中篇
その日は、雨が止まなかったため、御舟さんに頼んでお嬢さんと夕食を食べた。
無論、散らかっている僕の部屋ではなく、一番広い、御舟さんの掃除が行き届いた部屋で食べた。久しぶりに味のする食事だった。
夕食を食べ終わる頃、雨がやんだのと、お嬢さんの着ていた山伏の服が着れる状態になったのが重なり、泊っていくように提案したが、さすがにそこまでご厄介になるわけにはいかない、とのことで帰って行った。
次の日から、お嬢さんは僕の所に来て、西洋の呪術とも、我が国の呪術ともわからないものを学びに通ってくるようになった。それから毎日先生から頂いた本が大活躍で、先生から頂いた大量の本がこんな時に役に立つとは、思いもしなかった。
僕はお嬢さんのことを「お嬢さん」と呼び、お嬢さんは僕のことを「先生」と最初呼んでくださったが、何だが僕が先生と呼ばれるのは、とてもこそばゆい気持ちになるため、やめてくれと頼むと、「坊ちゃん」と呼ばれた、でも、なぁ、いやいいけど、「坊ちゃん」か…
御舟さんはお嬢さんが僕の学問を習いに来ていることにいい顔はしなかった。いや、その理由はお嬢さんが嫌いじゃなくて、僕が学んだ学問が嫌いなだけの話で、それを学びにお嬢さんが来るのが嫌なのだろう、かなり複雑な顔をしていた。
でも、御舟さんはお嬢さんを気に入っているらしい。お嬢さんはほぼ毎日来るが、毎週月曜日は夕食をお嬢さんと共に食べることにしたのだが、その日はおかずが一品多い、しかも、その一品はお嬢さんが気に入ったり、おいしいといったおかずばかり、おかわりも勧めてくる。
御舟さんとお嬢さんの仲もいい、この間なんてお嬢さんが料理を作れない、なんて御舟さんが知って、お嬢さんに料理を教えていた。
ちなみに、その時お嬢さんが作った料理を食べたが、初めてにしてはうまい料理だった。
僕がお嬢さんに呪術を教えるようになって幾つか分かったことがある。
お嬢さんはとてもまじめで勤勉で、学習意欲が高い人(?)であることだ。
そして、とても恥ずかしがり屋、前に妖怪のことが記された書物でカラステングはとても自意識の高い、時に傲慢でもある妖怪と記されていたが、お嬢さんが例外なのか、それとも書物の記述が間違っているのか分からないが、とても気難しい妖怪には見えないが、そこがいいところで、思いやりのある優しい、一般的にいっても、いい人だと思う。いや、いい妖怪か
お嬢さんに呪術のことだけを最初は教えていたが、そのうち他の学問の書物にも興味を持ち始め、僕が分かる範囲で教えていた。
しかし、そのうち僕でも教えられる範囲外のことを質問してくるようになったので、帝都にいる教師をしている友人に文をだして、聞くことが多くなった。
僕も改めて発見させられることもあって面白い
そんな日々を過ごしていたら、気がつくと梅雨は終わり、夏が盛り、衰え、秋風が吹く季節となっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ぼんやりと、縁側に腰掛け、秋空を眺めていた。夏と比べ、雲が大分高い位置にある。
御舟さんが庭で落ち葉を掃いている。しかし、庭の木々の葉が風に乗って落ち、はいたばかりの庭に積もる。
「坊ちゃん、今日はお嬢さん遅いですね」
一通り終わったのか、それとも休憩なのか、御舟さんが隣に腰掛け落ち着かない様子で聞いてきた。
御舟さんもお嬢さんをお嬢さんと呼んでいる。
御舟さんが落ち着かないのは、今日はお嬢さんが僕から学問を学ぶために来るのではなく、御舟さんと一緒に裏山でキノコ採りをするために来るのだ。
無論、僕は留守番
今日はおとなしく帝都の友人に頼んで送ってもらった本でも読んで、すごそうかな
「…そうですね、いつもはもう来てもいい時間なんですけどね」
ふと、御舟さんが僕の顔を見ていたので、なんです?と尋ねる。
「いやぁ、坊ちゃん、お嬢さんが来てから変わったなぁ、としみじみと思ったとこですよ」
御舟さんが笑う、子供の時よく二之助と遊んでいた時に見せた笑顔だった。
「帝都から帰って来た時、一之助坊ちゃん本当に年寄りみたいでしたからね、こういってはなんですけど、若返った気がしますよ。前なら縁側に腰掛けるのは体調がいい日だけですけど、いまじゃ毎日縁側に腰掛けてお嬢さん来るの待ってるじゃないですか」
確かに、帝都から帰ってから、比喩じゃなくて本当の意味で死にかけてるからな
ちなみに現在進行形なところが悲しい
懐から煙草を取り出して、火をつけ銜える。
御舟さんは、僕が煙草を吸うのを嫌うから顔を曇らせたが、構わなかった。
「…そうですね、希望は薬である、と、ある西洋の聖人の言葉ですが、その通りですね、まったく、その通りです」
憎たらしいまでに、良い言葉だと思う、本当に、心の底から
「ですね、けど、御舟さん、叶わない希望なんて薬じゃないかもしれませんね」
だって、僕の体はもう長くは無いのだから
しかし、僕の声は突風が吹いた為、風の音にかき消された。
御舟さんが嬉々として立ち上がる、庭に先ほどの突風はお嬢さんの来訪を示唆している風でもあり、そして、風が吹きやむとお嬢さんが庭に立っていた。
服装はいつもの山伏の服だが、首にはマフラー(僕が帝都にいた時買った物をあげた)をまいて、手には竹で編んだ籠(この場合はバスケット)を下げていた。
ぺこり、とお嬢さんが頭を下げる。もう一つ分かったことがある、お嬢さんが無口なのは性分らしい、僕も御舟さんもお嬢さんの無口には慣れた。
御舟さんは遅かったじゃない、と声をかけ、とりあえず中に入って休むように勧める。
お嬢さんが僕にもう一礼すると、縁側から家の中に入り、首に巻いていたマフラーをとる。御舟さんもそれに続いて家の中に入ってしまった。
家主のはずの僕が一番最後に家の中に戻って、大部屋に入り、座卓を挟んでお嬢さんの前に座った
「遅かったですね、今日は何してたんですか?」
お嬢さんは少し困ったようにしていたが、座卓の上に籠を置く
中には様々な、この辺りでは珍しい草花が入っている。
御舟さんがお盆にお茶が入った湯飲みを運んできた。
籠の中を見て、御舟さんも驚いたようだ。
「これって…」
だが、どれも見覚えがある、先日草花の図鑑を見ていた時に一度見てみたい、と僕が言っていた植物ばかりだ
「坊ちゃんが、欲しいといっていたので取ってきたのですが、おもいのほか時間がかかってしまい、遅刻してしまいました。その、ごめんなさい」
お嬢さんが深深と頭を下げる。
僕と御舟さんは慌てて、頭を上げて、と頼む
「こんなに集めるのは大変だったでしょう、ありがとうございます。お嬢さん」
そういうと、お嬢さんは恥ずかしそうに笑った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
お嬢さんが御茶を飲んだ後、御舟さんと予定通り、裏山に出かけて行った。
籠は一つでいいらしく、草花の入ったお嬢さんの持ってきた籠はそのまま座卓の上に置かれている。
さて、どうするか、とりあえず、お嬢さんにいただいた草花でもスケッチするかな、そう思って、部屋からスケッチ帳と鉛筆を持ってきて、それと草花を座卓の上に並べてスケッチを始める。
シャシャという鉛筆を紙にすべらす音と、たまに外で木枯らしがふき、ガラスを揺らす音が聞こえるぐらいだ
そんな音を聞きながら、ふと手を止めて、考える
お嬢さんの先ほどの笑顔を見るたびに浮かんでくる考えで、いや、悩みか
命題は、この気持ちをお嬢さんに伝えるべきかどうかということ
自分の気持ちぐらい自覚しているつもりだ、というか、呪術を行う者は自分の心をしっかりと理解しておかなければいけない
無論、気が付いている。お嬢さんへ自分がある特別な気持ちを抱いていること自体、認識している、否定できない事実で、否定する気もない
だが、それは、叶わないだろうな
なぜなら、第一に、お嬢さんにすでに思っている人が、心を決めた人がいるかもしれない、もしかしたら、昔の風習が続いているなら、許嫁がいるかもしれない
僕はお嬢さんのことを改めて考えると何も知らない、と思い知らされる。
そして、第二の問題もある。弟の、現当主の二之助が許してくれないだろう。いや、許してくれても、僕は自分自身が許せないかもしれない
あいつには迷惑をかけた、本当に、すまなかったと思っている
本来、僕が継ぐはずだった家督をあいつに無理やり押し付けたのだ、まぁこんな体じゃできないことは誰の目にも明らかだが、あいつなりに苦労したしたろうし、二之助の嫁さんが倒れる原因をつくったのも、全て僕に責任がある
こんな男が、幸せになってもいいはずがない、幸せになる権利など、あの時に自らの手で放棄してしまったのだ
それに、最後に
そう考えた時、その問題が来た
三枚目の絵を描き終えようとしていたから、余計にもったいなかった
スケッチ帳の絵の上に一本強く、線が走る
そのまま、胸をおさえて、突っ伏した
どくん、と強く心臓の鼓動に合わせて胸が痛んだ。
梅雨のころとは比べ物にならないくらい強く、胸が詰まり、肺が張り裂けそうな痛みで、こればかりはしょうがない、と分かっているのに、痛い、どうしようもない痛みだ
心臓が早く鼓動を打つのに合わせて胸の痛みも強く、早く痛む
前なら、すこしじっとしていれば治まったが、もうそんな話ではなくなっている
草花を座卓の上に置いたまま、這って自分の部屋に向かう
まずい、今までで一番大きな痛みだと直感する
途中なんとか立つと、千鳥足ながらなんとか部屋まで戻り、敷かれたままの布団に倒れるように横になった
そこで、ふと御舟さんもお嬢さんもいないことを思い出した、そのため、安心して悲鳴を上げられると理解し、思いっきり悲鳴を上げかけたが、声を出そうとすると喉が痛み、出てくるのは咳だけ、それも血が混じっていた。
その血を見て、固まった血がのどに詰まって、声どころか息ができなくなる窒息の危険もあり、声を上げるな、と医者に言われたことを思い出した
痛い、痛い、焼けるように、虫に食われるように、針で突かれるように、鈍器で叩かれるように、痛い
そんな痛みが休みなしで襲う、苦しい苦しい苦しい、ただそれだけ、ただ、それだけなのに、我慢できるような痛みじゃないと体が悲鳴を上げた声を聞いた気がした
だが、何もできない
そんな痛みが永遠に続く気がした
そして、だんだんと意識が乖離していく
意識が、消える
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
気がつくと、部屋の中が暗くなっているが天井に橙色の光の川が映っているのが眼に入った、どうやら夕刻らしい
だが、すぐに瞼が重く感じ、瞼を閉じる。
今は瞼を開けているだけの体力すらない、横になるだけで限界だ
胸の痛みは大分治まったが、ずきずきと痛む
安堵と後悔が襲ってくる
死ななかった安堵と、また、死ねなかったという後悔が
最近、この痛みが来るたび、思うことだ
特に今日のは今までで、一番大きな痛みで、日に日に痛みが大きく、つらいものになっている、その進行ぐあいは今までの比にならない速度で、進行している。
そして、いつか、この痛みは、この病は僕を殺す
じわじわと真綿で首を絞めるように、そして最期は発狂するほどの痛みで殺す
自分の責任とはいえ、つらい
そんな時、誰かが部屋に入ってくるのを感じた
そして、すぐそばに座ると、僕の額が冷たく感じた
どうやら濡れた手ぬぐいでも当ててくれたらしい
「お嬢さん?」
眼を閉じたまま尋ねる、お嬢さんのような気がした
「私ですよ」
その声はあきれたように応えた、よく知っている声だ
「なんだ、御舟さんか…」
正直、少し残念だった
「なんだ、じゃないですよ、坊ちゃん」
少し、きつめの口調だ、どこか責めるような口調でもある
「今日は本当に危なかったんですから、なんでこうなるまで黙ってたんです?私だって坊ちゃんの病、ここまでひどく進行してるなんてわかってたら、一人にしませんでしたよ」
黙って聞くしかない
「お嬢さんが気がつかなかったら、坊ちゃん死んでたかもしれないんですよ」
ん?
「御舟さん、お嬢さんが気がついたんですか?」
「ええ、山にいるときにお嬢さんが突然私を掴んで、ここまで空を飛んで運んでくださったんですよ。私は何が何だかわからなかったですけど、お嬢さんの様子が尋常じゃなかったので黙ってついてきましたけど、もう、空を飛ぶのは嫌ですね、そのままお医者さんをよんでくださったんですけど、真っ青でしたよ」
なんとなく、その様子が想像できる、医者というのは高宮先生のことだから、60過ぎの老体に空を飛ぶのはきついものがあるだろう
「よかったじゃないですか、なんでもカラステングが人を運ぶのは旦那となる人物をさらう時だけらしいですよ、御舟さんも高宮先生も旦那にされてないのに、運んでもらえて」
少し、いや、空を飛んだという事実がかなり羨ましい、西洋の魔女という妖怪はほうきにまたがり空を飛ぶらしいが、術者は飛べる者は高等術式をマスターした者だけ、夢の術だ
ちなみに魔女は元人間で、バフォメットという妖怪と契約して魔女になるらしい、「私と契約して、魔女になってよ」といってバフォメットは勧誘するのだと本に書いてあった。
話が大分それた。
それをいうと、御舟さんはすこし拗ねたようだ
「じゃあ、坊ちゃん運んでもらえばいいじゃないですか、ついでにどうです?お嬢さんの旦那さんになったら?」
御舟さんが言った後、何かに気がついた様子で、そのあと、すみません、と謝る。
「…御舟さん、僕もここまで病が進行していたのをはじめて知ったんですよ、本当にここまでの痛みは初めてだったんです」
そして聞いた。
「高宮先生はあと、どれくらい生きられると言っていましたか?」
あれで名医だからな、高宮先生は
残された寿命くらい多少の誤差があっても大体見当がつくだろう
かなり、迷っているのが分かったが意を決したように、御舟さんはいう
「いつ死んでもおかしくない、と仰ってました」
そうですか、としか言えなかった、半年前の診断は、長くて五年と言っていたが、もう五年も残されていないのは事実らしい
軽く笑う、笑うしかなかった
声を上げて笑おうとしたが、ぱたぱた、と小走りしながらこの部屋に誰かが近付いてくる足音が聞こえ、やめておいた。
今度は間違えなかった
眼を開けて、上半身を起こす
その時、器用に羽の上にお盆を載せ、部屋にお嬢さんが入ってきた。
お盆の上には湯気が上っている椀がのっている、どうやら温かい料理らしいことは分かった
「そうそう、お嬢さんが坊ちゃんに味噌汁をつくってくださったんですよ」
先ほどの声から一変し、思い出したかのように言う
お嬢さんは恥ずかしそうに、僕に椀と箸を渡す
渡された椀を両手で包むようにもつ、温かい
いいにおい、具はなんだろうか?
箸でかき混ぜると、その具には見覚えがあった
「わ、私がとってきた草で、こうして汁物の具にすると薬になる物がありまして、味噌汁にしてみました」
お嬢さんが教えてくれた。
確か、先ほどお嬢さんが取ってきた草花にはそんな物は無かった、もしかしたらカラステングに伝わる話なのかもしれない
後で教えてもらおう
そう思って、汁をすする
うん、うまいな
御舟さんがじっと、見ていた。
どうしたのか、と思うと、御舟さんはお嬢さんの方を見た
そこで、気がついた
お嬢さんが僕を心配そうに見ている。
「おいしいです。これを飲んだら元気が湧いてきました。ありがとう、お嬢さん」
お嬢さんはほほ笑む、実をいうと、僕にとってこの笑みが一番の薬だが、前に半分冗談のつもりでそれに近いことをいったのだが、顔を赤くそめ、倒れてしまって御舟さんに大目玉をくらったことがある。今回はそれを言うとお嬢さんの方が倒れてしまうのも想像に難くないので、やめておく
そこでふと、思い出した
「実は、お嬢さんに頼みたいことがあるのですが」
お嬢さんが固まる、僕がお願い事をするなんて殆どなく、無茶なことが多い、だから自分にできるのか、どんなお願いをされるのか、固まってるのだろう
たしかに、普通の者なら無茶だ
だが、お嬢さんならできることだった
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「うわあああああああああ!!たっかああああああい!!」
僕の声まで、発したそばから遠くに過ぎていく、その感覚が面白くて柄にもなく大声を出し、その後思いっきり、むせた。
無茶するから…というお嬢さんの呟きが聞こえた
すぐ近くだからお嬢さんの声がいつもより大きく聞こえる
でも、興奮を隠せない
だってここは地上ではなく、空、しかも、人間が跳んでもとても届かない、 届くのは鳥や翼をもつ、例えばお嬢さんのような者しかたどり着けない、そんな高さだ
この高さから僕の住んでいる家や風景を見るのは、見下ろすのは初めてだから興奮せずにはいられない
無論、僕に空を飛ぶ力なんて持っているわけがなく、僕の両腕をお嬢さんの両足の指でしっかりと掴んで飛んでもらっている
僕のわがままでお願い、お嬢さんに掴んでもらって空を飛んでみたいとお願いしたのだ
最初、御舟さんもお嬢さんも猛反対したが、どうしてもと、僕も折れずに交渉して、僕が最終的に勝った
ただし、条件は二つ
もう夕方であった為、飛ぶのは明日に
それと、飛ぶのは10分だけ、という約束
それが条件だったが、喜んで承諾した
ちなみに天気はこれ以上ないほどの秋空、まさに絶好の散歩日和
御舟さんは雨になれば中止だったから、晴れて落胆してたけどね
初めて見る光景、だけど、幼少のころこの辺は遊んだからよく知ってる場所、それが上から見下ろすのでは全く違う風景なのが、おかしかった
お嬢さんはいつもこんな光景を見ているのか、そう思うと、ちょっとお嬢さんが羨ましい
住んでいる家がかなり小さい、この高さからでは小指の爪ぐらいの大きさしかない
父が若いころに趣味で作った、簡素で、質素な、そんな趣味の家、生まれ育った屋敷から馬でも一日かかる、二つ丘を越えた場所に小さな町がある交通にも住むにも不便な場所につくった父の趣味の家、それが今の僕の住む世界
その家の後ろにお椀を伏せたような小山があった
上から見下ろして、初めて気がつく
家に覆いかぶさるように山の植物が生えている
もう山を手入れする者は殆どいない、山と周りの田の境界線上に建っているような家だ
手入れをするものがいなくなった山の植物は強い、すぐに負けてしまう
あと、十年もすればあの家は植物に埋もれ、廃屋になるだろう
そんな家に僕は住んでいたのか
滑稽だ、滑稽な光景だ
植物に沈む死を待つ家と、その家に住むいつ死ぬか分からず、死を待つ男
滑稽だ、あまりにも滑稽な風景だ
自分が少し、みじめな気分になる
だけど、飛んでいるお嬢さんをこっそりと見ると、そんな気分も吹き飛んだ
今日は僕と一緒に飛ぶので、足で僕を挟んで飛ぶことになる。
つまり、いつものスカートでは、その、なんというか、僕が見上げると見えてしまうのでお嬢さんはスカートの上から、僕が貸したズボンを穿いて飛んでいる
飛ぶときは屈伸してかがんだような状態で飛ぶので、お嬢さんが下を向くと視線が合う、ふと、僕の視線に気がついてなんですか?と聞く
なんでも、と答えたが、やっぱり、お嬢さんには青空が似合っていた
お嬢さんがちょっと迷惑そうだったから、視線を下に向ける
すでに紅葉がはじまって日が経っている
地上は田で埋め尽くされているため、収穫を迎えた黄金の稲が作り出す、辺り一面に広がる黄金の世界、点在する森は赤一色
「きれいですね」
僕がつぶやきに対し、そうですね、とお嬢さんも応える
死が恐ろしいのではない、こんなにも美しい世界からさってしまうのが惜しいのだ、ある詩人の臨終の際の言葉だが、いまなら理解できる気がする。
お嬢さんに連れてきてもらった世界は、あまりにも美しかった。
そろそろ時間です、とお嬢さんはいうと降下を始め、家の方向に向かって一直線に下りていく
家がだんだんと近づいてくると、庭で誰かが、御舟さんしかいないが、手を振っていた
心配性なんだから、そう思って僕が笑うと、そうですねとお嬢さんも笑った
庭に到着し、地上に降り立ったが、しばらく空中に足を放り出していたため、力が入らず、その場に座ってしまった。
御舟さんは急いで駆け寄ってきて、大丈夫か、怪我は無いかと聞くので両手をあげて大丈夫ということを示す
それをみて、安堵したように御舟さんが胸をなでおろした
「どうでした?空は?」
大分安心したのだろう、そんなことを聞かれ、答えは決まっている
「最高でした」
近くに降りた、お嬢さんが小走りで近づいてきた。
お嬢さんが翼を差しだし、それを握って立つ
お嬢さんの笑顔を見て、なにかに似ているのだと前々から思っていたが、分かった。お嬢さんの笑顔は、青空に似ているのだと
その笑顔をみて、お嬢さんへの気持ちを実感して、決心がついた
なによりの決心が
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今日は、お嬢さんも、御舟さんもいない
お嬢さんには大事な客人が来ると伝えて、今日と明日は来ない予定になっている
最大の難物は御舟さんだったが、最後のお願いとして、今日は屋敷の方にいってもらっている、昨日の内に書いた二之助への手紙を持たして行ってもらった。
戻るのは早くても4日後だ
今、部屋で手紙を書いていた
昔のように、筆で書いていた
帝都に行ってからはペンを使い、帰ってからは書きものは久しくしていなかった。
文を筆で書いたのは、ほんの気まぐれのつもりだった。
三通手紙を書かなければいけない
一通は御舟さんに、それともう一通は帝都にいる先生に
それと、もう一通書けば、僕の役目も終わる
しかし、白紙の紙を前に何を書けばよいのか、分からなかった
御舟さんと先生への手紙は、書き終えた
だが、あと一通で終わりなのに、何から書けばいいのか分からない
こんなことは久しぶりだ
とりあえず、気分転換が必要だと思った
煙草を吸いに立つ
縁側に腰を駆けて、外の光景を眺める
昨日とは打って変わって今日は生憎の雨、本格的には降っていたが、今は小雨になって、じきに雨が止むのは時間の問題のような気がした
煙草を取り出し、吸おうとしたが、やめた
思い出したからだ、あの日と、お嬢さんと初めてあった日と同じ天気だったから、なんとなく、あの日の気分を思い出したくなったからだ
あの日と、変わらない、まぁ庭の栄えてる植物が紫陽花から桔梗に変わったことぐらいかな
庭にでてみることにする
傘と草鞋を持ってくると、庭にゆっくりと歩く
父か巨大な庭園にあこがれたため、土地の少ない町中では父の望んだ大きさの庭園がつくれず、こんな辺鄙な場所にこの家をつくった
だがそうする価値はある、自慢の庭で、とても広大
一周するだけで僕の足では一日かかってしまだろう
こんなに大きな庭なのに、空から見たらあんなに小さいのがなんだかおかしくて、少し笑ってしまった。
そして、たどりついた。
あの日、お嬢さんがいた紫陽花のふもと、今は葉が散ってしまって、枯れ木そのもの
だが、あの日のまま、そこにあった
あの日の僕が見たらなんというか、10年も生きられないと言われたが、何事もなければ、希望を抱かなければ三年は生きられるはずだった
それが今では明日にどうなっているのか、分からない命
あの時の自分がみれば、愚か、というだろう
だが、正しい
今の自分は、自分から見ても愚か、という言葉がなによりも似合う
しかし、後悔なんてあるわけない、お嬢さんとお会いできて本当によかった
だけど、心残りがひとつだけ、ある
それは…………
ドクン
と心臓の鼓動が聞こえた
直後、胸が痛み始めた
その痛みがなんであるか理解する、今度のは、僕の命を消す痛みであると
いけない、今回のは、本当にいけない、いつものように胸が締め付けられるように痛む、いや、いつも以上だ
咳が出てくる、正直言って苦しい
足に力が、いや、全身の力が抜けていく
そのまま倒れる
雨で緩んだ土の泥で、体が泥まみれになるが、そんなことは些細なことで、胸をおさえる。気絶してしまえば楽なのだが、この痛みでは気絶もしない、気絶することも許されない痛み
猛烈な、死に至る痛み
そして、明確な死のイメージ
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい
…………母さん……………御舟さん………お嬢……さ…
だが、その痛みがだんだんと和らぐ、ふと、眼を開けると黒い羽が眼にはいる
よく知っている羽だ、そして、その羽をもつ、母様の着物あげたのに、そのあと一回も着てくれず、いつも山伏の服を着る、頑張りやで勤勉な、だけど書物と性格が正反対のカラステングの少女が、お嬢さんがいた
お嬢さんが両の翼で胸をおさえてくれていた、その翼が淡い光を放っている
僕はこんな呪術を知らない、これが、神通力というやつなのだろう
目覚めたのか
本来神通力とは妖怪に備わっている力で、神通力の訓練をするのはその力を引き出し、制御するためだといわれている
つまり、きっかけさえあれば自力で神通力を使うことも可能らしい
胸の痛みが引いていく、大分楽になった
翼を離し、心配そうに顔を覗き込む
上半身を起こし、胸をさすってみるがいつもの痛みはそのままだが、必要以上の痛みはない
僕の様子を見てお嬢さんは安心したようだった。
「…なんで放っておいて、くれなかったんです?」
これは言ってはいけないことだ、絶対に後から後悔する、そんなことは分かりきっているのに、呟やく
「なんで、なんで!!死なせてくれなかったんです!!」
大声を上げると、お嬢さんが怯えたように体を震わせた
「ぼくは…僕は…もう長くないのに、なんで、なんで、僕を苦しめるんです!!ずっと、ずっと戦ってきました、ずっと悩み続けてきました、やっと、やっと決心がついたんですよ
生きました、もう十分生きたんです!!」
やつあたりだと、わかっている。だが、一度言った言葉は関を切ったように流れ出た
「僕は、この3年間、ずっと、ずっとこの痛みに怯えてきたのに、やっと楽になれたと思ったのに、なんで死なせてくれなかったんですか!!もううんざりなんです!!この痛みと戦うのが!!もう嫌なんです、放っておいってください!!楽にしてくださ…」
パンッ
その音と共に、右頬に痛んだ
お嬢さんが僕を叩いた音だった
お嬢さんの顔を見ると、お嬢さんは泣いていた、悲しそうな顔をしながら
「死にたい、なんて言わないでください!!」
お嬢さんが僕以上の声を上げ、叫んだ。
僕を翼で包み込むように抱きしめる、温かい
「私は、私は、坊ちゃんと、一之助さんと一緒にいられるだけで幸せなんです。私はあなたと一緒にいたいんです、一番大切な人なんです。そんな人が死にたいなんて言わないでください、もう大切な人を失うのは嫌なんです、ずっと、ずっと傍にいますから、死にたいなんて、十分生きたから死にたいなんて、言わないでください」
お嬢さんの声は震えていた。
やっぱり当たった、後悔するぞ、と思ったが、やっぱり、だった
とんでもないことをしてしまった
「お嬢さん」
少し、お嬢さんを距離を置いて、お嬢さんの顔をしっかりと見る、雨でなく涙で顔が歪んでいた。
その顔を見て、心の底から後悔する
僕は、馬鹿だ、大馬鹿だ
「ごめんなさい」
謝る、何に対して謝罪したのか、自分でもわからなかったが、本当の言葉だった。
「怖いです、死ぬのが」
ぽつりと、言葉がでてきた。
「自分でも、戦ってあがいてきました、でも、どうしようも、本当にどうしようもなくて諦めてました。たから、平気なふりをしてました。でも、平気なふりをすればするだけ、怖くなって、どうしようもなく、怖いです、本当に怖いです、まだ死にたくなんて、ないのに」
そのまま涙が出てきた、止めようとしたが止まらず、泣いた、久しぶりに泣いた
お嬢さんはそんな僕を、もう一度抱きしめてくれた
お嬢さんに抱きしめられながら、僕は、泣いた。
そして、久しぶりに実感した
生きたい
生きていたい、と
それも、ただ生きるのではなく、この人と、お嬢さんと生きていたい
そう思った。
無論、散らかっている僕の部屋ではなく、一番広い、御舟さんの掃除が行き届いた部屋で食べた。久しぶりに味のする食事だった。
夕食を食べ終わる頃、雨がやんだのと、お嬢さんの着ていた山伏の服が着れる状態になったのが重なり、泊っていくように提案したが、さすがにそこまでご厄介になるわけにはいかない、とのことで帰って行った。
次の日から、お嬢さんは僕の所に来て、西洋の呪術とも、我が国の呪術ともわからないものを学びに通ってくるようになった。それから毎日先生から頂いた本が大活躍で、先生から頂いた大量の本がこんな時に役に立つとは、思いもしなかった。
僕はお嬢さんのことを「お嬢さん」と呼び、お嬢さんは僕のことを「先生」と最初呼んでくださったが、何だが僕が先生と呼ばれるのは、とてもこそばゆい気持ちになるため、やめてくれと頼むと、「坊ちゃん」と呼ばれた、でも、なぁ、いやいいけど、「坊ちゃん」か…
御舟さんはお嬢さんが僕の学問を習いに来ていることにいい顔はしなかった。いや、その理由はお嬢さんが嫌いじゃなくて、僕が学んだ学問が嫌いなだけの話で、それを学びにお嬢さんが来るのが嫌なのだろう、かなり複雑な顔をしていた。
でも、御舟さんはお嬢さんを気に入っているらしい。お嬢さんはほぼ毎日来るが、毎週月曜日は夕食をお嬢さんと共に食べることにしたのだが、その日はおかずが一品多い、しかも、その一品はお嬢さんが気に入ったり、おいしいといったおかずばかり、おかわりも勧めてくる。
御舟さんとお嬢さんの仲もいい、この間なんてお嬢さんが料理を作れない、なんて御舟さんが知って、お嬢さんに料理を教えていた。
ちなみに、その時お嬢さんが作った料理を食べたが、初めてにしてはうまい料理だった。
僕がお嬢さんに呪術を教えるようになって幾つか分かったことがある。
お嬢さんはとてもまじめで勤勉で、学習意欲が高い人(?)であることだ。
そして、とても恥ずかしがり屋、前に妖怪のことが記された書物でカラステングはとても自意識の高い、時に傲慢でもある妖怪と記されていたが、お嬢さんが例外なのか、それとも書物の記述が間違っているのか分からないが、とても気難しい妖怪には見えないが、そこがいいところで、思いやりのある優しい、一般的にいっても、いい人だと思う。いや、いい妖怪か
お嬢さんに呪術のことだけを最初は教えていたが、そのうち他の学問の書物にも興味を持ち始め、僕が分かる範囲で教えていた。
しかし、そのうち僕でも教えられる範囲外のことを質問してくるようになったので、帝都にいる教師をしている友人に文をだして、聞くことが多くなった。
僕も改めて発見させられることもあって面白い
そんな日々を過ごしていたら、気がつくと梅雨は終わり、夏が盛り、衰え、秋風が吹く季節となっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ぼんやりと、縁側に腰掛け、秋空を眺めていた。夏と比べ、雲が大分高い位置にある。
御舟さんが庭で落ち葉を掃いている。しかし、庭の木々の葉が風に乗って落ち、はいたばかりの庭に積もる。
「坊ちゃん、今日はお嬢さん遅いですね」
一通り終わったのか、それとも休憩なのか、御舟さんが隣に腰掛け落ち着かない様子で聞いてきた。
御舟さんもお嬢さんをお嬢さんと呼んでいる。
御舟さんが落ち着かないのは、今日はお嬢さんが僕から学問を学ぶために来るのではなく、御舟さんと一緒に裏山でキノコ採りをするために来るのだ。
無論、僕は留守番
今日はおとなしく帝都の友人に頼んで送ってもらった本でも読んで、すごそうかな
「…そうですね、いつもはもう来てもいい時間なんですけどね」
ふと、御舟さんが僕の顔を見ていたので、なんです?と尋ねる。
「いやぁ、坊ちゃん、お嬢さんが来てから変わったなぁ、としみじみと思ったとこですよ」
御舟さんが笑う、子供の時よく二之助と遊んでいた時に見せた笑顔だった。
「帝都から帰って来た時、一之助坊ちゃん本当に年寄りみたいでしたからね、こういってはなんですけど、若返った気がしますよ。前なら縁側に腰掛けるのは体調がいい日だけですけど、いまじゃ毎日縁側に腰掛けてお嬢さん来るの待ってるじゃないですか」
確かに、帝都から帰ってから、比喩じゃなくて本当の意味で死にかけてるからな
ちなみに現在進行形なところが悲しい
懐から煙草を取り出して、火をつけ銜える。
御舟さんは、僕が煙草を吸うのを嫌うから顔を曇らせたが、構わなかった。
「…そうですね、希望は薬である、と、ある西洋の聖人の言葉ですが、その通りですね、まったく、その通りです」
憎たらしいまでに、良い言葉だと思う、本当に、心の底から
「ですね、けど、御舟さん、叶わない希望なんて薬じゃないかもしれませんね」
だって、僕の体はもう長くは無いのだから
しかし、僕の声は突風が吹いた為、風の音にかき消された。
御舟さんが嬉々として立ち上がる、庭に先ほどの突風はお嬢さんの来訪を示唆している風でもあり、そして、風が吹きやむとお嬢さんが庭に立っていた。
服装はいつもの山伏の服だが、首にはマフラー(僕が帝都にいた時買った物をあげた)をまいて、手には竹で編んだ籠(この場合はバスケット)を下げていた。
ぺこり、とお嬢さんが頭を下げる。もう一つ分かったことがある、お嬢さんが無口なのは性分らしい、僕も御舟さんもお嬢さんの無口には慣れた。
御舟さんは遅かったじゃない、と声をかけ、とりあえず中に入って休むように勧める。
お嬢さんが僕にもう一礼すると、縁側から家の中に入り、首に巻いていたマフラーをとる。御舟さんもそれに続いて家の中に入ってしまった。
家主のはずの僕が一番最後に家の中に戻って、大部屋に入り、座卓を挟んでお嬢さんの前に座った
「遅かったですね、今日は何してたんですか?」
お嬢さんは少し困ったようにしていたが、座卓の上に籠を置く
中には様々な、この辺りでは珍しい草花が入っている。
御舟さんがお盆にお茶が入った湯飲みを運んできた。
籠の中を見て、御舟さんも驚いたようだ。
「これって…」
だが、どれも見覚えがある、先日草花の図鑑を見ていた時に一度見てみたい、と僕が言っていた植物ばかりだ
「坊ちゃんが、欲しいといっていたので取ってきたのですが、おもいのほか時間がかかってしまい、遅刻してしまいました。その、ごめんなさい」
お嬢さんが深深と頭を下げる。
僕と御舟さんは慌てて、頭を上げて、と頼む
「こんなに集めるのは大変だったでしょう、ありがとうございます。お嬢さん」
そういうと、お嬢さんは恥ずかしそうに笑った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
お嬢さんが御茶を飲んだ後、御舟さんと予定通り、裏山に出かけて行った。
籠は一つでいいらしく、草花の入ったお嬢さんの持ってきた籠はそのまま座卓の上に置かれている。
さて、どうするか、とりあえず、お嬢さんにいただいた草花でもスケッチするかな、そう思って、部屋からスケッチ帳と鉛筆を持ってきて、それと草花を座卓の上に並べてスケッチを始める。
シャシャという鉛筆を紙にすべらす音と、たまに外で木枯らしがふき、ガラスを揺らす音が聞こえるぐらいだ
そんな音を聞きながら、ふと手を止めて、考える
お嬢さんの先ほどの笑顔を見るたびに浮かんでくる考えで、いや、悩みか
命題は、この気持ちをお嬢さんに伝えるべきかどうかということ
自分の気持ちぐらい自覚しているつもりだ、というか、呪術を行う者は自分の心をしっかりと理解しておかなければいけない
無論、気が付いている。お嬢さんへ自分がある特別な気持ちを抱いていること自体、認識している、否定できない事実で、否定する気もない
だが、それは、叶わないだろうな
なぜなら、第一に、お嬢さんにすでに思っている人が、心を決めた人がいるかもしれない、もしかしたら、昔の風習が続いているなら、許嫁がいるかもしれない
僕はお嬢さんのことを改めて考えると何も知らない、と思い知らされる。
そして、第二の問題もある。弟の、現当主の二之助が許してくれないだろう。いや、許してくれても、僕は自分自身が許せないかもしれない
あいつには迷惑をかけた、本当に、すまなかったと思っている
本来、僕が継ぐはずだった家督をあいつに無理やり押し付けたのだ、まぁこんな体じゃできないことは誰の目にも明らかだが、あいつなりに苦労したしたろうし、二之助の嫁さんが倒れる原因をつくったのも、全て僕に責任がある
こんな男が、幸せになってもいいはずがない、幸せになる権利など、あの時に自らの手で放棄してしまったのだ
それに、最後に
そう考えた時、その問題が来た
三枚目の絵を描き終えようとしていたから、余計にもったいなかった
スケッチ帳の絵の上に一本強く、線が走る
そのまま、胸をおさえて、突っ伏した
どくん、と強く心臓の鼓動に合わせて胸が痛んだ。
梅雨のころとは比べ物にならないくらい強く、胸が詰まり、肺が張り裂けそうな痛みで、こればかりはしょうがない、と分かっているのに、痛い、どうしようもない痛みだ
心臓が早く鼓動を打つのに合わせて胸の痛みも強く、早く痛む
前なら、すこしじっとしていれば治まったが、もうそんな話ではなくなっている
草花を座卓の上に置いたまま、這って自分の部屋に向かう
まずい、今までで一番大きな痛みだと直感する
途中なんとか立つと、千鳥足ながらなんとか部屋まで戻り、敷かれたままの布団に倒れるように横になった
そこで、ふと御舟さんもお嬢さんもいないことを思い出した、そのため、安心して悲鳴を上げられると理解し、思いっきり悲鳴を上げかけたが、声を出そうとすると喉が痛み、出てくるのは咳だけ、それも血が混じっていた。
その血を見て、固まった血がのどに詰まって、声どころか息ができなくなる窒息の危険もあり、声を上げるな、と医者に言われたことを思い出した
痛い、痛い、焼けるように、虫に食われるように、針で突かれるように、鈍器で叩かれるように、痛い
そんな痛みが休みなしで襲う、苦しい苦しい苦しい、ただそれだけ、ただ、それだけなのに、我慢できるような痛みじゃないと体が悲鳴を上げた声を聞いた気がした
だが、何もできない
そんな痛みが永遠に続く気がした
そして、だんだんと意識が乖離していく
意識が、消える
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
気がつくと、部屋の中が暗くなっているが天井に橙色の光の川が映っているのが眼に入った、どうやら夕刻らしい
だが、すぐに瞼が重く感じ、瞼を閉じる。
今は瞼を開けているだけの体力すらない、横になるだけで限界だ
胸の痛みは大分治まったが、ずきずきと痛む
安堵と後悔が襲ってくる
死ななかった安堵と、また、死ねなかったという後悔が
最近、この痛みが来るたび、思うことだ
特に今日のは今までで、一番大きな痛みで、日に日に痛みが大きく、つらいものになっている、その進行ぐあいは今までの比にならない速度で、進行している。
そして、いつか、この痛みは、この病は僕を殺す
じわじわと真綿で首を絞めるように、そして最期は発狂するほどの痛みで殺す
自分の責任とはいえ、つらい
そんな時、誰かが部屋に入ってくるのを感じた
そして、すぐそばに座ると、僕の額が冷たく感じた
どうやら濡れた手ぬぐいでも当ててくれたらしい
「お嬢さん?」
眼を閉じたまま尋ねる、お嬢さんのような気がした
「私ですよ」
その声はあきれたように応えた、よく知っている声だ
「なんだ、御舟さんか…」
正直、少し残念だった
「なんだ、じゃないですよ、坊ちゃん」
少し、きつめの口調だ、どこか責めるような口調でもある
「今日は本当に危なかったんですから、なんでこうなるまで黙ってたんです?私だって坊ちゃんの病、ここまでひどく進行してるなんてわかってたら、一人にしませんでしたよ」
黙って聞くしかない
「お嬢さんが気がつかなかったら、坊ちゃん死んでたかもしれないんですよ」
ん?
「御舟さん、お嬢さんが気がついたんですか?」
「ええ、山にいるときにお嬢さんが突然私を掴んで、ここまで空を飛んで運んでくださったんですよ。私は何が何だかわからなかったですけど、お嬢さんの様子が尋常じゃなかったので黙ってついてきましたけど、もう、空を飛ぶのは嫌ですね、そのままお医者さんをよんでくださったんですけど、真っ青でしたよ」
なんとなく、その様子が想像できる、医者というのは高宮先生のことだから、60過ぎの老体に空を飛ぶのはきついものがあるだろう
「よかったじゃないですか、なんでもカラステングが人を運ぶのは旦那となる人物をさらう時だけらしいですよ、御舟さんも高宮先生も旦那にされてないのに、運んでもらえて」
少し、いや、空を飛んだという事実がかなり羨ましい、西洋の魔女という妖怪はほうきにまたがり空を飛ぶらしいが、術者は飛べる者は高等術式をマスターした者だけ、夢の術だ
ちなみに魔女は元人間で、バフォメットという妖怪と契約して魔女になるらしい、「私と契約して、魔女になってよ」といってバフォメットは勧誘するのだと本に書いてあった。
話が大分それた。
それをいうと、御舟さんはすこし拗ねたようだ
「じゃあ、坊ちゃん運んでもらえばいいじゃないですか、ついでにどうです?お嬢さんの旦那さんになったら?」
御舟さんが言った後、何かに気がついた様子で、そのあと、すみません、と謝る。
「…御舟さん、僕もここまで病が進行していたのをはじめて知ったんですよ、本当にここまでの痛みは初めてだったんです」
そして聞いた。
「高宮先生はあと、どれくらい生きられると言っていましたか?」
あれで名医だからな、高宮先生は
残された寿命くらい多少の誤差があっても大体見当がつくだろう
かなり、迷っているのが分かったが意を決したように、御舟さんはいう
「いつ死んでもおかしくない、と仰ってました」
そうですか、としか言えなかった、半年前の診断は、長くて五年と言っていたが、もう五年も残されていないのは事実らしい
軽く笑う、笑うしかなかった
声を上げて笑おうとしたが、ぱたぱた、と小走りしながらこの部屋に誰かが近付いてくる足音が聞こえ、やめておいた。
今度は間違えなかった
眼を開けて、上半身を起こす
その時、器用に羽の上にお盆を載せ、部屋にお嬢さんが入ってきた。
お盆の上には湯気が上っている椀がのっている、どうやら温かい料理らしいことは分かった
「そうそう、お嬢さんが坊ちゃんに味噌汁をつくってくださったんですよ」
先ほどの声から一変し、思い出したかのように言う
お嬢さんは恥ずかしそうに、僕に椀と箸を渡す
渡された椀を両手で包むようにもつ、温かい
いいにおい、具はなんだろうか?
箸でかき混ぜると、その具には見覚えがあった
「わ、私がとってきた草で、こうして汁物の具にすると薬になる物がありまして、味噌汁にしてみました」
お嬢さんが教えてくれた。
確か、先ほどお嬢さんが取ってきた草花にはそんな物は無かった、もしかしたらカラステングに伝わる話なのかもしれない
後で教えてもらおう
そう思って、汁をすする
うん、うまいな
御舟さんがじっと、見ていた。
どうしたのか、と思うと、御舟さんはお嬢さんの方を見た
そこで、気がついた
お嬢さんが僕を心配そうに見ている。
「おいしいです。これを飲んだら元気が湧いてきました。ありがとう、お嬢さん」
お嬢さんはほほ笑む、実をいうと、僕にとってこの笑みが一番の薬だが、前に半分冗談のつもりでそれに近いことをいったのだが、顔を赤くそめ、倒れてしまって御舟さんに大目玉をくらったことがある。今回はそれを言うとお嬢さんの方が倒れてしまうのも想像に難くないので、やめておく
そこでふと、思い出した
「実は、お嬢さんに頼みたいことがあるのですが」
お嬢さんが固まる、僕がお願い事をするなんて殆どなく、無茶なことが多い、だから自分にできるのか、どんなお願いをされるのか、固まってるのだろう
たしかに、普通の者なら無茶だ
だが、お嬢さんならできることだった
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「うわあああああああああ!!たっかああああああい!!」
僕の声まで、発したそばから遠くに過ぎていく、その感覚が面白くて柄にもなく大声を出し、その後思いっきり、むせた。
無茶するから…というお嬢さんの呟きが聞こえた
すぐ近くだからお嬢さんの声がいつもより大きく聞こえる
でも、興奮を隠せない
だってここは地上ではなく、空、しかも、人間が跳んでもとても届かない、 届くのは鳥や翼をもつ、例えばお嬢さんのような者しかたどり着けない、そんな高さだ
この高さから僕の住んでいる家や風景を見るのは、見下ろすのは初めてだから興奮せずにはいられない
無論、僕に空を飛ぶ力なんて持っているわけがなく、僕の両腕をお嬢さんの両足の指でしっかりと掴んで飛んでもらっている
僕のわがままでお願い、お嬢さんに掴んでもらって空を飛んでみたいとお願いしたのだ
最初、御舟さんもお嬢さんも猛反対したが、どうしてもと、僕も折れずに交渉して、僕が最終的に勝った
ただし、条件は二つ
もう夕方であった為、飛ぶのは明日に
それと、飛ぶのは10分だけ、という約束
それが条件だったが、喜んで承諾した
ちなみに天気はこれ以上ないほどの秋空、まさに絶好の散歩日和
御舟さんは雨になれば中止だったから、晴れて落胆してたけどね
初めて見る光景、だけど、幼少のころこの辺は遊んだからよく知ってる場所、それが上から見下ろすのでは全く違う風景なのが、おかしかった
お嬢さんはいつもこんな光景を見ているのか、そう思うと、ちょっとお嬢さんが羨ましい
住んでいる家がかなり小さい、この高さからでは小指の爪ぐらいの大きさしかない
父が若いころに趣味で作った、簡素で、質素な、そんな趣味の家、生まれ育った屋敷から馬でも一日かかる、二つ丘を越えた場所に小さな町がある交通にも住むにも不便な場所につくった父の趣味の家、それが今の僕の住む世界
その家の後ろにお椀を伏せたような小山があった
上から見下ろして、初めて気がつく
家に覆いかぶさるように山の植物が生えている
もう山を手入れする者は殆どいない、山と周りの田の境界線上に建っているような家だ
手入れをするものがいなくなった山の植物は強い、すぐに負けてしまう
あと、十年もすればあの家は植物に埋もれ、廃屋になるだろう
そんな家に僕は住んでいたのか
滑稽だ、滑稽な光景だ
植物に沈む死を待つ家と、その家に住むいつ死ぬか分からず、死を待つ男
滑稽だ、あまりにも滑稽な風景だ
自分が少し、みじめな気分になる
だけど、飛んでいるお嬢さんをこっそりと見ると、そんな気分も吹き飛んだ
今日は僕と一緒に飛ぶので、足で僕を挟んで飛ぶことになる。
つまり、いつものスカートでは、その、なんというか、僕が見上げると見えてしまうのでお嬢さんはスカートの上から、僕が貸したズボンを穿いて飛んでいる
飛ぶときは屈伸してかがんだような状態で飛ぶので、お嬢さんが下を向くと視線が合う、ふと、僕の視線に気がついてなんですか?と聞く
なんでも、と答えたが、やっぱり、お嬢さんには青空が似合っていた
お嬢さんがちょっと迷惑そうだったから、視線を下に向ける
すでに紅葉がはじまって日が経っている
地上は田で埋め尽くされているため、収穫を迎えた黄金の稲が作り出す、辺り一面に広がる黄金の世界、点在する森は赤一色
「きれいですね」
僕がつぶやきに対し、そうですね、とお嬢さんも応える
死が恐ろしいのではない、こんなにも美しい世界からさってしまうのが惜しいのだ、ある詩人の臨終の際の言葉だが、いまなら理解できる気がする。
お嬢さんに連れてきてもらった世界は、あまりにも美しかった。
そろそろ時間です、とお嬢さんはいうと降下を始め、家の方向に向かって一直線に下りていく
家がだんだんと近づいてくると、庭で誰かが、御舟さんしかいないが、手を振っていた
心配性なんだから、そう思って僕が笑うと、そうですねとお嬢さんも笑った
庭に到着し、地上に降り立ったが、しばらく空中に足を放り出していたため、力が入らず、その場に座ってしまった。
御舟さんは急いで駆け寄ってきて、大丈夫か、怪我は無いかと聞くので両手をあげて大丈夫ということを示す
それをみて、安堵したように御舟さんが胸をなでおろした
「どうでした?空は?」
大分安心したのだろう、そんなことを聞かれ、答えは決まっている
「最高でした」
近くに降りた、お嬢さんが小走りで近づいてきた。
お嬢さんが翼を差しだし、それを握って立つ
お嬢さんの笑顔を見て、なにかに似ているのだと前々から思っていたが、分かった。お嬢さんの笑顔は、青空に似ているのだと
その笑顔をみて、お嬢さんへの気持ちを実感して、決心がついた
なによりの決心が
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今日は、お嬢さんも、御舟さんもいない
お嬢さんには大事な客人が来ると伝えて、今日と明日は来ない予定になっている
最大の難物は御舟さんだったが、最後のお願いとして、今日は屋敷の方にいってもらっている、昨日の内に書いた二之助への手紙を持たして行ってもらった。
戻るのは早くても4日後だ
今、部屋で手紙を書いていた
昔のように、筆で書いていた
帝都に行ってからはペンを使い、帰ってからは書きものは久しくしていなかった。
文を筆で書いたのは、ほんの気まぐれのつもりだった。
三通手紙を書かなければいけない
一通は御舟さんに、それともう一通は帝都にいる先生に
それと、もう一通書けば、僕の役目も終わる
しかし、白紙の紙を前に何を書けばよいのか、分からなかった
御舟さんと先生への手紙は、書き終えた
だが、あと一通で終わりなのに、何から書けばいいのか分からない
こんなことは久しぶりだ
とりあえず、気分転換が必要だと思った
煙草を吸いに立つ
縁側に腰を駆けて、外の光景を眺める
昨日とは打って変わって今日は生憎の雨、本格的には降っていたが、今は小雨になって、じきに雨が止むのは時間の問題のような気がした
煙草を取り出し、吸おうとしたが、やめた
思い出したからだ、あの日と、お嬢さんと初めてあった日と同じ天気だったから、なんとなく、あの日の気分を思い出したくなったからだ
あの日と、変わらない、まぁ庭の栄えてる植物が紫陽花から桔梗に変わったことぐらいかな
庭にでてみることにする
傘と草鞋を持ってくると、庭にゆっくりと歩く
父か巨大な庭園にあこがれたため、土地の少ない町中では父の望んだ大きさの庭園がつくれず、こんな辺鄙な場所にこの家をつくった
だがそうする価値はある、自慢の庭で、とても広大
一周するだけで僕の足では一日かかってしまだろう
こんなに大きな庭なのに、空から見たらあんなに小さいのがなんだかおかしくて、少し笑ってしまった。
そして、たどりついた。
あの日、お嬢さんがいた紫陽花のふもと、今は葉が散ってしまって、枯れ木そのもの
だが、あの日のまま、そこにあった
あの日の僕が見たらなんというか、10年も生きられないと言われたが、何事もなければ、希望を抱かなければ三年は生きられるはずだった
それが今では明日にどうなっているのか、分からない命
あの時の自分がみれば、愚か、というだろう
だが、正しい
今の自分は、自分から見ても愚か、という言葉がなによりも似合う
しかし、後悔なんてあるわけない、お嬢さんとお会いできて本当によかった
だけど、心残りがひとつだけ、ある
それは…………
ドクン
と心臓の鼓動が聞こえた
直後、胸が痛み始めた
その痛みがなんであるか理解する、今度のは、僕の命を消す痛みであると
いけない、今回のは、本当にいけない、いつものように胸が締め付けられるように痛む、いや、いつも以上だ
咳が出てくる、正直言って苦しい
足に力が、いや、全身の力が抜けていく
そのまま倒れる
雨で緩んだ土の泥で、体が泥まみれになるが、そんなことは些細なことで、胸をおさえる。気絶してしまえば楽なのだが、この痛みでは気絶もしない、気絶することも許されない痛み
猛烈な、死に至る痛み
そして、明確な死のイメージ
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい
…………母さん……………御舟さん………お嬢……さ…
だが、その痛みがだんだんと和らぐ、ふと、眼を開けると黒い羽が眼にはいる
よく知っている羽だ、そして、その羽をもつ、母様の着物あげたのに、そのあと一回も着てくれず、いつも山伏の服を着る、頑張りやで勤勉な、だけど書物と性格が正反対のカラステングの少女が、お嬢さんがいた
お嬢さんが両の翼で胸をおさえてくれていた、その翼が淡い光を放っている
僕はこんな呪術を知らない、これが、神通力というやつなのだろう
目覚めたのか
本来神通力とは妖怪に備わっている力で、神通力の訓練をするのはその力を引き出し、制御するためだといわれている
つまり、きっかけさえあれば自力で神通力を使うことも可能らしい
胸の痛みが引いていく、大分楽になった
翼を離し、心配そうに顔を覗き込む
上半身を起こし、胸をさすってみるがいつもの痛みはそのままだが、必要以上の痛みはない
僕の様子を見てお嬢さんは安心したようだった。
「…なんで放っておいて、くれなかったんです?」
これは言ってはいけないことだ、絶対に後から後悔する、そんなことは分かりきっているのに、呟やく
「なんで、なんで!!死なせてくれなかったんです!!」
大声を上げると、お嬢さんが怯えたように体を震わせた
「ぼくは…僕は…もう長くないのに、なんで、なんで、僕を苦しめるんです!!ずっと、ずっと戦ってきました、ずっと悩み続けてきました、やっと、やっと決心がついたんですよ
生きました、もう十分生きたんです!!」
やつあたりだと、わかっている。だが、一度言った言葉は関を切ったように流れ出た
「僕は、この3年間、ずっと、ずっとこの痛みに怯えてきたのに、やっと楽になれたと思ったのに、なんで死なせてくれなかったんですか!!もううんざりなんです!!この痛みと戦うのが!!もう嫌なんです、放っておいってください!!楽にしてくださ…」
パンッ
その音と共に、右頬に痛んだ
お嬢さんが僕を叩いた音だった
お嬢さんの顔を見ると、お嬢さんは泣いていた、悲しそうな顔をしながら
「死にたい、なんて言わないでください!!」
お嬢さんが僕以上の声を上げ、叫んだ。
僕を翼で包み込むように抱きしめる、温かい
「私は、私は、坊ちゃんと、一之助さんと一緒にいられるだけで幸せなんです。私はあなたと一緒にいたいんです、一番大切な人なんです。そんな人が死にたいなんて言わないでください、もう大切な人を失うのは嫌なんです、ずっと、ずっと傍にいますから、死にたいなんて、十分生きたから死にたいなんて、言わないでください」
お嬢さんの声は震えていた。
やっぱり当たった、後悔するぞ、と思ったが、やっぱり、だった
とんでもないことをしてしまった
「お嬢さん」
少し、お嬢さんを距離を置いて、お嬢さんの顔をしっかりと見る、雨でなく涙で顔が歪んでいた。
その顔を見て、心の底から後悔する
僕は、馬鹿だ、大馬鹿だ
「ごめんなさい」
謝る、何に対して謝罪したのか、自分でもわからなかったが、本当の言葉だった。
「怖いです、死ぬのが」
ぽつりと、言葉がでてきた。
「自分でも、戦ってあがいてきました、でも、どうしようも、本当にどうしようもなくて諦めてました。たから、平気なふりをしてました。でも、平気なふりをすればするだけ、怖くなって、どうしようもなく、怖いです、本当に怖いです、まだ死にたくなんて、ないのに」
そのまま涙が出てきた、止めようとしたが止まらず、泣いた、久しぶりに泣いた
お嬢さんはそんな僕を、もう一度抱きしめてくれた
お嬢さんに抱きしめられながら、僕は、泣いた。
そして、久しぶりに実感した
生きたい
生きていたい、と
それも、ただ生きるのではなく、この人と、お嬢さんと生きていたい
そう思った。
11/10/31 21:00更新 / ソバ
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