連載小説
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回想
「……最低です。わたくしって……」
あれから約三十分後。
オナニーの快感から舞い戻り、服を着て、ベッドシーツを洗濯機に放り込み、想一の寝室を換気した蓮花は、凄まじい罪悪感にのしかかられていた。
俗に言う賢者タイムである。
今はリビングの隅っこで、体育館座りをして自己嫌悪の真っ最中だ。
「想一さんの下着やベッド、部屋を汚すには飽き足らず、あまつさえあんな破廉恥な想像をしてしまうなんて……!」
顔を両手で覆って重い溜息をつく。
前々から性欲が強くなっているのは知ってた。
しかしちょっと歯止めが効かなくなるだけで、あんなことになろうとは。
目を瞑れば容易に思い出せる数々の痴態。
想一の事を思って媚びるような声や、甘ったるい懇願をした自分。
極度のトランス状態に陥り、虚構と現実の区別がつかなくなった自分。
快感に激しく打ち震え、淑女としての気品や矜持も放り捨てた自分。
変態、淫乱女、ドスケベ女狐、性欲魔獣。
様々な単語が頭の中をぐるぐるかき乱す。
「ぁぁあああああ……。恥ずかしい、恥ずかしいですぅ……」
身体ができるだけ小さくなるように丸くなる。
主人の要望に応えるかのように、尻尾と耳もペタンと縮こまる。穴があったら入りたい。
「…………」
沈黙が下りた居間には、壁掛け時計の秒針と、脱衣所から聞こえてくる洗濯機の音が響くのみ。
そうして。
カップラーメンができて、伸びてしまうくらいの時が経っただろうか。
「やってしまったものは仕方ありませんよね……」
しょんぼりした様子で蓮花はのそのそ立ち上がった。
落ち込んでいてもきりがない。
それよりも今はやるべきことを終わらせよう。もしかしたら家事をやっている間に、罪悪感も薄れるかもしれない。
気を取り直した彼女はやり残した仕事にとりかかった。
シンクに置いてある茶碗や食器を洗い、洗濯物をベランダに干し、掃除機とクイックルワイパーで各部屋の清掃を済ませる。
続く一連の流れで普段はあまりやらない場所の掃除も行う。テレビやソファといった家具の裏側、部屋の隅の端っこ、浴室やトイレ等々。
いつも以上に無心で、かつ全力でやったせいか家事は一時間もしない内に終わった。
「はぁ……」
一段落した後。蓮花は居間のローテーブル前に座り込み、気だるげな吐息をつく。
消えない。罪悪感がなくならない。
なにせ彼女の精神性は、利他と善の色を強く持っている。
想一と同じく根が真面目でもあるので、自分のしたことに責任を求めてしまうのだ。
(やっぱり、お慕いしてますとは言えないですよね。こんなはしたない女だと分かったら、あの方に迷惑がかかります)
だからこそ、自分が他者へ与える影響も常に考えてしまう。
「想一さん……。わたくしは、貴方の愛が欲しいだけなんです……」
男の横顔を脳裏に浮かべたら、罪悪感が不安に変わる。
自分の隠している、淫らな部分をさらけ出すことが怖くなる。
嫌われたくない、拒絶されたくない、伸ばした手を振り払われたくない。
でも好きだと、愛してると言いたい。
これが人間女性ならいざ知らず、ただの恋煩いで済んだことだろう。
しかし魔物にとっては話が別。パートナーや恋した相手から疎まれるのは、魔物娘にとって誇張抜きで死活問題なのだ。
(お母様も……お父様と結ばれるまでは、こんな悶々とした気持ちを抱えていたのでしょうか)
いっそのこと。
理性や建前を捨てて、四六時中本能のままに生きることができたら、こんな苦しい気持ちにならずに済んだかもしれない。
あるいは魔物娘の性が命じるままに彼を襲えば、思い悩む必要はなかったのかもしれない。
しかしそれは、自分がこれまで歩んできた生き方とはあまりにかけ離れていて……。
「困っちゃいますよね。ただ、あなたに触れたいだけなのに」
意気地なしの自分を恨めしく感じる。
儚げな視線が向かう先は、居間の壁にかけてある小さな写真額だ。
映っているのは、賑わいを見せる神社の前で並んだ想一と巫女姿の蓮花。
新年明け、お参りの時に撮って貰った写真である。写真撮影に協力してくれた龍からは、お熱いですねと茶々を入れられたものだ。
そして巫女姿をよく似合っている、綺麗だと評してくれた想一を前に心が躍ったのも昨日のように覚えている。
(そういえば、出会った当初も美しいって貴方は言ってくれましたよね)
写真を眺めてふわりと微笑んだ蓮花は、記憶の回廊に意識を馳せる。
目を瞑らなくても思い出せる。
初邂逅の、あの秋の夜のことを。




公園での押し問答の末。
加賀見想一、と名乗ったその殿方を連れて、わたくしは自宅に戻ってきました。
そして遠慮する彼を風呂場に押し込んだのが数分前の事です。
「タオルは脱衣所に出しておきました。それから衣服なんですか、乾燥が終わるまでは浴衣を使ってください」
男物の羽織が自宅にあったのは僥倖でした。
仕事柄、裁縫に携わる機会があるのでその時に使う見本用の着物を持っていたのです。
ちなみに水気を吸ったコートとスーツは、別室で乾燥機前に干しています。
「何から何まですいません……」
すりガラス越しに、あの方の申し訳なさそうな声が返ってきます。
昔から誰かの力になりたいと行動することはありましたが、今回のように半ば強引に相手を引っ張るということは経験にありません。
ましてその相手が、殿方というのも。
(わたくし、どうしてしまったのでしょう……)
夜にうら若い婦女子が男性を自室に上げるのが、何を意味するのか。それを知らない訳ではありません。
むしろそういった意味を持つことは、お母様からの淑女養成教育のお陰で誰よりも知っています。
最も、身体を使って慰める、なんてことは露ほども考えてはいませんが。
しかし。
(なぜ……あの方の哀しげな瞳を見ると、我がことのように胸が痛むのでしょうか)
わたくしの精神は未知の動揺に包まれていました。
なにぶん、自分で自分の感情を上手く把握できないのは初めての事だったのです。
「あの、本当にありがとうございます。でもやはり泊っていくのは申し訳ないです。風呂を頂いた後はすぐに帰り」
「いけません」
お風呂場からの申し出をぴしゃりと遮ります。
「先程外を確認したのですが、雨の勢いは強くなっていました。いくら貴方が向かいのマンションに住んでいるとしても、歩けばすぐずぶ濡れになってしまうでしょう。もしそれで風邪を引いたとなれば、わたくしは自分が許せなくなります」
驚いたことに彼はわたくしの住むマンションの、さらに向かい側へ建つマンションに居住しているというのです。
歩いていけば十分もかからない距離とのこと。
ですがさっきまでしんしんと降っていた雨は、既に土砂降り状態。
こんな中、彼を黙って見送るほどわたくしは薄情な女ではありません。
それに何故かは分かりませんが、彼を一人で帰らせてはいけないと強く思ったのです。
「……分かりました。では一晩だけお世話になります」
観念したかのような返答が返ってきました。
彼もこれ以上の遠慮は、逆効果と考えたのでしょう。
「お風呂には気兼ねなくゆっくり浸かってて下さいね。わたくしは夜食を作っておきますので」
「感謝致します」
先よりわずかに明るさの滲んだ声が浴室から響いてきます。
お風呂に入って少し調子が元に戻ったのでしょうか。
あるいは、遠慮が吹っ切れたのかもしれません。
「ええ。ではごゆるりと」
旅館の仲居さんみたいな言葉を残して、脱衣所を後にします。
残っている食材で何が作れるか考えながら、わたくしはキッチンの方へ身を翻しました。


献立はあっさり決まったので、後は調理するだけでした。
途中の工程や手順を簡略化するため、妖術や神通力を用いるというズルはしましたが……。
母様の知る所になればお叱りを受けるので、普段は料理に術は使いません。ホントですよ?
そして出来上がったメニューは、炊き立てご飯を除けば計四つ。
里芋と人参の煮っころがしに、ほうれん草のおひたし。油揚げをふんだんに使った昆布だしのみそ汁。そして大皿にたくさん載った若鳥のから揚げ。
普段の夜食と違うのは、いつも以上に心を込めて作った事と量の多さでしょうか。
一人分しか作らない時と違って、今回は惜しむことなく食材を料理に使いました。
なにせ家に招いたのは殿方。雨に降られた上に少しやつれていた様子でしたので、きっとお腹が空いていると考えました。
「ご馳走さまでした」
「はい。お粗末さまでした」
予感は的中し、食卓に上がった料理は見事に平らげられました。心の底から満足そうな顔を見せて貰うと、料理人冥利に尽きるというものです。
「本当に美味しかったです。こんなに旨い料理、料亭でも口にしたことがありません」
「まぁ。そう仰って頂けるとわたくしとしては大変嬉しい限りです」
「世辞ではありませんよ。山城さんはお茶を淹れるだけでなく、料理も得意なんですね」
「あら? わたくし、茶を嗜むと加賀見さんにお話ししたでしょうか?」
「聞かなくてもお茶を頂けば分かりますよ。この香りや味わいを出すには、工夫が必要ですから」
落ち着いた眼差しで、湯のみを傾ける加賀見さん。
公園で会った時と比べだいぶ肩の荷が取れたように見えます。本来は、これが彼の素なのでしょう。
「にしても、お風呂だけでなく食事までご相伴に与り本当にありがとうございます。改めまして、このお礼は数日の内に必ず」
「いえいえいえ!」
深々と頭を下げた加賀見さんに、わたくしは慌てて手を振ります。
「顔を上げてください。こちらが勝手にやって、勝手に振る舞っただけのことですから」
「そういう訳にもいきません。これは私の礼儀の問題ですので、どうか」
「わ、分かりました。ですからそんなに畏まらないで下さい。わたくしはただ貴方に」
リラックスして欲しいんです、というとやっと加賀見さんは顔を上げてくれました。
ちょっと困ったような顔が彼の生真面目さを示していました。


食事を済まし、それぞれ入浴を終えたわたくし達は、後は就寝するのみとなりました。
けれど、ここで問題が一つ発生。
「ですから何度も言っているように、私はソファで寝ますので」
「なりません。客人をそんな所で寝させるなんて」
ええ、そうです。布団が一組しかないのです。
「しかし家主から布団を取るのも申し訳なさすぎます」
「でもそれで貴方が体調を崩されたら……。あっ、そうですわ!」
「何かいい案を思いついたので?」
「わたくしと貴方が一つの布団で一緒に寝ればよいのです」
「…………」
その時の加賀見さんの表情を、なんと表現したものか。
まるで、聞き慣れない異国の言語を聞いたかのような顔つきをしていました。
「どうしましたか? 名案でしょう」
「そうですね。同衾するのが男と女であるという点を除けば」
「大丈夫です。使っている布団はシングルサイズにしては大きめですし、素材もワーシープウール百パーセントなので寝心地は抜群ですよ」
「何故でしょう。今の説明を聞いても大丈夫な要素が見当たらなかった気がします」
苦笑いする加賀見さん。
安心材料を提供したのに拒否する理由が分かりません。
「確かに赤の他人と一緒の布団で寝ると言うのは、心理的抵抗感が大きいでしょう。ですが一晩身体を凍えさせないという点で、これ以外にいい方法は……」
否。
あることはあります。わたくしが転移術を行使して加賀見さんを自宅に送って差し上げればよいのです。
けど術の行使にあたっては魔物状態に戻る必要があります。
「………」
わたくしの正体は稲荷の魔物娘。世間一般ではポピュラーな種族で、バレたところで普通は問題ありません。
そう、問題ないはずなのです。
しかしわたくしは目の前の殿方に、小さくても不安を与えたくありませんでした。躊躇いがありました。
こちらとしてはそのつもりはなかったのですが、状況の流れから正体を明かすタイミングを失ってしまったのです。
今ここで頭に耳を、臀部に尻尾を生やして、実は稲荷だったんです〜と言えばどうなるでしょうか。
(本当はバラしてしまいたい。ですけど……)
その結果は好意的か、非好意的かの二択に集約されるでしょう。
彼の人格を疑っている訳ではありません。驚きはするでしょうが、態度を変えてくることはないだろうと思います。
けど、もし。
その眼つきに懐疑的な色が、疑惑的な色がわずかでも浮かんだらわたくしは……。
(……え。 わたくしは、この方に嫌われたくないと思っている? 今日会ったばかりの殿方なのに? 何故?)
脱衣所で感じた時と同じ、胸が切なくなる感覚。
戸惑いを覚えるわたくしの前で、加賀見さんが控えめに言います。
「心理的抵抗と言いますか……。あの、山城さん。気を悪くせず聞いて欲しいのですが、貴女はご自身の魅力にもう少し敏感になった方がいい」
「はい?」
何故ここでわたくしの魅力云々の話が出てくるのでしょう。
「貴方は美しい人です。だからこそ、会ったばかりの男へ同衾を許可するべきではありません」
「あっ、はい」
美しい人。という単語に、思わず尻尾が出そうになります。慌てて気を引き締めることで、なんとかそれは防げました。
それにしても真面目な顔でサラリと美しい、なんて言葉を放つなんて。全くこの御方は……。
「私はそんな不埒なことは考えていませんが、中には一緒の布団で寝ることを、えっと、その、OKサインと勘違いする者もいるので」
OKサイン。
発された単語が耳朶を通して脳に伝わり、それの意味を咀嚼し、そして理解という形になってわたくしの腑に落ちるまで。
体感で四秒かかりました。
「っふぁ!? あっ、えっ?! ちがっ、わ、わたくしっ! しょんなつもりは!!」
「ええ、それは山城さんの様子からも分かりました。ですから指摘した次第で」
「だから違いますよ!? わたくしはそんなふしだらな女じゃありませんから! これでも婚前交渉は未経験ですから!」
「えっ」
「あっ」
気が動転したわたくしは、とんでもないカミングアウトをしてしまったようです。
「「――――」」
直後に訪れる気まずい沈黙タイム。
お互い顔を赤林檎にして、視線を逸らし合います。

カチ、コチ。カチ、コチ。カチ、コチ。

壁かけ時計の秒針が、やけに大きく聞こえます。
一瞬で羞恥心が仰角四十五度になったわたくし達は、ぬいぐるみになったかの如く、上手く言葉を紡ぐことができなくなりました。
第三者がいたら思春期かよ! とツッコミが入るシーンですが、生憎そんなムードメーカはこの場に存在しません。
(あああああ〜〜〜〜〜! ばか! ばか! ばか! わたくしのバカ! ぜったい加賀見さんにそういう女と思われた!!)
当方生まれてこの方、交際経験すらない生娘です。
彼に気を遣う余り、男女間における暗黙ルールの存在を忘れていました。
(もおおおおぉぉ! お部屋にあげる時はそれを意識できていたのに……。なんでこんな時になって一緒の布団に入りましょう、という地雷を踏み抜いてしまうんですかわたくしはぁ!!)
涙目になりそうなのをこらえつつ、そぉっと視線をずらして加賀見さんの様子を窺います。
「っひ?!」
「はっ!!」
目が、合いました。加賀見さんもわたくしと同じく、顔を動かさずにこっちの様子を窺おうとしてました。
見事にシンクロしたタイミングで、両者、再び衝突事故を回避。
状況が振り出しに戻ります。

ポトン、ポトン、ポトン。

キッチンの方から聞こえてくるのは水滴が垂れる音。どうやら蛇口の元栓をしっかり締めてなかったようです。
ああそういえばウンディーネさんたちのお陰で水道水の安全性と味が飛躍的に向上したとニュースで放送されていたなぁ、と全く関係ないことを茹った頭で考えます。
「……お」
「お?」
先に声を発したのは、加賀見さんの方でした。
「およそ五十六パーセントだそうです。婚前交渉の経験がある十代から二十代の女性の割合は。国立人魔東京大学が調べた、結婚と出産及び性意識に関わる実態調査によると、半数以上に上る人間及び魔物女性が結婚前に初体験をすませています」
「は、はぁ」
急に始まった統計データの小話に、わたくしは疑問符を浮かべます。
「一方の婚前交渉未経験の女性は、約四十一パーセント。婚前交渉をするのは普通、という風潮に対してこちらはここ数年の間一定数を維持しています」
「そ、そうなんですか」
「理由としまして。婚前交渉にはリスクが付きものという認識が正しい意味で周知されたことと、エロス教徒の布教活動で広がった純愛ブームが主な要因でしょうか」
婚前交渉、つまりセッ……おセックスと同じ意味を持つ単語を使って解説をしているので、その心中の恥ずかしさは察することができます。
(それなのに……)
驚嘆するべきは、センセーショナルな話題を異性の前で話しているにも関わらず、声音に全く動揺が出ていない点です。
「善行と愛を説くエロス教の活動は世間でも広く支持されていて、現在では結婚まで清い付き合いを楽しむ、という方々も増えているみたいです。ですから――」
そう言ってこちらを向いた彼の目線は少しも揺らいではおらず、真っ直ぐな瞳をしていました。
思わずドキリと胸が高鳴ったのは内緒です。
「山城さんが恥じらいとか負い目を感じる必要はありません。貞淑であるということは、それだけしっかりしている証左です」
「加賀見さん」
「むしろ情けないのは自分の方です。女性にそんなことを言わせたり、意識させてしまった時点で社会人としても男としても失格……」
一転して、斜め下を向いた加賀見さんの表情がうっすらと曇ります。その横顔は公園で会った時と全く同じものでした。
「そんなことありません!」
彼にそんな顔をして欲しくない。
そう思った瞬間、大きい声が出てしまいました。そんな自分にびっくりしつつも、わたくしは加賀見さんの瞳を正面から見つめます。
「貴方のフォローが肌身を通して分かりました。同時に、相手の為なら自ら進んで恥をかぶりに行く実直な心も」
「いや……自分はそんな大した者では」
「いいえ。やはり加賀見さんは立派な男性です。だからそんな、自分は至らない人間だとか、悲しいことは言わないで下さいまし」
「ありがとう、ございます」
ぎこちなさは残るものの彼は笑顔を見せてくれました。それにひとまず安心した所で、まだ問題が片付いていないことに気づきます。
「それで一つしかないお布団についてですが」
「ア、ハイ」
「背中合わせで寝るというのはどうでしょうか?」
「…………」


背中越しに誰かの体温を感じるというのはいつぶりでしょう。
加賀見さんはどう考えているか分かりませんが、わたくしは緊張を感じていません。
その理由はおそらくですが。
加賀見さんの纏う雰囲気が、少しだけ父様に似ているから心穏やかにいられるのでしょう。
「……」
「……」
「山城さん。まだ起きていますか」
「はい。起きていますよ」
後ろで寝ている加賀見さんが、息を短く吸う気配を見せます。
「――気には、ならないのですか」
なんのことかはすぐに分かりました。
一緒のお布団で寝てる、ということではなく、彼が雨の降る公園で一人佇んでいたことについてでしょう。
「気にならないといえば嘘になります。ですが詮索はしないとお約束したので」
「心遣い痛み入ります。余計な気を遣わせてしまってすいま――」
「けれど、話すことで加賀見さんの気持ちが楽になるなら、聞いて差し上げたいと思っていますの」
「……」
しばしの静寂。明かりが落ちた寝室には、外から聞こえてくる雨音が響くのみ。
沈黙を維持したまま、わたくしは彼の反応を待ちます。
やがて彼はぽつりと話し始めました。

自分には恋人がいたこと。
その恋人が実は浮気をしていて、おまけに加賀見さんを騙してお金をせしめていたこと。
その女性は加賀見さんのことを【キープ】いわゆる予備としての彼氏、又は都合のいい遊び相手としか見ていなかったこと。
それが判明したのが、今日のこと。

「恋人の挙動に不審さを感じ取ったんです。それで尾行してみたら、知らない男と待ち合わせをしていたんです。現場に踏み込み状況説明を求めたら、彼女は真相をあっさり白状してくれましたよ」
ヘラヘラ笑う相手方の男と元恋人に、加賀見さんは怒りを露わにするが――。

バーカ! サイフ役ご苦労さん! お前の金でいいモンがたっぷり食えたぜ!
アンタとの恋人ごっこ、まぁまぁ暇つぶしになったよ! キャハハハハハ!

「その二人から盛大に笑われて、阿保らしくなりました。自分は彼等に利用されていたんです。それにもっと早く気付くことができれば、もう少しマシだったかもしれません」
温度も抑揚もない淡々とした語り口で、加賀見さんは事のあらましを締めくくりました。
「理解不能でしたよ。彼らはそれを今まで副業感覚でやってきたと宣うものですから。まぁ、まんまと騙される私もわるいッ!?」
加賀見さんの無機質だった口調に動揺が表れたのは、わたくしが後ろから抱き着いたからでしょう。
「言わせません。言わせてなるものですか、そんな事――!」
加賀見さんが爆発させるべき怒りを胸の中で解き放ちながら、わたくしは両腕できつく彼を抱き寄せます。
「え、あの、山城さん」
「貴方に非はありません。なのに、どうしてその流れで加賀見さんが悪者になるのですかっ!!」
加賀見さんを嵌めた二人に激昂を燃やしながら、歯をきつく食い縛ります。恐らく彼は、根がとても誠実なのでしょう。だから他者を憎むのではなく、自身の内側に問題があったのだと考えたのでしょう。
しかし。
それではあまりにも、彼が不憫ではありませんか!
「加賀見さん。今からわたくしはとても自分勝手なことを言います。だからよく聞いておいて下さい」
「は、はい」
無味乾燥な言葉使いで語られた失恋話は、わたくしにある決意を抱かせるのに十分でした。
「わたくしは一度貴方の事情に、強引に関わったのです。中途半端にはいさよなら、というのは山城蓮花の気が済みません」
強引、という点をなるべく強調します。
少しでも彼の感じる精神的負担を、和らげるために。
「個人的な理由と動機からです。今後は加賀見さん……いや、想一さんが立ち直れるようにわたくしがサポートします」
公園で雨に打たれていた貴方は、とても孤独そうに見えました。
そして今もその心は凍てつき、苦痛に耐えているのでしょう。
余計なおせっかいかもしれません。わたくしの独善なのかもしれません。
サポートするといっても、果たしてそれに意味があるのかどうかすら分かりません。
けど今日限りで貴方と離れるのは、とても嫌な気持ちがしたのです。
「誤解なきよう先に申し上げておきますね。わたくしは見返りを求めてとか、上辺だけの同情心などからこのような事を言っている訳ではありません」
「では、どうして」
最もな疑問を想一さんが問うてきます。
会って間もないばかりの女が貴方様のお世話をさせて下さいと言ってきたら、喜びよりも怪しいと考えるのが人情でしょう。
まして想一さんは失恋直後。
他者への警戒を向けるのは当然のことです。
ですからわたくしは、彼を安心させるために両手で腰と胸を優しく包み込み身体を密着させます。そしてできるだけ穏やかな声音を、彼の耳へ届けます。
「そんなの決まってますよ。純粋に、貴方の背中を支えたいと思ったんです」
本当に申し訳ありません。
実はこの言葉にはちょっとだけウソが混じっているんです。

本音は一目惚れしたことに、ようやく気付いたからです。

悲しみを抱えつつも、相手を恨むことを堪える。
その心の在り方に惹かれたのです。だから貴方の側に居たいと思ったんです。
完全に下心ですよねすいません。
「やま、ぎ、さん」
「れんか、でいいですよ。これから短くない付き合いになるんですし、他人行儀はよしましょう」
彼がこちらに振り向けないのをいいことに、わたくしはゆっくり尻尾と耳を生やします。
そして尻尾と耳の先端から、魔力を放出。対象は目の前の殿方です。
「し、しかし、私はしがない男です。貴女の迷惑にぃ、なりゅわけには」
眠気から、呂律が回らなくなる想一さん。
放った妖術は催眠作用のあるものです。
あと数分としない内に彼は安らかな夢世界へと旅立つでしょう。
「いいんです。わたくしに委ねて、甘えて下さい。心配はいりませんよ。わたくしはどんなことがあっても、想一さんを裏切りませんから」
巻き付けていた片腕を彼の頭に置き、ゆっくりと撫でまわします。母が子にそうするように、恋人が恋人へそうするように。
「う、あ、ああぁ」
「そうです。力を抜いて下さい。何も考えず、気持ちを楽にして」
身体をぎゅうっと密着させ、耳元で甘く言葉を囁き、両手で彼を抱きすくめます。
「大丈夫ですからね。わたくしが貴方のお傍にいますから。これからも、ずっと」
「れ……れん、か、さん」
そして想一さんは、遊び疲れた子供がこてりと倒れるように、気を失いました。
小さな吐息が聞こえてくる様子から、ちゃんと寝入ってくれたようです。
「おやすみなさい、想一さん」
この人の傷を塞いでみせる。
決意を再度確認したわたくしは、抱き着いた彼の体温を感じながら目を瞑りました。



「ん……ふあぁ」
意識がぷかりと浮上し、わたくしは目をこすりながら上体を起こします。場所は想一さん宅のリビング。
あの日の回想をしている内に、少しばかり寝ていたようです。
「あらもうこんな時間。いけませんね、やることはまだありますのに」
時刻を確認すると、時計は十二時半を指しています。冷蔵庫の中に食材はほとんどなかったので、買い出しに行かないと。
本日はスーパーの特売日で挽肉が安かったはずです。ならば夕食はハンバーグに決まりですね。想一さんの大好物でもありますし。
「あら、これだとまるで妻のようではありませんか」
緩んだ頬と、横になって乱れた衣服のしわを戻します。確かわたくしの自宅に作り置きの総菜があったので、昼食はそれを頂くとしましょう。
それから外出にあたって、今日はいいお天気ですし少々遠出をしてみるのもいいかもしれません。
例えば想一さんが勤務するオフィス街とか。
もしかしたら仕事帰りの本人に会えるかも、というのは楽観が過ぎるでしょうか。
午後の予定を決めたわたくしは各部屋の施錠を確認し、想一さん宅を後にしました。
20/03/19 21:11更新 / 風車小屋
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■作者メッセージ
作中時間軸では二月の上旬なのに、現実時間軸は三月の中旬。
時の流れが速すぎるぜ……。
あと花粉症がつらすぎる。

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