連載小説
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力になりたかった、大切な義姉
俺は、とある高位の司祭様のお屋敷で働く使用人夫妻の息子だった。
将来は、自分も両親と同じく使用人として働くことになるのだろうと思っていた。
尊敬する両親と同じように、仕えるべき主の為に生きるのだと。

両親は、使用人にとっての最高の幸運は心から仕えたいと思うお方と巡り合うことだと言った。

その意味で言うのなら……
ガキの時分で既に、自分の全てを賭けて仕えるべき大好きな主を見つけていた俺は幸運だった。

何でもしてあげたいと思えるような、大好きな女の子を主として、彼女の為に生きるのだと……
疑わずにそう思っていた。願っていた。



……その幸運は、俺が両親のような一人前の使用人になるまでは続かなかった。



未来の主との別れは、ある日突然やって来た。
ずっと旦那様に仕えていた両親に突きつけられた、解雇通告。


原因は、俺だった。


秀でた才も、政治的な価値も何も無かった俺は、彼女に仕えるのに相応しくない。
俺は、彼女にとって何の価値も無く、不要で、無駄で、むしろ足枷にしかならないのだと。

俺が『役立たず』だったことで、両親はそれまで積み重ねてきた使用人としての信頼を失った。
大好きな女の子とは引き離されて、彼女に仕える夢は潰れて消えた。
俺達はお屋敷を追い出されて、そして、ほとんど間を置かずに事故に遭い両親が死んで……



俺は一人になった。



両親を失って、ただ野垂れ死ぬのを待つだけだった俺が少しも不幸にならずに済んだのは
俺を拾ってくれた、血の繋がらないもう一人の母が、そして彼女の娘が俺を家族として温かく
迎え入れてくれたからだ。


義姉は、俺にとっては血の繋がりを超えた、大切な家族だ。
義母さんが死んでからは、俺達二人が弟妹達の親代わりとして、孤児院を切り盛りしてきた。
俺が兵士の道を選んだのは、叶わなかった初恋の残滓に縋り付く意味もあったが、俺を救ってく
れた義姉の力になりたかったからでもあった。

兵士になったことで、『勇者』でもある義姉には遠く及ばないが、俺も(若造の割には、だが)
お金を稼げるようになり孤児院の経営を助けられるようになっていった。
これで少しは彼女の負担を減らせるだろう……そう考えていた。



彼女の様子がおかしいと本格的に感じたのは、ここ最近のことだ。



もともと、義姉は何でも自分一人で背負い込んでしまう人だった。
孤児院の運営に、弟妹達の世話、勇者としての任務、重責。
どれ一つとっても、決して軽くは無い。
それでも義姉は気丈に、そして優しく振舞って自分の責任を果たしてきた。

最初の内は、気疲れで疲労が溜まっているのだろうと思っていた。
少し前に騎士団の魔物の討伐任務に同行して、帰還してから目に見えて様子がおかしくなった。

まず、主神に祈りを捧げる時間が増えた。
それも毎朝のお祈りの時間だけでなく、ちょっとした暇を見つけては頻繁に祈るようになった。
まるで主神に、何かの答えを問いかけているかのように。

時を同じくして、騎士団の魔物討伐任務の失敗率が急激に増えた。
それも、魔物に返り討ちにされた…とかではなく、討伐に赴いた魔物の集落が、騎士団が到着し
た時にはもぬけの殻になっていたり、捕らえた魔物が処刑の当日になって忽然と姿を消したりと
不可解な出来事が増え始めた。

皆が寝静まった真夜中に、郊外の森に足を運ぶことが増えた。
理由を聞いても、心配いらないと返されるだけだったが……長い付き合いだ。
何かを隠していることはすぐに分かった。
いずれ助けを必要としたときには俺を頼ってくれるだろうと信じて、願って、その時は引き下が
って、それ以降は彼女が打ち明けてくれる時まで、待つことにした。

義姉が何をしているかは知らない。
彼女の性格を考えればその行動を推測することは出来たが、問い詰めることはしなかった。

義姉は今、悩み、苦しんでいる。
彼女の行いが何であれ、彼女が悩み考えた末に出した答えなら俺はそれを肯定しようと思った。
なにがあっても俺だけは彼女の味方でいるつもりだった。




でも……結局
今日に至るまで彼女は俺に悩みを打ち明けてはくれなかった。




姉さん………。

俺は―――そんなに頼り無いかい?

サーシャ姉さん………。





































「はぁっ…!はぁっ…!はぁっ……!」



―――くそッ……!!
     姉さん、みんな……無事でいてくれ!!



妖しく光る紅い月の下、俺は自分の家でもある孤児院に向かって全力で走っていた。



その日、サーシャ姉さんが倒れたと聞いた俺は教官に頼み込んで数日間の臨時休暇を取り、
日課だった自主的な夜間訓練も早めに切り上げて、孤児院への帰途へとついていた。

兵士である俺は普段は兵舎で寝泊りするのだが、休暇中だけは『帰宅』が許されている。
今、俺達の孤児院には大きな男手は居ないし、サーシャ姉さんの看病もしてあげたかった。
急な申し出だったが、教官も非常時ということで、俺の休暇を認めてくれた。
……休暇が過ぎたら、徹夜で飲み歩く約束をさせられたけど……。

王城を出て、孤児院のある貧民街へ向かっている時だった。
城の大鐘。この街で一番大きな鐘が、夜中にも関わらず打ち鳴らされたのだ。
その数―――七つ。


―――敵襲だ。


この時、本来であれば俺は王城に向かって全速で戻り、王城の守りを固めるために集結しな
ければならなかったのだが、王城には教官や、最強の勇者様が居ることから、俺が行っても
大した戦力にはならないだろうと判断。

孤児院には勇者である姉さんがいるが、彼女の体調はとても戦闘が出来る状態には無い。
魔物が、動けない勇者を何もせずに黙って見過ごすとは到底思えない。
それに弟妹達はまだ幼く、身を護る術すら持ち合わせてはいない。

………俺が、護らなければ。

後で、教官にどやされるのは覚悟しておこう。
そう思って、自分の家への帰路を急ぐ。




孤児院がある貧民街は既に酷い有様になっていた。
あちこちで住民達が、黒い僧衣を纏ったサキュバスらしき魔物に襲われていた。
悲鳴が、嬌声が、卑猥な水音が、喧騒のように狭い路地に響く。


――くそっ!こんな……酷い――!!


彼らがこれからどうなるかは……考えたくもなかった。
魔物に襲われた人間はほとんど例外なく、男性はインキュバスという半分魔物の人間に、
女性ならば同じ魔物へと変えられてしまう。

そして男女を問わず、魔物に変えられた人間は教団の討伐対象とされてしまう。
つまり、今回レスカティエが魔物の襲撃を退けられたとしても、彼らは処刑されるか処分さ
るか……二つに一つの道しかない。




………そして、もし、もしも……

レスカティエが陥落してしまったら

俺達は、魔物のエサとして永遠に………




――主神よ、どうか義姉さんや弟妹達が無事でありますように……!!
――主神よ、俺の家族が無事じゃなかったら承知しない………!!!


両親が死んでから、心から祈ることは無くなった主神に脅迫紛いの祈りを叩き付ける。
あんたが神なら、せめてあんたを心から信じている者くらいは救ってみせろ――!!





魔物は獲物として捕らえた人々を犯すのに夢中なのか、走る俺を一瞥すらもしなかった。
襲われている人々を見殺しにする罪悪感に苛まれながら、俺は石畳を走る。

手元にあるのは、下級兵士の身分証代わりでもある、支給品の安物の長剣が一本だけ。
俺の本来の得物である斧槍は、兵舎か訓練所にしか無い。
斧槍があれば魔物の一匹くらいはなんとかできるかも知れないが、長剣では自分の身を護る
ことすら危うい。

誰かを助けられる余裕など、無かった。

子供の頃から慣れ親しんだ近道の路地裏を駆け抜け、魔物の集団を隠れてやり過ごし、時に
走り抜いて突破し、迂回し、ようやく孤児院に辿り着いた。


――孤児院の扉は………開いていた。
      遅かった、のか――――?


膿のように湧き出してくる絶望を振り払い、僅かな希望に縋って我が家に入る。
俺達の孤児院は、小さくはあるが本来は教会だ。
教会に居住スペースを増築することで、孤児院としての呈を為している。
入り口の扉をくぐれば、そこは教会の礼拝堂だ。


外の喧騒も届かない静まり返った礼拝堂。


その奥。


壇の前に膝立ちで祈りを捧げている、綺麗なエメラルドグリーンの後姿。
見間違うことなど無い、綺麗な後ろ髪。


「――――サーシャ姉さん……!!」


今、一番会いたかった女性の名を呼ぶ。
俯いていた彼女が、顔を上げた。
俺は逸る気持ちのまま、彼女に駆け寄った。



「………ああ、神よ、感謝致します。






       こんなにも早く、私と彼を巡り合わせてくださって……♥」



いつもと同じ優しげな、ゆったりとした口調。
しかし、何か……秘めた喜びが滲み出したかのように粘度を感じる声。
直感で異常を感じ、彼女まであと2,3歩というところで足が停まった。


何か、おかしい……。
上手く言葉に出来ないが、義姉は今まで、こんな雰囲気を纏ったことは無い。
彼女はいつも、派手さは無い静かな気丈さと、周りの者を包み込む優しげな温かみを身に
纏う女性だった。

こんな、近づいたら引きずり込まれて二度と抜け出せなくなるような、底無し沼みたいな
粘ついた雰囲気を纏う人ではなかった。





ゆっくりと、立ち上がる――


――漆黒に染まった羽根と、鎖のような文様が浮かんだ黒い尻尾が揺れた。


ゆっくりと、振り返る――


――ピンッと尖った長い耳と、艶やかな光沢を放つ闇色の角が見えた。





「お帰りなさい♪


     迎えに行こうと思っていたのですけれど


            あなたから私を迎えに来てくれるなんて


                               ――嬉しいっ♥」





貧民街で見てきた魔物達と同じ、妖しい光を宿した真紅の瞳が、俺を見据えて、微笑んだ。



その姿の意味を悟って、俺の心に重石が圧し掛かる。
重石の名前はきっと――“絶望”

足から力が抜ける。
崩れ落ちて、膝立ちになって跪いて、“義姉だったもの”を見上げる。

「――――………ぁ」

声は出ない。
涙も、出ない。
思考が全く働かない。

魔物は微笑みを浮かべたまま、俺を見下ろす。
その笑みは背筋がぞっとするほど淫靡な印象を受けるが、その笑顔は……

俺の大切な義姉、サーシャ・フォルムーンその人のものだった。





「ふふっ……うふふふっ……♥」

サーシャ姉さんの姿をした魔物が、一歩踏み出す。
俺を見下ろすその表情は、微笑み、笑顔。

違う……姉さんじゃない……。
姉さんはこんな、欲情したみたいな蕩けた瞳で俺に微笑みかけたりしない。



カチャッ…



魔物から逃れようと、立ち上がろうとして、手に握っていた物が床を叩いて音を立てた。
――剣。
今の俺の、唯一の武器。

武器の存在がほんの少しだけ俺の意識を呼び戻す。
鞘に納まったままの長剣。
大量生産で安物の、しかし教団のシンボルである十字架はしっかりと彫られた、剣。
俺の身分をあらわすもの。
俺がすべきことを為すための手段。

剣の重みが、嫌と言うほど訓練で叩き込まれた自分のすべきことを思い出させる。



―斬れ。剣を突き立てろ。

   この距離なら、外さない。

      心臓を貫けば―――殺せる。



自分の冷徹な思考に余計に混乱する。
理性が、思考がはじき出したその答えは確かに『正解』ではあるだろう。
魔物は微笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。
警戒はされていない。攻撃の準備動作も一切していない。

間合いも、これ以上は望めないほどに最善。
抜刀して剣を突き出せば、俺の未熟な腕でも切っ先を突き立てられるだろう。
目の前の、魔物の胸に剣を―――


―サーシャ姉さんの胸に?


――馬鹿な。出来るわけが無い。
    サーシャ姉さんに剣を向けるなんて――


――違う。姉さんじゃない。
    目の前にいるのは魔物だ。
        俺が殺すべき存在だ。


――ちがう、彼女は、俺の姉さんだ。
    俺を救ってくれた、俺が力になりたかった――


――違う。姉さんじゃない。
    目の前の“これ”は魔物だ。
        姉さんの姿に化けている、俺の敵だ。


――ちがう。姉さんだ。
    俺の大切な家族。
      俺を、家族として迎え入れてくれた……。


魔物に変えられた人間を元に戻す術は無い。
こうなってしまっては、もう殺すことでしか彼女を救う術はない。
彼女が誰かを傷つける前に、
愛した人々を自身で手に掛けるなんて悲劇が起こる前に
いっその事、俺の手で、一思いに……


剣を、握り締める。


憧れていた。
自己犠牲……人として最も尊いその行為を進んで行なえる彼女に。
自分の周りの人々の幸せを打算も無しに祈ることができる彼女に。
彼女のように優しく、強く為りたいと、ずっと思っていた。

尊敬していた。
心の中では主神への信仰を棄てていた俺と違い、彼女には真の信仰心があった。
魔物と戦うことを強要されて、押し付けられても、彼女は主神への信仰を失わなかった。
主神が初恋の女の子と、両親を救わなかったことを理由に信仰を棄てた俺と違って。

大切だった。
俺を救ってくれた、俺をいつも支えてくれる彼女が。
彼女が俺にしてくれたように、俺も彼女を支えたいと思っていた。



……大好きだった。



人生のなかで一番身近に居て、一番長く一緒に過ごした女性。
初恋の女の子と同じく、妄想の中でさえ劣情を向けるのも畏れ多いとすら思える彼女。
決して叶わない恋で構わない。
彼女が幸せになるところを見れるのならそれで良い。



そう思えるほどに大切で、大事で、大好きな――――



















――……お前はその、大好きな彼女を殺すのか?



















恐怖が、義務から来る闘志を上回った。
剣を握っていた手が開いて、


カランッ………


落ちた剣が、床を叩いて礼拝堂に音を響かせる。
その乾いた音は、敗北の証拠。
俺が、恐怖に屈した証。



大好きな家族を、大好きな彼女を失う恐怖への敗北。



へし折られた心に引きずられるかのように体が重くなり、項垂れる。
呆然と床を見下ろす俺を、黒い僧衣に包まれた細腕が優しげに抱き締めた。


ああ―――くそ……。


俺を抱き締めるその温もりは、俺を包むこの優しい香りは、


「辛い思いをさせてしまいましたね………ごめんなさい」


俺を気遣うような穏やかな声はああ……紛れも無く……


「サーシャ、姉さん………」


俺を救い支えてくれた、俺が助け支えたいと思っていた愛する彼女のそれだった。









どれくらいそうしていただろう。
サーシャ姉さんの抱擁にずっと身を任せていて、ようやく頭が回り始めた。
―そうだ、これだけは確認しておかなければ。

「姉さん、みんなは……どうしたの」

礼拝堂にはサーシャ姉さん一人だけだった。
ここに居るはずの弟達や妹達は、どうなったのだろうか。

姉さんは俺の背を優しく撫で擦りながら、答える。



「心配は要りません。


      『みんな、お外で仲良く遊んで』


                       いますよ♪」



……………。

―――つまり、ああ。
そういうことか。

彼らはもう、姉さんや貧民街の隣人達と同じく『そうなっている』らしい。

俺は間に合わなかったわけだ。
大切な人を、誰も護れず、誰も救えなかった――そういうことらしい。


……『役立たず』もいいところだな――俺は。


完膚無き敗北に、心が重く脆くなっていくのが分かる。
大切な家族を失った痛みが、立ち上がる力を殺いでいく。
絶望が思考力を、そもそも思考する気力さえも奪っていく。


―最悪の気分だ。


腕と脚がまるで血液を抜かれてしまったかのようにだるくて、感覚が無い。
なにもかもが億劫で面倒臭く感じ、どうでも良くなってくる。
今ならきっと、死ねと言われれば自分の命も投げ棄ててしまえそうだ。

……大切なモノを失うことは、こんなにも苦しいことなんだ。
自分の命への関心など無くなってしまうほどに。


「どうして……」


どうして、こんなことに。
誰に向けるわけでもなく、呟く。



主神は、信じる者を救うんじゃなかったのか。
不信人者を救わず、罰を与えるのならば、まだ分かる。理解できる。

じゃあ、姉さんが救われなかったのは何故だ?

彼女には真の信仰心があった。
俺には無くても、彼女にはあったんだ。間違いなく。

俺が無事で、彼女が救われない理由に、説明が付かない。道理に合わない。



答えなど出るわけが無い、詮の無い疑問が浮かんでは消える。
無意味だ。
いくら考えようが、無駄。
もう、俺は家族も彼女も、何もかも失って―――



俺を抱き締める彼女の細腕に、力が込められた。
その温かさ、前頭部に押し付けられる彼女の胸の鼓動が、僅かに俺を絶望から引き揚げた。

「大丈夫。何も失ってなんていませんよ」

魔物……サーシャ姉さんは優しげに囁く。

「誰も死んだり、居なくなっていたりはしません。何も失くしたりしていません」

抱擁を解き、両手でそっと俺の頬を包み、俺に顔を上げさせる。
至近距離で見つめるその瞳は深紅。
ゾっとするような情念に濡れてはいるが、その優しげな視線は紛れも無く彼女の…。



「あなたは、何も悲しむことはないのですよ。

               これから私たちは……」



本当の家族になるのですから―――。
   


「……え?」

思考力が落ちた頭では彼女の言葉の意味が理解できず、自失したまま聞き返す。
彼女はにこやかに微笑む。

「聞いてください。やっと、やっと見つけることができたのです」
「見つけたって………何、を?」

姉さんはとても嬉しそうに、まるで自分を褒められて喜ぶ少女のように笑う。

「みんなが笑顔になれる方法を、です♪」

そして、語りだす。

人間も魔物も、誰もが幸せな笑顔を浮かべて暮らせる方法を模索していたこと。
主神がその問いかけに応えず黙殺したことから、主神への疑念を抱くようになったこと。


……苦悩していた彼女に、堕落した神が道を示したこと。


その神に導かれるままに、堕落した神に仕える信徒へと堕したこと。
その神の教えのままに、孤児院にいた弟妹達や貧民街の住人達を堕落させたこと。

「人は魔物と生きるべきなのです。
  女性はすべて魔物に、男性はすべてインキュバスになって。
   人と魔物が互いに求め合い、愛し合えばみんなが笑顔になれるのです。
            そうすれば、もう誰も不幸になることはなくなるのです♪」

「………………」

―詭弁だ。
そう思った。

魔物によって家族を失い、路頭に迷った子供を知っている。
男性を連れ去られ、我が子を、己が身を売らなければならなくなった母親の話も。
魔物と通じている容疑をかけられて、火刑に処された一家のこともだ。

仮に。
仮にそれらが嘘や誤解によるものだったとしても……

ここに辿り着くまでに見てきたあの地獄絵図をどう説明する?
あの光景は、紛れも無い現実の光景だった。

魔物は人間を逃がさない。
その形に差はあっても、好んで人間に干渉してくることには違いが無い。

信じていたもの、大切にしていたもの、今までの暮らしや積み上げてきた思い出。
ある日突然、力づくでそれを奪われ、壊され、都合良く作り変えられて……
それが幸せだと、不幸ではないと、どうして言い切れる?

人が人として生きることを否定し、馬鹿にした考え方だ。

人が人であることに意味は無いのだから、魔物に、インキュバスになってしまえ。
愛してやる。愛させてやる。気持ち良くしてやる。苦しみから解き放ってやる。
だから人であることなんて棄ててしまえ、と。
そう言っているのだ。


―そう、分かっている。
彼女の言う、堕落した神とやらの理屈が結局は魔物の言い分であることは。
それを弾劾することは容易い。
詰まるところ、人の意思を、尊厳を、自由を、生き方を――
それら、人が人であることを無視、あるいは否定した考え方だからだ。


彼女の言う理屈が通った世界には、きっと『人間』は存在しない。
魔物とインキュバスだけの、魔物とインキュバスがただ欲望のまま交わるだけの世界。
人間が普通に笑ったり、泣いたり、喜んだり、悲しんだりできない世界。
魔性の快楽にただただ溺れる、快楽だけの世界。
そんなものが正しいと、思えるわけが無い。

それが正しいと思えるのは、とうに魔物の道に堕ちてしまった者か、あるいは『人間』が
好きではなく何の価値も見出せない、『人間』嫌いの人間くらいだろう。

『人間』が好きな人間には、到底受け入れられる考えじゃない。



そう、分かっている。分かっているのに。



彼女を否定する言葉が口から出てこない。
弾劾することは難しくないのに、容易いはずなのに。

理由もまた、分かっている。

姉さんは今、とても嬉しそうな顔をしている。
悩みから開放されて、正しいと思える道を見つけられて、淫靡に濡れてはいるが晴れやか
な、大好きな彼女の素敵な笑顔。



―その笑顔を否定する言葉が、見つからない。



頭では分かっているのに、心が彼女の笑みを曇らせることを拒否していた。
彼女には笑顔でいて欲しいと、ずっと思っていた。幸せであって欲しいと。
そのためなら、我が身を切ることも厭わないと、自分勝手に誓っていた。

彼女の行いが何であれ、彼女が悩み考えた末に出した答えなら俺はそれを肯定しようと。
なにがあっても俺だけは彼女の味方でいると。
彼女の味方でありたいと。

俺の自分勝手な誓いは、そのまま俺を縛り付けた。
彼女を泣かせられない俺は、彼女を否定することが出来なくなっていた。







否定の言葉を口に出来ない俺は、ただ押し黙る。
そんな俺に、姉さんは突然真顔になって


「あなたは、私のことが好きですか?」

 
――唐突な問いだった。
突然の問いかけに思考の流れを変えられて、混乱する。

これは、彼女の手管だった。
俺の精神状態を見抜いた上での、懐柔策。
それも打算からではなく、ほとんど無自覚によるもの。



彼女は心優しく穏やかな性格ではあるが、押しが強いという一面もある。
その包容力に溢れた空気に呑まれると、大概の人は彼女に反抗できなくなってしまう。
行く場所が無かったプリメーラを強引に孤児院に連れて来たのも、彼女のこの笑顔と人柄
と押しの強さの波状攻撃によるものだった。
しかも、本人にはその自覚が無いときている……。
天然というか、天性のものだった。



平時であれば、これは彼女の話術なのだと、話に乗ってはいけないと分かるのだが、自失
状態の俺は、抵抗もできずに彼女の術中にはまる。

「な、なにを……?」
「私はあなたを愛しています。家族としても、一人の男性としてもです」

思考が纏まらず混乱しているときに、いきなり真っ直ぐに言葉をぶつけてくる。
真っ直ぐに俺を見つめて、真摯な態度で。
それも、冗談やごまかしの無い、愛の告白を。

「ずっとあなたを想っていました。
   あなたが欲しいと、あなたの恋人になりたいと」

彼女の視線が真っ直ぐに俺を射抜く。
妖しい輝きを湛えた深紅の瞳には何かの魔力が宿っているのだろうか?
その瞳を射抜かれると、心の壁が崩されて自分の心の深奥に触れられたような気になる。

「あなたの妻になりたいのです。
   あなたに女性として愛されて、あなたのモノにして欲しい。
     あなたと、本当の家族になりたい。……ね、いいでしょう?」

魔性の瞳は揺らぐことなく、俺の目を見つめる。
青二才の域を越えていない年齢の俺には、その視線の意味に裏があるか否かも判らない。

「なに、言って……?
   俺達は、ずっと家族だったじゃないか……」

問いに対して、ほとんど反射で答えを返す。
俺達は家族だった。血の繋がりなんて無くても。それは間違いが無い。
俺は彼女を本当に姉のように思っていたし、弟妹達も皆彼女を慕っていた。

姉さんだって、俺達を家族だと、そう思っていた……のではないのか……?

「ええ、私もそう思っていましたよ。でも……」





―――あなたには、私以外に想っている女の人がいるのでしょう。





姉さんの言葉に、心臓が跳ねる。
隠し事を見咎められて、冷や水を背に垂らされたような寒気が走る。

「な、なん……っ」
「誰を、かは分かりませんが、知っていますよ?
   あなたが私達以上に大事に想っている人がいること」

背中に嫌な汗が流れ、息苦しい。
義姉の表情は穏やかで苛立ちの類は見えないが、まるで浮気を咎められているかのような
圧迫感を俺は感じていた。



――そう、図星だ。
俺には、ずっと想い続けた女の子がいる。

兵士の道を選んだのは、姉さんや弟妹達の助けになりたいと思ったからだ。
誰に言われるまでもなく、俺の意志で。それは嘘じゃない。
嘘じゃないが……それが全て、というわけでも、無い。

大好きな女の子がいた。
将来は、その子に仕える道を進むのだろうと思い、信じていた女の子。
ずっと一緒に居たいと思い、願っていた女の子。

その望みは決して叶うことがないと思い知らされて、引き離されてしまった女の子。

俺は青二才だが、分別の付かない物知らずな餓鬼でもない。
自分を取り巻く現実くらいは見えている。
彼女と俺の時間は、二度と交わることがないことくらい、分かっている。

彼女はきっと、俺のことなんて忘れてしまっているのだろう。
ほんの少し前、幸運にも彼女と顔を合わせることができたが、その時の彼女はあくまでも
事務的に俺に接するだけだった。

仕方が無いと、思う。
彼女の態度は正しい。
役立たずな俺と接したところで、彼女には何のプラスも無い。
俺はもう、彼女にとって有象無象の一つでしかないのだ。

自分の恋が、終わったのだと自覚した瞬間だった。

分かってはいるが、悲しかった。
悲しかったし、分かっているが、だからと言って諦めることはできなかった。


決して叶わない想いで構わない。
この想いは墓の下まで持っていこう。

本当は傍にいたい。でも、居れなくてもいい。彼女の笑みが俺に向けれられなくったっていい。
彼女が笑ってくれるのならば。
彼女の役に立てれば、それで上等。

そう決めて兵士になって、自分を磨いてきた。
自分の恋が完全に終わった程度で、いままでの生き方を変えようなどとは思わなかった。

家族よりも深く心のウェイトを占めていた女の子がいることは事実だ。
でも―――。



「姉さん……確かに、俺には好きだった女の子がいるよ。でも……
  でも俺はその子と姉さん達に順位なんかつけたことはない!
          姉さんだって、俺の大事な人だ!嘘じゃない!」

必要以上に大きな声で俺の本心を吐露する。
これは嘘じゃない。
義姉の助けになりたいと思ったのは間違いなく俺の意志だ。



……冷静に考えてみれば、彼女のこの問いには「だから何だ」と開き直れば良かったのだ。
胸の中に秘めた恋であっても、所詮は俺の極めて個人的な恋慕だ。
口外して嗤われるのならともかく、自分から口にしたことが無いことを掘り起こされて非難されるのはおかしい……のだが。
冷静さを欠いていたこの時の俺は、義姉に隠し事をしてこと、それを暴かれたこと、見咎められたことに心底慌てふためいた。
まるで彼女を裏切っているような後ろめたさを感じて……。



俺の告白を受けても、彼女の表情に変わりはなかった。
微笑んだまま、今度は彼女が口を開く。


「ええ、もちろん分かっていますよ。
   そのことを責めているわけではありません。

 私が言いたいのはですね、
   私達が本当の家族になれば……

 私達はずうっと、一緒に居られるということです」


言葉の意味をまだ呑み込めない俺は、続く彼女の言葉を黙って聞き入れる。


「私はあなたの傍を決して離れません。
 ずっとあなたと一緒にいます。
 私の全てをあなたの為に捧げます。
 あなたが私の夫になってくれたなら、
 私はあなたの妻として永遠にあなたと共に生きていきます」




  あなたが好きなのです。

    あなたが愛しいのです。

      あなたが欲しいのです。

        あなたと一緒に居たいのです





        ―――私には、あなたが必要なのです。












最後の言葉に、胸を射抜かれた。





それは、俺の秘めた欲望。
自分のコンプレックスが生み出した醜くて弱い心。
誰かに、必要とされたいと思う願望。

自分が『凡人』であることは百も承知だった。
それが現実なのだと、自分の運命なのだと理解していた。


………だが、だからといって『役立たず』であることを受け入れられはしなかった。


俺にとって、自分が『役立たず』であることは罪だった。
『役立たず』だったから、大好きな女の子と引き離された。
『役立たず』だったから、大好きだった両親を失う羽目になった。

だから努力した。『役立たず』でなくなろうと。
毎日、倒れるまで訓練に明け暮れた。不出来な頭を何度も叩きながら勉学に勤しんだ。
もっと強く、もっと強くと。
誰かに「お前が必要だ」と言って貰えるくらいにと……。


「あ、う…………ぁ……」


現金なもので、俺を欲してくれるその一言が一気に俺の心を傾けた。
うろたえる俺に、彼女は笑みを崩さないまま追い討ちをかける。

「私は決して、あなたを置いて何処かに行ったりはしません」

「あなたと一緒に生きていたいのです」

「一緒に、行きましょう。
    笑顔に満ちた世界へ……」


彼女の言葉に頷こうとして……僅かに残った理性が弾劾する。

頷いては駄目だ。
頷いたら、もう戻れなくなる。
多分、俺は人間でなくなってしまう。

人として積み上げた全てが、なくなってしまう。
笑ったことも、泣いたことも、喜んだことも、悲しんだことも。
自分の人生が、胸を張れるほど大層なものだったなんて思ってはいない。
でも、どんなにくだらなくても、他人から見てどんなにちっぽけに見えるようなものであっても
俺の人生は、間違いなく俺のものだった。

失くしてしまうのはきっと、それだけでは済まないだろう。
俺を愛してくれた人達、俺が愛していた人達。
俺を形作る、大切にしなければならない愛する人々。

一緒に訓練し共に戦ってきた同僚達。

お世話になった、養成施設の職員の人達。


生まれ持った才能に振り回されて、大人に甘えられず苦しんでいた少女。

自分が周りと違うことに悩んで、壁を作るしかなかった心の優しい女の子。

面倒見が良く、不出来な俺を決して見捨てることなく鍛え上げてくれた教官殿。


そして……
諦めても諦めきれずに、とっくに終わった恋に縋りついてまで想い続けた……大好きな女の子。


彼等、彼女等を置き去りにしてしまう。


でも、ああ、でも………。
心に開いた空虚な穴から、底に溜まりに溜まった汚泥が吹き出す。
汚泥の名前は多分、諦め……もしくは絶望。
それは、いつも俺が頑なに否定してきた……見て見ぬフリをしていた疑問を引きずり出す。



―彼等、彼女等にとって俺という存在は必要か?

―俺は、この先どれだけ努力したって役立たずのままなんじゃないのか?

―努力しても努力しても……俺は未だに大好きな女の子に近づくことさえできないでいる。

―彼女は、俺を忘れているどころか、とうに愛想を尽かしてしまっているんじゃないのか?



―だとすれば、ああ、そうだとすれば



―俺のしていることは、実は何の意味もないんじゃないのか?

―……俺という男には、実は何の価値もないんじゃないのか?



その、価値の無い俺を……義姉さんは欲しいと言ってくれた。
俺が欲しいと、俺が必要だと。

開いた穴を意地だけで補修して保たせてきた俺の心。
家族を失った絶望でカサブタを剥ぎ取られて、剥き出しにされてしまった。
剥き出しの心に、義姉の言葉がするすると、とても心地良く入り込んできて侵略してくる。

……えて……

言葉を、紡ぐ。
義姉さんは、黙って俺の言葉を待つ。

「教えて……サーシャ…義姉さん……
    俺は、何をすれば……いいの?」

敗北の、言葉を。






愛する家族を失うことへの恐怖に屈し、彼女の言葉に屈した。

敗北し、人であることの意地を失った俺は、

「一緒に、堕ちてください。
     私と一緒に………」

俺を求めてくれる、俺を愛してくれる彼女の
    義姉の……サーシャの望むままに頷いて







人間であることを、やめた。







12/06/28 22:53更新 / ドラコン田中に激似
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■作者メッセージ
投稿が遅れに遅れてすんません。
スパロボが、スパロボが面白すぎんのがイカンのじゃ!!
ついついPSPに手が伸びちまったんじゃ!!
むせる

え、ロリどうした?
個別である以上、出すことは出来ませんでした。悪しからず。
書き始めは二人を入れようとしたのですが、執筆途中でなんだか気に入らない出来になってしまったのでそれまで書いていたものを破棄。
サーシャ姉単独として書き直して余計に時間が掛かってしまいました。

「ロリは嫌じゃ!ロリエロなんて書けるかファッキン!」
「名無し二人追加とかあぁもう無理ですッ!!」
とか思ったわけではありません。ホントヨ?



言い訳はこのくらいにして……
エロ前編、逝くぞオラァ!

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