第三幕 女帝と囚人:前編
『女帝と囚人 〜あるいは古代の女王と鉄仮面のお話〜』
大陸の西方には広大な砂漠が広がる。一切が砂に覆われた不毛の地、サボテンと小さな虫以外に生命の痕跡は無く、昼は降り注ぐ熱線が地中の水分さえも大気に還元させ、夜には透き通る空に昼間の熱は全て逃げて極寒の地獄に早変わりする。昼と夜で二重の顔を持つ、ここは地上で最も移り変わりの激しい場所。
吹き荒ぶ風が砂嵐を巻き上げて砂丘を形成する。幻想的な砂の波は幾百もの年月をかけてゆっくりと大地を舐めるように移動し、その軌跡の何もかもを飲み込んで行く。悠久を生きる神々だけが、この地に砂が満ちる以前の姿を知っている。
かつて、ここには国があった。今でこそ見渡す限りの砂の海だが、かつてはこの砂で覆われた一帯を領土として支配していた大帝国が存在し、その頃はこの砂の海は緑に覆われた豊かで肥沃な大地だったと言う。花が咲き鳥が歌い、大河川がもたらす恵みがこの地一帯を地上の楽園に変えていたという。
既に国が滅びて五千年。かつての文明は皆砂に埋もれて消え去り、今やその隆盛を知る者は誰一人として残されていない。王の墓も史跡も無く、今やここは死の大地と化して久しい時間が流れていた。草木は枯れ鳥は何処へと去り、国土を縦断するように流れていた川がその姿を消した事はもう随分昔のことである。
文明の墓場となったこの場所はその過酷な環境とは裏腹に、周辺情勢に左右されない国際的に安定した場所だった。当然だ、一面砂しかない不毛の大地、作物は育たず水は枯れてしまうこんな大地を欲しがる国は存在しない。むしろどうやって相手に押し付けようかと考えている勢力もある。
各地が未だ領土争いや利権の拡大を狙う中で、この砂漠だけはそんな俗世の争いからは隔離された天然自然の雄大さを物語っていた。人間の手から離れたが故に、数千年に渡り形成してきた美しさが輝く大地……死と絶滅の砂の海、全ての文明が行き着く最終地点がこの光景だ。
その砂の海を往く影がひとつ。ここを通りなれた隊商ですら絶対に通行しない昼日中、天上の太陽が殺人的な猛威を振るう時間帯にそれもラクダにも乗らず徒歩で、砂の海に一対の足跡を延々と刻みながら移動する者がいた。
「ふぅ……ふぅ……!」
荷物はない。昼の砂漠を越えるというのに食料どころか水筒も見当たらず、その身一つに砂除けのマントを羽織っただけ、明らかに旅人と言うよりは世捨て人か自殺志願者のどちらかだ。装備はともかく水を持っていない所を見るに後者の可能性が高い。
本来、昼夜の寒暖差が激しい砂漠の横断は明け方と夕暮れ時が相応しい。ラクダに乗っていれば話は別だが、そうでなければそれ以外の時間帯は停泊することが望ましいとされる。
それ以外の時間帯に動けば、即ち死を意味する。
「はぁ、はぁ、はぁ!!」
旅人の呼吸が荒く、間隔も短くなる。吸い込む外気は体温より熱く、蒸した衣類を顔に押し付けられているような錯覚を覚える。酸素を求めて肋骨と横隔膜が忙しなく動くが、今や呼吸だけでは削られた体力を回復することは出来ないまでになっていた。
だが旅人はその足でも行進を止めず、流砂を避け、ラクダの骨を跨ぎ、どこまで続いているとも知れない砂の世界を何の目的で踏破しようと、その足は軌跡を刻み続けた。
そして一際大きな砂丘を乗り越えた時……。
「────……──」
旅人は熱砂に伏した。
突風が巻き起こり、舞い上がった砂が旅人の体を隠していく。
足を、手を、肩を、太ももを、腰を、砂は容赦なく覆い隠し、男を数千年の歴史の一部に取り込もうとする。肉は腐る間もなく乾上がり、身に着ける衣服も朽ちて消え果て、後にはカラカラになった骨だけが晒されることになるだろう。
旅人の歴史はここで幕を降ろす。
と、この光景を見れば誰もが思うだろう。
「…………」
それまで旅人以外に誰もいなかった砂の大地に、どこから現れたのか別の影。それが早くも半身が埋もれかけていた旅人を掘り出し、軽々と肩に担いだ。
そして現れた時と同じように、どこへともなく去って行く。
「やっと見つけた。これで帝国は……」
砂塵が吹き流れた後、二つの影は砂漠のどこにも見当たらなかった。
その帝国はかつて肥沃な土地だった砂漠一帯と、その彼方東方に広がる山脈、海峡を挟んだ南の島々、そして極寒の凍土に覆われた北の大地をも征服し、大陸史上最大とも言える支配領域を誇っていた。強大な軍事力に物を言わせて各地を瞬く間に征服し、国土は一年で二倍、五年で十倍、全盛期には大陸の地図をほぼ一色に染め上げる勢いで領土を拡大し、その支配力は昔日のレスカティエを上回る程であった。
一代で巨大な帝国を築き上げた王を誰もが讃え、その御名を神の如く崇拝し、全ての臣下はその足元に傅き、民草は例外なくその威光にひれ伏したと言われていた。
しかし、大帝国は一代限りで潰えてしまった。
何故か?
要因の一つとして、王に後継者がいなかった事がある。領土拡大、征服と支配の繰り返しに明け暮れた王は自らの血に固執しなかった。だがそれを支える臣下にとって王の血統は絶対、何としても王には次代を担う後継者を立ててもらう必要があった。
だが二つ目の要因として、王自身があまりにも優秀すぎた事がある。王の亡き後、果たしてそれに代わる逸材が現れるのだろうか。絶対の指導者を失うことを危惧した者たちは、王の血統ではなく王そのものを存続させる道を取った。
古来よりこの地帯で信仰されてきた死後の世界、冥界の裁定を経て死者が復活するという宗教観、それらを下地に創り出された秘術により王は死を乗り越える術を獲得する事になる。魂は一度肉体を離れるがそれは決して死ではなく、特殊な処理を施され永久に朽ちない肉体を創造、冥界で俗世の穢れを落とした魂をそこに迎えることで王を地上の太陽として再臨させる手筈だった。
腐りやすい内臓と脳髄を抜き取り、防食液に浸すこと数十日、体の内側に王家に伝わる刻印を刻みつけ星辰から魔力を受け入れる術式を埋め込み、最後に遺骸を保護する帯を何十にも巻きつけ棺に収めた。数年か数十年か、いつか王の魂が還るその日まで玉体を護ることを臣下は誓った。
だが、その誓いは十年と持たなかった。
指導者を欠いた国家の行く末を複数の臣下が舵を取ろうとした結果、船頭多くしての故事の通りに国は迷走を始めた。時が経ち代を下るごとに迷走は亀裂に変わり、玉体復活の野望など忘却の彼方に追いやられ、半世紀後には帝国の名は地図から完全に消え失せてしまった。
こうして古代の大帝国は歴史の中に姿を消し、その残骸も風化して砂と一体化した。街も、庭園も、見上げる宮殿も、湖でさえ、何もかもが砂に埋もれてバラバラになってしまった。
唯一つ、王の霊廟を除いては。
「王よ、偉大なるや全知全能の王よ。今一度、この現世に再臨したまえ」
砂に埋もれ、固い岩盤を通り越した遥か地中深く、岩石を幾重にも積み上げて作られたその空間で怪しげな儀式を執り行う女が一人。暗闇を蝋燭の明かりだけで照らすその眼前には、数千年の時を経てなお劣化せず内部に封じられた存在をずっと守護し続けていた。
石棺、本来なら死者を奉じておくそれが、今は蓋をこじ開けられ中の遺骸を晒していた。幾重にも巻かれていた包帯は破り捨てられ、中の干からびたミイラはその醜い体を外気に晒していた。
遺体の腹部には縦に切れ込みがあり、かつて外科的処置で内臓を抜き取った痕だと分かる。黒衣を纏った女は懐からガラス管を出すと、その中身を遺骸に垂らした。
「目覚めたまえ、大いなるアサルの御許より蘇りたまえ」
骨と皮だけになった屍の上を撥ねる液体は、抜き取ったばかりの血液。テラテラと蝋燭の光を浴びて輝くそれは遺骸の表面を滑り、その腹部の術痕から内部へと流れ込んでいく。
変化はその時に起きた。
「──ォ──ォォ……ォオオオ!」
廟内に女とは別の声が響く。まるで隙間を突風が吹き抜けるような音。それが今まさに石棺に収まるミイラから轟く死者の慟哭とは誰が思い当たるだろう。肺はとっくに失われ残る臓器は心臓だけ、にも関わらずミイラの口からは外気を取り込み吐き出す呼吸行動が行われ、肋骨が露わになった胸元はそれに合わせて上下していた。
体内では失われていた臓器が次々と再生を始めた。最初に肝臓。次に肺。胃と腸が続けざまに復活し、それらはまるで生きている人間の臓器と同じように脈動を始めた。
カラカラに乾いていた心臓も鼓動を始め、儀式で受け取った血を呼び水に湧き出る新鮮な血を、数千年ぶりに自らの体内に行き渡らせる。一回の鼓動で肌の色が、二回で張りが、三回で全身の肉は瑞々しい膨らみを取り戻し、腹部の傷もすっかり癒えて跡も残っていなかった。
筋肉を取り戻した腕が棺の縁を掴んで上体を起こした瞬間、全身を隠していた包帯がはらはらと解け復活を果たした者の姿が露わになる。
「おお! 偉大なる我らがファラオ!! ネフェルキフィ王、光輝なる御名! その威光を讃えさせたまえ!!」
黒衣を脱ぎ女の頭部が、キツネにも似た人外の耳が晒される。墓守たるアヌビスの儀式により古の王は冥府より蘇り、永き眠りからここに再臨を果たした。
讃えよ、その名……ネフェルキフィ。
「余が眠りに就き、どれほどの歳月が経った?」
全身を覆う包帯を取り除きながら古代の女王が問いかける。石棺に腰掛けて問う、ただそれだけの取るに足らない行為に周囲を圧倒するプレッシャーが大気を揺らす。生まれついての絶対王者……力、頭脳、カリスマ……あらゆる支配者としての格が、この古代の王に比する者がいないことを如実に語っていた。
夕暮れの砂漠を思わせる健康的な褐色の肌、かつてこの地を流れた河川をすくい上げたような艶やかな黒髪、程よく引き締まりながら柔らかさを保った肢体、そして甜瓜を想起させるぐらい大きくたわわに実った二つの膨らみ……。それはまさに古代の彫刻に描かれる美女像が生命を吹き込まれた姿か、あるいは愛欲の神エロスの化身そのものか。身を包む物を邪魔と切り捨て、隠すどころかむしろ崇めよと言わんばかりに明けっ広げな有り様。見た目は痴態を晒しているだけなのに気品すら感じるのは、流石は王者の風格というべきか。
「星が太陽を巡ること五千。王がお眠りの間にそれだけの時間が経ちました」
「五千年か……長いな。余も冥府の川より知り得たのは、かつて余が築いた国は亡くこの一帯は死の大地に成り果てたことぐらいだ。嘆かわしいことよ」
「心中お察し申し上げます。我らの祖先が王との盟約を反故にし、大義なき蛮行を繰り返したばかりに……」
「良い。時の流れと民の心は移ろうものよ。傍らで汝れのように古き盟約を果たす忠臣も残っていることを思えば、五千年の寂寞も少しは和らぐというものよ」
「身に余るお言葉」
「うむ。して、汝れの名は?」
「はっ! 偉大なるファラオの墓守、アヌビスのメティト!! 代々霊廟を守護するお役目を授かり、今生においては御身第一の臣下として粉骨砕身する所存!!」
「メティトか、佳き名だ。『正義』の名に違わぬ働きを期待しよう。では第一の臣、メティトに命ず。余の装飾をこれへ」
「はっ!!」
王の命令を受けて臣下はすぐさまその身を包む装飾品を差し出す。衣服は僅かに腰布と胸元を隠す物のみ、後は王者としての威光を効率よく発信する黄金の細工を纏って完了だ。古来より続く気候にあった服飾か、あるいは宗教的な理由か、どちらにせよ金銀を身に付けたことでより神々しさが増したことは事実だ。
「杖を」
「ここに」
先端が傘の柄のように曲がった同じく金で作られたヘカ杖を持つ。失われた帝国においては王冠以上に支配者のシンボルとして重要な意味を持つ杖だ。
「まずは王の再臨を心待ちにしていた臣民らにご尊顔を……」
「その前に弔いが必要だ。冥府にあった余の魂を現世に引き戻す再臨の儀……さぞ多くの生き血を呼び水として使ったことだろう。復活の礎となった者達への弔いが先だ」
「いえ、その事なのですが……王が弔問されるべき相手は居りませぬ」
「余への気遣いは無用。この五体に溢れる魔力、数十数百では利かぬ数を生贄に捧げたはずだ」
「いえ、本当に王の再臨にはこの小瓶の血、それも半分に満たない量を使用したのみ。王が愛する帝国臣民の血は一滴たりとも流れてはおりませぬ」
「……まことか?」
「誓って」
「なるほど……いや、しかし……」
超然とした振る舞いを崩さなかったファラオがここで初めて動揺にも似た戸惑いを見せた。生と死は一方通行、いかに常識破りな外法と言えど死者蘇生には尋常ではない代償を伴う。この場合は『王が支配する臣民』あるいは『王に比する高貴な者の血』が必要だった。
「お会いになりますか? 血の提供者は別室にてお寛ぎの最中かと」
「うむ。余の復活に貢献してくれた者、無礼のないよう持て成さねばネフェルキフィの名折れになろう。案内せい」
霊廟の壁が重苦しい音を立てて石の引き戸を開く。地下道の壁に掛けられた蝋燭が独りでに灯り、地下迷宮の行く道を照らす。道の両端にはそれまで待機していたのか、砂漠地帯にのみ生息するビートル属の魔物娘・ケプリがずらりと列を成して跪いていた。彼女らもまた王の復活を心から喜ぶ地下帝国の臣民たちである。
「コップ一杯にも満たぬ血で余を復活させるとは、その者はよほど高貴な血筋と見た。余と同じ神代の血統を引く者か。よもやこのネフェルキフィの復活を他国が、それも五千年も経った今になって寿いでくれるとは」
「はぁ……」
「歯切れが悪いな。何が不服か」
「いえ……ご覧になればお分かりいただけるかと」
どうにも要領を得ない配下の物言いに釈然としないものを感じながらも、およそ五千年ぶりに感じる足の感触を踏みしめながらネフェルキフィは自分の恩人の元へと馳せ参じるのであった。
この砂漠では早くから魔物娘たちがファラオの復活を感じ取り、元々王に仕えるアヌビスやスフィンクス、周辺からケプリやサンドウォーム、死者を弔う墓地からはマミーやスケルトン、グールなどが続々と集結し、百年ほど前から水面下で密かに魔界国家としての基礎を形作っていた。
墓守のメティトが暫定的なリーダーとなり指導を進め、元々遺体を安置する霊廟だけだった地下墓所は次第に拡張され、今や砂漠地帯の地下大半を占領する大墳墓迷宮となった。いずれ復活するファラオの権能が行き届くようにと、大墳墓全体には然る高名な魔道師が協力し迷宮全体が魔術的な意味合いを帯びるよう建造されている。
その中には賓客を持て成す部屋もいくつかあり、その内の一つに件の聖血の提供者が通されていた。
いたのだが……。
「…………」
「…………」
「…………」
「……メティト、これは何のジョークだ」
通された面会の場で、目の前の客人に聞こえない小さな声で耳打ちする。恐らく相手には聞こえていないだろう。いや、「だろう」と推測するのには理由がある。
「まことに不本意ながら、これはジョークではありません」
「そうか。いや、だがこれは……」
「……あのー、何か?」
部屋を訪れるなり何も切り出さない二人に客人も思うところがあるのか、向こうからモーションを掛けてきた。言葉自体はただの問いかけだが、二人には客人が怒っているのか不機嫌なのか、それとも上機嫌なのかも分からなかった。
「ご客人、こちらにおわす御方はホルアクティ朝の絶対なる指導者にして永世帝王、ネフェルキフィ王にあらせられる」
「へー、王様! これは、どうもどうも」
「うむ、苦しうない」
「そして王よ、こちらが再臨の儀を執り行う上でご協力いただいた……ご協力いただいた、えー……」
「どうした、先を言わんか」
「それが、その……」
「あ、気にしないでください。自分、名前ありませんから」
「名前が無い?」
「はい! よく不便って言われますけど、やっぱり名前ってあった方が良いですか? いいですよね?」
「うむ……無いよりは、そうだな」
何かを隠し立てて嘘偽っている、という雰囲気はない。冥界の裁定を経て神気を得たファラオの心眼は眼前の男の真理を見抜いていた。
だからこそ、解せないことがある。
「王よ、この客人は神聖なる帝国領内で行き倒れている所を、この私がお救い申し上げた次第でございます」
「領内……それは地上の砂漠のことか?」
「はっ」
「昼の砂漠を共もつけずにか?」
「左様です」
「…………この姿でか」
「ええ、その通りです」
男は防塵マントを羽織っている以外に特別な装備は無く、一見すればとても砂漠越えをする者には見えなかった。
だがそれよりも、さっきから二人の視線を釘付けにして止まないのは男の顔だ。
別に男の顔が二目と見られないほど醜怪だとか、逆にネフェルキフィを凌ぐ美貌の持ち主だとかではない。いやむしろそれ以前の問題だった。
「危ないところを助けてもらったみたいで、本当に感謝の言葉もありません」
そう言って男が頭を下げる。
その頭部は甲冑で覆い隠されていた。
蝋燭の光を受けてキラキラと光り輝く鉄兜は男の頭を隙間なく隠し、目元に僅かなスリットがあるのみで後は鋲留めまでする徹底ぶりで顔を隠していた。口元も完全に見えないので、喋ると声がくぐもって聞こえてくる。
これは確かにメティトが言い渋るはずだ。彼女とてこの男をどう言い表せばいいか迷ったに違いない。事実、こうして対面しているネフェルキフィも男が何を考えてこんな風体なのか、てんで見当がつかなかった。
しかしこうして言葉を交わしていると、やはりこの男には高貴なオーラを感じる。彼の血が自分を復活せしめたことも頷ける。
「して、汝れは何処の国の使者か。後刻正式な謝状をしたためる故……」
「国……ですか? 知りません」
「知らぬ?」
「王よ、この者は国の使者ではないようです。祝いの品や文書の類もなく、身一つでこの砂漠を横断されようとしていた模様。それに、同じ質問をしましたが……この者、自分がどこの生まれ育ちなのか知らぬようなのです」
ますます分からない。顔を隠していることもそうだが、たった一人軽装で砂漠にいたことや、自分の出身地を知らぬという怪しい物言い、それに何より地下深くで魔物の巣窟に連れてこられたと言うのにこの落ち着き様……全身から匂う高貴なオーラとはどこまでも合わない、浮世絵離れしたミステリアスな雰囲気に古代の女王も訝しむ心を禁じ得なかった。
だがこの男の協力のおかげで臣民を生贄に捧げずに済んだことも事実だ。であれば、その出自や思惑はともかく持て成すのが務めというもの。その真意がどうあれ、今は瑣末事だ。
「帝国はこれより余の復活を祝う再誕祭を執り行う。行くあてが無ければ心ゆくまで逗留すると良い。メティト、ここに湯はあるか?」
「ございます。地下水脈より汲み上げた水を使った大浴場です」
「その一番風呂を客人に」
「かしこまりました」
「何から何まで、ありがとうございます」
「まずは砂を落とし、旅の疲れを癒すと良い。足りないものがあれば遠慮はいらぬ、いつでも好きなだけ用立てよう」
メティトが手を叩くとそれを合図にケプリたちがぞろぞろと現れ、男を浴場へと連れて行った。
結局、最後まで男が兜を脱ぐ事はなかった。去っていったその背を見送りながら、ファラオは次の命令を与える。
「メティト、彼の者が何処から来たのか調べよ。あの者には何か裏がある」
「刺客でしょうか?」
「いや、余の見たところ腹に一物抱えているようには見えなかった。演技という線も無くはないが、それ以上にあの風貌……いやさ、仮面。あの男自身に裏は無くとも、その背後関係に何かある可能性が高い。頼んだぞ」
「御意」
傅き礼をした後、メティトの体が大墳墓の闇に消える。拝命した命令は迅速かつ確実に……彼女は新たな帝国において最も重要な臣下となることを予見するネフェルキフィだった。
だが今は優秀な部下が報告を持ち帰るまで気長に待つつもりはない。それまでにやるべきことが、この女王にはあるからだ。
「さて……名も無き客人よ、亡国の女帝直々のもてなしを楽しむと良い」
客人が辿った浴場への道をネフェルキフィもまた追うように辿り始めた。
ファラオという魔物は実に特殊な存在である。死を乗り越え復活するという点では他のアンデッド属と共通するが、それだけなら単にマミーと同じだ。現にネフェルキフィに施されていた術は彼女以外の誰かに使用したところで、新たなマミーが誕生するだけでしかない。
マミーとファラオを分ける唯一にして最大の相違点、それは「王の力」を持つか否か。ここで言う王の力とは、ただ王冠を戴き玉座にて執務をこなしたことを意味するのではない。
古来より王とは、地上とそこに生きる民を支配する権限、王権を神より賜った者を指す。王権とは神の威光、即ち王とは間接的に神の力を受け継ぐ者なのだ。そしてこの神の威光が死して魂だけとなった王を、冥府の川の濁流より守ると同時に俗世の穢れを払い、亡国の王者を真なるファラオへと新生させるのだ。
人であり、魔物でもあり、そして神でもある。今やネフェルキフィは老病苦死とは無縁、輪廻より解き放たれた完全なる聖王だ。彼女の力があればこの広大な砂漠もかつてと同じ、いやそれ以上の楽園に変貌するだろう。
だが玉体が復活しただけではまだ足りない。枯れ果てた砂漠を再び生命で満たすには、それこそひとつの国を一瞬で滅ぼしたり創造したりするだけの魔力が必要になる。たとえ王の権能を以てしても一人だけでは力不足なのだ。
ならばどうするか?
「余が最も美しかった時代そのままか。これは好都合よ」
プラスとマイナス、男と女、陰と陽……二つの相反するモノが和合する時、莫大な力が生まれる。曰く錬金、曰くヨーガ、曰く房中術、詰まるところは即ち男女の交合にほかならない。男の精を魔物となったネフェルキフィが受け取り、それを魔力に変換する際に同時に発生する膨大なまでの神気で砂漠に緑を蘇らせるのである。
当初、無事復活を遂げたネフェルキフィの予定は自分と共に国造りを行う者を、つまりは婿を探すことにあった。美醜に注文はつけない、自分と七日七晩交わっても意識を保っていられればそれでいい。でなければこの砂漠に生命を生み出す大業は為せない。
だがそれらは嬉しい誤算により全て前倒しになろうとしていた。
「これならば、客人を萎えさせるようなことはあるまい。我が美貌と肢体にて存分に悦楽に溺れてもらおうぞ」
身に付けていた装飾や布は全て従者に預け、今や女王の姿は石棺より蘇った時と同じ一糸まとわぬ姿を晒していた。後はこの先の浴場で湯浴みをしているであろう男の元へ赴き、その気にさせるだけでいい。この世で最も強き大陸の華と崇められたその美貌、その肌、その胸、全てが男を魅了し悩殺するには充分過ぎる威力を有していた。これを前にすれば盛りを過ぎた老人も、性を知らぬ童も、背徳的な同性愛者も、等しくオスの象徴を奮い立たせずにはいられない。
このまま入ればあの男はさぞ驚くだろう、そう考え今からそのリアクションを予想しながらネフェルキフィは臆さず堂々と浴場へ足を踏み入れた。
「客人、湯加減の程はどうか」
「ええ、沸き加減もちょうど良くて……って、何で入って来てるんですかぁ、王様ぁぁぁーーー!」
男一人が裸の空間に堂々と進入する、これまた裸体の女。しかもその相手が一国の王ともなれば、これを見て動揺しない者などいない。男は思わず湯船から腰を浮かし、天井を支える柱の影までまるで逃げるように後退した。まるであちらの方が乙女のよう、予想以上のリアクションに本来ならネフェルキフィは勝ち誇った笑みを浮かべてもいいはずだった。
「ダメじゃないですかー、男と女が同じ浴場を使っちゃあ! あともう少ししたら出ますから、それまで待っていてくださいよー!」
男の言い分は至極正論だ。
だがその頭には鉄兜が輝いていた。
(馬鹿なっ……! 風呂場なのに、脱がないっ……だと!?)
男の一番の謎、顔を覆い隠す鉄仮面。わざわざ浴場に不意討ちするように赴いたのは、その下に隠された顔を拝む目的が大きかった。これから存分に睦み合う相手、せめてその顔を見ながら愛し合いたいと思うのは魔物娘のサガだ。
だがしかし、女帝の淡い期待を跳ね除けるように、仮面は男の頭に健在だった。
湯気の中で息苦しくないのかとか、この後の食事は如何するとか、色々と話題は尽きなかったが、取り敢えずネフェルキフィの頭からそれらの事は全て消え去っていた。もはや当初の目的を強行する気分でも無くなってしまった。
だが衣類一切を脱いで相見えた手前、やっぱり何でもありませんで帰るのは性に合わない。取り敢えず……。
「……背を流そう。王たる余が直々にな」
「いいんですか? 失礼に当たりません?」
「余がしてやろうと言うのだ、客人に恥はかかせぬ。ほれ、そこへ座られい」
大浴場の中央に設けられた百人は入れそうな湯船、その縁に二人揃って腰掛け、仮面男の白い背中にネフェルキフィが手を伸ばしてゆっくりと背中を洗い始めた。国の支配者が己以外を、それも臣民ですらない旅人の背を流すという奇妙な光景。ネフェルキフィの手つきはとても人の背を洗うのが初めてとは思えないほど丁寧で、それでいて優しいものであった。
「自分、肩が柔らかくないですから大助かりです。王様、背中洗うのお上手ですねー」
「当然だ。下々を労うのも王の務め、背中の一つや二つ清めることなど造作もない。何度も言うようだが、汝れは余の恩人だ。それを挨拶だけで礼を済ませたつもりになるほど、余は薄情ではないつもりだ」
「お礼を言うのは自分の方です。砂漠で行き倒れていたところを、あの……えーっと、メティトさん? に助けてもらって。あの人には感謝しています」
「血を抜かれる時、怖くはなかったか?」
「怖かったですよ。でも指の先をナイフで少しだけ切っただけですし、メティトさんがすぐ止血してくれましたから」
「…………」
「王様?」
「いや、何でもない」
今まさに絶世の美女に背中を流されている最中だというのに、口を開けば別の女の話ばかりでネフェルキフィは面白くなさげだ。自分から話を振ったのだからと理性では分かっているが、同じ女として自分が眼中にも入っていないように思えて僅かに苛立ちを覚える。
確かに仮面男がこの地で最初に出会った女はメティトだろう、それは揺るがない事実だ。だがそこは稀代の女王、既に策は講じてあった。
(こうして手を通じて、こやつの体内に余の魔力を送り込めば……フフフ)
迸る神気と魔力、それらをブレンドした物を体内に流し込む。王の名を冠するファラオともなれば砂漠に生息する種限定で相手を魔物に変えることも出来る。もちろん相手が男なら強制的に発情させることも可能だが、それでは芸がないし、何よりネフェルキフィ自身いつ如何なる場合でも王としてのスタイルを崩したくはなかった。
だから今流し込んでいる魔力は男をその気にさせるものではなく、あくまで男の心をこちらに傾かせる程度のもの。そしてそれだけで充分だ。磁気を帯びた砂鉄が磁石に引き寄せられるように、ファラオの陰気で汚染された人間は容易くその方向に転がり落ちる。
「さて、客人……」
準備は整った。注入した魔力は言わば爆弾、導火線に火が付くのを今か今かと待ち構える火薬だ。後はそこに火をつければ、一気に燃え広がるだけ。
「特別に……そう、特別に余の背を洗うことを許そう。洗いっこ、というものだ」
「ふぇ?」
「いや、背中だけと吝嗇な事は言うまい。汝れが望むのならどこでも良い、言ってみよ。腕か? 肩か? 足か? 腰? 首筋? 太もも? 腹というのもあるぞ?」
「い、い……!」
「ああ、なるほど……汝れが手に触れたいと願うのは、この胸だな。大陸の至宝、ホルアクティの華と謳われた余の双丘を、その腕で揉みしだきたいのだな」
火薬庫の蓋は開けられた、もう導火線に火を灯すなどとお上品にしなくてもいい。
「良い、許す。『洗え』」
手を広げて一言そう言い放つ。誘う仕草とは裏腹に言葉それ自体は命令形、その言の葉には生ある者には決して抗えない魅了の力が働いていた。これぞファラオが有する王の力の一端、魔力を宿した言葉は単に命令する以上の強制力を持って、それを聞いた者を支配下に置き命令を完遂させるのだ。その強制力たるや、甲殻内で夫と愛し合うサンドウォームですらすぐさま睦み合うことを止めるという。
何人たりとも抗えぬ絶対の勅命は人間にも有効だ。むしろ先天的に魔力干渉に弱い種である人間には、それこそ神の宣告にも等しく聞こえてしまい、もはや抵抗などという言葉はそれを聞く前に頭から霧散していることだろう。命令を受ければ足だろうがアナルだろうが舐め回すし、自害することも厭わなくなる。まあ、魔物娘が自死を命じるなど万に一つも無いだろうが。
「さあ、『洗え』。それとも、余の言葉が聞けんのか?」
立て続けに命令の言葉が仮面男に投げかけられる。さっき流し込んだ魔力と反応し、命令は男の獣欲を刺激し、ネフェルキフィの言葉に逆らえなくなる。そうなれば青い男の情欲を引き出しつつ、ネフェルキフィ自身の手練手管で男をよがらせ精を搾るなど訳もない事だ。自分にはそれが出来ると彼女自身が確信していた。
そして遂に……。
「じゃあ、洗いますね。痒いところあったら言ってくださいねー」
命令通り、男はネフェルキフィの肌に触れた。日に焼けた健康的な小麦色の褐色肌……。
その背中に。
「…………んん?」
あれ、おかしい、何か違う。
自分はこれみよがしに胸を見せつけたはず。かつて民草はもちろん、傍で仕える臣下達ですら欲情させた凶悪な果実、どんな男も振り向かせる自慢の胸。それをわざわざ晒し、あからさまに誘いを掛けたというのに……。
「王様、あんまり人に肌を見せびらかすものじゃないですよー。男と女なんですから、もっと分別をつけなきゃ」
「お、おう。そうだな……?」
予想外の肩透かしを食らった事にしばし呆然となり、生まれて初めて奴隷以外の他人に背中を洗ってもらった事実にもしばらく気付けなかった女王だった。
その後、仮面男は何事も無かったように浴場を出て、ネフェルキフィもそれに続く。
みっともなく前屈みになるどころか、まっすぐキビキビと歩く姿と、前を覆う腰布に一分たりとも下品な膨らみが無かった事を確認し、古代の女王は自らの魅力が全く効果がなかった事実を突きつけられ完全敗北したのだった。
「馬鹿なぁぁぁ……!!」
五千年の時を経て復活した古代の女王ネフェルキフィ、復活第一日目にして生前は無縁だった敗北の味を噛み締めるのだった。
来た時と同じくケプリに先導されて部屋に戻る、その背中を恨めしげに見送るしかない、
「だが、まだ機会はある……! 見ておれ!」
吐いた言葉に嘘偽りなし、『常勝のネフェルキフィ』と称えられた古代の女王は次なる策を用意している。
その夜、女王復活を祝い五千年ぶりの豪勢な晩餐会が開かれた。光の無い地下の食堂は持ち込まれた松明で真昼の太陽の下にいるように明るく、地下帝国を代表する重臣たちが勢ぞろいしていた。
「皆、今宵は無礼講である。存分に食い、飲み、そして歌うが良い」
精と魔力を糧に生きる魔物娘にとって食事は決して必須ではない。彼女らにとって経口摂取とはある種の娯楽、こうした祝い事の席にはもってこいの楽しみだ。
だがこの場に揃った全員の視線は、テーブルに所狭しと並べられた豪華な食事ではなく、王にほど近い来賓席に腰掛ける人物に注がれていた。
「紹介しよう、これにあるは余の再臨の儀に際し多大な貢献をしてくれた旅の者だ。この者の義理と恩に報いるため、今宵この晩餐に同席を許した。皆も弁えよ」
「どうも、よろしくお願いしますねー」
(何アレ、かぶと?)
(ちょっと怖い。けど、男よ)
(男……半世紀ぶりの男っ!)
(声だけで七面鳥三羽イケる!!)
豊かな大地が砂漠となって十数世紀、めっきり人が寄り付かなくなって久しくなっていた環境に突如現れた男は、元々好色的な性格の種族が多い砂漠の民にとってまさにオアシスの水以上に魅力的な存在だった。本来なら重臣という肩書きも忘れて、それこそ砂糖に群がるアリの如く男の肉体を貪っていただろう。風変わりな被り物がどうした、こちとら万年男日照りだ文句あるか……という感じだ。
だが上座に坐す王者の目がそれを許さない。男の精に滅多に有りつけないこの地で彼女らが生きてこられたのは、ミイラとなりながらもファラオが持つ膨大な魔力の庇護下にあったからだ。つまり、今更言葉で命じられるまでもなくここに居る全員はファラオの支配を受けているのだ。その視線、その吐息、その仕草、全ての所作に込められた真意を思い知らされ、そして隷属を余儀なくされる。ファラオの下ではどんな淫乱な魔物も規律正しい軍人のように振る舞わざるを得ないのだ。
「では、新たなるホルアクティ朝の幕開けと、その前途を祝して……乾杯!」
「「「「女王陛下、万歳!!!」」」」
金で出来た盃を一斉に掲げ偉大なる女王を讃える。そしてそれらを傾け口元に近付ける。
だが誰も飲まない。ここに居る全員が実はアルコール嫌いとかそんなのではない。実際は飲むフリだけして、視線は酒ではなく上座近くの一人に注がれていた。
「ワインですか。いただきまーす」
そう、鉄甲冑で隠された顔、きっと誰もが気になりつつ聞かなかった一番の謎。口元も覆うようになっているそれを、恐らく飲食の際には外すはず。その瞬間を見逃すまいと全員の視線が男の顔面に突き刺さり、すぐ隣の女王ですら血眼になりながらその瞬間を待ち侘びていた。
そんな気も知らないで、男は陽気に甲冑に手を掛ける。顎と首の間、ちょうど兜の縁に当たる部分に指を掛け……。
(脱ぐぞ……脱ぐぞ、脱げ!)
指先にぐいっと力が入り────、
口元の部分だけがスライドした。
「あ、美味しいですねー」
(((そ、そうきたかぁ〜〜〜っっっ)))
ずっこけそうになる衝動を必死に抑えながら全員が一気に盃を呷る。そして噴き出してしまわない内に胃の腑に流し込んだ。
僅かに見える口元から分かるのは、男がそこそこ若いということぐらい。それすら声音や喋り方からとっくに推察できていたこと。ここまでくると相手も分かっててやっているのではと邪推したくなる。
「…………ム」
(あわわ〜、王様顔が引き攣ってるよ!? めちゃくちゃコワいよぉ……!)
(誰かー! 誰か何か適当に話題振って王様の気を逸らしてぇぇー!!)
(この非常時にメティト様はどこに行ったんですかー!!!)
復活早々、かなり不機嫌になってしまったネフェルキフィの顔を誰もまともに見ることが出来ず、どうか雷が落ちませんようにと祈りながらの気まずい晩餐会となるのだった。
「王様、これは何ていう料理ですかー?」
「ああ……それはケバブと言ってな、羊の肉を使った……」
そんな周囲のやきもきも知らず子供のように無邪気な笑みを浮かべる仮面男。だが外から見えるのはケバブのソースで汚れた口元だけで、風呂場に引き続く肩透かしにネフェルキフィは怒りよりやるせなさを感じていた。
だがそこは王たるネフェルキフィ、彼女の策は二段構えになっている。
「客人、盃が乾いておる。今宵は宴、思う存分に飲むが良い。誰か酒を注げ」
使用人のケプリが進み出て盃に波波と酒を注ぐ。麦を使ったエールではなく、オアシスで僅かに栽培するブドウを絞って作った果実酒だ。
「いただきますー」
注がれた端からすかさず飲み干す仮面男。
最初に飲んだ物より、ほんの少しだけ赤みが増しているとも知らずに……。
(……勝った)
ついに盤面の行く末を確信したネフェルキフィは、それまで居所の悪かった腹の虫も水に流し、早くも勝利の美酒に変わった盃を飲み尽くすのだった。
宴が終わったのは深夜を通り越し明け方だった。陽の光が届かぬ地下にあって時刻など有って無いようなものだが、それでも生活のリズムに沿っていい加減眠気がピークになる頃だ。続きはまた明日と一旦お開きになり、皆それぞれの寝室に入り込んでいく。
当然、仮面男も自分が介抱してもらった部屋に戻ろうとしたのだが……。
「客人にはもっと心地よい部屋を用意してある。病人が寝泊りする見窄らしい所ではなく、きっと気に入ってくれるだろう」
そう言って男を連れて、女王は地下迷宮の奥へ奥へと移動する。人二人が並んで通れるぐらいの狭い通路は、奥へ行くごとに徐々に広くなり、地層を削って作られた壁には壁画や彫刻が目立つようになってきた。
「ここに描かれた絵画や彫像は皆、余を模した物だ。残念ながら余の美しさを十全に表すことは出来なんだが、世に出回れば金貨数千でも間に合わぬだけの価値がある」
「これって、ひとつの岩から出来てるんですよね? 誰が彫ったんだろう」
「石像がそこまで珍しいか。だが、その内見飽きるようになろう」
「へ?」
「着いた。さあ、客人……入られよ」
それまで何もかもが石造りの地下において、初めて見る木の扉。香り立つ木材は杉の木を切り出して作られた一枚板で、取っ手や装飾には金銀宝石がふんだんに埋め込まれていた。もしここがダンジョンで扉の奥が宝物庫だったとしても、きっとこの扉だけ剥ぎ取っただけでも一生遊んで暮らせる金になるだろうと容易に想像できた。
その豪華な扉を自ら開け、内部に男を誘う。室内に足を踏み入れて男が感じたのは、鼻腔をくすぐる甘ったるい香の匂いだった。
「フフ、気に入ってくれたか。わざわざホコリを被っていたのを蔵の奥から引っ張り出した甲斐があるというもの。さあ、もっと奥に」
誘われるまま部屋の奥へ行くと、蝋燭の明かりに照らされて部屋の全容が明らかになる。
「うわ……!?」
思わず感嘆の声を漏らすのも無理はない。
部屋は光り輝いていた。壁四方、床天井、六面全てが蝋燭の僅かな光を受けて眩いばかりに輝く。その正体は黄金。もはや装飾ではなく部屋そのものに黄金を素材として用いるという大胆な発想と、それを可能にする権力と財力。地上の太陽たる王が用意させた寝所は、その偉大さを証明するかのように煌びやかに豪華絢爛を極めたものだった。
「驚いたか。薄く引き伸ばすという吝嗇な使い方ではない、六面全てがたっぷり指三本分の厚さはある。少し削っても良いぞ」
「い、いえ、いいですぅっ!!? てて、ていうか、自分がこんなすンごく豪華な部屋で寝泊りなんて、させてもらっていいんですかぁ!?」
「なに、構いはせん。元よりここは……余の寝室ぞ」
「…………え?」
部屋に鎮座するのは、どう見ても一人で占拠するには巨大な寝床。天蓋から垂らされたシルクの幕は斜陽の砂漠を思わせる赤に染められ、水鳥の羽毛が詰め込まれたベッドは身を投げ出せば沈むような柔らかさを持っていた。
宅の上に蝋燭を置き、ネフェルキフィが腰掛ける。太ももを惜しげもなく晒した状態で足を組む姿の、何とも扇情的で艶かしいことか。
「さ、何を呆けている。汝れもこちらに来て休め」
「ひぇふぃっ、は、はひぃ!」
緊張のあまり喉に引っ込みが絡んだような素っ頓狂な声を上げ、油の切れたゼンマイ人形のようにぎこちなく仮面男がベッドの端に座る。やはり金で作られた四隅の装飾に目配せするが、その視線がどこか所在なさげなのを女王は見抜き、その隙を突く。
「どうした、慣れない場所では眠れぬか」
「あ、あの、自分やっぱり他の場所で寝たほうが……」
「砂漠の夜は冷える。余とて物言わぬ抱き枕より、人肌を恋しく思う時があるのだ」
「だからって、こんな……その……自分と王様はそんな関係じゃ……」
「ん? どうした、声が小さくて聞こえんぞ。今……何と言った?」
蠱惑的に問いかけながら、ネフェルキフィの手が仮面男の手を握る。包んだ指からその体が緊張で硬直するのを感じ、小さくほくそ笑んだ。
「難しく考える事はない。欲するまま、赴くままに、貪り喰らえば良いのだ……肉も、酒も、女も」
固い指を解きほぐし、ゆっくり自分の指を絡ませる。滲んだ汗が染みる感触を確かめながら、女王の熱を帯びた体が仮面男に迫り、寄せ合う肩は互いの吐息を聞き取れるほどになっていた。
「じ、自分は……」
「これ、目を背けるでない」
「あうっ」
冷たい鉄兜を強引に掴み引き寄せ、その表面ちょうど頬の辺りを優しく撫でる。まるで恋人にそうするような慈愛と情欲に満ちた瞳、それを真正面から受けて男は身じろぎする事も出来なくなる。まさしく蛇に睨まれたカエル、体はもう緊張と僅かな興奮でガチガチに固まっていた。
「フフ……今日、余が復活するという日に汝れが現れたのは、偉大なるアサル神が定めし運命、これが本当の“冥土の土産”よな」
「お、王様?」
「さあ、客人。ファラオたる余が命じる。余を『喰らい』、『貪り』、そして『味わい尽くせ』。運命の導きを受け入れよ」
抱きついた状態から一転、ベッドに仰向けになって『命令』する。晩餐の酒に仕込んだ媚薬、デザートにさりげなく混ぜ込んだ虜の果実、そして今この部屋で焚かれている香、全てが男女の欲望を刺激し加速させる効能を持っていた。一つ一つは微々たるものでも、積み重ねたそれらの効果は推して知るべし。意志と関係なく血流は局部に集中し、遂にはその意識すらある一定方向にしか機能しなくなる。
「さあ……さあ」
胸の膨らみを揺らし、腰を悩ましく捻る。体勢は誘っているのに、その視線はどこか挑戦的で、オスが本来持つ支配欲を最大限に引き出させる機能に特化し、地上の太陽たる女王の玉体を屈服させる権利を与えんと言葉以上に雄弁に語っていた。玉座という高き位に座す者を、組み敷き、覆い被さり、獣欲で汚す……想像しただけで猛り狂う本能を抑えられそうにない。
もはやこの魅力に逆らえる道理はない。女王は今度こそ勝利を確信し、その目を細め────、
「ダメですよ、王様」
優しく諭され、その肩に毛布を掛けられた。そのむき出しになった肩はもちろん、さらりと流れる黒髪の一本にも触れようとはしなかった。
「…………何故だ」
「何がです?」
「地上の快楽を欲しいままにし、五体に美を極めた余が、この身を『くれてやる』と言っているのだぞ。貴様、よもやその風体で色を知らぬとは言うまいな!」
香り立つ青臭い匂いは男が未だ純潔である証。だからと言って色事を知らぬほど初心ではないはず。青い情動を持て余し、今が一番の盛りのはず。
「もし、もし王様が助けてもらった恩を返したいと仰るなら、それはもうお礼の言葉だけで充分です。自分はたまたま通りがかっただけで、運命とか巡り合わせとか……そんな上等なものじゃあ、ないんです」
「無論、感謝もある。余を冥府からすくい上げるには、冥界の神に生贄として愛すべき帝国臣民を捧げねばならなかった。汝れが今日ここに現れなければ、晩餐会の出席者は半分以下になっていただろう。重ねて言う、感謝する」
「なら、それだけでいいじゃないですか」
「良くはない! 財も、力も、快楽も、余は欲するモノ全てを手に入れてきた。分かるか? 余は汝れが欲しいのだ。その体に流れる高貴な血も、無骨な仮面の下に隠した素顔も、そして何よりその本心を、全て余の色に染め上げたい。余と汝れは星の導きが巡り合わせた運命の……」
「やめてくださいよ、そんなこと!!」
「っ!?」
怒らせたかと一瞬だけ身構える。だがそれは杞憂と分かった。男は怒ってなどおらず、俯いた甲冑はどこか覇気がなく悲しげに見えた。顔が見えなくても、その沈んだ肩を見れば分かる。
「何をそんなムキになる。余が嫌いだったなら謝ろう、許してほしい」
「……どうして、どうしてこんな美しく優しい人を嫌いになれるんです? 自分は王様を嫌ってなんかいません。太陽のように優しくて、綺麗で、強い人……それが王様です」
「う、むぅ」
男の言葉に嘘はない、抱いた好意を無駄に詩的に飾らず素直に口にしているに過ぎない。男の好意にネフェルキフィは自分の“オンナ”が疼くのを堪えるのに必死だった。
「でも、だからこそダメなんです……。自分と王様は、同じ世界にいちゃいけないんです」
「だから、どうしてそこまで卑屈になる? 汝れが決して脱ごうとしない仮面……それと関わりがあるのか?」
「関係なんて、大ありに決まっているじゃないですか。オシャレだと思いました?」
冗談めかして口にする言葉には、やはり元気がない。その儚げな振る舞いは、風呂場で裸体に驚き、晩餐会で無邪気に食事を楽しんでいた者と同一人物とは到底思えなかった。何もかも飽いて、諦めて、遠くから見つめる第三者の視点で語るその口ぶりは、どこまでも空虚な伽藍洞を思わせる。
仮面の奥からクツクツと笑いを零し、そして男はこう言った。
「自分はね、王様……腐ってるんですよ。肥溜めの糞と側溝の泥を混ぜてカビを生やして、湧いたウジが食べてひり出した排泄物、それをドロドロに煮込んでヒトの形に仕上げたのが……自分です」
自虐的に、自嘲的に、そして諧謔的に己をこの世で最も汚らわしいと自負し、またそうであると確かな意志の下に断言する。その声音には芝居掛かった脚色や度を越した悲観も無く、ありのままの己を語って聞かせる以上の意味を決して持ち得ない。
この時、ネフェルキフィは得心した。
この男は謙遜しているのでも卑屈になっているのでもない……正真正銘、自分は唾棄され足蹴にされ踏みつけられるものと、微塵の疑いも無く信じているのだと。
「この皮も、肉も、骨も……目も鼻も耳も口も歯も爪も指も髪も手も足も脳も心臓も腸も他の内臓も……みんなみんな、自分の体は腐ったモノで溢れてるんです。自分と比べれば、道端にこびり付いた家畜の糞尿だって妙薬になります。穢らわしい自分は誰にも関わらず、交わらず、触れ合わず、ただ静かに消えていく……それが一番良いんです」
「何故だ、何故そこまで自分を貶めることが出来る? 汝れは人間だ、ヒトだ! 腐ってなどいない、穢れてなどいない」
「王様……。太陽だった王様には、光り輝く王様には分からないかも知れないけど、世の中には糞を食べるウジ虫がひり出す糞にも劣る存在がいるんです。存在することが、生まれてきたことがそもそもの間違い、あっちゃならない事……自分はそんなヤツなんです」
「だから、何を根拠に……」
「だから……ごめんね、王様。自分の穢れた、ヘドロ以下の血……そんなものをお出しして、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、王様ごめんなさい…………王様の血を汚して、ごめんなさい」
伽藍洞が反響するように延々と同じセリフを、何の情感も篭らない抑揚のない空虚な言葉で紡ぐ。悲観でも煽りでもなく、ただただ「申し訳ないと思っているから」口にしているだけ。そうする事しかできないと理解しているから、男はそれ以上の事は何もしようとしない。
してはいけない、やってはならない、何故なら自分は……塵で、屑で、滓を寄せ集めたに過ぎない、無価値の汚物なのだから。
無価値の汚物は最後にこう呟いた。
「こんなところ……来ちゃいけなかったんだ」
名も無き仮面男の望みは唯一つ、何もせず何も為さず静かに朽ちて消え果てること。無価値なモノは無価値なまま風化して消える……それが誰も煩わせない唯一最良の生き方と知る故に。
「……もう良い。今宵は静かに『眠れ』」
放っておくと永遠に内罰的なままだと危惧したファラオが、初めてそれまでとは違う命令を下した。その瞬間、男の体がガクンと揺れてから眠りの底に落ちた。それまでこちらの命令を尽く拒み続けた者と同一人物とは思えない有様だった。
眠った男をベッドの中程に横たわせる。無骨な被り物では寝にくいだろうとフカフカの枕を敷き、その上に毛布を何十にも重ねる。すうすうと穏やかな鼻息を立てて眠る姿を見守る、古代の女王にできるのは今はそれだけだった。
結局、一度も鉄兜を外さないままだった。
「王よ、申し上げます……」
「メティトか」
男が眠ってすぐ、それを待っていたようにメティトが部屋に姿を見せる。去った時と同じように暗闇から滲み出るように現れ、ネフェルキフィの前に跪く。
「昨日の今日でもうか、早いな。報告を聞こう」
「はっ。ではまず、この男がどこから来たかについてですが、その前に……王は現在の大陸情勢についてどの程度ご存知でしょうか?」
「我が帝国は既に滅び、帝都があった場所は砂漠に、他はそれぞれ別の国々が興亡を繰り返した。余の死後に魔王が何代か代替わりしたともな。後は、その第四皇女が人間界にいるとも」
いずれ現世に還る事が確定していたネフェルキフィは、冥府を流れる大河より現世の様子を観察していた。なので大陸の歴史は大まかではあるが事前に知り得ている。
「この砂漠の東には現在二つの国家が隣接しております。一つは七代続く王家が統治するアルカーヌム連合王国。そしてもう一つは、千年以上の歴史を有するレスカティエ教国。砂漠の大部分は王国の国境と隣接しておりますが、僅かに一部だけ教国とも繋がっております」
「さしずめ、この者はその教国とやらから来たということか」
「ご明察です。領内の魔物娘らの目撃情報を繋ぎ合わせ、男が教国から我が領内に侵入した事実を突き止めました。肝心の男の正体までは掴めませんでしたが……」
「良い。こんな被り物を着けて昼の砂漠を……。これは余の推測になるが、こやつは教国で何ぞ罪を犯し流罪にされたのだろう」
だが恐らくは無実だという確信がネフェルキフィにはあった。何故ならこの男は覇気がない。己が愚であり汚濁であることを全面的に肯定する言動、そんな者に悪事を働くだけの気迫があるとは到底思えない。それも流罪という重刑を課せられるほどの大罪を犯したなど、さきほどの姿を見た女王には信じられない話であった。
「その主神教徒の国なのですが、潜り込ませていた子飼いの者から妙な噂を聞きました」
「妙な?」
「醜聞や風説の類ではありますが、聞くところによると……牢獄の鉄仮面なる怪人の噂でございます」
「鉄仮面……」
「その者は古くより獄に住まい、夜な夜な囚人や看守を襲ってはその肉を貪り、確かにそれが存在するのに誰も顔を見た者はいない。何故なら、そいつの顔は甲冑で覆い隠され、国王ですらその正体を知らぬ……。というものです」
「何とも……眉唾な話だな」
「そしてこの話には続きがあり、鉄仮面は獄中で不審な死を遂げたと。その亡骸は……教国の西に広がる砂漠に葬ったと」
「ますます、出来すぎているな」
どこにでも発生する都市伝説、ある種のお約束。それがたまたま教国にもあったというだけのこと。だがこれらが果たして偶然だと、何の繋がりもないと言い切れるのだろうか。まるで気付いてくれと言わんばかりに関連する臭いがプンプンするではないか。
だが相手が千年の歴史を持つ国ともなれば当然ガードも固い。ここは一旦その方面から離れ、別口で切り込んでいくしかないだろう。
「ご苦労だった。引き続き調査を続行するのだ」
「はっ! 失礼します」
闇に溶けるメティト。部屋は再びネフェルキフィと、その傍らで眠る仮面男改め、鉄仮面の二人だけとなった。
その頬にあたる部分をそっと撫でる。返ってくるのは柔らかく温かい一肌の感触ではなく、やはり硬く冷たい鉄の触り心地でしかない。冷たい鋼の仮面に隠した哀愁を手に覚えながら、ネフェルキフィは問い掛ける。
「汝れは何者だ。汝れは……誰なのだ」
女王の問いに対する返答は、安らかな寝息だけだった。
大陸の西方には広大な砂漠が広がる。一切が砂に覆われた不毛の地、サボテンと小さな虫以外に生命の痕跡は無く、昼は降り注ぐ熱線が地中の水分さえも大気に還元させ、夜には透き通る空に昼間の熱は全て逃げて極寒の地獄に早変わりする。昼と夜で二重の顔を持つ、ここは地上で最も移り変わりの激しい場所。
吹き荒ぶ風が砂嵐を巻き上げて砂丘を形成する。幻想的な砂の波は幾百もの年月をかけてゆっくりと大地を舐めるように移動し、その軌跡の何もかもを飲み込んで行く。悠久を生きる神々だけが、この地に砂が満ちる以前の姿を知っている。
かつて、ここには国があった。今でこそ見渡す限りの砂の海だが、かつてはこの砂で覆われた一帯を領土として支配していた大帝国が存在し、その頃はこの砂の海は緑に覆われた豊かで肥沃な大地だったと言う。花が咲き鳥が歌い、大河川がもたらす恵みがこの地一帯を地上の楽園に変えていたという。
既に国が滅びて五千年。かつての文明は皆砂に埋もれて消え去り、今やその隆盛を知る者は誰一人として残されていない。王の墓も史跡も無く、今やここは死の大地と化して久しい時間が流れていた。草木は枯れ鳥は何処へと去り、国土を縦断するように流れていた川がその姿を消した事はもう随分昔のことである。
文明の墓場となったこの場所はその過酷な環境とは裏腹に、周辺情勢に左右されない国際的に安定した場所だった。当然だ、一面砂しかない不毛の大地、作物は育たず水は枯れてしまうこんな大地を欲しがる国は存在しない。むしろどうやって相手に押し付けようかと考えている勢力もある。
各地が未だ領土争いや利権の拡大を狙う中で、この砂漠だけはそんな俗世の争いからは隔離された天然自然の雄大さを物語っていた。人間の手から離れたが故に、数千年に渡り形成してきた美しさが輝く大地……死と絶滅の砂の海、全ての文明が行き着く最終地点がこの光景だ。
その砂の海を往く影がひとつ。ここを通りなれた隊商ですら絶対に通行しない昼日中、天上の太陽が殺人的な猛威を振るう時間帯にそれもラクダにも乗らず徒歩で、砂の海に一対の足跡を延々と刻みながら移動する者がいた。
「ふぅ……ふぅ……!」
荷物はない。昼の砂漠を越えるというのに食料どころか水筒も見当たらず、その身一つに砂除けのマントを羽織っただけ、明らかに旅人と言うよりは世捨て人か自殺志願者のどちらかだ。装備はともかく水を持っていない所を見るに後者の可能性が高い。
本来、昼夜の寒暖差が激しい砂漠の横断は明け方と夕暮れ時が相応しい。ラクダに乗っていれば話は別だが、そうでなければそれ以外の時間帯は停泊することが望ましいとされる。
それ以外の時間帯に動けば、即ち死を意味する。
「はぁ、はぁ、はぁ!!」
旅人の呼吸が荒く、間隔も短くなる。吸い込む外気は体温より熱く、蒸した衣類を顔に押し付けられているような錯覚を覚える。酸素を求めて肋骨と横隔膜が忙しなく動くが、今や呼吸だけでは削られた体力を回復することは出来ないまでになっていた。
だが旅人はその足でも行進を止めず、流砂を避け、ラクダの骨を跨ぎ、どこまで続いているとも知れない砂の世界を何の目的で踏破しようと、その足は軌跡を刻み続けた。
そして一際大きな砂丘を乗り越えた時……。
「────……──」
旅人は熱砂に伏した。
突風が巻き起こり、舞い上がった砂が旅人の体を隠していく。
足を、手を、肩を、太ももを、腰を、砂は容赦なく覆い隠し、男を数千年の歴史の一部に取り込もうとする。肉は腐る間もなく乾上がり、身に着ける衣服も朽ちて消え果て、後にはカラカラになった骨だけが晒されることになるだろう。
旅人の歴史はここで幕を降ろす。
と、この光景を見れば誰もが思うだろう。
「…………」
それまで旅人以外に誰もいなかった砂の大地に、どこから現れたのか別の影。それが早くも半身が埋もれかけていた旅人を掘り出し、軽々と肩に担いだ。
そして現れた時と同じように、どこへともなく去って行く。
「やっと見つけた。これで帝国は……」
砂塵が吹き流れた後、二つの影は砂漠のどこにも見当たらなかった。
その帝国はかつて肥沃な土地だった砂漠一帯と、その彼方東方に広がる山脈、海峡を挟んだ南の島々、そして極寒の凍土に覆われた北の大地をも征服し、大陸史上最大とも言える支配領域を誇っていた。強大な軍事力に物を言わせて各地を瞬く間に征服し、国土は一年で二倍、五年で十倍、全盛期には大陸の地図をほぼ一色に染め上げる勢いで領土を拡大し、その支配力は昔日のレスカティエを上回る程であった。
一代で巨大な帝国を築き上げた王を誰もが讃え、その御名を神の如く崇拝し、全ての臣下はその足元に傅き、民草は例外なくその威光にひれ伏したと言われていた。
しかし、大帝国は一代限りで潰えてしまった。
何故か?
要因の一つとして、王に後継者がいなかった事がある。領土拡大、征服と支配の繰り返しに明け暮れた王は自らの血に固執しなかった。だがそれを支える臣下にとって王の血統は絶対、何としても王には次代を担う後継者を立ててもらう必要があった。
だが二つ目の要因として、王自身があまりにも優秀すぎた事がある。王の亡き後、果たしてそれに代わる逸材が現れるのだろうか。絶対の指導者を失うことを危惧した者たちは、王の血統ではなく王そのものを存続させる道を取った。
古来よりこの地帯で信仰されてきた死後の世界、冥界の裁定を経て死者が復活するという宗教観、それらを下地に創り出された秘術により王は死を乗り越える術を獲得する事になる。魂は一度肉体を離れるがそれは決して死ではなく、特殊な処理を施され永久に朽ちない肉体を創造、冥界で俗世の穢れを落とした魂をそこに迎えることで王を地上の太陽として再臨させる手筈だった。
腐りやすい内臓と脳髄を抜き取り、防食液に浸すこと数十日、体の内側に王家に伝わる刻印を刻みつけ星辰から魔力を受け入れる術式を埋め込み、最後に遺骸を保護する帯を何十にも巻きつけ棺に収めた。数年か数十年か、いつか王の魂が還るその日まで玉体を護ることを臣下は誓った。
だが、その誓いは十年と持たなかった。
指導者を欠いた国家の行く末を複数の臣下が舵を取ろうとした結果、船頭多くしての故事の通りに国は迷走を始めた。時が経ち代を下るごとに迷走は亀裂に変わり、玉体復活の野望など忘却の彼方に追いやられ、半世紀後には帝国の名は地図から完全に消え失せてしまった。
こうして古代の大帝国は歴史の中に姿を消し、その残骸も風化して砂と一体化した。街も、庭園も、見上げる宮殿も、湖でさえ、何もかもが砂に埋もれてバラバラになってしまった。
唯一つ、王の霊廟を除いては。
「王よ、偉大なるや全知全能の王よ。今一度、この現世に再臨したまえ」
砂に埋もれ、固い岩盤を通り越した遥か地中深く、岩石を幾重にも積み上げて作られたその空間で怪しげな儀式を執り行う女が一人。暗闇を蝋燭の明かりだけで照らすその眼前には、数千年の時を経てなお劣化せず内部に封じられた存在をずっと守護し続けていた。
石棺、本来なら死者を奉じておくそれが、今は蓋をこじ開けられ中の遺骸を晒していた。幾重にも巻かれていた包帯は破り捨てられ、中の干からびたミイラはその醜い体を外気に晒していた。
遺体の腹部には縦に切れ込みがあり、かつて外科的処置で内臓を抜き取った痕だと分かる。黒衣を纏った女は懐からガラス管を出すと、その中身を遺骸に垂らした。
「目覚めたまえ、大いなるアサルの御許より蘇りたまえ」
骨と皮だけになった屍の上を撥ねる液体は、抜き取ったばかりの血液。テラテラと蝋燭の光を浴びて輝くそれは遺骸の表面を滑り、その腹部の術痕から内部へと流れ込んでいく。
変化はその時に起きた。
「──ォ──ォォ……ォオオオ!」
廟内に女とは別の声が響く。まるで隙間を突風が吹き抜けるような音。それが今まさに石棺に収まるミイラから轟く死者の慟哭とは誰が思い当たるだろう。肺はとっくに失われ残る臓器は心臓だけ、にも関わらずミイラの口からは外気を取り込み吐き出す呼吸行動が行われ、肋骨が露わになった胸元はそれに合わせて上下していた。
体内では失われていた臓器が次々と再生を始めた。最初に肝臓。次に肺。胃と腸が続けざまに復活し、それらはまるで生きている人間の臓器と同じように脈動を始めた。
カラカラに乾いていた心臓も鼓動を始め、儀式で受け取った血を呼び水に湧き出る新鮮な血を、数千年ぶりに自らの体内に行き渡らせる。一回の鼓動で肌の色が、二回で張りが、三回で全身の肉は瑞々しい膨らみを取り戻し、腹部の傷もすっかり癒えて跡も残っていなかった。
筋肉を取り戻した腕が棺の縁を掴んで上体を起こした瞬間、全身を隠していた包帯がはらはらと解け復活を果たした者の姿が露わになる。
「おお! 偉大なる我らがファラオ!! ネフェルキフィ王、光輝なる御名! その威光を讃えさせたまえ!!」
黒衣を脱ぎ女の頭部が、キツネにも似た人外の耳が晒される。墓守たるアヌビスの儀式により古の王は冥府より蘇り、永き眠りからここに再臨を果たした。
讃えよ、その名……ネフェルキフィ。
「余が眠りに就き、どれほどの歳月が経った?」
全身を覆う包帯を取り除きながら古代の女王が問いかける。石棺に腰掛けて問う、ただそれだけの取るに足らない行為に周囲を圧倒するプレッシャーが大気を揺らす。生まれついての絶対王者……力、頭脳、カリスマ……あらゆる支配者としての格が、この古代の王に比する者がいないことを如実に語っていた。
夕暮れの砂漠を思わせる健康的な褐色の肌、かつてこの地を流れた河川をすくい上げたような艶やかな黒髪、程よく引き締まりながら柔らかさを保った肢体、そして甜瓜を想起させるぐらい大きくたわわに実った二つの膨らみ……。それはまさに古代の彫刻に描かれる美女像が生命を吹き込まれた姿か、あるいは愛欲の神エロスの化身そのものか。身を包む物を邪魔と切り捨て、隠すどころかむしろ崇めよと言わんばかりに明けっ広げな有り様。見た目は痴態を晒しているだけなのに気品すら感じるのは、流石は王者の風格というべきか。
「星が太陽を巡ること五千。王がお眠りの間にそれだけの時間が経ちました」
「五千年か……長いな。余も冥府の川より知り得たのは、かつて余が築いた国は亡くこの一帯は死の大地に成り果てたことぐらいだ。嘆かわしいことよ」
「心中お察し申し上げます。我らの祖先が王との盟約を反故にし、大義なき蛮行を繰り返したばかりに……」
「良い。時の流れと民の心は移ろうものよ。傍らで汝れのように古き盟約を果たす忠臣も残っていることを思えば、五千年の寂寞も少しは和らぐというものよ」
「身に余るお言葉」
「うむ。して、汝れの名は?」
「はっ! 偉大なるファラオの墓守、アヌビスのメティト!! 代々霊廟を守護するお役目を授かり、今生においては御身第一の臣下として粉骨砕身する所存!!」
「メティトか、佳き名だ。『正義』の名に違わぬ働きを期待しよう。では第一の臣、メティトに命ず。余の装飾をこれへ」
「はっ!!」
王の命令を受けて臣下はすぐさまその身を包む装飾品を差し出す。衣服は僅かに腰布と胸元を隠す物のみ、後は王者としての威光を効率よく発信する黄金の細工を纏って完了だ。古来より続く気候にあった服飾か、あるいは宗教的な理由か、どちらにせよ金銀を身に付けたことでより神々しさが増したことは事実だ。
「杖を」
「ここに」
先端が傘の柄のように曲がった同じく金で作られたヘカ杖を持つ。失われた帝国においては王冠以上に支配者のシンボルとして重要な意味を持つ杖だ。
「まずは王の再臨を心待ちにしていた臣民らにご尊顔を……」
「その前に弔いが必要だ。冥府にあった余の魂を現世に引き戻す再臨の儀……さぞ多くの生き血を呼び水として使ったことだろう。復活の礎となった者達への弔いが先だ」
「いえ、その事なのですが……王が弔問されるべき相手は居りませぬ」
「余への気遣いは無用。この五体に溢れる魔力、数十数百では利かぬ数を生贄に捧げたはずだ」
「いえ、本当に王の再臨にはこの小瓶の血、それも半分に満たない量を使用したのみ。王が愛する帝国臣民の血は一滴たりとも流れてはおりませぬ」
「……まことか?」
「誓って」
「なるほど……いや、しかし……」
超然とした振る舞いを崩さなかったファラオがここで初めて動揺にも似た戸惑いを見せた。生と死は一方通行、いかに常識破りな外法と言えど死者蘇生には尋常ではない代償を伴う。この場合は『王が支配する臣民』あるいは『王に比する高貴な者の血』が必要だった。
「お会いになりますか? 血の提供者は別室にてお寛ぎの最中かと」
「うむ。余の復活に貢献してくれた者、無礼のないよう持て成さねばネフェルキフィの名折れになろう。案内せい」
霊廟の壁が重苦しい音を立てて石の引き戸を開く。地下道の壁に掛けられた蝋燭が独りでに灯り、地下迷宮の行く道を照らす。道の両端にはそれまで待機していたのか、砂漠地帯にのみ生息するビートル属の魔物娘・ケプリがずらりと列を成して跪いていた。彼女らもまた王の復活を心から喜ぶ地下帝国の臣民たちである。
「コップ一杯にも満たぬ血で余を復活させるとは、その者はよほど高貴な血筋と見た。余と同じ神代の血統を引く者か。よもやこのネフェルキフィの復活を他国が、それも五千年も経った今になって寿いでくれるとは」
「はぁ……」
「歯切れが悪いな。何が不服か」
「いえ……ご覧になればお分かりいただけるかと」
どうにも要領を得ない配下の物言いに釈然としないものを感じながらも、およそ五千年ぶりに感じる足の感触を踏みしめながらネフェルキフィは自分の恩人の元へと馳せ参じるのであった。
この砂漠では早くから魔物娘たちがファラオの復活を感じ取り、元々王に仕えるアヌビスやスフィンクス、周辺からケプリやサンドウォーム、死者を弔う墓地からはマミーやスケルトン、グールなどが続々と集結し、百年ほど前から水面下で密かに魔界国家としての基礎を形作っていた。
墓守のメティトが暫定的なリーダーとなり指導を進め、元々遺体を安置する霊廟だけだった地下墓所は次第に拡張され、今や砂漠地帯の地下大半を占領する大墳墓迷宮となった。いずれ復活するファラオの権能が行き届くようにと、大墳墓全体には然る高名な魔道師が協力し迷宮全体が魔術的な意味合いを帯びるよう建造されている。
その中には賓客を持て成す部屋もいくつかあり、その内の一つに件の聖血の提供者が通されていた。
いたのだが……。
「…………」
「…………」
「…………」
「……メティト、これは何のジョークだ」
通された面会の場で、目の前の客人に聞こえない小さな声で耳打ちする。恐らく相手には聞こえていないだろう。いや、「だろう」と推測するのには理由がある。
「まことに不本意ながら、これはジョークではありません」
「そうか。いや、だがこれは……」
「……あのー、何か?」
部屋を訪れるなり何も切り出さない二人に客人も思うところがあるのか、向こうからモーションを掛けてきた。言葉自体はただの問いかけだが、二人には客人が怒っているのか不機嫌なのか、それとも上機嫌なのかも分からなかった。
「ご客人、こちらにおわす御方はホルアクティ朝の絶対なる指導者にして永世帝王、ネフェルキフィ王にあらせられる」
「へー、王様! これは、どうもどうも」
「うむ、苦しうない」
「そして王よ、こちらが再臨の儀を執り行う上でご協力いただいた……ご協力いただいた、えー……」
「どうした、先を言わんか」
「それが、その……」
「あ、気にしないでください。自分、名前ありませんから」
「名前が無い?」
「はい! よく不便って言われますけど、やっぱり名前ってあった方が良いですか? いいですよね?」
「うむ……無いよりは、そうだな」
何かを隠し立てて嘘偽っている、という雰囲気はない。冥界の裁定を経て神気を得たファラオの心眼は眼前の男の真理を見抜いていた。
だからこそ、解せないことがある。
「王よ、この客人は神聖なる帝国領内で行き倒れている所を、この私がお救い申し上げた次第でございます」
「領内……それは地上の砂漠のことか?」
「はっ」
「昼の砂漠を共もつけずにか?」
「左様です」
「…………この姿でか」
「ええ、その通りです」
男は防塵マントを羽織っている以外に特別な装備は無く、一見すればとても砂漠越えをする者には見えなかった。
だがそれよりも、さっきから二人の視線を釘付けにして止まないのは男の顔だ。
別に男の顔が二目と見られないほど醜怪だとか、逆にネフェルキフィを凌ぐ美貌の持ち主だとかではない。いやむしろそれ以前の問題だった。
「危ないところを助けてもらったみたいで、本当に感謝の言葉もありません」
そう言って男が頭を下げる。
その頭部は甲冑で覆い隠されていた。
蝋燭の光を受けてキラキラと光り輝く鉄兜は男の頭を隙間なく隠し、目元に僅かなスリットがあるのみで後は鋲留めまでする徹底ぶりで顔を隠していた。口元も完全に見えないので、喋ると声がくぐもって聞こえてくる。
これは確かにメティトが言い渋るはずだ。彼女とてこの男をどう言い表せばいいか迷ったに違いない。事実、こうして対面しているネフェルキフィも男が何を考えてこんな風体なのか、てんで見当がつかなかった。
しかしこうして言葉を交わしていると、やはりこの男には高貴なオーラを感じる。彼の血が自分を復活せしめたことも頷ける。
「して、汝れは何処の国の使者か。後刻正式な謝状をしたためる故……」
「国……ですか? 知りません」
「知らぬ?」
「王よ、この者は国の使者ではないようです。祝いの品や文書の類もなく、身一つでこの砂漠を横断されようとしていた模様。それに、同じ質問をしましたが……この者、自分がどこの生まれ育ちなのか知らぬようなのです」
ますます分からない。顔を隠していることもそうだが、たった一人軽装で砂漠にいたことや、自分の出身地を知らぬという怪しい物言い、それに何より地下深くで魔物の巣窟に連れてこられたと言うのにこの落ち着き様……全身から匂う高貴なオーラとはどこまでも合わない、浮世絵離れしたミステリアスな雰囲気に古代の女王も訝しむ心を禁じ得なかった。
だがこの男の協力のおかげで臣民を生贄に捧げずに済んだことも事実だ。であれば、その出自や思惑はともかく持て成すのが務めというもの。その真意がどうあれ、今は瑣末事だ。
「帝国はこれより余の復活を祝う再誕祭を執り行う。行くあてが無ければ心ゆくまで逗留すると良い。メティト、ここに湯はあるか?」
「ございます。地下水脈より汲み上げた水を使った大浴場です」
「その一番風呂を客人に」
「かしこまりました」
「何から何まで、ありがとうございます」
「まずは砂を落とし、旅の疲れを癒すと良い。足りないものがあれば遠慮はいらぬ、いつでも好きなだけ用立てよう」
メティトが手を叩くとそれを合図にケプリたちがぞろぞろと現れ、男を浴場へと連れて行った。
結局、最後まで男が兜を脱ぐ事はなかった。去っていったその背を見送りながら、ファラオは次の命令を与える。
「メティト、彼の者が何処から来たのか調べよ。あの者には何か裏がある」
「刺客でしょうか?」
「いや、余の見たところ腹に一物抱えているようには見えなかった。演技という線も無くはないが、それ以上にあの風貌……いやさ、仮面。あの男自身に裏は無くとも、その背後関係に何かある可能性が高い。頼んだぞ」
「御意」
傅き礼をした後、メティトの体が大墳墓の闇に消える。拝命した命令は迅速かつ確実に……彼女は新たな帝国において最も重要な臣下となることを予見するネフェルキフィだった。
だが今は優秀な部下が報告を持ち帰るまで気長に待つつもりはない。それまでにやるべきことが、この女王にはあるからだ。
「さて……名も無き客人よ、亡国の女帝直々のもてなしを楽しむと良い」
客人が辿った浴場への道をネフェルキフィもまた追うように辿り始めた。
ファラオという魔物は実に特殊な存在である。死を乗り越え復活するという点では他のアンデッド属と共通するが、それだけなら単にマミーと同じだ。現にネフェルキフィに施されていた術は彼女以外の誰かに使用したところで、新たなマミーが誕生するだけでしかない。
マミーとファラオを分ける唯一にして最大の相違点、それは「王の力」を持つか否か。ここで言う王の力とは、ただ王冠を戴き玉座にて執務をこなしたことを意味するのではない。
古来より王とは、地上とそこに生きる民を支配する権限、王権を神より賜った者を指す。王権とは神の威光、即ち王とは間接的に神の力を受け継ぐ者なのだ。そしてこの神の威光が死して魂だけとなった王を、冥府の川の濁流より守ると同時に俗世の穢れを払い、亡国の王者を真なるファラオへと新生させるのだ。
人であり、魔物でもあり、そして神でもある。今やネフェルキフィは老病苦死とは無縁、輪廻より解き放たれた完全なる聖王だ。彼女の力があればこの広大な砂漠もかつてと同じ、いやそれ以上の楽園に変貌するだろう。
だが玉体が復活しただけではまだ足りない。枯れ果てた砂漠を再び生命で満たすには、それこそひとつの国を一瞬で滅ぼしたり創造したりするだけの魔力が必要になる。たとえ王の権能を以てしても一人だけでは力不足なのだ。
ならばどうするか?
「余が最も美しかった時代そのままか。これは好都合よ」
プラスとマイナス、男と女、陰と陽……二つの相反するモノが和合する時、莫大な力が生まれる。曰く錬金、曰くヨーガ、曰く房中術、詰まるところは即ち男女の交合にほかならない。男の精を魔物となったネフェルキフィが受け取り、それを魔力に変換する際に同時に発生する膨大なまでの神気で砂漠に緑を蘇らせるのである。
当初、無事復活を遂げたネフェルキフィの予定は自分と共に国造りを行う者を、つまりは婿を探すことにあった。美醜に注文はつけない、自分と七日七晩交わっても意識を保っていられればそれでいい。でなければこの砂漠に生命を生み出す大業は為せない。
だがそれらは嬉しい誤算により全て前倒しになろうとしていた。
「これならば、客人を萎えさせるようなことはあるまい。我が美貌と肢体にて存分に悦楽に溺れてもらおうぞ」
身に付けていた装飾や布は全て従者に預け、今や女王の姿は石棺より蘇った時と同じ一糸まとわぬ姿を晒していた。後はこの先の浴場で湯浴みをしているであろう男の元へ赴き、その気にさせるだけでいい。この世で最も強き大陸の華と崇められたその美貌、その肌、その胸、全てが男を魅了し悩殺するには充分過ぎる威力を有していた。これを前にすれば盛りを過ぎた老人も、性を知らぬ童も、背徳的な同性愛者も、等しくオスの象徴を奮い立たせずにはいられない。
このまま入ればあの男はさぞ驚くだろう、そう考え今からそのリアクションを予想しながらネフェルキフィは臆さず堂々と浴場へ足を踏み入れた。
「客人、湯加減の程はどうか」
「ええ、沸き加減もちょうど良くて……って、何で入って来てるんですかぁ、王様ぁぁぁーーー!」
男一人が裸の空間に堂々と進入する、これまた裸体の女。しかもその相手が一国の王ともなれば、これを見て動揺しない者などいない。男は思わず湯船から腰を浮かし、天井を支える柱の影までまるで逃げるように後退した。まるであちらの方が乙女のよう、予想以上のリアクションに本来ならネフェルキフィは勝ち誇った笑みを浮かべてもいいはずだった。
「ダメじゃないですかー、男と女が同じ浴場を使っちゃあ! あともう少ししたら出ますから、それまで待っていてくださいよー!」
男の言い分は至極正論だ。
だがその頭には鉄兜が輝いていた。
(馬鹿なっ……! 風呂場なのに、脱がないっ……だと!?)
男の一番の謎、顔を覆い隠す鉄仮面。わざわざ浴場に不意討ちするように赴いたのは、その下に隠された顔を拝む目的が大きかった。これから存分に睦み合う相手、せめてその顔を見ながら愛し合いたいと思うのは魔物娘のサガだ。
だがしかし、女帝の淡い期待を跳ね除けるように、仮面は男の頭に健在だった。
湯気の中で息苦しくないのかとか、この後の食事は如何するとか、色々と話題は尽きなかったが、取り敢えずネフェルキフィの頭からそれらの事は全て消え去っていた。もはや当初の目的を強行する気分でも無くなってしまった。
だが衣類一切を脱いで相見えた手前、やっぱり何でもありませんで帰るのは性に合わない。取り敢えず……。
「……背を流そう。王たる余が直々にな」
「いいんですか? 失礼に当たりません?」
「余がしてやろうと言うのだ、客人に恥はかかせぬ。ほれ、そこへ座られい」
大浴場の中央に設けられた百人は入れそうな湯船、その縁に二人揃って腰掛け、仮面男の白い背中にネフェルキフィが手を伸ばしてゆっくりと背中を洗い始めた。国の支配者が己以外を、それも臣民ですらない旅人の背を流すという奇妙な光景。ネフェルキフィの手つきはとても人の背を洗うのが初めてとは思えないほど丁寧で、それでいて優しいものであった。
「自分、肩が柔らかくないですから大助かりです。王様、背中洗うのお上手ですねー」
「当然だ。下々を労うのも王の務め、背中の一つや二つ清めることなど造作もない。何度も言うようだが、汝れは余の恩人だ。それを挨拶だけで礼を済ませたつもりになるほど、余は薄情ではないつもりだ」
「お礼を言うのは自分の方です。砂漠で行き倒れていたところを、あの……えーっと、メティトさん? に助けてもらって。あの人には感謝しています」
「血を抜かれる時、怖くはなかったか?」
「怖かったですよ。でも指の先をナイフで少しだけ切っただけですし、メティトさんがすぐ止血してくれましたから」
「…………」
「王様?」
「いや、何でもない」
今まさに絶世の美女に背中を流されている最中だというのに、口を開けば別の女の話ばかりでネフェルキフィは面白くなさげだ。自分から話を振ったのだからと理性では分かっているが、同じ女として自分が眼中にも入っていないように思えて僅かに苛立ちを覚える。
確かに仮面男がこの地で最初に出会った女はメティトだろう、それは揺るがない事実だ。だがそこは稀代の女王、既に策は講じてあった。
(こうして手を通じて、こやつの体内に余の魔力を送り込めば……フフフ)
迸る神気と魔力、それらをブレンドした物を体内に流し込む。王の名を冠するファラオともなれば砂漠に生息する種限定で相手を魔物に変えることも出来る。もちろん相手が男なら強制的に発情させることも可能だが、それでは芸がないし、何よりネフェルキフィ自身いつ如何なる場合でも王としてのスタイルを崩したくはなかった。
だから今流し込んでいる魔力は男をその気にさせるものではなく、あくまで男の心をこちらに傾かせる程度のもの。そしてそれだけで充分だ。磁気を帯びた砂鉄が磁石に引き寄せられるように、ファラオの陰気で汚染された人間は容易くその方向に転がり落ちる。
「さて、客人……」
準備は整った。注入した魔力は言わば爆弾、導火線に火が付くのを今か今かと待ち構える火薬だ。後はそこに火をつければ、一気に燃え広がるだけ。
「特別に……そう、特別に余の背を洗うことを許そう。洗いっこ、というものだ」
「ふぇ?」
「いや、背中だけと吝嗇な事は言うまい。汝れが望むのならどこでも良い、言ってみよ。腕か? 肩か? 足か? 腰? 首筋? 太もも? 腹というのもあるぞ?」
「い、い……!」
「ああ、なるほど……汝れが手に触れたいと願うのは、この胸だな。大陸の至宝、ホルアクティの華と謳われた余の双丘を、その腕で揉みしだきたいのだな」
火薬庫の蓋は開けられた、もう導火線に火を灯すなどとお上品にしなくてもいい。
「良い、許す。『洗え』」
手を広げて一言そう言い放つ。誘う仕草とは裏腹に言葉それ自体は命令形、その言の葉には生ある者には決して抗えない魅了の力が働いていた。これぞファラオが有する王の力の一端、魔力を宿した言葉は単に命令する以上の強制力を持って、それを聞いた者を支配下に置き命令を完遂させるのだ。その強制力たるや、甲殻内で夫と愛し合うサンドウォームですらすぐさま睦み合うことを止めるという。
何人たりとも抗えぬ絶対の勅命は人間にも有効だ。むしろ先天的に魔力干渉に弱い種である人間には、それこそ神の宣告にも等しく聞こえてしまい、もはや抵抗などという言葉はそれを聞く前に頭から霧散していることだろう。命令を受ければ足だろうがアナルだろうが舐め回すし、自害することも厭わなくなる。まあ、魔物娘が自死を命じるなど万に一つも無いだろうが。
「さあ、『洗え』。それとも、余の言葉が聞けんのか?」
立て続けに命令の言葉が仮面男に投げかけられる。さっき流し込んだ魔力と反応し、命令は男の獣欲を刺激し、ネフェルキフィの言葉に逆らえなくなる。そうなれば青い男の情欲を引き出しつつ、ネフェルキフィ自身の手練手管で男をよがらせ精を搾るなど訳もない事だ。自分にはそれが出来ると彼女自身が確信していた。
そして遂に……。
「じゃあ、洗いますね。痒いところあったら言ってくださいねー」
命令通り、男はネフェルキフィの肌に触れた。日に焼けた健康的な小麦色の褐色肌……。
その背中に。
「…………んん?」
あれ、おかしい、何か違う。
自分はこれみよがしに胸を見せつけたはず。かつて民草はもちろん、傍で仕える臣下達ですら欲情させた凶悪な果実、どんな男も振り向かせる自慢の胸。それをわざわざ晒し、あからさまに誘いを掛けたというのに……。
「王様、あんまり人に肌を見せびらかすものじゃないですよー。男と女なんですから、もっと分別をつけなきゃ」
「お、おう。そうだな……?」
予想外の肩透かしを食らった事にしばし呆然となり、生まれて初めて奴隷以外の他人に背中を洗ってもらった事実にもしばらく気付けなかった女王だった。
その後、仮面男は何事も無かったように浴場を出て、ネフェルキフィもそれに続く。
みっともなく前屈みになるどころか、まっすぐキビキビと歩く姿と、前を覆う腰布に一分たりとも下品な膨らみが無かった事を確認し、古代の女王は自らの魅力が全く効果がなかった事実を突きつけられ完全敗北したのだった。
「馬鹿なぁぁぁ……!!」
五千年の時を経て復活した古代の女王ネフェルキフィ、復活第一日目にして生前は無縁だった敗北の味を噛み締めるのだった。
来た時と同じくケプリに先導されて部屋に戻る、その背中を恨めしげに見送るしかない、
「だが、まだ機会はある……! 見ておれ!」
吐いた言葉に嘘偽りなし、『常勝のネフェルキフィ』と称えられた古代の女王は次なる策を用意している。
その夜、女王復活を祝い五千年ぶりの豪勢な晩餐会が開かれた。光の無い地下の食堂は持ち込まれた松明で真昼の太陽の下にいるように明るく、地下帝国を代表する重臣たちが勢ぞろいしていた。
「皆、今宵は無礼講である。存分に食い、飲み、そして歌うが良い」
精と魔力を糧に生きる魔物娘にとって食事は決して必須ではない。彼女らにとって経口摂取とはある種の娯楽、こうした祝い事の席にはもってこいの楽しみだ。
だがこの場に揃った全員の視線は、テーブルに所狭しと並べられた豪華な食事ではなく、王にほど近い来賓席に腰掛ける人物に注がれていた。
「紹介しよう、これにあるは余の再臨の儀に際し多大な貢献をしてくれた旅の者だ。この者の義理と恩に報いるため、今宵この晩餐に同席を許した。皆も弁えよ」
「どうも、よろしくお願いしますねー」
(何アレ、かぶと?)
(ちょっと怖い。けど、男よ)
(男……半世紀ぶりの男っ!)
(声だけで七面鳥三羽イケる!!)
豊かな大地が砂漠となって十数世紀、めっきり人が寄り付かなくなって久しくなっていた環境に突如現れた男は、元々好色的な性格の種族が多い砂漠の民にとってまさにオアシスの水以上に魅力的な存在だった。本来なら重臣という肩書きも忘れて、それこそ砂糖に群がるアリの如く男の肉体を貪っていただろう。風変わりな被り物がどうした、こちとら万年男日照りだ文句あるか……という感じだ。
だが上座に坐す王者の目がそれを許さない。男の精に滅多に有りつけないこの地で彼女らが生きてこられたのは、ミイラとなりながらもファラオが持つ膨大な魔力の庇護下にあったからだ。つまり、今更言葉で命じられるまでもなくここに居る全員はファラオの支配を受けているのだ。その視線、その吐息、その仕草、全ての所作に込められた真意を思い知らされ、そして隷属を余儀なくされる。ファラオの下ではどんな淫乱な魔物も規律正しい軍人のように振る舞わざるを得ないのだ。
「では、新たなるホルアクティ朝の幕開けと、その前途を祝して……乾杯!」
「「「「女王陛下、万歳!!!」」」」
金で出来た盃を一斉に掲げ偉大なる女王を讃える。そしてそれらを傾け口元に近付ける。
だが誰も飲まない。ここに居る全員が実はアルコール嫌いとかそんなのではない。実際は飲むフリだけして、視線は酒ではなく上座近くの一人に注がれていた。
「ワインですか。いただきまーす」
そう、鉄甲冑で隠された顔、きっと誰もが気になりつつ聞かなかった一番の謎。口元も覆うようになっているそれを、恐らく飲食の際には外すはず。その瞬間を見逃すまいと全員の視線が男の顔面に突き刺さり、すぐ隣の女王ですら血眼になりながらその瞬間を待ち侘びていた。
そんな気も知らないで、男は陽気に甲冑に手を掛ける。顎と首の間、ちょうど兜の縁に当たる部分に指を掛け……。
(脱ぐぞ……脱ぐぞ、脱げ!)
指先にぐいっと力が入り────、
口元の部分だけがスライドした。
「あ、美味しいですねー」
(((そ、そうきたかぁ〜〜〜っっっ)))
ずっこけそうになる衝動を必死に抑えながら全員が一気に盃を呷る。そして噴き出してしまわない内に胃の腑に流し込んだ。
僅かに見える口元から分かるのは、男がそこそこ若いということぐらい。それすら声音や喋り方からとっくに推察できていたこと。ここまでくると相手も分かっててやっているのではと邪推したくなる。
「…………ム」
(あわわ〜、王様顔が引き攣ってるよ!? めちゃくちゃコワいよぉ……!)
(誰かー! 誰か何か適当に話題振って王様の気を逸らしてぇぇー!!)
(この非常時にメティト様はどこに行ったんですかー!!!)
復活早々、かなり不機嫌になってしまったネフェルキフィの顔を誰もまともに見ることが出来ず、どうか雷が落ちませんようにと祈りながらの気まずい晩餐会となるのだった。
「王様、これは何ていう料理ですかー?」
「ああ……それはケバブと言ってな、羊の肉を使った……」
そんな周囲のやきもきも知らず子供のように無邪気な笑みを浮かべる仮面男。だが外から見えるのはケバブのソースで汚れた口元だけで、風呂場に引き続く肩透かしにネフェルキフィは怒りよりやるせなさを感じていた。
だがそこは王たるネフェルキフィ、彼女の策は二段構えになっている。
「客人、盃が乾いておる。今宵は宴、思う存分に飲むが良い。誰か酒を注げ」
使用人のケプリが進み出て盃に波波と酒を注ぐ。麦を使ったエールではなく、オアシスで僅かに栽培するブドウを絞って作った果実酒だ。
「いただきますー」
注がれた端からすかさず飲み干す仮面男。
最初に飲んだ物より、ほんの少しだけ赤みが増しているとも知らずに……。
(……勝った)
ついに盤面の行く末を確信したネフェルキフィは、それまで居所の悪かった腹の虫も水に流し、早くも勝利の美酒に変わった盃を飲み尽くすのだった。
宴が終わったのは深夜を通り越し明け方だった。陽の光が届かぬ地下にあって時刻など有って無いようなものだが、それでも生活のリズムに沿っていい加減眠気がピークになる頃だ。続きはまた明日と一旦お開きになり、皆それぞれの寝室に入り込んでいく。
当然、仮面男も自分が介抱してもらった部屋に戻ろうとしたのだが……。
「客人にはもっと心地よい部屋を用意してある。病人が寝泊りする見窄らしい所ではなく、きっと気に入ってくれるだろう」
そう言って男を連れて、女王は地下迷宮の奥へ奥へと移動する。人二人が並んで通れるぐらいの狭い通路は、奥へ行くごとに徐々に広くなり、地層を削って作られた壁には壁画や彫刻が目立つようになってきた。
「ここに描かれた絵画や彫像は皆、余を模した物だ。残念ながら余の美しさを十全に表すことは出来なんだが、世に出回れば金貨数千でも間に合わぬだけの価値がある」
「これって、ひとつの岩から出来てるんですよね? 誰が彫ったんだろう」
「石像がそこまで珍しいか。だが、その内見飽きるようになろう」
「へ?」
「着いた。さあ、客人……入られよ」
それまで何もかもが石造りの地下において、初めて見る木の扉。香り立つ木材は杉の木を切り出して作られた一枚板で、取っ手や装飾には金銀宝石がふんだんに埋め込まれていた。もしここがダンジョンで扉の奥が宝物庫だったとしても、きっとこの扉だけ剥ぎ取っただけでも一生遊んで暮らせる金になるだろうと容易に想像できた。
その豪華な扉を自ら開け、内部に男を誘う。室内に足を踏み入れて男が感じたのは、鼻腔をくすぐる甘ったるい香の匂いだった。
「フフ、気に入ってくれたか。わざわざホコリを被っていたのを蔵の奥から引っ張り出した甲斐があるというもの。さあ、もっと奥に」
誘われるまま部屋の奥へ行くと、蝋燭の明かりに照らされて部屋の全容が明らかになる。
「うわ……!?」
思わず感嘆の声を漏らすのも無理はない。
部屋は光り輝いていた。壁四方、床天井、六面全てが蝋燭の僅かな光を受けて眩いばかりに輝く。その正体は黄金。もはや装飾ではなく部屋そのものに黄金を素材として用いるという大胆な発想と、それを可能にする権力と財力。地上の太陽たる王が用意させた寝所は、その偉大さを証明するかのように煌びやかに豪華絢爛を極めたものだった。
「驚いたか。薄く引き伸ばすという吝嗇な使い方ではない、六面全てがたっぷり指三本分の厚さはある。少し削っても良いぞ」
「い、いえ、いいですぅっ!!? てて、ていうか、自分がこんなすンごく豪華な部屋で寝泊りなんて、させてもらっていいんですかぁ!?」
「なに、構いはせん。元よりここは……余の寝室ぞ」
「…………え?」
部屋に鎮座するのは、どう見ても一人で占拠するには巨大な寝床。天蓋から垂らされたシルクの幕は斜陽の砂漠を思わせる赤に染められ、水鳥の羽毛が詰め込まれたベッドは身を投げ出せば沈むような柔らかさを持っていた。
宅の上に蝋燭を置き、ネフェルキフィが腰掛ける。太ももを惜しげもなく晒した状態で足を組む姿の、何とも扇情的で艶かしいことか。
「さ、何を呆けている。汝れもこちらに来て休め」
「ひぇふぃっ、は、はひぃ!」
緊張のあまり喉に引っ込みが絡んだような素っ頓狂な声を上げ、油の切れたゼンマイ人形のようにぎこちなく仮面男がベッドの端に座る。やはり金で作られた四隅の装飾に目配せするが、その視線がどこか所在なさげなのを女王は見抜き、その隙を突く。
「どうした、慣れない場所では眠れぬか」
「あ、あの、自分やっぱり他の場所で寝たほうが……」
「砂漠の夜は冷える。余とて物言わぬ抱き枕より、人肌を恋しく思う時があるのだ」
「だからって、こんな……その……自分と王様はそんな関係じゃ……」
「ん? どうした、声が小さくて聞こえんぞ。今……何と言った?」
蠱惑的に問いかけながら、ネフェルキフィの手が仮面男の手を握る。包んだ指からその体が緊張で硬直するのを感じ、小さくほくそ笑んだ。
「難しく考える事はない。欲するまま、赴くままに、貪り喰らえば良いのだ……肉も、酒も、女も」
固い指を解きほぐし、ゆっくり自分の指を絡ませる。滲んだ汗が染みる感触を確かめながら、女王の熱を帯びた体が仮面男に迫り、寄せ合う肩は互いの吐息を聞き取れるほどになっていた。
「じ、自分は……」
「これ、目を背けるでない」
「あうっ」
冷たい鉄兜を強引に掴み引き寄せ、その表面ちょうど頬の辺りを優しく撫でる。まるで恋人にそうするような慈愛と情欲に満ちた瞳、それを真正面から受けて男は身じろぎする事も出来なくなる。まさしく蛇に睨まれたカエル、体はもう緊張と僅かな興奮でガチガチに固まっていた。
「フフ……今日、余が復活するという日に汝れが現れたのは、偉大なるアサル神が定めし運命、これが本当の“冥土の土産”よな」
「お、王様?」
「さあ、客人。ファラオたる余が命じる。余を『喰らい』、『貪り』、そして『味わい尽くせ』。運命の導きを受け入れよ」
抱きついた状態から一転、ベッドに仰向けになって『命令』する。晩餐の酒に仕込んだ媚薬、デザートにさりげなく混ぜ込んだ虜の果実、そして今この部屋で焚かれている香、全てが男女の欲望を刺激し加速させる効能を持っていた。一つ一つは微々たるものでも、積み重ねたそれらの効果は推して知るべし。意志と関係なく血流は局部に集中し、遂にはその意識すらある一定方向にしか機能しなくなる。
「さあ……さあ」
胸の膨らみを揺らし、腰を悩ましく捻る。体勢は誘っているのに、その視線はどこか挑戦的で、オスが本来持つ支配欲を最大限に引き出させる機能に特化し、地上の太陽たる女王の玉体を屈服させる権利を与えんと言葉以上に雄弁に語っていた。玉座という高き位に座す者を、組み敷き、覆い被さり、獣欲で汚す……想像しただけで猛り狂う本能を抑えられそうにない。
もはやこの魅力に逆らえる道理はない。女王は今度こそ勝利を確信し、その目を細め────、
「ダメですよ、王様」
優しく諭され、その肩に毛布を掛けられた。そのむき出しになった肩はもちろん、さらりと流れる黒髪の一本にも触れようとはしなかった。
「…………何故だ」
「何がです?」
「地上の快楽を欲しいままにし、五体に美を極めた余が、この身を『くれてやる』と言っているのだぞ。貴様、よもやその風体で色を知らぬとは言うまいな!」
香り立つ青臭い匂いは男が未だ純潔である証。だからと言って色事を知らぬほど初心ではないはず。青い情動を持て余し、今が一番の盛りのはず。
「もし、もし王様が助けてもらった恩を返したいと仰るなら、それはもうお礼の言葉だけで充分です。自分はたまたま通りがかっただけで、運命とか巡り合わせとか……そんな上等なものじゃあ、ないんです」
「無論、感謝もある。余を冥府からすくい上げるには、冥界の神に生贄として愛すべき帝国臣民を捧げねばならなかった。汝れが今日ここに現れなければ、晩餐会の出席者は半分以下になっていただろう。重ねて言う、感謝する」
「なら、それだけでいいじゃないですか」
「良くはない! 財も、力も、快楽も、余は欲するモノ全てを手に入れてきた。分かるか? 余は汝れが欲しいのだ。その体に流れる高貴な血も、無骨な仮面の下に隠した素顔も、そして何よりその本心を、全て余の色に染め上げたい。余と汝れは星の導きが巡り合わせた運命の……」
「やめてくださいよ、そんなこと!!」
「っ!?」
怒らせたかと一瞬だけ身構える。だがそれは杞憂と分かった。男は怒ってなどおらず、俯いた甲冑はどこか覇気がなく悲しげに見えた。顔が見えなくても、その沈んだ肩を見れば分かる。
「何をそんなムキになる。余が嫌いだったなら謝ろう、許してほしい」
「……どうして、どうしてこんな美しく優しい人を嫌いになれるんです? 自分は王様を嫌ってなんかいません。太陽のように優しくて、綺麗で、強い人……それが王様です」
「う、むぅ」
男の言葉に嘘はない、抱いた好意を無駄に詩的に飾らず素直に口にしているに過ぎない。男の好意にネフェルキフィは自分の“オンナ”が疼くのを堪えるのに必死だった。
「でも、だからこそダメなんです……。自分と王様は、同じ世界にいちゃいけないんです」
「だから、どうしてそこまで卑屈になる? 汝れが決して脱ごうとしない仮面……それと関わりがあるのか?」
「関係なんて、大ありに決まっているじゃないですか。オシャレだと思いました?」
冗談めかして口にする言葉には、やはり元気がない。その儚げな振る舞いは、風呂場で裸体に驚き、晩餐会で無邪気に食事を楽しんでいた者と同一人物とは到底思えなかった。何もかも飽いて、諦めて、遠くから見つめる第三者の視点で語るその口ぶりは、どこまでも空虚な伽藍洞を思わせる。
仮面の奥からクツクツと笑いを零し、そして男はこう言った。
「自分はね、王様……腐ってるんですよ。肥溜めの糞と側溝の泥を混ぜてカビを生やして、湧いたウジが食べてひり出した排泄物、それをドロドロに煮込んでヒトの形に仕上げたのが……自分です」
自虐的に、自嘲的に、そして諧謔的に己をこの世で最も汚らわしいと自負し、またそうであると確かな意志の下に断言する。その声音には芝居掛かった脚色や度を越した悲観も無く、ありのままの己を語って聞かせる以上の意味を決して持ち得ない。
この時、ネフェルキフィは得心した。
この男は謙遜しているのでも卑屈になっているのでもない……正真正銘、自分は唾棄され足蹴にされ踏みつけられるものと、微塵の疑いも無く信じているのだと。
「この皮も、肉も、骨も……目も鼻も耳も口も歯も爪も指も髪も手も足も脳も心臓も腸も他の内臓も……みんなみんな、自分の体は腐ったモノで溢れてるんです。自分と比べれば、道端にこびり付いた家畜の糞尿だって妙薬になります。穢らわしい自分は誰にも関わらず、交わらず、触れ合わず、ただ静かに消えていく……それが一番良いんです」
「何故だ、何故そこまで自分を貶めることが出来る? 汝れは人間だ、ヒトだ! 腐ってなどいない、穢れてなどいない」
「王様……。太陽だった王様には、光り輝く王様には分からないかも知れないけど、世の中には糞を食べるウジ虫がひり出す糞にも劣る存在がいるんです。存在することが、生まれてきたことがそもそもの間違い、あっちゃならない事……自分はそんなヤツなんです」
「だから、何を根拠に……」
「だから……ごめんね、王様。自分の穢れた、ヘドロ以下の血……そんなものをお出しして、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、王様ごめんなさい…………王様の血を汚して、ごめんなさい」
伽藍洞が反響するように延々と同じセリフを、何の情感も篭らない抑揚のない空虚な言葉で紡ぐ。悲観でも煽りでもなく、ただただ「申し訳ないと思っているから」口にしているだけ。そうする事しかできないと理解しているから、男はそれ以上の事は何もしようとしない。
してはいけない、やってはならない、何故なら自分は……塵で、屑で、滓を寄せ集めたに過ぎない、無価値の汚物なのだから。
無価値の汚物は最後にこう呟いた。
「こんなところ……来ちゃいけなかったんだ」
名も無き仮面男の望みは唯一つ、何もせず何も為さず静かに朽ちて消え果てること。無価値なモノは無価値なまま風化して消える……それが誰も煩わせない唯一最良の生き方と知る故に。
「……もう良い。今宵は静かに『眠れ』」
放っておくと永遠に内罰的なままだと危惧したファラオが、初めてそれまでとは違う命令を下した。その瞬間、男の体がガクンと揺れてから眠りの底に落ちた。それまでこちらの命令を尽く拒み続けた者と同一人物とは思えない有様だった。
眠った男をベッドの中程に横たわせる。無骨な被り物では寝にくいだろうとフカフカの枕を敷き、その上に毛布を何十にも重ねる。すうすうと穏やかな鼻息を立てて眠る姿を見守る、古代の女王にできるのは今はそれだけだった。
結局、一度も鉄兜を外さないままだった。
「王よ、申し上げます……」
「メティトか」
男が眠ってすぐ、それを待っていたようにメティトが部屋に姿を見せる。去った時と同じように暗闇から滲み出るように現れ、ネフェルキフィの前に跪く。
「昨日の今日でもうか、早いな。報告を聞こう」
「はっ。ではまず、この男がどこから来たかについてですが、その前に……王は現在の大陸情勢についてどの程度ご存知でしょうか?」
「我が帝国は既に滅び、帝都があった場所は砂漠に、他はそれぞれ別の国々が興亡を繰り返した。余の死後に魔王が何代か代替わりしたともな。後は、その第四皇女が人間界にいるとも」
いずれ現世に還る事が確定していたネフェルキフィは、冥府を流れる大河より現世の様子を観察していた。なので大陸の歴史は大まかではあるが事前に知り得ている。
「この砂漠の東には現在二つの国家が隣接しております。一つは七代続く王家が統治するアルカーヌム連合王国。そしてもう一つは、千年以上の歴史を有するレスカティエ教国。砂漠の大部分は王国の国境と隣接しておりますが、僅かに一部だけ教国とも繋がっております」
「さしずめ、この者はその教国とやらから来たということか」
「ご明察です。領内の魔物娘らの目撃情報を繋ぎ合わせ、男が教国から我が領内に侵入した事実を突き止めました。肝心の男の正体までは掴めませんでしたが……」
「良い。こんな被り物を着けて昼の砂漠を……。これは余の推測になるが、こやつは教国で何ぞ罪を犯し流罪にされたのだろう」
だが恐らくは無実だという確信がネフェルキフィにはあった。何故ならこの男は覇気がない。己が愚であり汚濁であることを全面的に肯定する言動、そんな者に悪事を働くだけの気迫があるとは到底思えない。それも流罪という重刑を課せられるほどの大罪を犯したなど、さきほどの姿を見た女王には信じられない話であった。
「その主神教徒の国なのですが、潜り込ませていた子飼いの者から妙な噂を聞きました」
「妙な?」
「醜聞や風説の類ではありますが、聞くところによると……牢獄の鉄仮面なる怪人の噂でございます」
「鉄仮面……」
「その者は古くより獄に住まい、夜な夜な囚人や看守を襲ってはその肉を貪り、確かにそれが存在するのに誰も顔を見た者はいない。何故なら、そいつの顔は甲冑で覆い隠され、国王ですらその正体を知らぬ……。というものです」
「何とも……眉唾な話だな」
「そしてこの話には続きがあり、鉄仮面は獄中で不審な死を遂げたと。その亡骸は……教国の西に広がる砂漠に葬ったと」
「ますます、出来すぎているな」
どこにでも発生する都市伝説、ある種のお約束。それがたまたま教国にもあったというだけのこと。だがこれらが果たして偶然だと、何の繋がりもないと言い切れるのだろうか。まるで気付いてくれと言わんばかりに関連する臭いがプンプンするではないか。
だが相手が千年の歴史を持つ国ともなれば当然ガードも固い。ここは一旦その方面から離れ、別口で切り込んでいくしかないだろう。
「ご苦労だった。引き続き調査を続行するのだ」
「はっ! 失礼します」
闇に溶けるメティト。部屋は再びネフェルキフィと、その傍らで眠る仮面男改め、鉄仮面の二人だけとなった。
その頬にあたる部分をそっと撫でる。返ってくるのは柔らかく温かい一肌の感触ではなく、やはり硬く冷たい鉄の触り心地でしかない。冷たい鋼の仮面に隠した哀愁を手に覚えながら、ネフェルキフィは問い掛ける。
「汝れは何者だ。汝れは……誰なのだ」
女王の問いに対する返答は、安らかな寝息だけだった。
15/11/15 11:52更新 / 毒素N
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