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第7話 牽牛織女【ミルキーウェイ・エレジー】
 「私はね、望むものを望まれるまま、望むだけ与えて来たんだよ」

 調査報告を自らが率いる調査隊の助手に任せ、応接室に通されたドクタル・ムウ。その手に収まるグラスには水のように透き通った酒が注がれており、外地での調査活動を労う為のそれはこの国で最も価値の有る最高級の物だった。

 「“超人”もその一環であり、つまるところ私のライフワークといったところか。彼らもまた総じて求めた故に、私はそれに応じて望むものを与えただけだ」

 度数の高い酒だが、それを一気に呷ってなおケロッとした表情のままムウは続ける。

 「強さを求めた者には硬き鎧を授けた。成長を求めた者には大きい器を与えた。人を導くカリスマを求めた者には、それを可能とする精神力をもたらした」

 「つまり、彼らは自らが望んであの姿になったと」

 「然り。彼ら自身が『そう在れかし』と望んだからこそ、彼らはあの姿を獲得できたのだ」

 「取捨選択、か」

 「それを踏まえた上で、あの【ヴァルゴ】に関しては突出したものがある」

 空になったグラスに再び酒が注がれる。相手にも注ごうかとボトルを向けるが、同盟者の男は断る仕草をした。

 「彼女は今配備されている前期型で、唯一私が『施術』を手掛けた。彼女の望むものを授けるには、私ほどの腕を持つ者でないと務まらなかった。何せ、全身そっくり丸ごと改造したのはゾディアークで彼女だけだからね」

 難産だったよ、と語るその表情はどこか誇らしげであり、自らが成し遂げた偉業に陶酔しているようでもあった。同盟者の方も、アルコールが回っていつにも増して饒舌なその様子を黙して見つめ、その先を無言で促す。

 「結果は成功。彼女は求めてやまなかった姿を手に入れ、望みを叶える力を得た。彼女は見事に理想を実現できたというわけだ」

 「問うが、それによって彼女は幸福を得たか?」

 「それは私の関与するところではない。私は彼女の望むものを与えただけであって、それを用いた結果どうなるかは与り知らぬことだ。吉と出るか凶と出るかは、彼女次第さ」

 「そうか。あくまで己の成果にしか斟酌しないと」

 「いやいや、私とてそこまで薄情ではない。現に彼女には悪いことをしたと思っているんだよ。ついつい興が乗りすぎて、成功“しすぎて”しまったからな」

 その言葉がどんな有様を示唆するものであるのか、知り得るのはこの二人以外には存在しない。

 その結果が彼女にどんな末路をもたらすのか、この二人は余すことなく知っている。

 「総計施術時間は68時間を越えた。施術計画の草案を練った期間も合わせれば、実に充実した時間を過ごせたと言えるだろう。連日連夜、どのようにすれば彼女を理想の姿に変えられるか。どんな『素材』を用いればそれが可能か。議論は百出、尽きることを知らず白熱し、我々は持てる知恵の全てを出し切った」

 「結果は満足か」

 「ああ、満足だとも。我々も、そして彼女自身も。我々は自らの理論が正しかったことを証明し、彼女は求めて止まなかった『美しさ』を手に入れた。軍も常では望めない新戦力を得た。三方良しとはまさにこの事、誰も損をしない理想の結末さ」

 二度目の酒をストレートで飲み干し、再び空になったグラスを、男性としては有るまじき蠱惑的な目で見つめながら彼は言う。

 「美しさを求めた者には、汚濁を洗い流す清らかさを付け加えた」



 「その代償が遠からぬ未来に待つ破滅だとしても、それもまた彼女自身が望んだ事なのだ」





 「皆さん、無事ですか?」

 魔術の炎は厄介だ。木々や燃料の燃焼現象とは異なり、術式に込められた魔力が尽きるか、狙った対象が完全に焼却されるまで燃え続ける。対抗するには相反する術をぶつけるか、その勢いを上回る量の水を用意するしかない。

 【アクエリウス】は特に何もしなかった。

 特別なことは何もせず、ただ「いつもと同じように」、魔力の流れを根こそぎ“削り”取った。

 いくら高度な術式が込められていようとも、駆動させる燃料たる魔力を欠けば絵に描いた餅。術式は虚空に霧散し、果たして三人の超人は無傷で陽炎の中より姿を現した。

 「とにかく、まずはここを離れましょう。あんなものが五発も六発も撃ち込まれたら、さすがに『食べ』きれません」

 あれだけの規模の術がそう何発も連続して来るとは考え難いが、用心に越したことはない。あらゆる物が燃焼して灰となった街の一角を、まだ黒煙が晴れぬ内に三人の超人はそこより離脱した。

 【ヴァルゴ】は、軽かった。比喩ではない、本当に軽いのだ。

 いかに彼女が古代粘水種の力を再現した超人とは言え、その上限は確かに存在する。今の彼女は短時間で膨張し、その後一気に焼却されてしまったことで体積の大部分が蒸発してしまっている。背負われた五体は辛うじて人型を保ってこそいるが、その実、常人が片腕で持ち上げられるほど軽くなっている。

 とにもかくにも、今この状況はまずい。非常にまずい。

 今しがた放たれた魔術が“白鯨”によるものではないことは明々白々。こんなところで続く第二の敵対者まで現れたとなっては、大幅な方針変更を余儀なくされる。そうでなくても配備されたメンバー五名の内、一人が死亡、二人が重傷を負うという大惨事。常識で考えて「壊滅」という言葉さえ生ぬるい惨状だ。

 彼らは混乱していた。一連の出来事を冷静に俯瞰して見れる余裕は、とっくの昔に失われていた。

 故に彼らは気付かない。この期に及んでなお、自分達を危機に陥れている元凶……「致命的な見落とし」に。

 既に始まりの時点で躓いているその事実に、今もって誰も辿り着くことはなかった。






 【タウロス】にとって力とは、絶対のものだった。世のあらゆる宗教家が己の宗派の神を絶対とするように、彼にとって世の全ての力は信仰に値するものだった。

 【タウロス】には学がない。兵士になる前まで字の読み書きどころか、簡単な計算さえ出来なかった。一介の農奴の家に生まれつき、田畑を耕す以外の知識は何も与えられなかった。作っているのが小麦やイモという事実だけ知っていれば農奴としては上等だった。

 彼はそれを嫌った。

 “ふざけるな。俺の力はこんなものじゃない。こんな土塊を相手に終わるだけの人生など、真っ平ごめん被る”

 閉塞した環境、不変の日々、鬱屈する精神……それら全てを嫌悪し、憎み、打ち壊すことを願っていた。

 きっかけなど無い。彼という人間は、その始まりから「そう」であった。己の好悪、快か不快かで物事を判断するという、極めて原始的な基準のみを有していた。であれば、そんな爬虫類的思考原理を有した人間が行うことは予想がつくというものだ。

 即ち、暴力による現状からの脱却。奇しくもその行動は、連邦の礎を築いた先人らが行った事と全く同じであり、他者との迎合を良しとはしなかった彼らしい行動だった。

 神を敬う者が神の愛を理解しようと努めるように、力の信奉者である彼がそれを手中に収めるのは然るべきことだった。

 そして、手に入れた物は使ってこそ価値を発揮する。

 閉塞したコミュニティを制圧するのに、さほど時は掛からなかった。腕力で他人を捻じ伏せ、暴力で弱者を屈服させる。原始的で何のひねりも無いからこそ、小難しい理屈を捏ねる男の最も嫌悪する要素は瞬く間に排されていった。いつしか男の力を恐れて、あるいは慕って多くの者がその下に集い、村の一角は完全に彼らが支配する賊徒の溜まり場となり果てた。

 しかし、力による転覆と叛逆は、更なる力によって塗り潰される。

 彼は無知無学の徒であった為、知らなかったのだ。自分が踏み敷いたこの場所は、世界という絵図のほんの一部に過ぎないと。然もありなん、彼は村の外にも世界が広がっているなど漠然としか知り得なかったのだから。

 農村を不法に占拠する不逞の輩として、彼とその取り巻きは官憲によって取り締まられた。村の外からやって来た更なる力の行使者、それが遣わした権力という力は一個人が振るうしか出来ない暴力を容易く凌駕した。有り体に言ってしまうと、犯罪者として連行されたのである。

 その後の彼は鎖に繋がれた。接収された労働力として各地の開発事業を転々とさせられたが、隷属を嫌う性格がどこに行っても受け入れてはもらえず、最終的にその身柄は軍の預かりとなった。都合のいい鉄砲玉、あるいは弾除け。どちらにせよ彼の人格はまるで考慮されない扱いを受けるのは必定だった。基礎の訓練だけを叩き込まれれば、来たる南下作戦において真っ先に最前線に送られるはずだった。

 彼はそこで、己の運命と出会った。

 「そうだったなあ……。俺とお前は同期で、何だかんだで一番付き合いが長かったか」

 上体を起こそうとして、断念。仰向けのまま首だけ動かして、自分の真横に寝かされた戦友を視認した。変わり果てた、という言葉がこれほど体を表す事例もそうそう無いだろう。

 クラゲ、という生物がいるという。実物を見たことは無いが、今の彼女はまさにそれだった。

 皮膚も、肉も、骨も、恐らく内臓さえも、全てが透き通っていた。その全身は液体を固めたゼラチンのように半透明。さながら氷の彫像と成り果てた【ヴァルゴ】の有り様を、【タウロス】は何も言わずに見守るだけだった。

 「密度が足りない。あまりに多くの体積を失い過ぎた」

 「だろうな。きっと体重も軽くなってるはずだ」

 運び込んだ【アリエス】から事の成り行きはすべて聞き及んでいる。時間を稼ぐために単身飛び出した彼女は、その役目を果たしたかどうかは不明だが、確かに敵を撤退させたと。しかし新たに現れた敵の放った魔術で、街の一角は焦土と化したことも。

 「で、どうすんだよぉ暫定隊長さん。今後のご予定はよぉ」

 「どうもこうもしない! 最初から言っているだろう、ドクタルと合流して……!」

 「やめとけ。ろくな事にならねぇぞ」

 「何を根拠に!」

 また適当に自分の意見に反対しているだけだろうと決め付ける【アリエス】だが、対する【タウロス】は普段の言動が嘘のような落ち着きようだった。

 「訓練兵時代のツレがよお、よく話してた。熊ってのは獲物を一度に喰らい尽くすのは稀なんだと。食べられる分だけ食べて、残りは巣に持って帰るか、運べなかったら地面に埋めて隠すかするらしい」

 「それがどうした。今の状況と何が関係ある」

 「まあ聞けよ。というのも、そいつの爺さんが猟師だったんだが、ある時熊にやられちまったらしいんだな。んで、山狩りの末に爺さんの遺体を見つけて持って帰ったは良かったが……こいつがイケなかった」

 熊、特に冬を間近に冬眠を控えた個体は凶暴で知られる。餌を貯め込む習性を持つ彼らは食事に関しての執念は人間の比ではない。もしそれを掘り起こし持ち去るようなことをすれば、餌を奪われたと判断した熊は匂いを辿って簒奪者を追い詰めるだろう。ましてやそれが人喰いを行い味をしめた害獣ともなれば、そこから先の惨劇は想像するだけで身の毛も弥立つ。

 「分かるか。俺らは餌だ。いや、餌ですらねえ。ただの仕留め損ねた害虫よ。潔癖症で杓子定規なお前な分かるよな? 害虫は叩き潰される! お前も! 俺もだ!!」

 「いや! そうはならない! まだあと二人残っている!」

 「はっ! 陣頭指揮が精一杯の暫定隊長殿と、肉弾戦はからっきしの小僧が雁首揃えてどうなるってんだか。さっきと言っていることが逆だぜ」

 「ならどうする!? このまま退いても追って来るんだぞ!」

 「簡単だろ、そんなの。誰かが足止めすんだよ。文字通り、命懸けでなぁ」

 「それこそ矛盾だろう! 第一、誰がそんな役目……!」



 「俺が残ればいい話だろうが」



 体勢を整えて、今度こそ【タウロス】は上体を起こすことに成功した。未だ内臓は損傷が激しく、ただ起き上がっただけで重要な器官の数々が悲鳴を上げる。むしろこの短時間でここまで回復できたことに驚愕すべきか、その回復力をもってしても立ち上がるのがやっとでしかないことを嘆くべきか。

 「どうせ逃げようが何しようが、あいつは追って来る。なら、ここいらで誰かが体張って止めてる間に、あのインテリ野郎に具申なり何なりしろ。さっさと後期型のロールアウトを急げ、ってな」

 「何を勝手に!」

 「勘違いすんな。俺はあいつに負けたなんてこれっぽっちも思っちゃいねえ。つまらない自己犠牲のつもりで残るんじゃない。それに……」

 視線が【ヴァルゴ】を向く。

 「今の俺と、『今のまま』のこいつの、どっちを残すべきだよ?」

 「…………」

 即ちそれは、切り捨てるべきはどちらかという問い。更に言い換えれば、この先も戦力として保険を掛けておくべきはどちらなのかという質問。

 腕っ節の強さにおいて既に格付けが済んだ【タウロス】と、やり様によってはいくらか利用価値のある【ヴァルゴ】。事実として、あの“白鯨”を直接戦闘においては決して優勢には立たせなかった彼女のアドバンテージはもちろん、相手が複数で迫っていると判明したからにはその索敵能力も捨て難い。

 だがそれは完全に彼女を回復させればの話だ。そして、それを可能とするのは彼女らを作り変えたドクタル・ムウをおいて他にいない。

 必ず追って来る敵から、満身創痍の四人全員で逃げ切るのは不可能。仮に逃げ切ったとしても、戦力が整わない内に強襲を受けるのは明らか。結論として誰かが捨て石として残らざるを得ない。

 「もう一度言うぞ。俺を置いて行け。別に自棄になってるんじゃねえ、適当な頃合いで追いつくぜ」

 「スケープゴートだ。分かっているのか?」

 「そっちこそ分かってんのか? 『固定剤』を全部失くした今、こいつの肉体はいずれ崩壊しちまう。今すぐにでもドクタルに予備をもらわなきゃ、一時間後にはバケツ数杯分の水に早変わりだ、分かってんのか!!?」

 もう一度全員の視線が【ヴァルゴ】に向けられる。申し訳程度に着せられた上着は湿っており、一見しただけで雪中での戦闘がいかに激しいものかを推定させた。

 しかし、それは雪解けの水ではない。濡れている【ヴァルゴ】の表面はどれだけ拭き取っても水が溢れ出す。即ち、彼女の肉体が水分に変換されつつあるのだ。

 「…………」

 「分かったなら行け。いつまでも残ってっと迷惑なんだよ」

 「【タウロス】さん! そんな……」

 「……分かった。そうさせてもらおう」

 「【アリエス】さん!?」

 「グズグズするな。敵は待ってはくれない」

 仲間を置いて行く形になることを拒む【アクエリウス】だったが、決断を下した【アリエス】には逆らえず、【ヴァルゴ】を背負うと彼の後に続いた。

 「【タウロス】、すぐに追い付くんだ。遅れたら承知しない」

 「うっせ。いちいち俺に指図するんじゃねえ」

 バキリ、と硬質な音が響き、【タウロス】の全身が甲殻に覆われていく。闘志の表れのようにも見えるだろうが、崩れ落ちる体を外側から支える為に展開したに過ぎず、それにより体力を少なからず削るため焼け石に水の苦肉の策でしかない。

 「早く行けよ……」

 「言われずとも」

 予感がした。多分、このいけ好かない顔を見るのはこれで最後だな、と。

 だが二人の胸中に余分な感傷は一切なかった。「初めて合理的な判断をした」と【アリエス】は意外にこそ思ったがそれを受け止め、「うるさい奴がさっさと行ってくれた」と【タウロス】も流した。二人の間にある感情はたったそれだけでしかない。

 ゾディアークに仲間意識など無い。チームプレイを遵守させる最低限の縦の繋がりがあるのみで、精神的な繋がりであるチームワークなどという美辞麗句は存在しない。

 だからこれは至極当然な判断なのだ。残るべき者が残り、切り捨てられるべき者が切り捨てられた、ただそれだけのことなのだ。

 いずれはこうなる運命だった。ただそれが自分の予想より遥かに早く訪れただけだ。

 「だがタダではいかねぇ」

 物事には例外が存在する。大地から天空に昇る稲妻があるように、地下深くから掘り出される燃える水があるように、ただ同じチームにいるだけが基本のゾディアークにあって例外が存在する。

 「お前だけに良い恰好はさせねぇぜ……【ヴァルゴ】ォ」

 かつて、未だ人間であった時のこと。二人は互いに反目し合っていた。

 「最悪だ……」

 そう、最悪だった。

 己の人生が満天下に歌い上げたいほど素晴らしいものではなかったのは自覚しているが、それでも「最悪」と言える出来事はたった一回しかなかった。

 口惜しい。虫唾が走る。思い出しただけでも身を捩るほど不快な感情が湧き上がる。誰にも話していない「恥の記憶」、あの【アリエス】が聞けばきっと鼻で笑うだろう。

 力を欲するこの自分が、まさか女一人を負かせられなかったなどと。

 訓練課程に入って間もない頃、二人は出会った。寄せ集めのゴロツキ崩れの兵隊モドキにあって女の存在は珍しく、柄にもなくちょっかいを掛けていたことを覚えている。彼女もそんな粗野な男を毛嫌いしてか、互いの第一印象は好いものではなかった。

 しかし、気付けばいつも自分は彼女の前を行くことは出来なかった。後塵を拝することも無かったが、その先を行くことも無かった。唯一勝った部分があるならば、それは彼女より先に超人として完成されたことだけだろう。親友というほど気安くもなく、相棒というほど信頼している訳でもない。

 だが付き合いが長くなれば少なからず情も湧く。それこそ、普段使わない頭を使って合理的な言い訳を吐いてまで戦場から遠ざけさせるほどに。無論、諦めてはいない。負けるつもりなど毛頭ない。勝ち星は独り占めするからこそ輝くのだから。

 「だからもうお前はここまでだ」

 そう、ここまでだ。

 「端から分かってた事だろうが、残念だったな! 俺とお前じゃ目指してるモンが違うんだよ!」

 ここから先に女の出る幕は無い。

 「俺は『勝つ』為に超人になった!」

 だから戦う。だから退かない。だから恐れない。

 「ただ『綺麗』になりたいだけのお前は、ここで帰れ」

 俺と違うお前は、俺のいるここまでついて来れない。

 今度こそ俺の“勝ち”だ。





 ある女の話をしよう。

 彼女は身よりの無い孤児だった。この国、この時代では珍しくもなんともない、むしろ在り来たりな境遇で彼女は生を受けた。路上で生活し、入り組んだ建物の隙間を寝床として、冬の寒風と街を巡回する労働局の官憲に怯えながら日々を送る一人に過ぎなかった。

 彼女には姉がいた。実際の血の繋がりは今となっては分からないが、物心ついた時から一緒だった女性がいた。同じ空間で寝食を共にする男女を兄弟姉妹として呼び合うことも、彼らにとっては特別珍しい事ではなかった。

 ならば、その姉なる人物が体を売って糧を得ていたことも、何ら珍しくない。

 男なら暴力で、女なら売春で糊口をしのぐのは、もはや彼ら社会的弱者の常識となって久しい。それが彼らの日常を支える上で最も「賢い」やり方だった。否定する者はいないし、居たとすればそんな奴は真っ先に飢えて死ぬ。緩やかで退廃的な悪性だけが生存を許された、この世の辺獄だった。

 彼女の姉は、当時まだ幼かった彼女の為に文字通り体を張って日々の糧を得ていた。一人で生きるにも辛い環境で、二人分の食い扶持を稼ぐのは言葉以上に重労働だ。昼も夜も無い生活を繰り返す内に心は削られ、やがては精神を病むのに時間は掛からなかった。そうなれば必然、食べていくことは出来なくなる。

 女はこの時初めて、姉がどうやって日々の糧を得ていたかを知った。

 女にとって不幸だったのは、姉が行っていた行為の数々がとても「穢らわしい」ものとしか思えなかったことだ。

 珍しくない。幼い時分の子供が、そうした行為を目の当たりにしてショックを受けるのは間々あることだ。ましてやそれが男女の営みと呼ぶことも憚られる、快楽を売り物にした下賤な行為であると知ってしまえば、そこから先は本能的な嫌悪感のみが湧き上がってくる。

 そして、自分の日々がそんな唾棄すべき行為によって支えられていたと知った時、幼かった彼女の精神は悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 汚らわしい。

 悍ましい。

 人と人の交わりとは、何と薄汚れたものなのか。そして、そんな穢れた行為によってのみ生存を許される自分は、もはや筆舌に尽くしがたい汚濁に塗れてしまっているのだろう。汚らわしい行為で得た、穢れた糧……そんな者を喰らい続けた我が身はもはや、薄皮一枚隔てた内側は腐敗と発酵を繰り返し饐えた悪臭を放つ汚物だらけではないか。

 汚い。

 汚い。

 汚い。汚い。汚い。汚い。

 汚い汚い汚い汚いきたないキタナイキタナイキタキナイキキッキキキキキキキキナナイイイイイイイイイィィィ。

 汚濁を忌避する心が最後に縋ったのは狂気だった。何も見えず、何も聞こえず、何も分からぬ。前後不覚の物狂いになることでしか、その魂は救われなかった。

 珍しくない。何も特別なことなど無い、有り触れて、在り来たりに過ぎる筋書きと展開を積み重ね、無垢を願った少女はひたすら狂気の裡に埋没し、遂にその身柄が浮浪者として労働局に捕らえられた時、彼女の肉体は衰えの極みにあった。

 神経性無食欲症。俗にいうところの拒食症に陥った彼女の体は、枯れ木というよりは最早限界まで捻じり上げた糸くずのようであった。辛うじて人間としての形と命を保ってこそいたものの、飢えの極致にあったその肉体はとっくの昔にそれすら放棄することを望んでいた。

 捨てて、棄てて、捐て去り続け、己の内部に抱えた汚らわしい全てを吐き捨てると、人間はこうなる。最後にはガワだけが残り、その魂は清らかさの果てに行けるという妄信だけが最後の拠り所だった。

 醜さを捨てていく過程で、皮肉にも彼女の魂は純化されていった。皮を鞣し、肉を削ぎ、骨を削りとる。妄念と狂信の果てに宝石の如く限界まで純化されていった、その輝き。



 それは、“悪魔”が最も好む輝き。



 「素晴らしい」

 彼女の……いや、私の回収にこの男が立ち会っていた事は偶然だろう。だとすれば、これほど作為的な天の配剤も無い。

 「見たまえよ、君。これが人間の究極だ。精神が肉体を凌駕し、意志が現実を塗り替える。彼女の前ではどんな苦痛や辛酸さえも、己を磨き上げる試練となる」

 悪魔は私を選び出した。そう、正しく奴は悪魔であった。

 「その在り方こそ、“超人”に相応しい。私なら……いや、“我々”であれば、吐き出し空っぽになった君の内側に、君が望むものを詰め込むことが出来る」

 古の人曰く、“悪魔”は虚栄をもたらし滅亡を約束する。

 「さあ、手を取りたまえ。君の狂おしいまでの想いは、やがて到来する新世界の礎となる」

 “悪魔”の囁きには何人たりとも抗えない。私は遂に、「人の在り方」さえも捨て去ることに成功した。

 徐々に人間のそれではなくなっていく肉体に恐れは無かった。穢れに穢れてしまった身が純化されていくことに快感すら覚え、己に穢れを纏わせた人間共から隔絶されていくことに優越を感じていた。搾り出し、空っぽになった器を新たな常識(せかい)が満たす感覚は、自分が生まれ変わったと錯覚させるには充分な体験だった。

 私は生まれ変われる! いいや、今まさに生まれ変わったのだ!

 それだけで満足だった。強くなるために力を欲したのではない。ただ今までの自分から違う存在に変われれば、それだけで満足だった。十二体の超人の中で私だけだろう、超人化を「手段」ではなく「目的」としていたのは。

 それこそ、勝った負けたの下らない競い事に興味は無かった。世の男共は穢すことしか出来ない連中だ。自分よりも弱い者に対し力で屈服させ、穢し、汚し、泥を塗りたくる悍ましき存在だ。そんな連中が勝ち負けを競って超人になるというのなら、是非勝手にそうしていればいい。私は降りさせてもらう。

 そう、目的を果たせば関係ないことのはず。だったのに……。

 「おい、お前。そうだよ、てめえだよ」

 初めて会った。こんな男。

 「てめえ、調子に乗ってやがるな。気に食わねえ」

 どこまでも粗野で、野蛮で、知性は欠片ほどしか存在しない。どっちが上か下か、勝った負けた、切った張ったでしか物事を計れない原始的な男。この世で自分が最も嫌うはずの存在。その日初めて会った彼は、今日日子供でももう少しマシな因縁を付けるだろう文句で自分に喧嘩を吹っ掛けて来た。

 別に暴力を振るわれることは初めてじゃなかった。ただ、無秩序に振るわれるそれらの猛襲には、一切の悪意が無かった。ネコがネズミを弄び殺すような嗜虐心と陰湿さが混じったものではなく、根を下ろした一個の存在に対する純粋な敵意。「何としてもこいつを負かしてやる」、という敬意さえ込められた敵対心の迸りだけが私を打ちのめす。

 私はきっと初めて泣いた。痛みによる恐怖に、ではない。それはかつての私にとって日常だった。だから今更痛みでは折れない、恐怖で涙することもない。

 私の在り方が美学に、哲学に、その信条に反する何かがあったから、この男は私を嫌ったのだ。私がただの弱者だから嬲って穢そうとしたのではない。虫けらなどではなく、一人の存在に対する敵対心から発せられる力に……きっと、感動していた。油断も慢心も無い、叩き潰すべき一人の存在として私を認めてくれているという、生れて初めての事実に私は感涙していた。

 それと同時に、こんなにも精一杯、嘘偽りも虚飾もすることもなく渾身の自分自身をぶつけてくるこの男の在り方を……。

 私はとても美しく、そして……。

 とても、愛おしく思った。





 聞けば第二の協力者は魔術師だとか。危うく区画ごと焼き払われそうになったと言っていたが、【タウロス】にとってはどうでもいいことだった。彼にとっての目標は“白鯨”のみ。元々からして魔術は門外漢であるし、その対応にはもっと相応しい人材がいることも承知していた。

 問題はその後だ。

 「鮮やかに勝つ」よりも、「きれいに負ける」方がずっと難しい。そんな、訓練兵時代の教導官の言葉を思い出した。これが従来の撤退戦なら、適度に相手を消耗させつつ伏兵のエリアに誘い込む……というのが模範解答なのだろうが、生憎と今回は一対一でそれを行わなければならない。

 どれだけ相手の注意を引き付けられるかが問題だ。

 その意味で、【タウロス】は初手から出遅れた。

 「どういうこった! 何でこっちを無視して行きやがる!?」

 匂いで距離は把握できている。見失ったわけではない、敵は依然として徒歩で移動している。当然向こうもこちらを把握しているはずだ。

 だというのに、“白鯨”は【タウロス】の存在など知らんとばかりに別のルートを行く。まっすぐと首都へ。【ヴァルゴ】たちが引き返した道を辿るように。

 「ふっざけんなぁ!!」

 道なりに追っている暇は無い。全身に甲殻を纏って全速力で追跡する。完全には癒えていない腹部が軋み血が滲むが、そんなことを気にしている余裕も無い。

 立ち塞がる壁という壁を粉砕しながら一直線に。透視など出来ないが、その目蓋には忘れもしない怨敵の姿を捉えて離さない。恐らく、いや、十中八九あちらも気づいているはずだ。ここまでの気迫を感じておきながら無視して先を急ぐその真意がますます理解できない。

 やがて民家の壁を何十も突き破ったその果てに、遂に【タウロス】は“白鯨”の姿を捉えた。

 「行かせるかぁぁあぁああああーーーッ!!!」

 ちょうど真横から強襲する形となったのを好機に強烈なタックルを決め、勢いそのまま二人の体は更に直線上の民家をまとめて三棟貫いてようやく停止した。無論、ただ停止させただけでは話にならない。

 「……!」

 組みついた邪魔者を排除しようと拳が振り上げられる。それを目撃した瞬間、全身が総毛立ち急いで回避運動を取った。

 破壊は無かった。拳は空振って地面に激突し、その衝撃を拡散させることなく貫通という形で傷痕を穿った。文字通り拳大の穴からは煙が昇り、今の一撃をもし【タウロス】が受けていれば貫通とまではいかずとも、再び甲殻を穿った衝撃は今度こそ内臓をボロ雑巾にしていただろう。

 「舐めやがって!! なら、こうすりゃどうだ!!」

 すかさず、がら空きになったその両手を封じる。当然【タウロス】の手も封じることになるが、一度押さえ付けてしまえばこちらのものだ。互いに守るものなき無防備に晒された顔面同士が激しく衝突し合う。

 今の【タウロス】は全身に甲殻を覆っている。当然、顔面にもだ。古めかしい騎士甲冑の如き鉄の容貌が頭突きをかませば、並大抵の硬度の物体は乾きたての粘土細工のように砕け散る。

 しかし……。

 「かっ……てぇ!!?」

 互いの額が激突した次の瞬間、ひび割れたのは【タウロス】の方だった。

 有り得ない矛盾。硬い物と軟らかい物が衝突し、前者が砕け散るというあってはならない理不尽。もはや物理的な干渉でこの怪物を仕留めることは不可能だった。

 そして、忘れてはいけない。

 その物理的に止められない相手に今、無防備にも掴み掛かってしまっていることを。

 刹那、“白鯨”の両腕が螺旋を描いた。振り払う動きではない。むしろその逆、自分の腕が押さえ付けられている前提で、それすらも巻き込む目的の動き。その動きが遥か東方において相手の力を利用する高等技術であることを【タウロス】は知る由も無い。

 そしてたった今、その身をもって知る。

 螺旋の動きが鋼鉄の両腕を捩じ上げるのに秒と掛からなかった。

 「ぎゃああああああああああぁぁあぁぁぁぁーーーっ!!!?」

 絞られた布切れのように両腕は関節ごと螺旋に変形し、人体というより生物としての可動域を遥かに逸脱した動きを強制され、もはやその腕は腕としての機能を果たさないのは一目して明らかであった。肘だけではない。螺旋の破壊現象は五指にまで及び、もはや彼は戦う以前に満足に物を掴むことすら困難な体にされてしまっていた。

 激痛に身悶えし倒れ伏す【タウロス】には一瞥もくれず、そもそもそんな存在などいなかったように、“白鯨”は立ち上がると元のルートに戻り始めた。あくまでその視線は行く先を睨んでおり、【タウロス】は歯牙にもかけない。

 【タウロス】は勘違いをしていた。彼は“白鯨”を熊に例えたが、その脅威が熊と異なる点が一つあった。

 獣は弱った獲物を優先的に仕留めるが、“白鯨”はわざわざ弱った獲物に構っているほど暇ではなかった。弱っているのなら放っておいてもいずれ息絶えると知っているからこそ、無駄な動きはしない。今優先して仕留めるべきなのは「面倒な相手」の方なのだから。

 「行かせるか!!」

 腕が使えないからどうした、まだ体が言う事を聞く。立ち上がった勢いそのままその背後に再びタックルを炸裂させた。

 しかし、最初の不意打ちで倒れた“白鯨”の体は今度は足に根が生えたように微動だにせず、腕を破壊された為掴み掛かることも出来ない【タウロス】をやはり無視したまま先を行く。このままではもはや足止めとしての体を成さない。ほんの十分もしない内に【ヴァルゴ】に追い付いてしまうだろう。

 「止まれ!! 止まれぇ、止まれってんだよ!!!」

 悠然と歩き続けるその目前に飛び出し、今度は真正面から押し留めようとした。もうここまでくると子供と大人の喧嘩だった。無様この上ない有り様だが、もはや見てくれがどうのと言ってられない。今は五秒でもこの進行を遅らせることが出来ればそれで構わない。

 しかし、怪物はそんなことを斟酌してはくれなかった。

 「チッ……」

 微かに聞こえた舌打ちの刹那、胸を張った反動で【タウロス】が引き剥がされる。もう一度食い下がろうと“白鯨”を睨みつけようとしたが……それは出来なかった。

 彼が最後に見た物は、こちらに向かって拳を構える“白鯨”の姿。しかし、それは拳ではなかった。五指全てを力の限り握りしめるのを拳と呼ぶならば、その形はきっと拳ではなかった。

 振り上げられる腕。顔面に接近したその瞬間────、



 【タウロス】は光を喪った。



 右、続けて左。突き出された一本指は一瞬の内に彼の眼球を貫いた。全身を余すことなく鋼鉄の角皮に覆われた金牛の、その唯一最大の弱点が穿たれた。

 「アガッ─────ッァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 遅れてやって来た激痛が頭蓋を軋ませる。怪物の指先は刹那の間に眼球を潰すのみならず、その奥の視神経ごと抉り抜いていた。双眸はもはや顔面に空いたただの空洞、そしてそこから硝子体と血液の惨たらしいカクテルを垂れ流す機能しか持っていなかった。激痛は彼から思考を奪い、視覚という最大の索敵能力を喪失した今、彼は彼自身を防護できない。

 不意に、全身が硬直した。

 マズい。これは、攻撃の予兆だ。目前に迫った命の危機に肉体が無意識に反応しているのだ。逃げなければ! どんな攻撃が来るかなんてどうでもいい、とにかくこの場を……。

 もう遅かった。

 肺が押し潰される感覚。内臓の浮遊感に自分が蹴り飛ばされたのだと理解する。壊れかけの管楽器のように絞られた肺は絶叫を上げることすら叶わず、光を奪い尽くされた闇の中で【タウロス】は墜落していった。

 その浮遊が一瞬か、五秒か、あるいは十秒か続いた後、【タウロス】は大地と激突した。そして飛ばされていた時間を同じだけその上を引き摺られ、最後に自分より巨大な何かにぶつかってようやく停止した。

 「う……ゥ……ぐ」

 冷たい。音がすぐ耳元で反響している。ここはどこかの民家、その地下に作られた石室だろうか。どれほど飛ばされたかまるで分からないが、よくもまあ綺麗にホールインしたものだと感心すら覚える。

 取り合えず立つ。

 出来ない。

 「た、てねぇ……」

 腕を圧し折られ、回復もままならない今、立ち上がる術は無かった。視界を奪われ立つ事さえ出来ず、もはやその身は木偶の坊も同然だった。時間にして僅か五分足らず、それだけの時間さえ彼は足止めに使えなかったのである。

 「だらしねぇ……こんなんで、何が“超人”だよ……」

 どうやら自分はここまでのようだ。力の信奉者である己がその主義を違えてはならない。強き者は強いから勝ち、弱き者は弱いから負ける。今までずっと勝ち続けていた自分が、とうとうツケを支払う時が来たというだけのことだ。

 負ける。積み上げて来たこれまでが無意味だったと断じられる。だが受け入れなければならない。

 悔しい。悔しい、が……認めざるを得ない。

 「俺の……俺の、ま……」

 折れた精神が決定的な言葉を自ら告げさせようとする。もうどう足掻いても自分の勝ちが見えなくなった時、「ヒト」は諦観と共にその言葉を口にしてしまう。

 落ちる。墜ちる。堕ちてしまう。ヒトを超えたと豪語した者が。幻想より出でた超常の存在が、圧倒的な現実を前に押し潰されようとしている。

 あらゆる信念がゼロの地平に没する、その刹那────。

 「らしくない。そんな言葉、あなたから聞きたくない」

 この場に有り得ないはずの声を聞いた。





 ゾディアークの肉体は対魔物戦を想定した改造が施されている。だが人智を超越した魔物娘の力に抗するのは並大抵の事ではない。人間を人間のまま強化したところで、ヒトという種が「いつか辿り着ける」範囲でしか強化することはできない。

 ではどうするか? 答えは簡単だ。無いのなら、「有るところ」から「持ってくれば」いい。

 例えば、【タウロス】はその鋼鉄の肉体を手に入れる為に、「とある昆虫型魔物娘」のほぼ全身の表皮を剥ぎ落し、その皮下細胞ごと移植している。人智を超えた存在を打倒するならば、既にその領域にある存在を利用することでその道程をショートカットしたのだ。国内の魔物娘を取り締まる真の目的はそこにあり、各地で捕獲した彼女らを「素材」として利用することで第三世代超人兵科は真に“超人”として完成されたのである。

 だが金牛のそれなど所詮かわいいモノ。完成度はともかくとして、人体改造という部分、そしてその完成に要した「素材」の数だけで見るならば、その極北は【ヴァルゴ】こそを差し置いて他には存在しない。

 原始的外科手段により核を除去されたスライムのガワ、それに凍結と焼却を繰り返すことでこびりついたスライムの個我を徹底的に「滅菌」することで原液を得る。それを都合、二百五十六体分。集めに集め、人体一つ分に相当する量の中にかつて少女であった者の脳髄、その思考を司る僅か一つまみしかない体積を溶かし込む。新たな核を中心に原液は人型に安定し、やがて骨格や臓器に酷似した器官を自然形成して完成する。

 もはや精神の在り方はともかく、肉体それ自体は人外のそれだ。当然、そんな常軌を逸した不合理が無償でまかり通るはずがない。

 「そんな言葉、あなたから聞きたくない」

 「っ!? 【ヴァルゴ】か! 何でここに……!」

 「何でって……遊びにきたと思う?」

 闇の中に聞こえた声は紛うことなく、撤退したはずの【ヴァルゴ】のもの。幻聴などではない、今彼女はまさに目の前までやって来ているのだ。あの【アリエス】がわざわざ加勢させたとは思えない。ほぼ死に体の状態から意識を回復させ隙を見て抜け出したに違いない。

 だが、その代償はあまりにも大きすぎた。

 「よかった、まだ……生きてた」

 「てめえ……! 自分が何してんのか、分かってんのか……!?」

 彼女が近づいてくる。一歩ずつ大地を踏み締める度に、まるでバケツをひっくり返したような水音が閉塞した空間に反響した。

 そうだ。そんな不条理は成立しない。

 魔力を帯びた粘液に思考を閉じ込めた? 古代の粘水種の完全再現体? 個体と液体を渡り歩く不定形の超人?

 常識で、そう常識で考えるといい。理屈や理論がどうかより、先立つ常識の範疇で考えろ。そんな存在が現実に存在するはずがない。存在しないものを無理に存在させようとした時、その大いなる矛盾は砂上の楼閣がそうなるように、脆弱に朽ち果てるのが定めだ。

 普段から頻繁に口にする飴玉……固定剤として支給されたそれを常時摂取しなければ、彼女は彼女自身を成り立たせられない。こうしている間にも、その肉体は加速度的に崩壊し溶け出している。それが始まれば彼女が風呂桶一杯分の水に成り果てるのに三十分と掛からない。いや、無理に動いている今となってはそれ以上の速度で崩壊が進んでいるはずだ。今ここに現れた彼女がどれほどヒトとしての形状を保っているのか、視界を喪失した【タウロス】には分からない。

 「負けるの? ここまできて……私に、あれだけ発破かけようとしておいて、自分はすんなり負けましたって……」

 「てめえに関係あるかよ。帰れ。死にかけが一人増えたとこで何が出来るってんだ」

 「【アクエリウス】が言ってた。私達を逃がすために、一人で残ったって……。そうまでして戦いたかった?」

 「ああ、そうさ。鯨狩りの栄誉は誰にも譲らねえ。同期のお前にもだ。俺一人が出て、しかも殿で成果を上げりゃ万々歳ってもんだろ。誰の邪魔も入らねえからって張り切ってたのによぉ…………何だって、また俺の邪魔をしに来るのがお前なんだよ」

 「邪魔しに、来たつもりは……ない。私は、加勢にきた」

 「ハッ……ハハ、ハハハハ! 傑作だ、笑えるぜ! てめえどんだけ俺をコケにすりゃ気が済むんだ」

 「そう、ごめんなさい。なら……アドバイスだけするわ。慣れないことは、もう止めない?」

 「……何のことだ」

 「誰かを守りながら戦うなんて器用なこと、あなたに出来るわけがない。そんな『英雄』みたいなやり方、性に合わないでしょ。分かってる」

 「…………」

 きっと、目から鱗が落ちるとはこの事なのだろう。この女は自分以上に、俺のことを理解していた。

 そうだ。最初から噛み合わないと思っていた。この俺が、他を活かすために自らを犠牲にするような、そんなお涙頂戴な三文芝居みたいな真似……どう考えたって似合わない。他者より強く、他者より大きく、他者より優れる、そんなどこまでも己本位の在り方を示し続けてきたはずだ。そんな自分が本気であのレジスタンスの生き残りに宣ったような、理想の英雄像みたいなことが出来るはずがなかったのだ。

 トチ狂っていたのは、どうやら自分の方だったらしい。

 「だから……『加勢』か」

 「そう。助けにきたわけじゃない。私も戦いたかったから……勝ちたかったからここに来た。あなただけに良い恰好はさせない」

 水音が激しくなる。もう時間が無い。こうしている間にも彼女の肉体は限界だ。もうすぐ言葉を発することさえ適わなくなる。

 理由はいい。経緯も知らぬ。過程はどうあれあの【ヴァルゴ】が、勝ち負けなどまるで眼中になかったはずの彼女でさえそれを望んでいる。違う場所からスタートし、同じ道を歩きながら目線はずっと違っていた自分達が、ようやく同じ目標を得たのだ。

 「やっとその気になったのかよ。いつまで俺を待たせるんだ」

 「ごめん、なさい」

 この国では、革命を共に成し遂げる仲間という意味を込め、他人を「同志」と呼ぶ。【タウロス】にとって真に同志と呼べる者は存在しなかった。これまでは。

 【ヴァルゴ】の体が溶け出す。限界は近いがまだ保つ。意志を持った水が石室の底、地に伏した【タウロス】へと到達し、その肉体へと纏わりつく。しかしそれは回復の為ではない。より正確には、回復を兼ねたもっと別の目的の為の接触だった。

 「勝とう、一緒に」

 「ああ、そうさ。負けはしない。俺たち超人は“超える”ために存在している!」

 超える。超越の意志によって統一された二つの生命は、ここに歪な奇跡を生み出す。最も初めに造られた二人の超人が、全く別の設計思想によって生み出された二種が、ただ一つの共通目的の為にここに合一を果たす。傷を埋め、肉を押し広げ、骨格を増強させながら全く異なる別の存在へと変化を遂げる。

 即ち、融合。高等生物に有るまじき超常現象が、ここに掟破りにも不条理の重ね掛けを成立させた。

 「「ハハハ、ハハッ! ハハハハハハハハハハッ!!!! 気持ちいい!! 何、これは!? なんなんだ、こりゃあよぉ!!」」

 輪唱する声が訴えるのは快楽だ。酒精の酩酊や薬物の高揚など足元にも及ばない、細胞単位での交わりはとうの昔に原始的手段によって得られる従来の絶頂感を置き去りにしていた。しかも終わりなど見えない。真なる合一を達成した今、二人が感じる快感のボルテージは天井知らずに跳ね上がり続けている。

 「「アハハハハ! 最ッ高!! こんな世界があったんだなあ!!」」

 あらゆる不安が、苦悩が、絶望が駆逐され、多幸感と全能感だけが五体を駆け巡る。傷付いた肉体も歓喜と共に回復し、二人が合わさったその全身は完全に生まれ変わっていた。

 もはやこれはヒトではない。このいっそ悍ましいほど隆々と膨れ上がる巨躯を、ヒトと形容することは憚られる。ではこれはきっとヒトではない。もはや超“人”ではなくなった。

 彼らは『英雄』には成り得ない。他でもない、自らがそれを否定した故に彼らは揃って資格を持たぬ。

 十二の星にも刻まれぬ。

 これは『怪物』と『怪物』の戦い。
18/05/11 04:12更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 次回、「欠落巨星【ブレイク・スターズ】」

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