋だな』
『ぎゃふん!?』
来客用らしいソファーに座ると同時に仮面の少年が口を開き、率直過ぎる感想にヒトとは言い難い美女は銃に撃たれたかの如く仰け反る。
『はっきり言い過ぎだろ! 肩書とアテの趣味は関係ねぇ!』
『それでも、もう少し飾る事を覚えたらどうだ? 魔王オリジナ・フォン・ラブハルトが第五王女、アステラ・フォン・ラブハルト』
『うっせぇ! つぅか、みすぼらしいって何だよ! せめて、控えめって言えよ!』
『控えめも過ぎれば卑屈と同義だ』
仮面の少年とヒトとは言い難い美女……アステラのやり取りを尻目に、東は案内の途中で語られた事を脳内で反芻する。
此処は異世界、東達の世界とは異なる世界。
此処は異世界、人間と魔物が存在する世界。
この世界の魔物はアステラの母、現魔王であるオリジナ・フォン・ラブハルトの力に因り、その姿は嘗ての面影を残しながらも見目麗しい美女となった。
姿の変化と同時に精神も変わり、人食いだった魔物は人間を愛するようになった。
嘗ての面影を残しながら、魔物が人を心から愛する美女になったのは魔王の理想の第一歩、この世界を平和にする為だ。
嘗て、この世界ではオリジナ・フォン・ラブハルトが魔王に就任するまで、人間と魔物が種の存亡と世界の覇権を賭けて血で血を洗う争いを繰り広げていた。
当時、次期魔王候補と謳われるサキュバスだったオリジナは長きに亘る戦争を憂い、この戦争に終止符を打つべく行動を開始した。
人間と魔物、二つの異なる種族がいるから戦争が起きる。
なら、『束ねてしまえばいい』。
人間と魔物を一つの『人類』として束ねる事で、オリジナは世界に平和を齎そうと考えた。
そして、魔王の座に就いたオリジナは魔王と魔物は魔力で常時リンクしている事を利用し、己が理想、己が精神を伝播。
伝播と同時に魔物の根幹、『人間を襲い、喰らう生物的上位存在』の改竄に着手。
無論、オリジナの試みはこの世界を創造した主神の反感を買う事になったが、当時最強の人間である勇者アスル・D・ベイナーがオリジナの理想に共感しての謀反。
本来実力主義で同族殺しも辞さない魔物が何故か彼女に協力した事に加え、神族の中からオリジナに同調する者達が現れた。
今の主神は先代から交代したばかりの女性神格だった事もありオリジナへの粛清は失敗、彼女に同調した神族の保護もあって主神は迂闊に彼女に手を出せない状態に陥った。
然し、オリジナの目指す世界平和は未だ達成されていない……この世界を創造した主神に匹敵する存在と化したオリジナでも、その設定は簡単に改竄出来る代物ではなかったのだ。
結果、魔物の設定改竄は『人間を襲う』、『魔物は生物的に上位存在』という設定が残った中途半端な改竄に終わってしまう。
その為、魔物が人間との間に子を為したとしても、生まれてくる子供は一部例外を除いて母方と同じ魔物となってしまい、それでは種族統合は夢のまた夢。
何れ人間も魔物も子孫を残せず共倒れになってしまうが、ソレはオリジナの力が高まれば何れ解決出来る問題だそうだ。
オリジナの世界平和への課題はもう一つ。
主神を崇拝し、魔物の殲滅を目指す武装宗教組織・『教団』の存在だ。
教団は善良・禁欲・高潔を教義の軸とし、長年に亘って積み重ねられてきた怨恨もあって、教義を真っ向から否定する魔物を敵視している。
ソレに加え、魔物と人間の間では魔物しか生まれないという人類絶滅への危機感が教団を魔物の殲滅に駆り立てている。
争いを好まない温和な性格のオリジナは度々和平の使者を教団に派遣しているが、成果は芳しくないそうだ。
『ラブハルト殿、我々を貴殿の世界に招いたのは一体如何なる理由なのでしょうか?』
『あ、いっけねぇ、すっかり忘れてた』
ソファーに座らず、扉の直ぐ横に立つ胴着の巨漢の問いに、アステラは思い出した―事実、今まで忘れていたらしい―ように口に手を当てる。
『アテがオメェ等を呼んだのは、『勇者』をやってもらいたいからさ』
魔物側のだけど、と締め括ったアステラの言葉に東達は互いの顔を見合わせ、
『あはははは!』
『ふはははは!』
『わ、私達が勇者を? ソレは冗談か、何かですか? あはははは!』
『……………………』
『え、何? アテ、そんな大爆笑されるような事言った?』
東、仮面の少年、眼鏡の少年は腹を抱えて大爆笑、胴着の巨漢は顔を俯かせて笑いを堪え、突然笑い始めた四人にアステラは困惑を隠せない。
『いや、くくっ、失敬……我々とは、ぬふっ、最も縁の無い、くふっ、言葉が、ぷふっ、出てきた、ぶぷっ、のでな?』
『笑うか、喋るか、ドッチかにしろっての。オメェ等が落ち着くのを待つのも面倒だし、話を続けんぞ』
未だに笑い続ける東達に呆れながら、アステラは彼女達をこの世界に呼んだ理由を語る。
『さっきも話したけど、教団はアテ等魔物や魔物と仲良しの人間を敵視してる。だけど、アテ等の方が強い部分が多いから、連中はアテ等に勝てねぇ』
魔物と人間は身体能力等に絶対的な差があり、『勇者』と呼ばれる主神に選ばれた存在でもアステラを始めとした上位の魔物を相手にすれば敗色濃厚。
故に魔物に人間は勝てず、魔物に挑んで真実を知った人間は彼女達と共に生きる事を選び、魔物を敵視する教団は徐々に勢力を減らしていく、ソレがこの世界の現状『だった』。
『ところがぎっちょん、『ゴリアテ』と『アイアンマン』……この二つの登場で、アテ等は一気に劣勢へ追い込まれたのさ』
アステラの重い声で笑っている場合ではないと分かったのか、東達は一転して真剣な表情を浮かべる。
『何だ? その『ゴリアテ』と『アイアンマン』とやらは』
『オメェ等の言葉で言えば前者は人型巨大ロボット、後者はアンドロイドって奴さ』
東の問いに対するアステラの答えは、彼女達に衝撃を与えるには充分過ぎた。
『どうやって連中がソッチじゃ空想の産物に過ぎねぇ代物を知って、全体的に見りゃ劣るアテ等の世界の技術でソレを造れたのかは分からねぇ……けど、アテ等の世界にゃ、人型巨大ロボットとアンドロイドが実在してる』
衝撃で言葉が出ない東達を尻目に、アステラは忌々しさを籠めながら話を続ける。
『人間は魔物に勝てない』という半ば常識化した認識は教団の開発した新兵器で覆された。
『ゴリアテ』と『アイアンマン』、人型巨大ロボットとアンドロイド。
東達の世界では空想の産物に過ぎない代物がこの世界に存在しており、その『ゴリアテ』と『アイアンマン』を開発したのはネルカティエという軍事都市だ。
一五年前、教団圏内でも第二の規模を誇るレスカティエを、アステラの姉であり第四王女であるデルエラ・フォン・ラブハルトが陥落させた。
無論、教団はレスカティエ奪還を試みるが見事失敗、人類の希望は一転して教団の汚点と化し、それでも諦めきれなかった教団の一部が興したのがネルカティエである。
レスカティエ奪還を当面の目標にオリジナの殺害を狙うネルカティエだったが、魔物側の妨害でソレは遅々として進まなかった。
だが、今から五年前、『ネフレン=カという女に気を付けろ』という報告を最後に工作員の潜入は尽く失敗し、ほぼ同時に親魔物派領にゴリアテとアイアンマンが現れた。
ゴリアテとアイアンマンは次々と親魔物派領を壊滅させ、優勢だった親魔物派は瞬く間に劣勢へと追い込まれた。
『これじゃ不味いって気付いたアテは『異界召喚』の使用をお袋に申請、許可が下りると直ぐに『異界召喚』を使ったのさ』
完全にオーバーテクノロジーであるゴリアテとアイアンマンの登場に、アステラは異世界のモノを召喚する古代の大魔術・『異界召喚』の使用をオリジナに申請。
許可が下りると同時にアステラは『異界召喚』を行った、ソレが今から三年前の事である。
『何で使ってから三年経ってオメェ等が来たのか、ソレはアテも分かんねぇよ……まぁ、召喚の条件にちぃと無理があったからってのが、アテの推測だけどねぇ』
『異界召喚』は使用する際に召喚するモノに対して条件の付加が可能らしく、アステラは『ゴリアテとアイアンマンに対抗出来る人間』という条件を付加した。
普通に考えれば、人型巨大ロボットとアンドロイドに対抗出来る人間はいない。
それでも条件に合致する人間を探し続けた結果、遂に東達が条件に合致。
故に使用から召喚まで三年も掛かったのではないか、というのがアステラの推測だ。
『当分、オメェ等は元の世界に帰れねぇ。その代わり、その間の衣食住はアテが用意する』
『異界召喚』はアステラですら一瞬で魔力を空にする程に膨大な魔力を必要とし、魔力を溜める事に専念しても最速で半年は掛かる。
然し、アステラは魔王軍の要職に就いている為ソレだけに専念する訳にもいかず、仕事をこなしながらでは早くとも一、二年は掛かる。
魔王が使えばいいじゃないか、とも思うが『異界召喚』を使えるのはアステラだけらしく、彼女の母であり現魔王であるオリジナですら『異界召喚』を使えないらしい。
その代わり、滞在中の衣食住はアステラが用意してくれるそうだ。
『まぁ、戦闘力じゃなくて知識を買われて召喚されたって可能性もあるけどね』
『……成程、な』
戦闘力か知識のどちらを買われたかは分からないが、兎に角この世界に召喚された東達は当分元の世界に帰る事は出来ないそうだ。
その事実に仮面の少年は溜息交じりに納得―所々、納得していない部分もあるが―したと告げ、残る三人も彼に追従するように頷く。
『納得してくれて何よりさぁねぇ。ま、取り敢えず』
東達の頷きにアステラは人懐っこい笑みを浮かべ、
『ようこそ、異世界へ』
彼女達の来訪を歓迎した。
×××
「おかえり。服、脱いで」
「あぁ」
一〇〇人近い部隊を一人で全滅させ、当面の拠点であり現魔王オリジナ治めるアーカムに戻ってきた東。
門番に軽く帰還報告を済ませ、医務室の扉を開けると同時に服を脱げと言われる。
突然服を脱げと言われたのに東はソレに動じる事無く―ソレが何時もの事のように―服を脱ぎ、その身長のように大きく育った胸がプルン…と揺れる。
東の一張羅でお気に入りのワンピースの下はサラシと褌、下手な勝負下着よりも扇情的だ。
因みに東は女性としては致命的なまでに服に無頓着で、彼女が敬愛する義父に『せめて、下着は着けるように』と言われるまでワンピースの下はノーパンノーブラだった。
「それじゃ、始めるね」
「うむ」
服を脱ぎ、ベッドの上にうつ伏せで横になった東の元に寄るのは少年……くすんだ銀髪は職務上短く切り揃えられ、声変わりがまだ来ていないような若干高めの声と童顔。
一四〇センチ程しかない小柄な体躯は少女にも見える童顔もあってショタコンホイホイ、その手の趣味の者には垂涎物だが、これでも少年は東の二つ上の『一九歳』である。
子供にしか見えない少年が纏うは清潔感溢れる白いポロシャツにベージュのハーフパンツ、その上には染みは無いが皺は在る草臥れた白衣。
少年の名はヘルガ・ゼーレンボルグ、アーカム常駐の魔王軍の中でも名高い軍医である。
「ん、んんっ……あふっ、あっ……」
「気持ち良い?」
「あぁ、そうだ……んんっ……」
艶めかしい声が東の口から漏れるが何という事はない……ヘルガが行っているのは単なるマッサージであり、二人の関係はスポーツ選手とマッサージ師に近い。
元の世界には当分帰れず、この世界に残る事を余儀無くされた東は召喚直後、戦力として召喚されたのかを見定める為の模擬戦を行った。
結果はアステラを始めとした軍上層部を唖然とさせる圧勝、ソレ以降東達は連日―分担はしているが―親魔物派領を襲撃する教団の迎撃に駆り出されている。
『アステラ、今戻ったぞ』
『おぉ、お帰り……って、何じゃこりゃぁぁ――――――――――!?』
『ん? 何を驚く? 別に大した怪我ではないぞ』
『ソレの何処が大した怪我じゃねぇんだよ!? め、メディック、メディ―――ック!』
召喚された翌日、早速教団の迎撃に赴き、全身血塗れで帰還した東に仰天したアステラは大慌てで医師を手配した。
結論から言えば東の全身を染めた血は全て返り血であり、彼女自身の怪我は自己申告通り大した怪我ではなく精々軽い打撲だけだったが、全身血塗れで現れれば誰でも驚く。
その時アステラが手配した医師がヘルガであり、ソレを切欠に二人の交流が始まったが、二人の交流は魔物から見れば非常につまらない。
教団の迎撃から戻る度に東は医務室に顔を出し、ヘルガはマッサージと軽い問診を行い、その後は他愛無い雑談を交わすだけ、と実に健全な交流だ。
「何時も思う事だけど、何故東は魔物化しないの?」
「はふっ、さぁ、んんっ、なぁ?」
マッサージを休めずに問うヘルガに、気持ち良さそうな表情を浮かべながら東は答える。
現魔王たるオリジナの直轄地であるアーカムの大気には超高密度の魔力が含まれており、早ければ一時間、遅くとも二四時間以内で人間は魔物へと変わる。
女性は大抵オリジナの眷属であるサキュバスへ、男性なら快楽主義者の魔物との性生活に適応した半人半魔のインキュバスへ変化する。
コレは所詮人間でしかない勇者でも同じ―実際、ヘルガも既にインキュバス化している―事なのだが、未だ東には魔物化の兆候が見られない。
故に東はアーカムで唯一の人間の女性という事になり、コレにはアステラは勿論、彼女の母であるオリジナも首を傾げている。
「マッサージ、問診、共に終了。お疲れ」
「ふっ、毎度毎度済まないな」
「仕事だから」
マッサージと問診が終わり、服を着ながら礼を言う東にヘルガは素っ気ない答えを返すが、恋愛事に鋭い魔物が聞けば、返した答えに微かな喜びがあるのを察知しただろう。
その容姿故に頻繁に未婚の魔物に狙われるヘルガにとって、東の下心無し―彼を男として見ていないという可能性もあるが―の健全な交流は心地良い物がある。
「さて、長居をして仕事を滞らせるのも気が引ける。門外漢はさっさと退散するに限るな」
「…………?」
マッサージと問診の後は雑談を交わす―魔物は滅多に医務室の世話にならない為、仕事は少なく意外と暇なのだ―のに、東はそそくさと医務室から立ち去る。
「では、な」
「う、うん……」
何時もの凛々しさ漂わせる微笑を浮かべながら去る東に、ヘルガは珍しさと同時に漠然な不安を感じた。
×××
「はぁ……何とか、持ってくれた、か」
医務室を立ち去った東はまるで隠れるように壁に靠れ、遠い目で天井を見上げる。
「はぁ、はぁ……ごふっ、げふっ、がふっ!」
病気とは無縁そうな東の顔は青褪め、息も荒い……先程までは何事もなかったのに、突然東は口に手を当てて激しく咳き込む。
口に当てた手の隙間、指の間から石造りの床に滴るは赤黒い雫。
血
咳き込む度に血は掌を紅く染め、隙間から漏れて滴り落ちる。
咳が落ち着き、幾分顔色が良くなった―それでも普段の活気は見る影も無いが―東は血に濡れた己が掌を見て、無理矢理作ったような硬い笑みを浮かべる。
「は、ははっ……随分とまた、寿命を縮めたか。『あと一回』、といったところか」
「ソレは……あと一回、武を遂行すれば『お前が死ぬ』という事か」
「あぁ、琴乃、か……」
背後から不意に聞こえた声に東が振り返ってみれば其処には仮面の少年、東の義弟である白城(シラギ)琴乃がいた。
顔の上半分を覆う鉄仮面を被っている為に表情の判別がつかないが、それでも東の身体を心配し、危惧しているのは声で分かる。
「お前の推測通りだ……あと一回、その一回で我は死ぬ。ふっ、もう我の身体は崩壊まで秒読みの段階だ」
言われなくても分かっている、身体の事は他ならぬ東自身が知っている。
「何故……何故、そうなるまで身体を放置していた! いや、ソレ以前に何故アステラに身体の事を話さなかった! 我々の世界では無理だった治療も、魔術の発展したこの世界の医術なら完治するかもしれなかったのだぞ!」
「それでも、だ」
何故身体の事を黙っていたのかを語気荒く問う琴乃に、東は血に濡れた掌を見つめながら冷たく答える。
「我は武……武の為ならこの身、この命、惜しむ必要は無い」
感情の消えた、冷たい言葉に琴乃は頬を噛む。
東の信じる『武』は大衆の信じる『武』とは違う。
大衆は言う、戈を止めるのが武の一文字。
東は言う、戈『で』止めるのが武の一文字。
如何に取り繕っても振るわれるのは所詮暴力、所詮殺法。
結局の所、暴力に勝てるのは同じ暴力だけという現実。
ならば、罪を背負ってでも弱き者の為に暴力を振るう。
ソレが東の信じる『武』だ。
「言いたい事は分かるが、それでも明日を考えろ! お前は紅蓮達と会いたくないのか! せめて、再会する時まで生きようと」
「諄い! 我の命の采配は我が決める! 我の命は、他ならぬ我のモノだ!」
あと一回戦えば死ぬ、それでも自分の信じる『武』を遂行する。
今は行方の掴めていない義兄弟達との再会するまで生きろ、と言う琴乃に東は自分の命の末は自分で決めると叫ぶ。
「ふぅ、ふぅ……少し、興奮したな。先に失礼させてもらう」
「…………東」
フラフラと普段の活気が見る影も無く失せた足取りでアステラの用意した部屋に向かう東、その背中を琴乃は見送るしかない。
東の背中が見えなくなった琴乃は決意の表情―仮面で隠れてはいるが―を浮かべ、カツ、カツ…と靴音を鳴らして『ある部屋』へと向かう。
自分の後をつける者がいるとは気付かずに。
×××
「おっ、琴乃じゃねぇか。アテに何か用?」
「あぁ、用ならある……ソレも私にとっても、『貴殿』にとっても大事な用だ」
「……話、聞かせてくれよ」
琴乃が訪れたのはアステラの私室。
ノックもせずに入室してきた琴乃にアステラは真剣な表情を浮かべる。
真剣さを帯びた声、呼び捨てでいいのに態々畏まった呼び方、その二つが単なる世間話をしにきたのでは無い事を悟らせる。
「東の事で話がある」
「東の? 東に何か起きたのか?」
「『起きる』、のではなく『起こる』のだ。それも近い内に、な」
東の身に何かあったのか、とアステラは思ったが琴乃の言い回しからどうやら違うらしい。
東の身に何が起きるのか、アステラは想像がつかない。
「結論から言おう、今度東が教団の迎撃に出れば『東は死ぬ』」
「…………冗談、でもねぇな。マジか」
「無手の近接格闘に於いては無敵、地上最強の生物と称されても不思議ではない東だが、東には『病弱』という致命的な弱点がある」
「……………………」
付き合いは短いものの、琴乃はこんな冗談を言う男ではない事は知っているが、それでも俄かに信じ難い言葉にアステラは言葉を失う。
東の力をアステラは身を以て知っている、なにせ彼女の模擬戦の相手を務めたのだから。
アステラ・フォン・ラブハルト、無手での戦いならリリム……いや、大陸の中でも並ぶ者無し、と謳われる武力を誇り、『アーカムの白虎』と反魔物派領で恐れられる武闘派。
ソレを真っ向から完全粉砕したのが東だ。
模擬戦の際、東は対戦相手を本人的には『牽制の軽い一撃』で一〇メートルは吹き飛ばし、城壁に叩き付けた。
御身が危うい、と止めるギャラリーを振り切ってアステラが相手を申し出た結果、彼女は『たった二撃』で先の相手と同じように吹き飛び、叩き付けられたのだ。
「アレで病弱? ソレ、何かのギャグ? 奥深過ぎて笑い所がわっかんねぇよ……」
「ギャグでも冗談でもない、東は生まれつき人として致命的欠陥を持って生まれたのだ」
魔王の娘をたった二撃で倒した人間が病弱、確かに東の事を知らぬ者が聞けば性質の悪い冗談にしか聞こえない。
「東は生来、免疫力が異常までに低い……我々と同年代、且つ健康な者を一〇〇とすれば、東の免疫力は一〇に届くか届かないかという低さだ」
驚愕の事実に目を見開き、絶句するアステラを尻目に、琴乃は過去を思い出すように語る。
東の秘密、東の過去を。
藍香東は生まれつき免疫力が低く、琴乃の例えは彼女の免疫力の低さを如実に示している。
普通の人間なら罹る事の無い病気に罹り、その免疫力の低さ故に罹った病気が治り難い。
普通の人間なら『たかが』で済む病気も、東にとっては致命的な重病と化す。
最悪なのは、この異常な免疫力の低さは改善の余地が無いという事。
故に東は両親から見捨てられ、医者も匙を投げた。
薬代も入院費もタダではない……有限の貯蓄を一人で食い潰す金食い虫、ソレが両親の東に対する認識だった。
両親の東への嫌悪に拍車を掛けたのが、彼女から『漏れ出る冷気』。
東の病室は南極海産の氷を直送で持ち込んだのかと思える程に寒く、幾等暖房を回しても機械仕掛けの温かさを凌駕する冷気を東は放っていた。
金食い虫という認識、不可解な冷気、その二つが東から両親の愛情を奪った。
その為、幼い頃の東は今の彼女とは違って自己主張が極めて薄い、人形のように無感情な性格だった。
ソレを変えたのが、後に東の義父となる一人の男。
何処から聞いてきたのか、男は東を養女として引き取りたいと申し出た。
男の申し出に両親は快諾するが、肝心の東本人は『変な人』という認識しかなかった。
どうせ直ぐに愛想を尽かす、当時の東はそう思っていたがソレは良い意味で裏切られた。
東を引き取った男は如何なる手を用いたのか……煩雑な手続きを魔法の如く手早く済ませ、東を自宅に運び込むと献身的に彼女の面倒を見た。
男は東に愛情を注ぎ続け、絶え間無く注がれる愛情は次第に東に心を取り戻させた。
男の自宅には東と似た境遇の、何らかの事情で両親に捨てられた孤児が集まった。
心を取り戻した東は直ぐに他の孤児達と仲良くなり、義兄弟の契り―言い出しっぺは炎の如き真っ赤な髪をした男の子で、戸籍上では既に義兄弟だったが―を結んだ。
そして、男の献身的な介護で、免疫力の低さは変わらなかったが東は動けるようになった。
動けるようになった東は己の身体を呪った。
何故、こんなに自分の身体は弱くて脆い。
ソレが嫌で堪らなかった東は、『もう少し身体を治してから』という義父の反対を押し切り、武術を『独学で』学び始めた。
己の吐いた血反吐の中に倒れる事、数百回。
案山子の如く立ったまま気絶する事、数千回。
その壮絶な修練に止める事を諦めた義父の手解きもあり、『病弱』というコンプレックスを発条に東はどんどん強くなり、現在に至る。
「ほぇ〜……陳腐な表現だけど、壮絶だね」
「コンプレックスからくるその執念、我が義姉ながら恐ろしかったが……話を続けよう」
コンプレックスを発条とした壮絶な修練は、東に人智を超えた業を与えた。
中国内家拳法、血流や呼吸を律する事で鍛えた『氣』を駆使する千古の知恵。
内家拳法は極める事は至難でも、極めた果てには人智を超えた驚異の世界が待っている。
元々病弱な東では、身体の『外側』を鍛えたところで直ぐに限界が訪れる。
故に、身体の『内側』を鍛える内家拳法を東は学んだ。
深淵無辺の世界を見せる千古の知恵は、東に人智を超えた業を与えた。
『氷結発頸(ヒョウケツハッケイ)』、特殊な錬気で拳足に極低温の冷気を孕ませ、触れると同時に放出する。
壮絶な修練の果てに東が編み出した魔性の気功術、その拳足に触れた者を問答無用で屠る殺戮の絶技(アーツ・オブ・ウォー)。
この『氷結発頸』、その正体は本来ならば東達の世界には存在せず、アステラの世界にのみ存在する『魔術』である。
幼少の東が放っていた冷気も無意識的な魔術の発現であり、東は本来なら存在しない筈の魔術の才を備えていたのだ。
尤も、東自身は自分には魔術の才能は無く、『氷結発頸』も壮絶な修練の果てに編み出した我流の内家拳法だと思っている。
いわば、東は『無自覚の魔術師』なのである。
「んで? 東が本人無自覚の魔術師っつぅのは、アテも知ってる。けど、あと一回戦えば東が死ぬのと何の関係があんのさ?」
「関係はある。東の『氷結発頸』は諸刃の剣、使えば使う程に死へ近付く」
『氷結発頸』は創始者にして唯一の使い手である東の身体に、相当な負担を強いる。
数多の病魔に侵された身体は魔術の行使に耐えられるような代物ではない上に、極低温の冷気を生み出す錬気法は只でさえ大きな負担を掛けている身体に更なる負担を強いる。
病魔で衰弱した臓腑は一度の錬気で深く傷付き、使えば使う程に傷は加速的に深まる。
『氷結発頸』は触れた者を問答無用で屠る絶技であるのと同時に、使い手の命までも蝕む諸刃の剣であり、無論、編み出した東がソレを知らない筈が無い。
東は自身が編み出した絶技が、己が命を削っているのを承知で『氷結発頸』を使っている。
自ら死に赴くような真似をする東だが、周囲の人間がソレを見過ごすような事はしない。
たまに『バイト』を用意する義父は東の事情を考慮し、バイトの合間には内傷を少しでも癒せるように充分なインターバルがある。
「……ちょい待ち、魔術を使う必要のある『バイト』って何だよ? まさか、テロリストに殴り込みとかでもすんのかぁ?」
「……………………話を続けよう」
「無視すんじゃねぇ! そして、その間は何だよ!」
更に負担を少しでも減らす為、東は一撃必殺を狙うようになった。
一撃必殺を狙えば戦闘所要時間は自然と短縮され、臓腑の内傷も小さくなるからだ。
そういった考慮のお陰で東の身体は何とか命を繋いできたのだが、今の状況は些か厳しい。
琴乃達と分担しているとはいえ、連日連夜の攻撃は身体を労わり、内傷を癒す暇が無い。
度重なる『氷結発頸』は使い手(東)を追い詰め、その臓腑は最早回復不能な内傷だらけ。
生きているのが不思議な程の内傷を負いながら東が生きているのは偏に鍛え抜かれた鋼の精神の賜物だが、ソレも限界寸前なのだ。
あと一回教団の迎撃に出れば東の身体は崩壊し、その命は潰える。
「話というのは他でもない……アステラ、貴殿に東の魔物化を依頼したい」
「本人の了承は、ねぇよなぁ」
「当然だ、全ては私の独断……まぁ、東の身体の状態を知れば、武人と堯明も私の提案に賛成するだろう」
魔物化は対象を魔物に変えると同時に病気や先天的な欠陥、損傷を治癒・修復し、健康な身体にするという副次効果がある。
元の世界では為し得なかった東の免疫力改善……東の身体の限界を知った琴乃は魔物化に一縷の望みを賭け、アステラに東の魔物化を頼む為に彼女の私室を訪れたのだ。
今は行方不明の義兄弟、その四人と再会を果たすまで東を死なせたくない。
その想いが琴乃を動かしている。
「可能か?」
「出来る、出来ないで言えば出来る。けど、あの東には何が相応しいかにゃぁ」
「相応しい、だと? ソレはどういう事だ?」
「あぁ……アテは姉ちゃん達みてぇな遊び半分の魔物化は絶対やらねぇ、アテの魔物化は最初から最後まで真面目な魔物化さ」
全ての魔物の魔力をその身に宿すリリムはエンジェルやエルフ等、元々魔物ではない種族とリリム以外なら、どんな魔物にでも―対象の素質次第だが―変える事が出来る。
アステラの姉達は『魔物化したら、どんな交わりをするのか?』という面白半分の理由で魔物化させる事が多いが、武闘派のアステラはそんな『遊び』を持ち込まない。
徹頭徹尾、アステラは対象の素質や性格等を考慮した魔物化―サキュバスが相応しいならサキュバス、ラミアが相応しいならラミア、といった具合だ―を行う。
「東の性格とか考えると……やっぱ、武闘派の魔物だな」
「武闘派、と言うが具体的には誰だ?」
「うぅ〜ん……リザードマンにサラマンダー、あとデュラハンってとこか」
「ふむ、確かに彼女達の種族的特徴を考えればソレは妥当と言える。だが……」
東に相応しい魔物は誰か、を本人の了解無しに討論する琴乃とアステラ。
東の命が賭かっている以上、討論は急速に熱を帯びる。
故に、二人は扉の向こうで聞き耳を立てていた者が走り去る足音を聞く事は無かった。
「はぁ……はぁ……」
どのくらい走り続けていたのだろうか……心臓の猛抗議に屈して足を止め、肩で息をするヘルガは扉越しに聞いた話にショックを隠せなかった。
(嘘、嘘、嘘……)
東が死ぬ。
(否定する、否定する、否定する……)
東が死ぬ、という言葉が耳から離れない。
耳元で鐘を鳴らされているかの如く、ガンガンと頭の中で音が響く。
(だって、だって……)
では、な
(普段と同じように笑ってた……!!)
知らない内に溢れてきた涙で視界が歪む。
胸が締め付けられるように痛く、そして苦しい。
様子がおかしい事を感じ取ったヘルガは東を探そうと廊下に出た。
その時に聞こえたのだ、東と琴乃の会話が。
最初は性質の悪い冗談だと思った。
性質の悪い冗談だと願う自分がいれば、冷静に内容を分析する自分もいた。
冗談であってほしいと願いながら、会話を切り上げた―強引に終わらされた―琴乃の後を追い、扉越しに聞いた琴乃とアステラの会話で廊下の会話が真実だと知った。
あと一回戦えば、東は死ぬ。
その事実に打ちのめされたヘルガは二人の会話の途中で逃げ出し、何処をどう通ったのか分からない程に走り続けた。
(否定したい、のに……コレが現実、なんだ)
幾等否定しても琴乃の言葉が耳から離れない……琴乃は物事を冷静に捉え、言動に一切の遊びや諧謔心を排した軍人気質なのをヘルガは知っている。
自分も似たような性格だ、冷静でなければ軍医はやっていけない。
故に、琴乃の言葉は真実だという事が嫌でも分かる。
(だけど……やっぱり、信じたくない)
それでも、東が死ぬという事実をヘルガは受け入れられない。
否定する自分と肯定する自分に挟まれ、ヘルガは一人悶え苦しむ。
「扉の前に気配を感じてみれば……ヘルガよ、何故我の部屋の前で煩悶しているのだ?」
「……え?」
不意に聞こえた、扉を開く音と声にヘルガは振り向く。
其処には扉を開けたまま、不思議そうに首を傾げる東が居た。
×××
「……そう、か」
与えられた部屋の前で煩悶していたヘルガを中に招いてベッドに座らせ、彼の隣に座った東は彼が何に煩悶していたのかを尋ねた。
そして暗く沈んだ声でヘルガは扉越しに聞いた琴乃とアステラの会話の内容を語り、東は彼が何に煩悶していたのかを理解した。
どうやら、ヘルガは自分が死の瀬戸際に立たされている事を知ってしまったらしい。
「……ねぇ、東」
「あぁ、事実だとも……我の身体は崩壊寸前、辛うじて指先が引っ掛かっている状態だ」
ヘルガが何を聞きたいのか、ソレが分かっている東は彼が言い切る前に答える。
自分は死の瀬戸際に立たされている、と。
「……何で、言わなかったの」
「言う必要が無かったからだ……我と琴乃の会話は聞いていたのだろう? 我が信じる『武』の為なら、我は」
「死んでもいい、なんて言わないで!」
命を惜しまない、と言い切る前にヘルガは叫び、その叫びに東は驚く。
「誰かを守って、助ける……ソレが出来たら死んでもいいなんて、自己満足だよ! 東が死んだら悲しむ人達がいるのに、何で東は死んでもいいって言うの!」
「…………」
「残される側の気持ちも考えてよ! 確かに時間が経てば、悲しいのも忘れる……だけど、少なくとも僕は忘れられない」
感情の起伏が小さいヘルガの、珍しく感情の籠もった叫び。
その叫びに気圧され、何も言う事が出来ない東にヘルガは抱きつき、涙で潤んだ目で彼女の顔をジッと見つめる。
「好き」
「……………………な、に?」
「僕は東が好き、東は僕の事をどう思っているかは知らないけど僕は東が好き」
「え、あ、な…………」
「誰かが死ぬのを僕は何度も見てきた。だから、誰かが死ぬのを見るのは怖くなかった。けど、東が死ぬって聞いて、僕は初めて誰かが死ぬのを見るのが怖くなった」
「あ、う、あ…………」
「死なれるのが嫌だって感じたのは、東が初めて。そして僕は知った、残されるのが嫌になる程に僕は東が好きだって」
突然の告白は東の思考は停止し、困惑させる。
ヘルガは言葉を矢継ぎ早に紡ぎ、突然の告白に東は言葉にならない呻きを上げるだけ。
東が戸惑うのも無理は無い。
なにせ、東を異性として見る者は元の世界には存在しなかった。
義父に引き取られて以来、学校にも通わず自己研鑽に励み続けた東は義兄弟と義父以外の男性と交流を持った事が無い。
当然、『家族』としての付き合いが長かった為に東は義兄弟達を異性として見た事は無く、同時に彼等も彼女を異性として見る事も無かった。
故に、異性として見られる事も、異性としての好意を向けられるのも、東にとってコレが初めてなのだ。
「だから死なないでほしい、生きていてほしい。好きな人に残されるのは、嫌」
ジッと見つめるヘルガの瞳に、耳まで真っ赤になった自分の顔が映っている。
そんな自分の顔を見られていると思うと、更に恥ずかしさが募って顔が赤くなる。
「正直、東の事が何時から好きになったのか、自分でも分からない。けど」
「ま、待て、ヘルガ! お、お、落ち」
「残されるのが嫌なくらいに東が好きって気持ちは事実。僕は東が好きって気持ちは」
「えぇい、落ち着けと言っているだろうが! 『女神断罪鉄貫手・簡略版(ゴッデスハンドスマッシュ・コンパクト)』!」
「嘘いつ(ビシィッ!)あうっ!?」
生まれて初めて向けられた好意に慌てる東のチョップがヘルガに振り下ろされ、頭頂部に刺さったチョップで彼の告白は止められる。
羞恥心込みのチョップは地味に痛かった。
「お、お、落ち着けヘルガ! お前はショックで気が動転して自分が何を言っているのか、分かっていないのだろう!?」
「人の感情を勝手に決めないで。あと、落ち着いた方がいいのは東」
「う、五月蠅い! 我は充分落ち着いている! それと、何処の世界に我を女として見る男が居るというのだ!」
「此処に居る。それと、はい深呼吸」
「う、うむ。すぅ……はぁ……」
動揺で顔を赤くした東は早口で捲し立てるが、どう見ても落ち着くべきは彼女の方だ。
慌てふためく東にヘルガは深呼吸を促し、ソレに素直に従って東は何度か深呼吸をする。
「落ち着いた?」
「あ、あぁ……済まぬ、我とした事が取り乱した」
東の慌てる姿にヘルガはクスクスと笑い、そんな姿を見られた東は苦笑交じりに頬を掻く。
「改めて聞くぞ……ヘルガ、お前は我を女として見ているのか?」
「肯定、一人の男として僕は東が好き」
「……そう、か」
東の問いに間髪入れずに答えるヘルガに、東は困ったような笑みを浮かべる。
難儀な男だと東は思う……ヘルガの周囲にはアステラを始めとした見目麗しい女性―東も世間一般的な視点で見れば美少女なのだが、本人はそう思っていない―が多い。
絶世の美女が絶賛大売出し中のアーカムの中で態々女とは言い難い、更にポンコツ同然の身体である東を選んだヘルガ。
女である事を捨て、弱者を護る為の暴力になる事を選んだ東にとって、自分が女である事を再認させられるヘルガの告白は嬉しいモノがある。
「お前は我が好きだというのは分かった。だが、な……」
戦う事を捨て、一人の女として生きるのも悪くはない。
だが、ソレは自己否定も同然だ。
一七年という短い人生、その大半を自己研鑽と暴力を暴力で止める戦いに費やした。
戦う事を捨てれば、ソレは振りかざされる戈を戈で止める為に己を鍛え、戦い続けてきた自分を否定する事になる。
そもそも自分は老い先短い身、治癒に専念した所でそう長くは生きられない。
「我のような」
そんな血腥いポンコツはヘルガに相応しくない、そう言おうとした瞬間だった。
―ドンドンドンドンッ!
「藍香さん、いますか!? 緊急事態です!」
「「っ!!」」
乱暴なノックと切羽詰まった声に、磁石の反発を思わせる速さでヘルガは東から離れる。
ベッドから立ち上がった東は扉を開けると、
「スゥチェか、一体何が起きた!」
其処には息を荒げるラージマウス―スゥチェと言うらしい―が一人。
小柄な体格と敏捷性から偵察等を任され、実際東も彼女を伝言役で何度か使った事がある。
そんな彼女の切羽詰まった声に、不穏な気配を悟った東は何が起きたのかを問う。
「しゅ、襲撃です! アーカム郊外の結界施設が教団の攻撃を受けています! その数、其々一〇〇名程です!」
「何だと!? 全く、昼間に痛い目を見たというのに懲りない連中だ」
ラージマウスの報告にヘルガは言葉を失い、東は驚き混じりに溜息を吐く。
今日の昼頃、アーカムへ接近中の教団部隊を発見し、東がソレを全滅させたばかりだ。
減った人員の補充もせず、無謀にも攻撃を行う教団は何を考えているのだろうか?
だが、頭が何を考えていようと東のすべき事は一つ。
『武』の遂行、弱者の為に暴力を振るうのみ。
「琴乃と武人、堯明は?」
「紫法院さんは北側、黄嶋さんは南側に出撃、既に防衛部隊と共に教団と交戦しています。白城さんは部屋に居なかったので、今探している途中です」
「分かった、我はどちらに向かえばいい」
「藍香さんは西側に向かってください。防衛部隊の報告では、部隊の中にアイアンマンを多数確認したそうです」
「了解した。スゥチェ、お前は琴乃を見つけ次第東側に向かうように伝えろ!」
「了解です。御武運を!」
報告を終えたラージマウスは東に敬礼を取った後、部屋に居なかった琴乃を探して襲撃を伝えるべく走り出す。
伝令に走るラージマウスを見送った東は肩を竦め、背後で固まっているヘルガに振り向く。
「済まんな、どうやら我は此処で死ぬようだ」
「……………………」
生きる事を諦めた東の笑みに、ヘルガは涙を堪えるので精一杯だった。
何故神はこうも無慈悲なのだろう、何故運命はこうも残酷なのだろう。
愛する女に好きだと伝えた直後に、愛する女に死を強いるのだろうか。
行かないで、と泣き喚いた所で東は足を止めないだろう。
東の事だ、例え死ぬのが分かっていても死地に向かうに違いない。
「…………コレ」
「何だ、コレは?」
ヘルガは首に提げていたネックレスを東に渡し、渡されたネックレスに彼女は首を傾げる。
渡されたネックレスは、尖った何かに紐を通しただけのシンプルなネックレス。
黒く、鈍い輝きを放つソレは一見した限り大型肉食獣の牙―爪か?―に見える。
「孤児院の先生から貰ったお守り。東に『貸して』あげる」
「…………分かった」
『あげる』のではなく『貸す』、ソレが何の意味を持っているのか分からない東ではない。
生きて戻ってきてほしい、ソレがヘルガの切実な願い。
「借りる以上、返さねばならんな」
「…………」
「了解した。我はこの戦いで死ぬが、このお守りを返すまでは生きる事を約束しよう」
「…………」
「藍香東、出撃する!」
渡されたネックレスを首に提げ、東は戦場へと走り出す。
明日を捨て、好意を捨て、全てを捨てて東は廊下を走る。
「……残されるのは嫌だって言ったばかりなのに、何で僕を残すの?」
部屋の主が飛び出し、主無き部屋に残されたヘルガは呟く。
もう、限界だった。
「馬鹿……東の、馬鹿ぁ……うっ、うぅっ、うあぁああぁぁあぁあぁぁあああぁ!!」
涙が溢れ、叫びが響く……愛する女を止められなかった自分、愛する女に死を強いる神を呪いながらヘルガは哭いた。
「何!? 教団の襲撃だと!?」
「はい! 既に藍香さん、紫法院さん、黄嶋さんは迎撃に出ました!」
「東を迎撃に出したのかよ!? 冗談じゃねぇ!」
「え? え? 何か、不味い事でも」
「東の身体は、もう戦えねぇくれぇにボロボロなんだ! 今なら多分間に合う、さっさと見つけて縛り上げて、倉庫にでもぶちこんどけ!」
「は、はい!」
×××
「ははっ、あははっ! あはははははっ!」
アーカムを覆う結界を維持する為、東西南北に置かれた結界施設。
その西側への最短ルートを走りながら、東は子供のように笑う。
生まれて初めて女として見られた。
生まれて初めて異性としての好意を向けられた。
恋愛とは無縁の己が人生に、自ら遥か彼方に蹴り飛ばしたモノが転がり込んできた。
一生向けられる事が無いと思っていたモノが、死に間際で向けられた。
「今日は良い、今日は死ぬには良い日だ!」
ソレが嬉しい。
只管に嬉しい。
手に入らないと思っていたモノが手に入った事が嬉しい。
「この短き一生、悔いはあるが……」
悔いがあるかどうか、と問われれば在ると答えよう。
行方不明の義兄弟と再会を果たせなかった事、家族として愛する義兄弟を残してしまう事。
そして、自分を好きだと言ってくれたヘルガを残してしまう事。
ソレが悔い無きように歩んできた東の、あまりにも短い一生の数少ない後悔。
「だが、構わぬ!」
だが、それでも構わない。
「手に入らないと思っていたモノを、我は手に入れた」
生まれて初めて向けられた好意を抱いて死ぬ事が出来るとは、自分はなんて果報者だ。
「ならば、良し!」
死に間際で得られたモノを抱えて死ねる、コレで満足しない程自分は強欲ではない。
「本当に、本当に……今日は死ぬには良い日だ!」
東は叫ぶ。
今日は死ぬには良い日だ、と。
だが――東の頭がそう思っても、彼女の身体はそうは思わなかったらしい。
「あははははははははははははははは!」
笑いながら走る東の身体に異変が起きる。
笑みを浮かべる口元から覗くのは、牙と呼べる程に鋭く尖った歯。
凛々しさを漂わす顔の頬、左右其々に二本ずつ黒い縞が滲み出るように現れる。
風に靡く藍色の髪、その頭頂部からピョコンと一対の丸い何かが飛び出す。
その手足からは毛が生え始め、内側から押し上げる毛に手袋とジョッキーブーツが弾ける。
突然生え始めた毛は上腕と太腿の半ば辺りまで覆い、その指先から鋭い爪が生える。
そして、尾骶骨がある部分からズルリ…と長く、先端の丸っこい尻尾が生える。
「あはっ、あははっ! あはははははははは!」
己が身に起きた異変に気付かず、笑いながら疾走する東。
その姿は黄金色に黒い縞ではなく、果て無き空を想起させる青に紺の縞である事を除けば、虎と人を足して二で割ったような姿に変わっていた。
もし、この変化を東の身を案じていた琴乃とアステラが見たのなら、諸手を上げて自分の事のように喜ぶだろう。
そう、この異変は魔物化、東はヒトの殻を脱ぎ捨ててヒトを愛する魔物と化したのだ。
魔物化を果たした東の姿を魔物、若しくは魔物に詳しい人間が見たなら、皆が口を揃えてこう言うだろう。
人虎、強靭な肉体と高潔な精神を兼ね備えた誇り高き武人、と。
「はっはぁ―――!!」
内から湧き上がる活力に興奮したような声を上げ、東は力強く一歩踏み込む。
脚で床を踏む、その動作一つを取っても、その瞬発のタイミングと重心の移動だけで東と常人では根底が違う。
腿、膝、腰を稼働させる腱、筋、血流のリズム。
その全てを『把握』し、『同調』させるだけの集中力で駆使される肉体は人体の運動能力についての常識を覆す、ソレが内家拳法の『軽功術』。
ヒトの身でヒトを超えた常識外れの機動力を生む軽功術、ソレを基本的な身体能力の時点で人間を上回る魔物が使ったらどうなるのか。
ソレは――
―ドォォンッ!!
爆音、そして衝撃波。
若し、この廊下に誰か居たのなら、誰もが東の姿を目に捉える事は出来ず、不意の爆音に首を傾げる暇も無く衝撃波で壁に叩き付けられるだろう。
深々と爪痕残す無人の廊下、其処に残されるはヒラヒラと舞う空色の残骸だけ。
13/12/26 06:09更新 / 斬魔大聖
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