祭礼剣アルレシャ
善人だと思ったら悪人だった、邪悪かと思ったら清浄だった、現実かと思ったら夢だった、間違いはよくあること。
二つの相反するものは互いに似通っているため、見抜くのは意外と難しい。
確固とした信念を持ち、自分を信じた者のみが真偽を見極める力を磨くことが出来るのだ。
しかし、もし信じていたものに裏切られた場合、どうすればいいのか。
「祭礼剣アルレシャ、太古の昔にとある海の民族が海の神への儀礼に使っていた宝剣」
「この刃文、まるで魚の鱗のようでしょう?」
「伝説だと古代の鍛冶屋が三日三晩海神の鱗を数百枚鍛えあげた末にこの剣になったそうよ?」
「信じる者には祝福を、裏切り者には呪いを与える剣」
「はてさて、これはどういう人のところにいくのかしら?」
「・・・死にそうだな」
よろよろと海際の砂浜を歩きながら青年、黒木月は呟いた。
その顔は酷くやつれ、身にまとう装束もくたびれており、随分みすぼらしい印象を周りに与えてしまう。
彼はつい最近まで将来を誓いあった恋人がおり、給料3ヶ月分の指輪も用意していた。
月は剣士であり、古流剣術である藤木派狐巌流という剣術を学び、その太刀筋同様まっすぐな気性だった。
恋人は自分にはもったいないほどの美人であり、両親にも近々紹介しなければならない、そう考えていた。
まさしく幸せの絶頂、彼はまさにこれから人生が開けると思っていた。
あの日。
近くのマンションから見知らぬ男と腕を組んで、恋人が出てくるのを見るまでは。
「・・・どうにもならない記憶だな」
未練を振り払うように月は海に向かって用意していた指輪を投げ捨てた。
問い詰めらた恋人は、意外なほどあっさりと真実を白状した。
月とは単なる遊びであったこと。
色々な男に金品を貢がせていること。
所詮月もそのうちの一人に過ぎないこと。
そのようなことを笑いながら言われ、気がついたら月は海に来ていた。
「海の下には都が広がる、か」
ふっ、と笑うと、月は海に向かってゆっくりと歩いていく。
ざぶりと服のまま海につかり、腰を過ぎ、胸の高さまで来てもそのまま進んでいく。
やがて足がつかないほど深いところにまで来ると、月はゆっくりと身を沈めた。
「・・・(もう生きている意味はない、短い人生と、もっと短い夢だったな)」
苦しみと絶望の中、月はそんなことを思いながら沈んでいった。
混濁する意識の中、奇妙な建造物と蛸のようなゴム質の足がたくさん見えた気がした。
あなた、本当にそれでいいの?
「誰だ?、私に話しかけるのは・・・」
踏みにじら、裏切られ、あなたは本当に未練はないの?
「未練ならばある、両親のこともそう、まだまだ生きれるこの身体もそう、それに・・・」
復讐、あなたを裏切った人間への
「っ!」
あなたを間接的に殺す、ねえ?、あなたはそれでいいの?、あの女はあなたがこのまま死んでも何とも思わないわよ?
「・・・それは」
それに、あの女はこのままだとまた同じことをして犠牲者を増やすわよ?
「だが、私は・・・」
私と契約しない?
「契約?」
そう、あなたがあの女に復讐出来るようにしてあげる、その代わりあなたには普通の人生を捨ててもらうわ
「それは、どういう・・・」
さあ、もう行きなさい、あの女に復讐して目にもの見せてあげなさい。
「復讐・・・」
その剣で、たらあ斬ってやりなさい
「・・・生きている?」
気がつくと月は先ほどの砂浜にいた。
時間はあれから随分経っているのか、空には星が輝き、海も黒く染まっていた。
「ん?」
その手には奇妙な形状の剣があった。
柄はまるで鱗のような装飾があり、柄頭には魚の頭部のような飾り、鞘にも当然のように鱗の意趣がある。
このような剣、まったく見覚えがない、しかも剣の柄には先ほど投げ捨てた指輪のケースが引っかかっていた。
「あの声・・・」
そう言えば海の中で奇妙な声を聞いたような覚えがある。
『その剣でたらあ斬ってやりなさい』
そんな声が聞こえたが、これがその剣なのかもしれない。
微かに剣を抜いてみると、これまた鱗のような奇妙な刃文だ。
人を殺めたくはないが、どういうわけだか刀身を眺めていると月はこの剣で人が、特に女性が斬りたくなった。
「っ!、何を考えている、私はっ」
慌てて剣を鞘に納めると、月は剣と指輪を海に投げ捨て、その場を後にした。
眠ると夢を見る、それは死のうとして失敗した日も変わらない。
月は深い海を泳いでいる、周りには美しいマーメイドがおり、中には美しい声で歌を唄うメロウまでいる。
マーメイドたちに手を振りながら泳ぎ、奇妙な海中遺跡に入ると、巨大な龍ともタコとも知れない凄まじい大きさの怪物がいた。
怪物は一瞬にして青い髪の幼い少女の姿になると、月に手を向けた。
おいでおいで、その手に引かれて月は少女に手を伸ばした。
「結局、人間は中々死ねるものではないか」
不思議な夢から覚醒し、ベッドの上で身体を起こしながら月はそのようなことをつぶやいた。
今日は休みなので家にいようかと思い、机の上を見て月は絶句した。
「っ!、あれは・・・」
そこには昨日の剣と指輪が置かれていた。
あり得ない、あれらは昨日そのまま海に投げ捨てたはず、それに寝る前にも机は見たが、昨夜は何も置いていなかった。
「どうなって・・・」
呪われた魔剣、持っていると人間が斬りたくなる剣や夜な夜な女のすすり泣く声が聞こえる剣の伝説を思い出し、月は一気に血の気が引いた。
「斬るべき人間などいない」
自分に言い聞かせるように月は叫ぶが、心のなかからはそれを否定する声が聞こえていた。
本当にそうなのか?
自分はおろか複数人を裏切るあの女は斬るべきではないのか?
慌てて月は頭を振って雑念を追い出すと、散歩でもしようと素早く着替え、外に飛び出した。
「・・・あっ」
家を出てすぐに、自分を裏切った女、双魚海(ソウギョカイ)と鉢合わせてしまった。
海のほうも気まずそうに月を眺めている。
「・・・どうも」
他人のように挨拶を交わすと、足早に月はその場を後にした。
「月っ」
後ろから海の声が聞こえたが、聞こえないふりをして、ひたすらに走り抜け、彼女の姿が見えなくなるまで走った。
「・・・追っては来ないな」
軽く後ろを見てから月は速度を落とした。
所詮海とのことは一夜の夢、一度死に切れなかったならばもう死ねない、海のことは忘れて生きるしかないのかもしれない。
とくんとまた月は心が騒ぐのを感じた。
あの女を斬れ、自分を裏切った報いを受けさせろ、そう心が叫んでいた。
「ちっ、どうかしているな・・・」
まだ未練がある、そう感じ月はまた頭から雑念晴らそうと走り出した。
その日の夜、ふらふらと歩いていると、月の家の前にカップルがいた。
「っ!」
海だった、しかも月の知らない男と楽しげに話している。
「・・・」
無言で月は二人の脇をすり抜けたが、月は一瞬だけ海の視線がこちらに向くのを感じた。
家に入ると道路側の窓のカーテンを閉め、ベッドの中に潜り込んだ。
何故海は自分の家の周りをうろついている?
秘密をバラしたことを後悔し、監視しているのか?
だとすれば秘密をバラそうとすれば彼女の『恋人』の一人に口封じされるかもしれない。
・・・上等だ。
ならばやられる前にやってやる。
ちらりと月は机の上の剣を見た。
次の日の夕刻、双魚海はいきなり何者かに呼び出された。
否、呼び出されたというのは正確ではない、朝新聞受けを見ると便箋が入っていたのだ。
『今日の夕刻、地獄ケ原に一人で来い
貴様の秘密を知る者より』
脅迫、そう気がついたが海は誰が出したのかおよそ見当はついていた。
ちょうどいい、こちらも彼に言わねばならないことがある。
夕刻、月は長いコートを纏い、一人地獄ケ原にいた。
剣は長いコートの中に隠し、いつでも抜けるように手を柄にかけておく。
「・・・来た」
ススキが生い茂る平野を一人海が歩いてきた。
「月、私は・・・」
海は何か言おうとしたが、月は話しを遮った。
「一つ聞きたい、君はいつまで今の生活を続けるつもりだ?」
月の言葉に海は顔色を変えた。
「そんなの、わたしの勝手よ」
ふっと月は目を閉じた。
「騙している人間に悪いとは思わないのか?」
「あなたには関係ないわ」
その言葉を聞いて、月は目を開いた。
「・・・決まりだな」
ゆらりと月は海に近づくが、ただならぬ月の気配に、海は後ずさりした。
「生まれ変わるがいい」
剣を引き抜くとともに月は海を斬りつけた。
「い、いやあああああ・・・」
藤木狐巌流を学んだ月の剣術の実力はまさに免許皆伝の領域、海には見切ることすら出来ない。
そのまま月の一撃は、背を見せ逃げようとした海の背中を両断した。
だが、確かな手応えはあったのに、血は一滴も出なかった。
代わりに透明の液体が、傷口から吹き出し、月の身体を濡らした。
「これは・・・」
塩辛い味に微かに漂う磯の香り、これは海水だ。
「な、に?、何だか、身体がジンジンする・・・」
ふらふらと海は熱に浮かされたようにとろんとした表情で月を見た。
「あはっ、月いっ、何してるの?、はやくはやくう」
ふらふらと近づくと、海は月ですら見抜けない速度で彼を押し倒した。
「な、海っ」
「あはっ、何だか月からすっごく美味しそうな匂いがする」
鼻息荒く、海は自分の服に手をかけて、あっと言う間に下着だけになってしまった。
「か、海っ、まさか私を身体で籠絡するつもりかっ」
海は美人、それに下着だけになってわかったがすさまじく着痩せをしていた、形が良くも豊かな胸、引き締まった尻、まずいかもしれない。
「え?、何言ってるの月、愛し合う二人が繋がるのは当たり前じゃない」
愛し合う?
馬鹿な、海は自分の財布にしか興味がなかったのではないのか?
「ほらあ、もう月もすっかり準備万端じゃないの」
一瞬惚けている間に海は月のズボンを下ろし、彼の逸物を露出させてしまっていた。
「海、貴様何を・・・」
狼狽する月に対して海は妖しげに微笑む。
「わかってるくせに・・・んちゅ」
「うわっ」
いきなり海に逸物の先をキスされ、月は艶めかしい声を上げてしまった。
「ふふっ、月よりもこっちのほうが正直ね」
かぷりと海は月の逸物を咥え、激しく舐めまわし始めた。
「んふっ・・・れろ・・・くちゅ・・・」
「や、やめろ海、私はもう君とは・・・」
そう弱々しく告げる月だが、海の舌遣いは止まず、むしろ激しくなっていく。
「んふっ、ふふっ、そろそろ出そうね?」
ぐぐっと月は腰を逸らして耐えているが、海はだめ押しとばかりに睾丸に手を伸ばし、優しく揉み始めた。
「うわっ、か、海っ」
瞬間、海の口の中で欲望が爆ぜた。
「んぶぶっ・・・で、出てるっ、月のがっ」
どぴゅりと白濁した子種が海の口はおろか顔や豊かな胸まで濡らしていく。
「はあ、はあ・・・月ぃぃぃ」
熱っぽい表情で海は月を眺めるが、あまりの艶っぽさに月はどきりとした。
「わたし、あなたが好きなの、信じてもらえないかもしれないけど・・・」
息を荒げながら海は自分の下着に手をかけて、放心している月の前で脱ぎ始める。
「確かにわたしはたくさんの男の人に貢いでもらってたけど、あなたは・・・」
「・・・海、やはり無理だ」
静かに目を伏せ、月は諦めたように口を開いた。
「君を信じることは、もう私には出来ない、君はこうやって何人を骨抜きにしてきたのだ?」
月の言葉に、海は泣きそうになった。
「そんな、月、わたしははじめ・・・」
「さよならだ海、もう私と君は交じり得ない」
身を起こし、服を整えると、月は剣を鞘に納めて、その場を後にした。
それからしばらく、何事もなく過ぎたが、どういうわけか月は剣を見ても、もう誰かを斬りたいとは思わなくなった。
柄を磨きながら、月は何となくどうしてこの剣を持っているのか考えていた。
考えてみると不思議な剣だ、刀身はたしかに真剣なのに人が斬れないのも奇妙だが海水が噴き出すのはさらにおかしい。
いにしえの魔剣村雨丸は刀身から水を出して血糊を落としたというが、これもそうなのだろうか。
馴染みの刀剣商に見てもらうのもいいかもしれない、月は剣を袋に包むと、店に向かった。
街を歩いていると、一つの喫茶店に見たことのある女性がいた。
「・・・海」
この間話していた男とは別の男といるのだが、何やら揉めているのか男のほうは怒声を上げているように見える。
直後海は席を立ち、喫茶店から出て来た。
月には気づいていないのか、猛スピードで夜の街に消えていき、後にはうなだれた男性だけが喫茶店に残った。
「・・・海」
もう交わることはない、月は嘆息すると、目的地へ向けての歩みを再開した。
結局刀剣商にも剣の正体はわからなかった、ただ少し頭を捻りながらその刀剣商は、柄の装飾が、かつて外国の港町インスマスで見た冠のものに似ているとだけ言っていた。
インスマスと言えば海神への崇拝が盛んな街だったはずだが、似た意匠ならばこの剣も海神への祭祀用のものなのかもしれない。
家への道を歩いている最中、何やら殴るかのような音が聞こえた。
「何だ?」
すぐ近くの小道からだ、覗いてみると、複数の男が女性をいたぶっていた。
「やめろっ」
月は叫びながらも剣を抜いていた。
「やべっ」
「逃げろっ」
「あいつ、刀を持ってるぞっ」
男たちは慌てた様子で小道から消えたが、そこでようやく月は倒れている女性が誰かわかった。
「海・・・」
今日はほとほと彼女と縁があるようだ。
「痛たっ」
一度拾った以上は仕方がないので、自宅で彼は海の手当てをすることにした。
ベッドに座らせ踏みつけられて出来た四肢の傷を消毒し、痣がある箇所には包帯を巻く。
何かの策略かと思ったが、海の身体に残る傷はそんな生易しいものではなく極めて激しい暴力の跡だった。
ひどいものだ、原因はわからないし興味はないが、月はなんとなく不快な気分になった。
「・・・これで最後だ」
手当てが終わると、月は救急箱を片付けた。
「・・・ありがと月、助けてくれて」
礼を言う海だが、月の態度はそっけない。
「『知人』が嬲られていて無視できるほど私は冷徹ではない、傷ついた裏切り者を捨て置けないほどの愚か者ではあるがな」
月はそのまま外に出ようと扉に手をかけた。
「待って!」
海の声に、月は振り向いた。
「・・・何だ?」
あくまで冷たく振舞う月、海はいきなりベッドの上で土下座した。
「おねがい、もう一度、もう一度だけわたしを信じてっ!」
「・・・今更何をだ?」
月の言葉に海は顔を上げた。
「もうわたしはみんなと別れたの、今のわたしはもうただの双魚海、信じてっ」
そこで月は喫茶店でのことや、小道でのことを思い出した。
そうか、別れ話を切り出して襲われたわけか。
「・・・そうまでして私か、何故だ?、私は君にとって貢ぐだけの『便利な友達』の一人でしかないのでは?」
「あなたが、月が好きなのっ、こんな気持ち、初めてだったのっ」
物心ついたときから海は目立つ容姿だったため、小学校や中学校はもちろんのこと、高校大学でも男に困らなかった。
言い寄る男はたくさんいたし、彼女が頼めばなんでも男は聞いてくれた。
大学を卒業しても変わらず、男をうまく利用し、遊びほうけた。
自信はあった、自分はなんでも男に言うことを聞かせられると。
だが月に会って、彼女は変わってしまった。
最初は本当に遊びのつもりだった、しかし彼の律儀な人柄や他の男とは少し違うまっすぐさにいつしか好感を覚えていた。
このままでは彼を本気で好きになってしまうと思い、海はうまく別の男との逢引を見せて月に嫌われることに成功したが、胸が張り裂けそうな痛みに耐えられなかった。
次の日様子を見に行ったが、そこで気がついてしまった。
もう手遅れなほどに、海は月を好きになっていたのだ。
関心を引こうと別の男との逢引を見せたが、彼はもう自分を見てはくれなかった。
無くして初めて大切なものに気がつく、自己満足とわかってはいたが、海はこれまで関係のあった男たちと別れることにした。
医者も弁護士も、社長息子もいたが、みんな別れた。
恨みを抱いた男たちに殴られながらも海はこれで月に後ろめたさもなく話せると、どこか安堵しながら痛みに耐えていた。
「・・・ただの双魚海、か」
月はドアノブから手を離すと、ようやく海に視線を戻した。
「もう一度だけ、信じてみよう」
瓶子から酒を杯に注ぎながら月は窓の外に出ている満月を見た。
「今日は満月のようだな」
酒を一息に飲み干しながら月は海に杯を渡した。
「君もやれ」
「それじゃ」
海は杯を受け取り、月から酒を注いでもらった。
「月が好きなの?」
海の言葉に月は頷いた。
「まあ、そうだな」
酒を呑みながら月は満月を眺め、それにつられて海も空にある天体を見た。
「月って、あなたに似てるよね?」
海は杯を傾けながらそう告げた。
「いつも輝いてるけど、気がつくといない」
「・・・月とはそう言うものだ、君は海に近いな、名前の通りだ」
海は月に視線を移した。
「引き際をわきまえていない、ってこと?」
「・・・全てを受け入れるということだ」
えっ、と海は月を見たが、本人はまだ満月を眺めており顔色を見ることは出来なかった。
「・・・十二時か」
時計を見るといつしかそんな時間だった。
「・・・今日は帰るのか?」
「ううん、あなたと・・・」
海は月をじっと見ている。
「・・・一緒にいたい」
「・・・私は君にとって何人目かは知らんが、私にとっては君が初めてだ」
互いにベッドに横たわると、月はそんなことを言った。
「月・・・」
すでに元気な逸物を露出させると、月は海の秘所に当てる。
「・・・うっ」
「・・・行くぞ」
傷に触らないように月は彼女の腰を掴むと、一気に引き寄せて、逸物に挿入した。
直後、ぶつりと何かを突き抜けるような感覚を月は感じた。
「えっ?、まさか海、君は・・・」
驚く月に対して、海は瞳を潤ませながら彼を見つめた。
「わたしも・・・初めて、よ・・・、あなたが、初めて・・・」
あまりのことに月はしばし唖然としていたが、すぐに気を取り直し、海の背中に手を伸ばす。
「・・・ん?」
背中の一部、何やら鱗のようなものに触った。
感触はすべすべとしているのだが、形状や感覚、指先に残る不思議な触り心地はたしかに鱗だ。
もっとよく触りたい、ナデナデと触っていると、ぞわりと海は身を震わせた。
「そ、そこ、あなたに、斬られた傷、そこは・・・っ」
斬った傷、傷跡はないのに何故だか鱗がある、原因は一つしか思い浮かばない、あの時斬るのに使った正体不明の剣。
「くあああっ、その剣が・・・祭礼剣がアルレシャが、わたしを、おかしくするのっ」
机の上にある、剣が微かな光を放っている。
光が点滅する度に、ゾクゾクと海は身を震わせ、何かに耐えるかのように瞳を閉じる。
「か、海、何故だ、何故あの剣の名前を、しっている?」
「わ、わからないっ、けれど頭の中で何かが、さ、叫ぶの、あれは祭礼剣アルレシャ、クトゥルフの、つ、剣だって・・・ひぐうっ」
ブルブルと身を震わせる海、だが様子が明らかにおかしい。
ただただ快楽を得るかのように動く海、その両眼の色が変わり、さらには髪の色まで見る見る海を思わせる色に変わりつつあるのだ。
だが、今の月にはそのようなことにまで気を走らせ、どうしてなのか考察するような余裕はなかった。
あまりの心地よさに、月もそろそろ限界が近かったからだ。
「出るっ、海っ」
「出してっ、あなたを感じたい、あなたの息吹を宿したいのぉっ」
ぎゅっと海が月の肩越しに背中に手を回す。
「うわあああああっ、か、海っ」
月の自制が限界を迎え、海の中で白いものが爆ぜる、瞬間、海はかっと瞳を開いた。
その目は焦点が合っておらず、だらりと口からは赤い舌が微かに覗いている。
「きた、きたきたきた、わたし、わたしっ」
びきびきと音がして海の背中の鱗が広がり、彼女の足下を覆っていく。
「これは、一体・・・」
慄く月、だが変化はそれだけでは終わらない。
「月ぃ、わたしの、足、こんなのになっちゃった・・・」
彼女の足は一つの魚の尾のようになり、伝説に伝わるマーメイドを思わせるものになっていた。
「・・・綺麗だぞ、海」
なるほど、普通の人生を捨てる、こういうことか、これでは海は地上では生きらないだろうし、月も異様な力が体内に宿るのを感じていた。
「帰ろう、母なる海へ、我らはそうなる運命なのだろう」
全ての生命は海から来たという、ならば海へ帰るのもある意味当然かもしれない。
あの不思議な都市や巨大なタコのような怪物、それらが待つ海へ。
その後この二人は誰にも知られずに行方不明となり、以降はどうなったかを知る者はいない。
ただしニュージーランド沖で海難事故があった際に、不思議な剣を帯びた青年と、何十というマーメイドを率いた人魚の巫女が助けてくれたと生存者は語っていた。
真偽のほどはわからないにせよ、海には人間のおよびもつかない世界が広がっているのだ。
ふふっ、二人とも幸せそうね、やっぱり愛し合う者はこうじゃないと。
祭礼剣アルレシャ、『恋する男性が女性を虜にするため』に私に祈るとき使う宝剣、役に立ったみたいね。
え?、私は誰かって?、もう想像はついているんじゃないかしら?
ただヒントをあげるならば、魔王の影響を受けたのは魔物だけではないってこと、海洋を統べる旧い支配者も、ね。
私に会いたくなったらいつでもルルイエにいるわよ?、ただし人間のまま来れるかはわからないけどね。
それじゃ、また会える日を楽しみにしているわよ?、私の夢はあらゆる夢に繋がっているのだもの、今日あたりあなたの夢にも・・・。
15/03/05 03:19更新 / 水無月花鏡