聖者の誕生日
「……寒い」
とある街のとある広場。その片隅で、一人の少女が空を見上げながらつぶやいた。
彼女の瞳に映るのは、今現在自分が寄りかかっているレンガ造りの建物の壁と、その上に広がるきれいな冬の夜空だ。日が暮れて久しい澄んだ天空には、街の明かりにも負けずに輝くたくさんの星たちが浮かんでいる。
視線をゆっくりと地上へと下ろして行くと見えるのは、石畳できれいに舗装された広場の中央、街灯に照らされて淡い暖色に色づいた噴水の幻想的なきらめきだ。その噴水の後ろ、広場を囲むように建つ意匠の統一された幾つもの背の高い建物の窓には灯りがともり、無数のやわらかな光が広場をやさしく包み込んでいる。
夜闇に浮かぶ淡い情景。だが、普段であれば心奪われるだろうその光景も、今の彼女の目には映らない。彼女の瞳には力が無く、焦点も定かではない虚ろな表情で、明かりから取りこぼされた片隅の壁に佇みながらただぼんやりと、人々の集う円形広場の中央に顔を向けているだけだ。まるで心ここにあらずといった様相で、意識はどこか明後日の方向に飛んでいるかのようにも見える。
しかし、実のところ、彼女の意識と視線は確かにあるものへと向けられてはいるのだ。
それは寒空の下、噴水の傍らで美しい水の芸術にはしゃぐ一組の男女であったり、噴水を挟んでその反対側、笑顔のあどけない少女が彼女を待っている青年の下に駆け寄って行く光景であったり、その様子をベンチに腰掛けて見守る仲睦まじい妙齢の男女や、それらを上階の窓辺から微笑んで眺めるやさしげな夫婦といった、実に幸せそうな人々であり……もっと言うならばそうした一つ一つの営みではなく、この広場全体を包む幸福で暖かなやさしい空気に向けられていた。そして彼女は、己の瞳にその全てを映そうとするかのように、ただぼんやりと広場を見つめているのであった。
「……なにやってるんだろう、わたし……」
彼女のつぶやきに白いもやがまとわりつく。
刹那、霞む瞳がゆらめき焦点が戻る。だが、彼女は目の前の幸せな光景から逃げるように視線を外すと、コートの高い襟に寒さで青くなりつつある唇をあご先からうずめていった。
(ほんと……なにやってるんだろう、わたし……)
冬の寒さがマフラーの無い首筋からしみ込んでくる。彼女は立てていた襟を整え直し、剥き出しの白く小さな両手をコートのポケットにしまいこんだ。
そうして体を縮めこませて足元の石畳を見つめながら、口元までうずめた襟の下で再度つぶやくと、彼女はここに至るまでの出来事をなんとはなしに思い返し始めるのだった。
[聖者の誕生日]
わたしには付き合って一年近くになる彼氏がいる。
告白は彼から。
もともと仲がよかったとかでもなく、かといって悪かったというわけでもない。
そもそも好きかとか嫌いかとかそんなことを考えることすら思い浮かばない、ちょっと悪い言い方をすれば、そんなこと考える“必要も無い”、そんな相手。
そう、強いて一言で言うなら……顔見知り以上知り合い未満、というところか。
そんな、特別用が無ければ関わることなんかなにも無い相手。
それはむこうも同じだと当然のように思っていた。いや、思ってすらいなかった。だって、わたしにとって彼のことなんか意識の外側に微かに引っかかっている程度のもの。向こうもわたしと同じ程度の認識なのが当たり前で、そうあるべきはずなのだから。
でも彼は違った。
だから告白されたとき、わたしは驚くことすらできなかった。というか、彼がなにを言っているのかすら解らなかった。その時のわたしを客観的に見ていたら……さぞかし滑稽だっただろう。
「……ええっと、その、もう一回言ってくれる?」
とか、
「付き合ってくれって、別に買い物とかじゃないわよね?」
とか、
「あぁっと、そうか、『好き』って言ってるもんね。てことはこの場合の『付き合ってくれ』は……わたしと男女のお付き合いをして欲しいってことよね……って、わたしと!?」
とかとか。
いくらなんでも挙動不審すぎだった。
しかも、あまりの混乱加減がなぜか妙に思わせぶりな態度になってしまったらしく、
「もぉ〜、いくら告白されて嬉しかったからって、あそこまで照れること無いじゃない!」
とか、
「あなたって実はそうだったんだ! ずっと一緒にいたのに気がつかなかったわ〜〜」
とか、
「でもラッキーよね、相手のほうから来てくれるなんてっ!」
とかとか。
一緒にいた女友達たちに盛大に誤解された挙句、他人の恋愛=蜜の味、な彼女たちの生贄へと途端に祭り上げられてしまった。
しかも最悪なことに告白されたその時その場所で。
告白してきた相手の前で。
その時点で一番誤解されたくない相手の前で。
肝心の彼が告白以上のセリフは言わずに、「返事はいつでもいいんで……」とだけ言い残してすぐに行ってしまったから良いようなものの……きっとそれ以上居たら話はとてもややこしいものになっていただろう。
ともかく、わたしの人生史上初めての(被)告白は、相手に圧倒された挙句に周囲の不本意な誤解を招くという非常に屈辱的な結果となったのだった。しかも、その原因の大半が自分の不手際であるというのがまた一段と悔しさをつのらせる。
もちろんこんな結果に終わった告白だ、された側が恥をかかされたと思っているんだから普通なら失敗に終わるところなんだろう。
でも、まぁ、結論から言ってしまえば……わたしは彼と付き合うことにした。
初めのうちはもちろん断るつもりだった。でも、
「ずっと前から好きでした。僕と付き合ってください」
なんて恥ずかしい台詞の……それでいてとても直球な告白をためらうことなく、しかも周りに人がいるにもかかわらずに堂々としてのけた彼に興味がわいたのだ。それに、これが彼にとって初めての告白だったのと同じように、わたしにとっても初めての告白されるという体験。それにときめきを感じていたのもまた確かだった。
加えて、学校に通うため単身故郷からこの街に出てきたわたしの中に、一人暮らしの寂しさを紛らわしてくれる特別な相手を探していた気持ちもあったのかもしれない。
けれど一番の理由は、彼のそんな自分の気持ちを素直に表してきたところに惹かれたからだと思う。
なぜなら、強がりで意地っ張りなわたしにとって、その素直さは持ち合わせてはいないものだったから。
(……そう、わたしは意地っ張りだ)
彼と付き合ってからの日々、それはとても……とても幸せな日々だった。
彼は思った通りとても素直で、優しく、そしてなによりも、わたしをとても大切にしてくれた。
そんな彼と触れ合って行くうちに、わたしはすぐに……自分でも驚くぐらいどんどん彼のことを好きになって行った。
彼の素直な態度に、わたしは愛されているんだと日々実感することが出来た。
彼の優しい笑顔は、わたしの心をいつでも優しい気持ちにさせてくれた。
彼がわたしを大切にしてくれるたび、わたしも彼を大切にしようと思った。
そんな、とてつもなく幸せな毎日。彼はいつでもわたしに好意を伝えてくれて、それがわたしにはとても嬉しかった。
──けれど、肝心のわたしが彼に素直に好きだと言ったことはただの一度もない。
(ううん、違う。言わないんじゃなくて……言えない。照れくさくって、つい強がっちゃうってだけだ)
もちろん、彼に自分の気持ちを伝えようとしたことは何度もある。でも、いつも喉までは出てくるその言葉を、わたしはとっさに飲み込んでしまう。
彼に自分の想いを伝えようと思うたび、そして彼を好きになればなるほど、わたしは告白されたときのことを思い出しては言葉を飲み込んでしまうのだ。
あのときの自分の姿。ひどくうろたえ、みっともない姿を晒してしまった悔しさと恥ずかしさを思い出してしまい……まるでその失点を取り戻そうとするかのように、大切な彼との関係の始まりで見せてしまった醜態を取り繕おうとするかのように、わたしの口は想いに反した言葉を放ってしまう。
だけれど、自分でも彼に悪いなと治したいなと思っていても、そんなわたしを受け入れてくれる彼の優しさと、告白された側と言う立場に甘えて、わたしのわがままは止まらなかった。
しかも悪いことに、彼に惹かれれば惹かれるほど、好きになればなるほど、それが強くなっていってしまう。
生まれもった性格と、ささやかな自尊心から来る抵抗。
だから、わたしの口をつく言葉と態度はいつでも生意気なものになる。
(……いろんなこと、言っちゃったな……)
──彼は休日になると、わたしをデートに誘ってくれた。
「はぁ〜? せっかくの休みなのに、なんでわざわざあんたと出かけなきゃいけないの?」
だけど、わたしは頷いたりしなかった──
──彼はわたしの部屋に遊びに来ると、わたしの隣に座ろうとしてきた。
「ちょっと、なにくっついてんのよ。あんたはそっち、テーブルの向こうに行きなさい!」
だけど、わたしは座らせたりしなかった──
──彼は別れ際になると、わたしにキスをしてくれようとしてきた。
「……ふんっ。お別れのキスなんて少女チックなマネ、わたしがするとでも思っているの?」
だけど、わたしは唇を許したりはしなかった──
口をついて出てきたのはそんな憎まれ口。そんな風に優しさに甘えた生意気を繰り返すたび……わたしはどんどん素直になる機会を失っていった。
(──でもね、本当はね? 本当は……わたしの本心は違うんだよ?)
「あんたと遠出するなんて、めんどくさ〜い」
──だって、部屋に二人っきりでいたほうが、あなたをずっと独り占めできるじゃない。
「まったく、夏で暑苦しいんだからひっつかないでよねっ」
──だって、隣じゃなくて向かい合わせのほうが、あなたの顔をよく見られるじゃない。
「よくも街中でキスなんて出来たものね。この恥知らず」
──だって、キスするときのわたしの顔、あなた以外になんて見られたくないじゃない!
これがわたしの本心。
──本当のわたしはもう、もう本当にどうしようもないくらい、あなたが好きで好きでたまらないんだよ?
──本当はいつも、あなたの優しさに、笑顔に、大きな腕に……甘えたい、キスしたい、抱きつきたいって……いつもいつでも思ってるんだよ?
わたしのつれない態度は表面上だけ。心の中ではとっくに彼にまいっているのだ。でも……
──なのに、なんで……なんで、素直になれないんだろう? なんで、彼にあんなこと言っちゃうんだろう? なんで、もっと彼に優しくなれないんだろう?
いつもわたしが彼にとるのはひどい態度。
彼のせっかくの好意を、まるでそれが迷惑であると言わんばかりに切り捨ててしまう。
──なんて、かわいくない女なんだろう……わたしは……
本当はもう、彼が好きで好きでたまらなくなっているわたし。
でも、それを彼は知っているのだろうか?
答えは悲しいかな……たぶん、知らないだろう。
なぜか? 簡単な理由だ。単純に、わたしが彼に好きだと伝えたことがないからだ。
それだけじゃない。デートに出かけるときも、手をつなぐときも、一緒にご飯を作るときも、誘うのはいつも彼から。自分から彼に手を伸ばしたりしたことなんて一度もない。
ましてやキスや泊まりにきた時に一緒に寝るのなんて、彼が求めてきても一切許さない。
けれど、
──いくらわたしがそれで満足してても……彼もそうだなんてわけないものね……
わたし自身はキスをしてくれようとするだけで、恥ずかしいわ嬉しいわで、頭が沸騰するくらい幸せだし、泊まりに来てくれた時はかわいい彼の寝顔を見るだけで、一日の疲れが吹っ飛んでしまうほど胸があたたかい気持ちでいっぱいになる。
それこそ、それだけでわたしの許容量が一杯になるほどに。それ以上されたら自分がどうなってしまうのかわからないほどに。
──でも、彼はもっといろんなことをしたいのかも知れない。
──本当はもっと……それこそ一緒に同じ布団で寝たり、一緒にお風呂に入ったり、ご飯をあ〜んって食べさせあったり、腕を組んだままデートしたり……つんけんしてない自然なわたしの笑顔が見たかったり、わたしに好きって言ってもらいたかったり……キス、したり……それから、その……キスの先の……あ、あんなこと、だって……本当はしたいのかも知れない……
いや、かもじゃなくて、わたしと一緒で本当はしたいのだろう。
けど、優しい彼はわたしが素直じゃないばっかりにわたしが望んでないと誤解して、そんなわたしに気を遣ってそこまで踏み込んでこないのだろう。彼は本当にやさしいひとだ。だから、
──わたしのせいだ。わたしのせいで、彼にいらない負担を強いてしまっている……
欲を言えば……強引にいっそそこまで踏み込んで来てくれれば、わたしも開き直って素直になれたのかもしれない。彼のせいだと口では突っ張りつつも心で甘えられたかもしれない。でも、そこまで彼に求めるのはいくらなんでも我侭がすぎる。
もっと早く、わたしがつまらない意地や恥ずかしさにこだわらなければ、お互いに不要な我慢をすることなく、もっと幸せになっていたはずなのだ。
いまさら急に素直になるのが恥ずかしいなんて、みっともないなんて、そんな引っ込みがつかなくなる前に……いや、引っ込みがつかなくなってからでも、つまらない意地なんか張らずに素直に彼の優しさに心を委ねていれば……彼はそんなわたしの恥ずかしさや意地を全部ひっくるめて、きっとやさしく受け止めてくれていたはずなのに。そこから新しい段階へ進めたのに。
だが実際問題、わたしたちはそうではない。
世間一般で言うところの“幸せなカップル”からは程遠い関係だろう。
……ひどく、気分が落ち込む。
彼に申し訳ない。自分の馬鹿さ加減が腹立たしい。つまらない後悔がみっともない。
罪悪感と自己嫌悪が募り、心に黒いじくじくしたナニかが広がっていく感じがした。
とその時、
『確かにその通りね』
ふとどこからか声が聞こえた。
『確かにその通りね』
素直になれない自分。つまらない意地を張る自分。
相手のやさしさに甘えるだけで、自らは動かずそのやさしさに胡坐を書いている自分。
そんな自分が嫌で悩んでいるのに、何一つ解決のための行動が取れないでいる自分。
後悔。苛立ち。罪悪感。自己嫌悪。渇望。
そして申し訳なさと、じくじくとおへその裏に積もるよくわからいナニか。
それらがまとめていっぺんに頭とお腹の底をぐるぐる回り、暗い感情がごちゃごちゃとない交ぜになる。
吐く息も白む寒空の下で、冷たい褐色の壁に力なく寄りかかりながら泥沼のような思考に沈みこんでいると、どこからともなく声をかけられた。
『世間様から見れば、確かにあなたたちは幸せな恋人同士とは言えないかも知れないわ』
その声は際限なく沈んで行くわたしの心の中に直接響くような、なにか不思議な音色を持っていた。
やさしく慈母にあふれた、心に染み入る声音。暗いわたしの心のすべてを暖かく包み込むようでいながら、耳元で甘く妖しく囁かれている、そんな不思議な響き。それがじんわりと胸に広がっていく。
そしてなにより不思議なことは……わたし自身がこの声に何の不審も抱かず、ごく自然に受け入れていることだ。
『ほら、いつまでもくよくよ下を向いていないで顔をお上げなさい?』
この聞き覚えのない声の主がいったい何者なのか、何の目的があってわたしに話しかけたのかといったことを……いや、違う。そもそも、この不思議な声を不思議に思わないことを不思議に思うことすら、この時のわたしは感じていなかった。そして、
『ほら、御覧なさい? ああいうのを“幸せなカップル”っていうのよ』
その声に促されるまま、わたしは気持ち同様下を向いていた顔を上げた。
上げた首が、痛い。沈んだ気の重さにひっぱられたかのように、寒さに冷え切った首筋はしびれ、凝り固まった筋と筋肉のこわばりが重く肩にのしかかってきた。
だがそれ以上にわたしに重くのしかかってきたもの……それは顔を上げたことで再び目にすることになった、あの幸せな広場の光景だった。
── …………。
『あらあら、ますます落ち込んじゃったわね』
それはそうだ。わたしの目の前の広場には、未だ多くの男女が睦みあっている。
肩を抱いて噴水を眺める男女。初々しさが眩しい青年と少女。それらを見守るベンチの紳士淑女に、それらすらもベランダから覗き込み見渡す夫婦。
長いこと暗い物思いにふけっていた気がするが、実際はそうではなかったらしい。顔を下げる前からいたカップルは一組も減ってはおらず、むしろそのいかにも幸せそうな組み合わせは先ほどと比べ数を増していた。
ということは、本当は結構時間が経ったのかもしれない。だが、そんなこと今は心底どうでもよかった。
── …………。
『ふふっ、みんな本当に幸せそうね』
けれど声はまたも沈んでいくわたしを放って置かなかった。
普段のわたしならそれを煩わしく思いそうなものだったが、今のわたしにはそれにいちいち反応するだけの気力すらない。なので、またもわたしは声に返事を返さないでいた。
── …………。
『まぁまぁ。あの若い彼女、彼がよっぽど好きなのね。ふふ、彼に抱きついて離さないわ』
声のほうもわたしを特に気にしている様子ではない。
なので、またもわたしはそれを無視した。が、
『そうよね〜。今日はみんな楽しみな、年に一度の“特別な日”ですものねぇ〜』
── ……っ!!
不意に声が強調した“特別な日”という言葉に、わたしの体と鼓動がびくりと震える。
『……でも、あなたにとっては違う意味でも特別な日なのよね?』
瞬間、声がわたしに“振り向いた”。
今までもわたしに向かって話しかけられてはいたが、それは偶然隣り合わせた人間に退屈紛れのお天気の話をするような類のものだった。
だがこの時のこの一言ははっきりとした意思を持って、わたしに向かって話しかけられたものであった。それはすでに天気を話すおざなりな語り口ではなく、しっかりとした硬さをもった響きだ。
──っ、な、なにを言って……!
『ふふ、ムキにならないの。そうやっていつも失敗してきたんでしょ?』
── ……っな! なんでそこまで……むむぅ!?
声がわたしの唇に“触れた”。
それはあたかも相手の唇に押し立てられた妖艶な美女の指先のように、わたしの言葉を押し留めてしまう。
艶やかな生暖かさが唇から広がり、まるで思考が立ちくらんだかのように脳髄が痺れる。わたしは大した抵抗も出来ずにすぐに大人しくなった。
── ……どうして、それを……?
唇が甘いうずきを残したまま解放される。わたしは呆けながら声に問いかけた。
『あら、“それ”って?』
──だから……どうして今日がわたしの“特別な日”だって、知っているの? どうして“いつもそれで失敗”なんて言ったの? ねえ、どうしてっ!? なんでそんなことを……!!
『あぁ、そのこと。ふふふっ、さぁ、どうしてかしらね?』
話しながら徐々に痺れは取れ、言葉に力と勢いが戻ってくる。
だがまたしてもわたしの問いかけは声にさえぎられ、返ってきたあんまりな言葉がわたしの神経を逆なでしてくる。
──ふざけないでっ!
『まぁまぁ、そんなに怒らないでちょうだい? 別に馬鹿にしたわけではないのよ? ただ、そうねぇ、なんでそんなことがわかるかって言うのは説明してもいいんだけど、時間もかかるし理解してもらえるかもわからないし……それにこの際それは大して重要な話じゃないから、ちょっと脇に置いておこうと思っただけなのよ』
あいかわらずこっちを小馬鹿にしたような話し振りだったが、そこに込められた思いはひどく真摯で誠意が込められたものだった。
だからか……なのかはわからないが、一気に高ぶったさざめく心は再び水を打ったように静かになる。その後に残ったのは純粋な疑問だけだった。
──なら、重要な話って?
呆けたり、怒ったり、かと思えばまた急に落ち着いたりと情緒が不安定だ。
けれどひどく不自然な心の動きにも何の疑問もわかなかった。なのでそれを意識することもなく、わたしは再び声に問いかける。
『話が早くて助かるわ。そう、今重要なのは私があなたの前に現れたということよ』
── ……わたしの前に現れた?
そこでわたしは初めて気がつく。
今わたしが見ている景色の中に、この声の主の姿は見当たらない。
と言うかなぜ、姿が見えないことに疑問を憶えなかったのだろうか? なぜ、わたしは声の主の姿を探さなかったのだろうか? なぜ、ぬけぬけとこんな不審な声の相手を長々していたのだろうか? それに、
── ……あれ? わたし寝ぼけてる? 広場が……
ここでまた初めて気がつく。
いつの間にか視界が寝起き直後のような、どこか焦点の合わないものになっていた。
さっきまではちゃんと見えていたはずなのに、遠くから眺める暖かで幸せな広場の風景はどこかぼんやりとしていて……そう、なにか曇りガラス越しや揺らぐ湖面に映った風景を自分の目ではないナニか越しに覗いている感じで……それでいて、広場全体が壁の平面に無理やり塗りこまれて一枚の絵になった……そんなひどく現実感の薄れた凹凸のない光景が目に映りこんでいた。
── ……これって、一体……。それに、あなたは……?
『ふふ、それも今は大切なことではないわ』
ぼんやりとした視界を認識したとたん、わたしの頭も霞みがかったようにぼんやりしてくる。それと同時に、声にそう言われた途端、声の主が何者でどこにいるだとかそんなことを考えるのが馬鹿らしくなっていた。
理由はわからない。がとにかく、それを考える必要などないと、声を聞き終えた瞬間にそう思っていた。
──なら、いま大切なことっていうのは……なに?
ほとんど反射的に聞き返した。相手の言葉は理解できるが、そこから思考を発展させられなくなっている。
『言ったでしょ? 私があなたの前に現れたことよ。私……いえ、私たちはね、私たちを必要としている人間の前にしか現れないの』
──必要とする、人間? でも、わたしは……
『ええ、そのとおり。確かにあなた自身が望んで私を呼んだわけではないわ』
でも、と声は続ける。
『でもね、あなたは確かに私を必要とした。自ら具体的に望んだ、欲したわけではないけれど、今のあなたには私が必要。だからこそ私はあなたの前に現れたのよ』
── ……意味が、わからないわ……?
本当に意味がわからなかった。ただの言葉遊びのようにも感じるが、感じるだけだ。それ以上深く考えられない。
『ええ、それで構わないわ。今すぐではなくても、いずれはわかることだから……でも、今はそれよりも……』
── ……?
くいっと、声が後ろからわたしのあごをつかんで上を向かせる。
いつの間にかまた下を向いていたわたしの視線は例のぼやけた景色に向けられた。
『見て? みんな幸せそうよね?』
声が囁きかけると曇った景色の一部が鮮明になり、いくつもの小さな円越しに幸せなカップルが姿を現す。それは、曇った窓ガラスを指でぬぐったときに出来る透明な足跡を思い起こさせた。
── ……そう、ね……
『それはなぜ?』
彼女たちの幸福な姿が目に痛い。
──それは……
わたしの口からはうめく様な声しか出なかった。
『そう、今日は特別な日だからよね?』
なのに、声はわたしの考えはお見通しだと言うように先に続ける。
『そして、あなたにとっては違う意味でも特別な日なのよね?』
── ……ええ。
声が前にも尋ねたようなことをまた聞いてくる。今度は特に引っかかることもなく、口から素直に返事がこぼれ出た。
『それは、なぜ?』
──それは……
組み立てた端から崩れていくような思考に、若干の力が戻ってくる。
だがそのなけなしの力を使うまでもなく、答は簡単に浮かび上がってきた。
今日がなぜ特別なのか? それは今日が、年末も押し迫った冬のこの日この日付がこの国の……いや、この世界の多くの国で信じられている宗教にとって特別な意味を持つ祭礼の日だからだ。
遙かな昔に神の御子と呼ばれる最上級の聖人が生まれた日であり……その誕生を祝う聖誕祭、この教えでの最上位の祭礼の一つが行われる日だからだ。
そしてこの日は、年に一度の神聖な日であると同時に恋人たちを祝福する日でもあり……
── ……去年、わたしが彼に告白された日。わたしたちの最初の日、だから……
わたしにとって大切な節目の記念日なのだ。
『そうね。それはとても大切な日よね』
声はさらに続ける。わたしはこくりと無言で頷く。
『せっかくの記念日だし、彼と一緒に喜びたかったのよね?』
こくりと、またも無言で頷く。声はやさしく、まるでわたしを気遣うようだ。
『でも、肝心の彼はここにいない。それはどうして?』
──それは……
言いづらくて、言葉が途切れる。だが声に促され、わたしはその認めるにはつらいが認めざるを得ない理由を口にする。
──それは、わたしがまたわがままを言って……家を、飛び出してきちゃったから……
なんてことない、些細な理由。
いつも通りの、わたしのひねくれた心が生んだ結果。いつものこと。
ケンカにすらならない、わたしの一方的なわがまま。気持ちの暴走。
それが原因で、世界中の恋人が幸せであるべき日に一人、寒空の下で立ちすくんでいる。
『そう……。またやっちゃったのね?』
── ……うん。
『でも、したくてしたわけじゃない。そうよね?』
──それは……そうよ……
当たり前だ。わたしだって本当はそんなことしたくなんてない。
でも、自分でもわからないうちに、なぜかわたしはいつも彼を責めるような形になっていて、それが嫌で、そんな自分が嫌いで、みっともなくて、彼に申し訳なくて、耐えられなくて、気付けばこんなところでうなだれている。
──それに……
『……なあに?』
──それに、こんなこと……家を飛び出すなんてこと、初めてしちゃって……
『どうしていいか、わからない……?』
── ……うん。なんで、こんなことになっちゃたんだろう……
『…………』
もちろん、それは自分のせいだとはわかっている。
でも、いつもならこんなことはしない。せっかく部屋まで来てくれた彼を置いて飛び出すなんてマネ、絶対にしない。それに、
──それに、今日は覚悟……決めてたはず、なのに……
今日は、わたしたちの記念日。
わたしは今日をきっかけにして、生まれ変わるつもりでいた。
『そう……』
わたしは今日、強い決意をもって彼を部屋に迎えたはずだった。
けれどその決心は実を結ばず、結局わたしがとったのはいつも通りの身勝手な態度。
── ……本当は彼に今までのことを謝って、自分の気持ちに素直になって……
『…………』
後悔の念が、勝手に口をつく。
──それで、今までのつまんない見栄や意地なんか取っ払っちゃって……
『…………』
自分が本当にしたかったこと。それが次々と溢れてくる。
──自分の本当の気持ちを……『好き』っていう気持ちをちゃんと言葉で伝えて……
『…………』
──好き、だけじゃなくて、もっといっぱい色んなことを伝えて……
──料理を二人で一緒に作って、隣同士くっつきながら一緒に食べて……
叶わなかった願いはけれど、だからこそ止め処なく零れて行く。
『…………』
──ふざけて食べさせあいっこしながら『おいしい?』なんて聞いたりして……
──わたしの手料理で彼がおなかいっぱいになって……
彼の手料理でわたしがおなかいっぱいになって……
──たくさん話をして、たくさん笑って、二人で気持ちを分け合って、
ふたり幸せなまま、片付けもしないでのんびりごろごろなんかしたりして……
今まで出来なかった分たっぷり甘えて、やさしくてあったかい彼に抱きついて……
──ちょっと遠いけど買ってきた、お気に入りのお店のケーキなんかを食べて……
それから、二人並んで感想を言いっこしながら一緒に後片付けをして……
それから、きゃあきゃあ言いながら一緒にお風呂に入ったりして……
それから、顔を見ながら同じ布団にくるまったりなんかして……
──おやすみって、彼にキスしたり……
おやすみって、彼からキスされたり……
──それに、そう……それから……
それから…………
それで………
それで……
溢れる想いは止まることを知らず、それからしばらくの間、わたしは延々と、後悔とも、願望とも、恨み言とも取れるような呟きを一人ひたすら繰り返した。
もしかしたらその時のわたしは泣いていたのかもしれない。
そして、そんなわたしのうわ言の様な独白の間中、声は静かに、まるで懺悔を受ける聖職者のように、わたしの傍らにそっと寄り添っていてくれていた。
『どう? 少しは落ち着いたかしら?』
どれくらい経っただろう。ひとしきりの想いを吐き出したわたしに、声がやさしく尋ねてきた。
── ……ええ。おかげ様で……
かけられた声は穏やかで、わたしを強く案じてくれているのがわかる。
そして積もりに積もった想いを一気に吐き出したわたしは、ここ最近味わったことのないとてもすっきりとした気持ちでいた。まるで思いっきり泣いた後のような、どことなくけだるいながらもすっきりとした、あの感じ。
『ふふ、そうみたいね。それに随分きれいな顔になったわ』
──そう?
『ええ、そうよ。やっぱり女の子に思いつめた顔は似合わないわ。確かに女の子の泣き顔はそそるものがあるけれど、涙の理由がそんなことじゃ悲しいだけですものね』
──それは悪いことをしたわね。……ていうか、発言がどことなくおじさんっぽいわよ?
思いっきり自分の気持ちをぶつけたからだろうか、何のてらいもなく素直に声と向き合えているのが自分でもわかる。それに、やっぱりさっきわたしは泣いていたみたいだ。おかげで心のもやもやをたくさん洗い流せたようだけれど、人前で泣いたのなんて随分久しぶりだったからか、今更ながらに恥ずかしさがこみ上げてきた。
『あ、あら、そう? ……ちなみにどこらへんかしら?』
── “女の子の泣き顔はそそるものがある”あたりが。
『……そう、かしら? 言われても私は変に思わないんだけれど……』
──自覚がない、っていうのが一番危ないんじゃないかしら? そういうのって自覚症状がないぶん、どんどん悪化していくっていうし。
『ぐぐ……そ、そうね。以後気をつけるわ』
なので、わたしは恥ずかしさを誤魔化すかのように、声のどうでもいい些細なところを拾って突っかかっていく。本当は泣き言に付き合ってくれて感謝しているのに、まったくもって素直じゃない。
きっと、わたしのこういったところはどんなことがあっても変わらないのだろうと、わたしは思う。きっと、これがわたしの本質……とはいかなくても性というやつなんだろう。
そう思うと、自分を素直に認められたことが嬉しくもある反面、自分の一番嫌いなところが自分の心の核となっていることを認めなければいけない……つまり、嫌な自分を治すことは不可能なことだと認めざるを得ないということでもある。それがひどく、わたしを悲しい気持ちにさせた。
『え、えと。それじゃ本題に戻るけど……』
膨れ上がっていた気持ちを解き放ち軽くなっていた気分。それが再び重くなっていく。
嫌な自分を変えられないのであれば、それはつまり彼との幸せはもう望めないないということだ。今のままでは自分はおろか、彼までも不幸にしてしまう。
唐突に訪れた答えは、最も望まない答えだった。
すなわち、彼とこれ以上はもういられないという答え。
一体何度目だろう。いや、何週目だろう。堂々巡りだったいつもの負の思考が遂に終点にたどり着く。
そんな時だった、これもまた一体何度目か、認めるにはつら過ぎる事実に絶望し完全に内に向いた意識は、例の声によって心の奥底から引き戻された。
『あなたは今の自分が嫌いで、そんな自分を変えたいのね?』
── ……そうね。確かに変えたいけど……わたしにはもう無理なことよ……
いきなりな質問だった。が、今更なにがあったところでどうなることでもない。答えたところで何かが変わるわけでもない。
なのにわたしは答えを返す。打ちひしがれた心では力のない返事にしかならなかったが、それでもしっかりと声に対して答えを返していた。
そう、声。もう随分長いこと掛け続けられている不思議な声。
この声にはなぜか、抗い難い力があった。それが何かはわたしにはわからない。けれど、それでもこの声にはなぜかわたしを惹きつけてやまないナニかがある。それに魅せられたかのように、わたしは答える。
特に今掛けられた真摯な声には、今までで一番の“力”があったように感じられた。
そこには「だいじょうぶ。私はまだまだうら若い乙女よ……」などと自信なさ気に呟いていたさっきまでの“姿”はもうどこにもなかった。
その姿はわたしの心のふたを取り払った、あの包み込むような安らぎの、暖かな姿だ。
『なぜ、そんなことを言うかは聞かないわ。なら、“彼”のことは好きかしら?』
──もちろん……!
ほとんど反射的に答えた。これに関しては自信を持ってはっきりと言える。それはさっきまでとはまるで違う生気に満ちた返しだった。
『なら、大丈夫。あなたはまだ大丈夫よ』
── ……? なにを言ってるの?
『あなたはちゃんと人を好きでいられる。なら自分も好きになれるということよ』
──今さら何を言って……!
正直、声のこの発言には少し怒りを覚えた。なにせ、わたしをこの結論まで導いてきたのは他の何者でもないこの声なのだ。わたしからしてみれば、自分で引導を渡しておきながらのこの態度は盗人猛々しいにも程があるとしか思えなかった。
『考えてもみなさい? あなたは本心では何を望み、何がその障害となっているのかを』
それこそ今さらだ。それはわたしももちろん、きっとこのわたしの全てを見透かしているであろう声にとってももう解りきっている事のはずだ。
それをわざわざまたわたしに自身に確認させようだなんて、意地が悪いにも程がある。
けれど、声はそんなわたしの想いとはかけ離れた、宥めるようなやさしい声で話を進めていく。
『あなたは彼との幸せを欲している。けれど素直になれない自分の心がそれを邪魔している……そうよね?』
その通りだ。
『なら答は簡単じゃない。あなたが素直になればいい。それだけじゃなくて?』
──だから!
それが出来ないから苦しいのだ。つらいのだ。悲しいのだ。それができるような人間じゃないからわたしは……!
『わかっているわ、だから私が来たの。あなたが自分の気持ちに素直になれるようにしてあげるために』
なんだそれは? そんなことできっこない。声もわかっていると思うけれど、わたしの天邪鬼っぷりは半端じゃない。筋金入りだ。それも極太だ。鉄骨だ。超合金だ。声が何者かはわからないけれど、無理に決まっている。
『大丈夫、任せて頂戴。絶対にうまくいくわ』
──なんでそう言い切れるのよっ!?
『最初に言った通りよ。私たちは私たちを必要としている人間の前にしか現れない。そしてあなたは確かに私を必要とした。だから私はこうして現れた。確かにあなたが意図して私を呼んだ訳ではないけれど、でも心の奥底では助けを欲した。
そう、私が今ここにいるのはあなたが求めたからであり、ある意味で私はあなた自身の変化が形になったもの。だから私はあなたを助けるし、助ける事が可能なの。これはあなたが変わろうとした努力が実ったもの。だからあなたは当然の帰結として助かるし……そうね、そういう意味では私はあなたという事になるのかもしれないわね』
──なによそれ、何が言いたいのかさっぱりわからないわよ! すっごい意味不明! 結局何が言いたいのよ!
『ふふ、そうよね。だから時間もかかるし、理解してもらえるかもわからないし、大して重要な話じゃないと言ったのよ。ああ、それにいずれはわかることだとも言ったかしらね。まぁ、とにかく早い話が……』
──早い話が、なによ。
『こうすればいいのよ』
── ……んん! ふぐ……んちゅっ!!
そう言うや否や、声はわたしに“キスをした”。
それは信じられないほどの熱さでもって、わたしの唇と口腔内を蹂躙した。
“声”の“唇”がわたしの唇にかぶさり、“舌”が重なった唇から割り込み口内に侵入してくる。
そのあまりの出来事に思わず放心してしまったわたしだったが直ぐに我に帰り、自分の体内に侵入してきた異物を排除しようと舌に力を込め賢明に抵抗を始める。
しかし、わたしの精一杯の反抗をあざ笑うかのように、差し込まれた舌は巧妙にわたしの抵抗をかわして口の中でのたうち始める。その感触に、何故かわたしは相手が女性であると理解した。
──ん、んちゅ、ちゅ……ちゅ、ちゅ……ん! んんんっ……んぱ、んちゅ……
相手の舌先がわたしの舌先や歯茎を這い回り、それは次第に激しくなりながら前歯をなぞってきたり、内頬を撫でてきたりする。その度に舌の触れた先から熱くなり、わたしの口内はじっとりと熱を帯びてくる。
──ちゅ、ちゅ……じちゅ、ん、じゅる……ん、んぷ、んぷはぁっ……!
舌が絡まるほどにわたしの意識はとろけ、とろけるほどに涎があふれ出してくる。気付けば自分の出しただ液で溺れるかと思うほどで、それが恥ずかしさを呼ぶが何故か同時にその事に興奮を感じている自分に気がついた。息苦しさも手伝い、頭はとろけるばかりだった。
──ふはぁ! はぁ、はぁ……んぐ、ん、うむん……んむ……む、んちゅ、んん……
息が詰まるギリギリで声は一旦わたしを解放した。その隙に足りなくなった空気を一気に取り込むが、それは冬のひんやりした綺麗な空気ではなく、どこか重く粘ついた湿っぽいそれだった。吸い込んだ熱気は胸を焦がし体を火照らせる。全身に汗が噴出す予兆を感じた次の瞬間にはわたしの口は再び塞がれた。
──んふぅ、ん、ん……ちゅ、ちゅる……ん、ちゅっ、んはぁ……んちゅ、ちゅちゅ……っ!
思い切り吸い込んだ空気の甘い匂い。肉壁となってついばみ続ける唇の弾力。擦り合わせられる舌の不思議な味。それらにわたしの理性は徐々に、しかし確実にこそぎ落とされていく。
気がつけば始めに抵抗したのが嘘のように相手を受け入れて自分からも舌を動かして応えていた。
──ん、んちゅ……ん、んふぅ……ん! じゅる、ん、んは、ぷはぁ……んはぁ、あん、んく……
唇で足りない分を補うように舌を伸ばし絡めあう。息が続く限りキスをして、たまに息をし、また貪る。息をつくたびに隙間から逃げるようにして吐息が漏れ出し、その熱気に自分が酷く興奮している事を嫌がおうにも知らされる。
──あふぅ、うむぅ、んっ……ちゅる、れろ……ん……ん、ちゅちゅる……んんんっ……んっ!
荒い吐息に激しい鼓動。口内に溜まっただ液が隙間からあふれ出し、口端を流れていく。粘度の高いねっとりとしたそれがわたしの肌を伝っていく感触にさえ、わたしはひどく官能を刺激されて強く相手を求めてしまう。
はっきり言って、わたしは酷く興奮し、そして感じていた。それは彼に感じたことのない、彼から与えられた事の無い、性的な興奮だった。
それも当然だ。なぜならわたしはまだ彼とキスしたことなどないのだから。
そんな考えが脳裏によぎり、ファーストキスもまだな彼氏を差し置いてこんな得体の知れない相手──おそらく女性的なものだと思うのが若干の救いではあったが──とこんなことをしていると自覚した一瞬、寂しさと悲しさと怒りと申し訳なさが胸を締め付けた。
──ん! んむ……む、んちゅ、ちゅるる、んづ……ん、んぐ、んんん──、んぷ、んはぁ…!
だが声はそんな考えなど頭から放り出させてやるとばかりな勢いで一気に攻め立ててきた。そして事実わたしの頭が再び性欲に染まり始めたところで……
『それじゃあ、仕上げよ。ふふ、これであなたは新しい自分に生まれ変わるわ』
頑張ってねと、声が最後に言い添えると、
──ん、んぐ! ふぐ! は、はっ、はぁ、あ、あ、あ、あっ! ひぃゃやぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
何か熱く重いものがわたしの口に吹き込まれ、体中に一気に流れ込み駆け抜けた。
その脳髄から指先まで突き抜けた痺れる感覚に、わたしは全身を突っ張らせるようにして震え、そして────
とある街のとある広場。その片隅で、一人の少女が空を見上げていた。
彼女の瞳に映るのは、今現在自分が寄りかかっているレンガ造りの建物の壁と、その上に広がるきれいな冬の夜空だ。日が暮れて久しい澄んだ天空には、街の明かりにも負けずに輝くたくさんの星たちが浮かんでいる。
視線をゆっくりと地上へと下ろして行くと見えるのは、石畳できれいに舗装された広場の中央、街灯に照らされて淡い暖色に色づいた噴水の幻想的なきらめきだ。その噴水の後ろ、広場を囲むように建つ意匠の統一された幾つもの背の高い建物の窓には灯りがともり、無数のやわらかな光が広場をやさしく包み込んでいる。
そしてその目の前の広場には、多くの男女が睦みあっている。
肩を抱いて噴水を眺める男女。初々しさが眩しい青年と少女。それらを見守るベンチの紳士淑女に、それらすらもベランダから覗き込み見渡す夫婦。
彼氏の先をくるくる回ってはしゃぎながら歩く少女に、逆に年下だろう彼氏を嬉しそうに引っ張って行く気の強そうな女性。ポケットに手を突っ込んだ中年の男の腕にそっと自らの腕を絡めてついて行く女性に、一つのマフラーを互いの首に巻いて彼氏にもたれかかるベンチに腰掛けた女の子。
そんな彼らを見ている彼女は自分が長いこと暗い物思いにふけっていた気がしていたが、実際はそうではなかったらしい。顔を下げる前からいたカップルは一組も減ってはおらず、むしろそのいかにも幸せそうな組み合わせは先ほどと比べ数を増していた。
ということは、本当は結構時間が経ったのかもしれない。だが、そんなこと今は心底どうでもよかった。今あるのは、自分も目の前の彼女達のように、愛する男性と今日という特別な日を過ごしたいという素直な気持ちだけだった。
そんな彼女の視線が広場から駆け寄ってくる一人の人影に気付いて向けられた。
彼女はその人影を見た瞬間に誰なのかを理解する。ぱっと、彼女の心は跳ね上がり嬉しさが広がるが、つられて動きそうになった体をほぼ条件反射で制止してしまう。
彼女は手袋の無い冷えた両手をポケットに突っ込んだ姿勢で突っ立ったまま、立てたコートの襟でマフラーを忘れた首を辛うじて寒さから守り、厳しい表情のまま、こちらに駆けて来る彼を迎える。
(ああ、もう、なんでまたかっこつけちゃってるのよわたし……)
ついいつものように見栄を張ってしまった自分に腹を立てる彼女。その事が余計に彼女の顔を厳しくしてしまっていた。
それに気がついたからかはたまた家を飛び出した彼女と顔を合わせづらいのか、彼はあと少しというところで駆けていた歩調を緩め、歩いて彼女への下へと近寄ってきた。
(ああん、もう! なんで一気にきてくれないの!?)
傍から見れば近寄らないでオーラを出している彼女ではあるが内心は正反対だ。一刻も早く彼に自分の直ぐそばまで来て欲しいと思っている。
(来て、今すぐに! お願い!)
しかし彼女のその想いは届かない。それはその想いを形にしていないから。彼女はここに来て、過去の自分のあり方を後悔した。
彼はゆっくりと歩いてくる。それは本当は大した距離ではないし、確実に近くなってきている。けれど彼への鬱屈した想いが募っている彼女には果てしない時間と距離に感じられた。
(お願い! 早く、早く! ……そう、ああ、あとちょっと!)
彼女からすれば何時間にも感じられた時間をかけ、彼は彼女にあと二三歩という所まで近寄って来た。するとその距離で彼は歩みを止めてしまった。
(えっ? ……う、うそ? え、な、なんで? どうして止まっちゃうの!?)
ようやく、ようやく触れられるというところで止まってしまった彼。その事に対して彼女は一気に混乱し不安が押し寄せてきた。
やはり自分は彼に嫌われてしまったのか? 今日のことでとうとう愛想をつかされてしまったのか?
そんなネガティブな考えが次々と浮かんできて、彼女は途端に途方にくれる。
ならば、彼の口からそんな言葉が──死刑宣告にも等しい別れの言葉が出る前に、彼の唇をわたしの唇で塞いでしまえば……そんな考えが浮かんできた。
彼女は今までの自分では思いつきもしないようなその考えに我ながら驚き、その光景を想像した途端あまりの甘美さに腰から背筋をゾクゾクしたものが這い上がってきた。
この体を震わす甘い誘いに乗ってしまおう。そんな今までの自分からは想像できない心の動きに従おうとしたところで……
「これ」
少し距離をとって自分の前に立つ彼が、おもむろにその懐からある物を取り出してこちらに差し出してきた。
それは彼女が発作的に部屋から飛び出してきたときに忘れてしまった手袋とマフラー。
かつて彼からもらった彼と色違いでおそろいの淡い暖色の毛糸のそれ。
それを寒空で震える彼女にかけようと一歩踏み出してきたところで、彼女の中でなにかが一気に弾けた。
──ぽすん。
「うわ……っ、とと……」
気付けばわたしは正面から彼に抱きついていた。それも自分から。
とうとう、わたしはやったのだ。彼からではなくわたしから、わたしの想いのままに彼に甘えられたのだ。
抱きしめて触れる彼から、わたしの突然の行動に驚いている様子が伝わる。
けれど彼は恐る恐るといった様子ながらも、優しくわたしの首筋にマフラーを巻き、そしてそっと抱きしめ返してくれた。
「ごめん」
わたしの髪に顔をうずめるようにして彼が言う。
「……ばか」
彼の胸に顔をうずめるようにしてわたしが言う。
「うん。だからごめん」
申し訳なさそうに彼が言う。
「……わたしが悪いのに謝るんじゃないわよ、ばか」
わたしもつっけんどんではあったけど、精一杯の申し訳なさを込めて呟く。
「そか。ありがとう」
どことなく、嬉しそうに彼が言う。
「……ひどいこと言われてなに感謝してるのよ。ばか」
わたしも何故か嬉しそうに言う。
「だって初めて君からこうしてきてくれたろう? だから、それが嬉しくてさ」
そういって彼は抱きしめていた手を緩め、一度顔をわたしから離す。
感じていた彼のぬくもりが去ってしまう事に寂しさを覚えた私がとっさに顔を上げると、そこには本当に心の底から嬉しそうな、今まで見たことのない彼の満面の笑顔があった。
「あ……」
その笑顔を見た瞬間、ぼっと音を立ててわたしの顔が真っ赤になったのがわかった。
そして同時に理解する。やはりわたしが彼に無理をさせてしまっていたことに。彼に寂しい思いをさせてしまっていたことに。
彼もわたしにこうして欲しかったのに、けれど意地を張ってそれが出来なかったわたし。
でも彼が喜んでくれたように、求めていてくれたように、わたしだって本当はこうしたかったのだ。さっき彼を見つけたときにも自分から駆け寄って、飛びついて、思いっきり首っ玉に噛り付きつきながらキスをしたかったのだ。
でも、やはりそこまではできなかった。幾分素直になったとはいえ、とっさに体を凍らせてしまうのだ。だから、
──ちゅっ♪
わたしのほうから彼の唇にキスをする。ただ唇と唇が触れるだけの、ついばむような幼いキス。
これが今のわたし精一杯。だからもっともっとこれから時間をかけてゆっくりと、わたしの中の“好き”を形に出来るように頑張ろう。
「え、あ、今……えぇ!?」
恥ずかしくてまた彼の胸に顔をうずくまらせてしまったわたしに、彼のおどろいたような、困惑したような、そして嬉しそうな声が聞こえてくる。
「な、なあ、今もしかして……」
「なによ、わたしとじゃ不満なの? あんなにわたしと、その……き、キス、したがってたくせに……」
「ふ、不満なわけあるか! すっげぇ嬉しかったよ!」
「そ、そう。ならよかったじゃない」
「いや、だけどさ、嬉しかったんだけどなんていうか……」
早すぎてよく味わえなかったから、とつぶやく彼。
「だから、もう一回、いい?」
「……っ!! ば、ばか! 人前でそんなに何回もあんな恥ずかしいことできるわけ無いでしょ!?」
「そんな〜」
またも、恥ずかしさに負けて拒否してしまうわたし。でも、彼のその言葉はとても嬉しかった。だから、
「帰ったら、またしてあげてもいいわよ……そ、その、あなたがしたいっていうんなら、キスの、その……先までだって……」
「え? お前……それってもしかして……」
最後は消え入るように言ったわたしの言葉を彼はしっかりと聞いていたらしい。
それがわかって、わたしのこれ以上赤くはならないだろうと思っていた顔がまた赤く熱くなる。
「さ、さあ。それじゃあ早く帰るわよ!」
それ以上の追求がきたらどんな醜態を晒すかが怖くなって、わたしは勢い良く彼から離れくるりと後ろを向く。
「あ、ああ、わかった……って、そうだ、これも」
彼もわたしの勢いに押されてか、それ以上は言ってこなかった。代わりに先に歩き出したわたしを追いかけながら、持ってきたわたしの手袋を渡そうとしてくる。
「ありがとう」
わたしの隣に並ぶ彼。わたしは歩きながら手袋を受け取り、左手にだけはめる。
その様子に不思議そうにする彼。そんな彼が何か言おうとした瞬間、わたしは先手をとって彼の左手から手袋を抜き取ると、むき出しの冷えた右手で強引に鷲づかみ、そのまま彼のコートのポケットへ押し込んだ。
わたしのいきなりの行動に驚く彼。でも直ぐに彼はいつもの優しい笑顔になってわたしを見つめてくる。
「……こっちのほうが、暖かいでしょ……」
「そうだね」
彼のその眼差しはとても優しくて、暖かくて、でもなんでもお見通しだと言わんばかりのその表情は、なんとなく悔しかった。
「冬の夜に随分と待たせてくれたわね。おかげですっかり冷えちゃったじゃないの」
「ごめん」
瞬間、ポケットの中で繋いだ手を、彼がぎゅっと強く握ってくれた。その力強くも優しい握り方から、彼の気遣いと温もりを感じる。わたしの精一杯の強がりは瞬殺された。
「反対の手もこうしてあげられたらよかったのに」
「そうしたら歩けないじゃない。ばか」
「そうだね。あ、そうだ俺の手袋、お前のより大きいからその上から着けてみたら?」
「……そうする」
言われた通り、わたしは彼の黒い手袋をわたしのそれの上に着けた。
それはやっぱり大きくて、まるで彼のようにわたしの冷えた手を優しく包み込んでくれた。
「どう? 少しはあったかくなった?」
「まだ寒い……」
「そか」
わたしの一言に、彼は苦笑い。でもその表情はどこか嬉しそうで、それがわたしとのことで嬉しく思ってくれているのだと思うと、わたしも心が温かくなる。
彼とのこうした何気ない会話が楽しい。それは今までもそうだったけれど、今日のはわたしが少し素直になれたからか、それとも彼と手を触れているからか。まるで今までとは違う嬉しさがあった。そして、わたしは触れ合うことで得られる喜びをもっと先へと進めたかった。
「そうよ、全く誰のせいだと思っているのよ」
「だからそれはごめんって」
「当然よ。だから、責任持ってわたしを温めなさいよ」
「了解です、っと」
彼はそういうと、包み込むようにして握っていた手を、指を絡めるように握りなおす。
また一つ、わたしの心拍数が上がる。
「ん。でもそれじゃあ足りないから帰ったらすぐお風呂に入る」
「だね、それがいいよ」
「だから、あなたは責任持ってわたしを温めなさい。いっしょにお風呂に入って」
「……え!?」
わたしのあまりの発言に、彼がひどく驚くのが解った。でもわたしは止めない。
「そのあとは、もちろんわたしの体もあなたが拭くのよ? 女の子は髪の毛を乾かすのに時間がかかるから、その間もわたしが冷えないようにしっかり気をつけるように」
「…………」
「それで最後は一緒に寝るの。布団のなかでもわたしを温めなさい? わたしが眠るまでずっとぎゅってしてるのよ。いい?」
「…………」
「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
「あ、ああ。ごめん……でも、その、なんていうのか……」
「なによ」
「ホントにいいのか? だってお前ついさっきまであんなに……」
「……わたしがそう言ってるんだから変なこと気にするんじゃないわよ、ばか」
今さら自分の言った事の大胆さに気付いて赤くなるわたし。でも、それはやはりわたしの嘘偽り無い本心からの言葉だった。
「あ、いや、うん。お前がいいんならそれでいいんだ、うん。ただいきなりだったから驚いただけでさ」
そういう彼は、珍しく焦った様子で顔を赤くしていた。どことなく視線もきょろきょろと泳いでいる。
「だけどさ、その、なんというか……」
「……?」
「そんな状況になったら、俺、自分を抑えきれる自信が無い」
「……っ!?」
それでもいいのか? と念を押してくる彼。真剣な表情を向けてくる彼に見つめられ、わたしは顔ごと目を背けながら囁くように言った。
「……かまわないから言ってるんじゃない。察しなさいよ、ばか」
「……そ、そうか、その、ごめんていうか、ありがとうというか、うん。ごめん。ありがとう」
「なによそれ、ほんとばかなんだから」
「ん、でもありがとう。そう言ってくれて嬉しかった」
「……ばか」
それ以降押し黙ってしまうわたしたち。でもその沈黙は嫌なものじゃなくて、二人を包む空気は言葉が無くても繋がっているというような、どこか浮ついた幸福感に満ちていた。
わたしの歩みに合わせて、背の高い彼が歩幅をあわせてくれながら歩いていく。繋いだ手から、彼の優しさとぬくもりが、心ごと伝わってくるように感じる。それだけで、わたしは幸福だった。
そしてお風呂で、布団の上で、わたしが彼に愛されていると想像するだけで……実にはしたなく破廉恥な妄想ではあったけれど、得も言われぬ多幸感が陶酔を伴ってやってきた。
彼の唇が、指が、吐息が、胸板がわたしの肌を這う様を思うだけで……腰の辺りからゾクゾクした震えが全身に走り、それがたまらなく心地よかった。こんなことは初めてだったし、それゆえに、とめどなくこの心地よさを求めてしまう。ましてこれがもし現実に彼から与えられたらと思うと……もうそれだけで脳髄からとろけてしまいそうだった。
彼はわたしがそんな事を考えながら歩いているとは夢にも思っていないだろう。だけどそれが今のわたしだった。『生まれ変わる』と“声”に言われたわたしなのだ。
でもきっと、それはわたしが全くの別人になったという意味ではないだろう。もともとわたしの中にあった、それでいてつまらない意地に邪魔されて心の表に出て来れなかったわたしなのだ。
これからはこのわたしで彼に接し、彼を愛し、彼に愛されるように努力していこう。
今まで出来なかった、彼との幸せな毎日を生きていこう。
今日はその第一歩。その大切な一歩目を、わたしは今まさに踏み出そうとしているのだ。
いよいよ、わたしの部屋に前に着いた。
部屋を飛び出したわたしは鍵を持っていない。彼は一度わたしの手を離しポケットから鍵を取り出そうとする。その様子は、どこか浮ついて見えた。おそらく彼もわたしの変化に若干動揺し、緊張しているのだろう。
ガチャリと鍵が開く、彼が取っ手に手をかけようとした瞬間、わたしはその手を取り、彼を真っ直ぐ見つめながら告げる。
「今までごめんなさい、そしてありがとう。これからもこんなわたしだけどよろしくね」
「ああ、こっちこそありがとう。そしてこれからもよろしく」
彼が飛び切りの笑顔で答えてくれる。ときめく胸でその笑顔を見ながら、わたしは告げる。今まで一度も言えず、その度に後悔したわたしの心からの想いを。それは、
「わたしはあなたが大好きです!! 今までも、これから先も、ずっとずっと大、大、大、大好きです!!」
そう大声で叩きつけるように言って、わたしはたまらず部屋の中に駆け込んだ。
やっぱり直ぐに素直になるのは難しかった。でも、
「俺も、お前が、大、大、大、大、大好きだああああああああ!!」
扉を開け放ち、外から彼がそう叫んでくれた。温厚な彼からすればすごく珍しい事だ。
予想外の彼の返事に、またわたしの顔が熱くなる。
いきなりは無理でも、でも、素直になった甲斐があったと、彼の声の大きさの分だけ愛されていると実感できてとても幸せだった。
きっと、今のわたしならうまくいく。そう確信したわたしはでも早速、このあとどんな顔で彼に会えばいいのか、どうやって彼をお風呂に誘えばいいのかということに、頭を悩ませるのだった。
その二人のやり取りを、高い搭の屋根から見守る影があった。
薄闇の中でも豊満な体つきの女性だとわかるその影は、満足げに微笑むと、ばさりと蝙蝠のような翼を伸ばして羽ばたかせる。そのまま軽く二三度はばかせると、影はすべる様にして搭から旅立った。
今日は聖者の誕生日。しかしてその日を遠因として今宵生まれたのは、はたして正邪のどちらに属するものだろうか。
それは、だれにもわからない。
とある街のとある広場。その片隅で、一人の少女が空を見上げながらつぶやいた。
彼女の瞳に映るのは、今現在自分が寄りかかっているレンガ造りの建物の壁と、その上に広がるきれいな冬の夜空だ。日が暮れて久しい澄んだ天空には、街の明かりにも負けずに輝くたくさんの星たちが浮かんでいる。
視線をゆっくりと地上へと下ろして行くと見えるのは、石畳できれいに舗装された広場の中央、街灯に照らされて淡い暖色に色づいた噴水の幻想的なきらめきだ。その噴水の後ろ、広場を囲むように建つ意匠の統一された幾つもの背の高い建物の窓には灯りがともり、無数のやわらかな光が広場をやさしく包み込んでいる。
夜闇に浮かぶ淡い情景。だが、普段であれば心奪われるだろうその光景も、今の彼女の目には映らない。彼女の瞳には力が無く、焦点も定かではない虚ろな表情で、明かりから取りこぼされた片隅の壁に佇みながらただぼんやりと、人々の集う円形広場の中央に顔を向けているだけだ。まるで心ここにあらずといった様相で、意識はどこか明後日の方向に飛んでいるかのようにも見える。
しかし、実のところ、彼女の意識と視線は確かにあるものへと向けられてはいるのだ。
それは寒空の下、噴水の傍らで美しい水の芸術にはしゃぐ一組の男女であったり、噴水を挟んでその反対側、笑顔のあどけない少女が彼女を待っている青年の下に駆け寄って行く光景であったり、その様子をベンチに腰掛けて見守る仲睦まじい妙齢の男女や、それらを上階の窓辺から微笑んで眺めるやさしげな夫婦といった、実に幸せそうな人々であり……もっと言うならばそうした一つ一つの営みではなく、この広場全体を包む幸福で暖かなやさしい空気に向けられていた。そして彼女は、己の瞳にその全てを映そうとするかのように、ただぼんやりと広場を見つめているのであった。
「……なにやってるんだろう、わたし……」
彼女のつぶやきに白いもやがまとわりつく。
刹那、霞む瞳がゆらめき焦点が戻る。だが、彼女は目の前の幸せな光景から逃げるように視線を外すと、コートの高い襟に寒さで青くなりつつある唇をあご先からうずめていった。
(ほんと……なにやってるんだろう、わたし……)
冬の寒さがマフラーの無い首筋からしみ込んでくる。彼女は立てていた襟を整え直し、剥き出しの白く小さな両手をコートのポケットにしまいこんだ。
そうして体を縮めこませて足元の石畳を見つめながら、口元までうずめた襟の下で再度つぶやくと、彼女はここに至るまでの出来事をなんとはなしに思い返し始めるのだった。
[聖者の誕生日]
わたしには付き合って一年近くになる彼氏がいる。
告白は彼から。
もともと仲がよかったとかでもなく、かといって悪かったというわけでもない。
そもそも好きかとか嫌いかとかそんなことを考えることすら思い浮かばない、ちょっと悪い言い方をすれば、そんなこと考える“必要も無い”、そんな相手。
そう、強いて一言で言うなら……顔見知り以上知り合い未満、というところか。
そんな、特別用が無ければ関わることなんかなにも無い相手。
それはむこうも同じだと当然のように思っていた。いや、思ってすらいなかった。だって、わたしにとって彼のことなんか意識の外側に微かに引っかかっている程度のもの。向こうもわたしと同じ程度の認識なのが当たり前で、そうあるべきはずなのだから。
でも彼は違った。
だから告白されたとき、わたしは驚くことすらできなかった。というか、彼がなにを言っているのかすら解らなかった。その時のわたしを客観的に見ていたら……さぞかし滑稽だっただろう。
「……ええっと、その、もう一回言ってくれる?」
とか、
「付き合ってくれって、別に買い物とかじゃないわよね?」
とか、
「あぁっと、そうか、『好き』って言ってるもんね。てことはこの場合の『付き合ってくれ』は……わたしと男女のお付き合いをして欲しいってことよね……って、わたしと!?」
とかとか。
いくらなんでも挙動不審すぎだった。
しかも、あまりの混乱加減がなぜか妙に思わせぶりな態度になってしまったらしく、
「もぉ〜、いくら告白されて嬉しかったからって、あそこまで照れること無いじゃない!」
とか、
「あなたって実はそうだったんだ! ずっと一緒にいたのに気がつかなかったわ〜〜」
とか、
「でもラッキーよね、相手のほうから来てくれるなんてっ!」
とかとか。
一緒にいた女友達たちに盛大に誤解された挙句、他人の恋愛=蜜の味、な彼女たちの生贄へと途端に祭り上げられてしまった。
しかも最悪なことに告白されたその時その場所で。
告白してきた相手の前で。
その時点で一番誤解されたくない相手の前で。
肝心の彼が告白以上のセリフは言わずに、「返事はいつでもいいんで……」とだけ言い残してすぐに行ってしまったから良いようなものの……きっとそれ以上居たら話はとてもややこしいものになっていただろう。
ともかく、わたしの人生史上初めての(被)告白は、相手に圧倒された挙句に周囲の不本意な誤解を招くという非常に屈辱的な結果となったのだった。しかも、その原因の大半が自分の不手際であるというのがまた一段と悔しさをつのらせる。
もちろんこんな結果に終わった告白だ、された側が恥をかかされたと思っているんだから普通なら失敗に終わるところなんだろう。
でも、まぁ、結論から言ってしまえば……わたしは彼と付き合うことにした。
初めのうちはもちろん断るつもりだった。でも、
「ずっと前から好きでした。僕と付き合ってください」
なんて恥ずかしい台詞の……それでいてとても直球な告白をためらうことなく、しかも周りに人がいるにもかかわらずに堂々としてのけた彼に興味がわいたのだ。それに、これが彼にとって初めての告白だったのと同じように、わたしにとっても初めての告白されるという体験。それにときめきを感じていたのもまた確かだった。
加えて、学校に通うため単身故郷からこの街に出てきたわたしの中に、一人暮らしの寂しさを紛らわしてくれる特別な相手を探していた気持ちもあったのかもしれない。
けれど一番の理由は、彼のそんな自分の気持ちを素直に表してきたところに惹かれたからだと思う。
なぜなら、強がりで意地っ張りなわたしにとって、その素直さは持ち合わせてはいないものだったから。
(……そう、わたしは意地っ張りだ)
彼と付き合ってからの日々、それはとても……とても幸せな日々だった。
彼は思った通りとても素直で、優しく、そしてなによりも、わたしをとても大切にしてくれた。
そんな彼と触れ合って行くうちに、わたしはすぐに……自分でも驚くぐらいどんどん彼のことを好きになって行った。
彼の素直な態度に、わたしは愛されているんだと日々実感することが出来た。
彼の優しい笑顔は、わたしの心をいつでも優しい気持ちにさせてくれた。
彼がわたしを大切にしてくれるたび、わたしも彼を大切にしようと思った。
そんな、とてつもなく幸せな毎日。彼はいつでもわたしに好意を伝えてくれて、それがわたしにはとても嬉しかった。
──けれど、肝心のわたしが彼に素直に好きだと言ったことはただの一度もない。
(ううん、違う。言わないんじゃなくて……言えない。照れくさくって、つい強がっちゃうってだけだ)
もちろん、彼に自分の気持ちを伝えようとしたことは何度もある。でも、いつも喉までは出てくるその言葉を、わたしはとっさに飲み込んでしまう。
彼に自分の想いを伝えようと思うたび、そして彼を好きになればなるほど、わたしは告白されたときのことを思い出しては言葉を飲み込んでしまうのだ。
あのときの自分の姿。ひどくうろたえ、みっともない姿を晒してしまった悔しさと恥ずかしさを思い出してしまい……まるでその失点を取り戻そうとするかのように、大切な彼との関係の始まりで見せてしまった醜態を取り繕おうとするかのように、わたしの口は想いに反した言葉を放ってしまう。
だけれど、自分でも彼に悪いなと治したいなと思っていても、そんなわたしを受け入れてくれる彼の優しさと、告白された側と言う立場に甘えて、わたしのわがままは止まらなかった。
しかも悪いことに、彼に惹かれれば惹かれるほど、好きになればなるほど、それが強くなっていってしまう。
生まれもった性格と、ささやかな自尊心から来る抵抗。
だから、わたしの口をつく言葉と態度はいつでも生意気なものになる。
(……いろんなこと、言っちゃったな……)
──彼は休日になると、わたしをデートに誘ってくれた。
「はぁ〜? せっかくの休みなのに、なんでわざわざあんたと出かけなきゃいけないの?」
だけど、わたしは頷いたりしなかった──
──彼はわたしの部屋に遊びに来ると、わたしの隣に座ろうとしてきた。
「ちょっと、なにくっついてんのよ。あんたはそっち、テーブルの向こうに行きなさい!」
だけど、わたしは座らせたりしなかった──
──彼は別れ際になると、わたしにキスをしてくれようとしてきた。
「……ふんっ。お別れのキスなんて少女チックなマネ、わたしがするとでも思っているの?」
だけど、わたしは唇を許したりはしなかった──
口をついて出てきたのはそんな憎まれ口。そんな風に優しさに甘えた生意気を繰り返すたび……わたしはどんどん素直になる機会を失っていった。
(──でもね、本当はね? 本当は……わたしの本心は違うんだよ?)
「あんたと遠出するなんて、めんどくさ〜い」
──だって、部屋に二人っきりでいたほうが、あなたをずっと独り占めできるじゃない。
「まったく、夏で暑苦しいんだからひっつかないでよねっ」
──だって、隣じゃなくて向かい合わせのほうが、あなたの顔をよく見られるじゃない。
「よくも街中でキスなんて出来たものね。この恥知らず」
──だって、キスするときのわたしの顔、あなた以外になんて見られたくないじゃない!
これがわたしの本心。
──本当のわたしはもう、もう本当にどうしようもないくらい、あなたが好きで好きでたまらないんだよ?
──本当はいつも、あなたの優しさに、笑顔に、大きな腕に……甘えたい、キスしたい、抱きつきたいって……いつもいつでも思ってるんだよ?
わたしのつれない態度は表面上だけ。心の中ではとっくに彼にまいっているのだ。でも……
──なのに、なんで……なんで、素直になれないんだろう? なんで、彼にあんなこと言っちゃうんだろう? なんで、もっと彼に優しくなれないんだろう?
いつもわたしが彼にとるのはひどい態度。
彼のせっかくの好意を、まるでそれが迷惑であると言わんばかりに切り捨ててしまう。
──なんて、かわいくない女なんだろう……わたしは……
本当はもう、彼が好きで好きでたまらなくなっているわたし。
でも、それを彼は知っているのだろうか?
答えは悲しいかな……たぶん、知らないだろう。
なぜか? 簡単な理由だ。単純に、わたしが彼に好きだと伝えたことがないからだ。
それだけじゃない。デートに出かけるときも、手をつなぐときも、一緒にご飯を作るときも、誘うのはいつも彼から。自分から彼に手を伸ばしたりしたことなんて一度もない。
ましてやキスや泊まりにきた時に一緒に寝るのなんて、彼が求めてきても一切許さない。
けれど、
──いくらわたしがそれで満足してても……彼もそうだなんてわけないものね……
わたし自身はキスをしてくれようとするだけで、恥ずかしいわ嬉しいわで、頭が沸騰するくらい幸せだし、泊まりに来てくれた時はかわいい彼の寝顔を見るだけで、一日の疲れが吹っ飛んでしまうほど胸があたたかい気持ちでいっぱいになる。
それこそ、それだけでわたしの許容量が一杯になるほどに。それ以上されたら自分がどうなってしまうのかわからないほどに。
──でも、彼はもっといろんなことをしたいのかも知れない。
──本当はもっと……それこそ一緒に同じ布団で寝たり、一緒にお風呂に入ったり、ご飯をあ〜んって食べさせあったり、腕を組んだままデートしたり……つんけんしてない自然なわたしの笑顔が見たかったり、わたしに好きって言ってもらいたかったり……キス、したり……それから、その……キスの先の……あ、あんなこと、だって……本当はしたいのかも知れない……
いや、かもじゃなくて、わたしと一緒で本当はしたいのだろう。
けど、優しい彼はわたしが素直じゃないばっかりにわたしが望んでないと誤解して、そんなわたしに気を遣ってそこまで踏み込んでこないのだろう。彼は本当にやさしいひとだ。だから、
──わたしのせいだ。わたしのせいで、彼にいらない負担を強いてしまっている……
欲を言えば……強引にいっそそこまで踏み込んで来てくれれば、わたしも開き直って素直になれたのかもしれない。彼のせいだと口では突っ張りつつも心で甘えられたかもしれない。でも、そこまで彼に求めるのはいくらなんでも我侭がすぎる。
もっと早く、わたしがつまらない意地や恥ずかしさにこだわらなければ、お互いに不要な我慢をすることなく、もっと幸せになっていたはずなのだ。
いまさら急に素直になるのが恥ずかしいなんて、みっともないなんて、そんな引っ込みがつかなくなる前に……いや、引っ込みがつかなくなってからでも、つまらない意地なんか張らずに素直に彼の優しさに心を委ねていれば……彼はそんなわたしの恥ずかしさや意地を全部ひっくるめて、きっとやさしく受け止めてくれていたはずなのに。そこから新しい段階へ進めたのに。
だが実際問題、わたしたちはそうではない。
世間一般で言うところの“幸せなカップル”からは程遠い関係だろう。
……ひどく、気分が落ち込む。
彼に申し訳ない。自分の馬鹿さ加減が腹立たしい。つまらない後悔がみっともない。
罪悪感と自己嫌悪が募り、心に黒いじくじくしたナニかが広がっていく感じがした。
とその時、
『確かにその通りね』
ふとどこからか声が聞こえた。
『確かにその通りね』
素直になれない自分。つまらない意地を張る自分。
相手のやさしさに甘えるだけで、自らは動かずそのやさしさに胡坐を書いている自分。
そんな自分が嫌で悩んでいるのに、何一つ解決のための行動が取れないでいる自分。
後悔。苛立ち。罪悪感。自己嫌悪。渇望。
そして申し訳なさと、じくじくとおへその裏に積もるよくわからいナニか。
それらがまとめていっぺんに頭とお腹の底をぐるぐる回り、暗い感情がごちゃごちゃとない交ぜになる。
吐く息も白む寒空の下で、冷たい褐色の壁に力なく寄りかかりながら泥沼のような思考に沈みこんでいると、どこからともなく声をかけられた。
『世間様から見れば、確かにあなたたちは幸せな恋人同士とは言えないかも知れないわ』
その声は際限なく沈んで行くわたしの心の中に直接響くような、なにか不思議な音色を持っていた。
やさしく慈母にあふれた、心に染み入る声音。暗いわたしの心のすべてを暖かく包み込むようでいながら、耳元で甘く妖しく囁かれている、そんな不思議な響き。それがじんわりと胸に広がっていく。
そしてなにより不思議なことは……わたし自身がこの声に何の不審も抱かず、ごく自然に受け入れていることだ。
『ほら、いつまでもくよくよ下を向いていないで顔をお上げなさい?』
この聞き覚えのない声の主がいったい何者なのか、何の目的があってわたしに話しかけたのかといったことを……いや、違う。そもそも、この不思議な声を不思議に思わないことを不思議に思うことすら、この時のわたしは感じていなかった。そして、
『ほら、御覧なさい? ああいうのを“幸せなカップル”っていうのよ』
その声に促されるまま、わたしは気持ち同様下を向いていた顔を上げた。
上げた首が、痛い。沈んだ気の重さにひっぱられたかのように、寒さに冷え切った首筋はしびれ、凝り固まった筋と筋肉のこわばりが重く肩にのしかかってきた。
だがそれ以上にわたしに重くのしかかってきたもの……それは顔を上げたことで再び目にすることになった、あの幸せな広場の光景だった。
── …………。
『あらあら、ますます落ち込んじゃったわね』
それはそうだ。わたしの目の前の広場には、未だ多くの男女が睦みあっている。
肩を抱いて噴水を眺める男女。初々しさが眩しい青年と少女。それらを見守るベンチの紳士淑女に、それらすらもベランダから覗き込み見渡す夫婦。
長いこと暗い物思いにふけっていた気がするが、実際はそうではなかったらしい。顔を下げる前からいたカップルは一組も減ってはおらず、むしろそのいかにも幸せそうな組み合わせは先ほどと比べ数を増していた。
ということは、本当は結構時間が経ったのかもしれない。だが、そんなこと今は心底どうでもよかった。
── …………。
『ふふっ、みんな本当に幸せそうね』
けれど声はまたも沈んでいくわたしを放って置かなかった。
普段のわたしならそれを煩わしく思いそうなものだったが、今のわたしにはそれにいちいち反応するだけの気力すらない。なので、またもわたしは声に返事を返さないでいた。
── …………。
『まぁまぁ。あの若い彼女、彼がよっぽど好きなのね。ふふ、彼に抱きついて離さないわ』
声のほうもわたしを特に気にしている様子ではない。
なので、またもわたしはそれを無視した。が、
『そうよね〜。今日はみんな楽しみな、年に一度の“特別な日”ですものねぇ〜』
── ……っ!!
不意に声が強調した“特別な日”という言葉に、わたしの体と鼓動がびくりと震える。
『……でも、あなたにとっては違う意味でも特別な日なのよね?』
瞬間、声がわたしに“振り向いた”。
今までもわたしに向かって話しかけられてはいたが、それは偶然隣り合わせた人間に退屈紛れのお天気の話をするような類のものだった。
だがこの時のこの一言ははっきりとした意思を持って、わたしに向かって話しかけられたものであった。それはすでに天気を話すおざなりな語り口ではなく、しっかりとした硬さをもった響きだ。
──っ、な、なにを言って……!
『ふふ、ムキにならないの。そうやっていつも失敗してきたんでしょ?』
── ……っな! なんでそこまで……むむぅ!?
声がわたしの唇に“触れた”。
それはあたかも相手の唇に押し立てられた妖艶な美女の指先のように、わたしの言葉を押し留めてしまう。
艶やかな生暖かさが唇から広がり、まるで思考が立ちくらんだかのように脳髄が痺れる。わたしは大した抵抗も出来ずにすぐに大人しくなった。
── ……どうして、それを……?
唇が甘いうずきを残したまま解放される。わたしは呆けながら声に問いかけた。
『あら、“それ”って?』
──だから……どうして今日がわたしの“特別な日”だって、知っているの? どうして“いつもそれで失敗”なんて言ったの? ねえ、どうしてっ!? なんでそんなことを……!!
『あぁ、そのこと。ふふふっ、さぁ、どうしてかしらね?』
話しながら徐々に痺れは取れ、言葉に力と勢いが戻ってくる。
だがまたしてもわたしの問いかけは声にさえぎられ、返ってきたあんまりな言葉がわたしの神経を逆なでしてくる。
──ふざけないでっ!
『まぁまぁ、そんなに怒らないでちょうだい? 別に馬鹿にしたわけではないのよ? ただ、そうねぇ、なんでそんなことがわかるかって言うのは説明してもいいんだけど、時間もかかるし理解してもらえるかもわからないし……それにこの際それは大して重要な話じゃないから、ちょっと脇に置いておこうと思っただけなのよ』
あいかわらずこっちを小馬鹿にしたような話し振りだったが、そこに込められた思いはひどく真摯で誠意が込められたものだった。
だからか……なのかはわからないが、一気に高ぶったさざめく心は再び水を打ったように静かになる。その後に残ったのは純粋な疑問だけだった。
──なら、重要な話って?
呆けたり、怒ったり、かと思えばまた急に落ち着いたりと情緒が不安定だ。
けれどひどく不自然な心の動きにも何の疑問もわかなかった。なのでそれを意識することもなく、わたしは再び声に問いかける。
『話が早くて助かるわ。そう、今重要なのは私があなたの前に現れたということよ』
── ……わたしの前に現れた?
そこでわたしは初めて気がつく。
今わたしが見ている景色の中に、この声の主の姿は見当たらない。
と言うかなぜ、姿が見えないことに疑問を憶えなかったのだろうか? なぜ、わたしは声の主の姿を探さなかったのだろうか? なぜ、ぬけぬけとこんな不審な声の相手を長々していたのだろうか? それに、
── ……あれ? わたし寝ぼけてる? 広場が……
ここでまた初めて気がつく。
いつの間にか視界が寝起き直後のような、どこか焦点の合わないものになっていた。
さっきまではちゃんと見えていたはずなのに、遠くから眺める暖かで幸せな広場の風景はどこかぼんやりとしていて……そう、なにか曇りガラス越しや揺らぐ湖面に映った風景を自分の目ではないナニか越しに覗いている感じで……それでいて、広場全体が壁の平面に無理やり塗りこまれて一枚の絵になった……そんなひどく現実感の薄れた凹凸のない光景が目に映りこんでいた。
── ……これって、一体……。それに、あなたは……?
『ふふ、それも今は大切なことではないわ』
ぼんやりとした視界を認識したとたん、わたしの頭も霞みがかったようにぼんやりしてくる。それと同時に、声にそう言われた途端、声の主が何者でどこにいるだとかそんなことを考えるのが馬鹿らしくなっていた。
理由はわからない。がとにかく、それを考える必要などないと、声を聞き終えた瞬間にそう思っていた。
──なら、いま大切なことっていうのは……なに?
ほとんど反射的に聞き返した。相手の言葉は理解できるが、そこから思考を発展させられなくなっている。
『言ったでしょ? 私があなたの前に現れたことよ。私……いえ、私たちはね、私たちを必要としている人間の前にしか現れないの』
──必要とする、人間? でも、わたしは……
『ええ、そのとおり。確かにあなた自身が望んで私を呼んだわけではないわ』
でも、と声は続ける。
『でもね、あなたは確かに私を必要とした。自ら具体的に望んだ、欲したわけではないけれど、今のあなたには私が必要。だからこそ私はあなたの前に現れたのよ』
── ……意味が、わからないわ……?
本当に意味がわからなかった。ただの言葉遊びのようにも感じるが、感じるだけだ。それ以上深く考えられない。
『ええ、それで構わないわ。今すぐではなくても、いずれはわかることだから……でも、今はそれよりも……』
── ……?
くいっと、声が後ろからわたしのあごをつかんで上を向かせる。
いつの間にかまた下を向いていたわたしの視線は例のぼやけた景色に向けられた。
『見て? みんな幸せそうよね?』
声が囁きかけると曇った景色の一部が鮮明になり、いくつもの小さな円越しに幸せなカップルが姿を現す。それは、曇った窓ガラスを指でぬぐったときに出来る透明な足跡を思い起こさせた。
── ……そう、ね……
『それはなぜ?』
彼女たちの幸福な姿が目に痛い。
──それは……
わたしの口からはうめく様な声しか出なかった。
『そう、今日は特別な日だからよね?』
なのに、声はわたしの考えはお見通しだと言うように先に続ける。
『そして、あなたにとっては違う意味でも特別な日なのよね?』
── ……ええ。
声が前にも尋ねたようなことをまた聞いてくる。今度は特に引っかかることもなく、口から素直に返事がこぼれ出た。
『それは、なぜ?』
──それは……
組み立てた端から崩れていくような思考に、若干の力が戻ってくる。
だがそのなけなしの力を使うまでもなく、答は簡単に浮かび上がってきた。
今日がなぜ特別なのか? それは今日が、年末も押し迫った冬のこの日この日付がこの国の……いや、この世界の多くの国で信じられている宗教にとって特別な意味を持つ祭礼の日だからだ。
遙かな昔に神の御子と呼ばれる最上級の聖人が生まれた日であり……その誕生を祝う聖誕祭、この教えでの最上位の祭礼の一つが行われる日だからだ。
そしてこの日は、年に一度の神聖な日であると同時に恋人たちを祝福する日でもあり……
── ……去年、わたしが彼に告白された日。わたしたちの最初の日、だから……
わたしにとって大切な節目の記念日なのだ。
『そうね。それはとても大切な日よね』
声はさらに続ける。わたしはこくりと無言で頷く。
『せっかくの記念日だし、彼と一緒に喜びたかったのよね?』
こくりと、またも無言で頷く。声はやさしく、まるでわたしを気遣うようだ。
『でも、肝心の彼はここにいない。それはどうして?』
──それは……
言いづらくて、言葉が途切れる。だが声に促され、わたしはその認めるにはつらいが認めざるを得ない理由を口にする。
──それは、わたしがまたわがままを言って……家を、飛び出してきちゃったから……
なんてことない、些細な理由。
いつも通りの、わたしのひねくれた心が生んだ結果。いつものこと。
ケンカにすらならない、わたしの一方的なわがまま。気持ちの暴走。
それが原因で、世界中の恋人が幸せであるべき日に一人、寒空の下で立ちすくんでいる。
『そう……。またやっちゃったのね?』
── ……うん。
『でも、したくてしたわけじゃない。そうよね?』
──それは……そうよ……
当たり前だ。わたしだって本当はそんなことしたくなんてない。
でも、自分でもわからないうちに、なぜかわたしはいつも彼を責めるような形になっていて、それが嫌で、そんな自分が嫌いで、みっともなくて、彼に申し訳なくて、耐えられなくて、気付けばこんなところでうなだれている。
──それに……
『……なあに?』
──それに、こんなこと……家を飛び出すなんてこと、初めてしちゃって……
『どうしていいか、わからない……?』
── ……うん。なんで、こんなことになっちゃたんだろう……
『…………』
もちろん、それは自分のせいだとはわかっている。
でも、いつもならこんなことはしない。せっかく部屋まで来てくれた彼を置いて飛び出すなんてマネ、絶対にしない。それに、
──それに、今日は覚悟……決めてたはず、なのに……
今日は、わたしたちの記念日。
わたしは今日をきっかけにして、生まれ変わるつもりでいた。
『そう……』
わたしは今日、強い決意をもって彼を部屋に迎えたはずだった。
けれどその決心は実を結ばず、結局わたしがとったのはいつも通りの身勝手な態度。
── ……本当は彼に今までのことを謝って、自分の気持ちに素直になって……
『…………』
後悔の念が、勝手に口をつく。
──それで、今までのつまんない見栄や意地なんか取っ払っちゃって……
『…………』
自分が本当にしたかったこと。それが次々と溢れてくる。
──自分の本当の気持ちを……『好き』っていう気持ちをちゃんと言葉で伝えて……
『…………』
──好き、だけじゃなくて、もっといっぱい色んなことを伝えて……
──料理を二人で一緒に作って、隣同士くっつきながら一緒に食べて……
叶わなかった願いはけれど、だからこそ止め処なく零れて行く。
『…………』
──ふざけて食べさせあいっこしながら『おいしい?』なんて聞いたりして……
──わたしの手料理で彼がおなかいっぱいになって……
彼の手料理でわたしがおなかいっぱいになって……
──たくさん話をして、たくさん笑って、二人で気持ちを分け合って、
ふたり幸せなまま、片付けもしないでのんびりごろごろなんかしたりして……
今まで出来なかった分たっぷり甘えて、やさしくてあったかい彼に抱きついて……
──ちょっと遠いけど買ってきた、お気に入りのお店のケーキなんかを食べて……
それから、二人並んで感想を言いっこしながら一緒に後片付けをして……
それから、きゃあきゃあ言いながら一緒にお風呂に入ったりして……
それから、顔を見ながら同じ布団にくるまったりなんかして……
──おやすみって、彼にキスしたり……
おやすみって、彼からキスされたり……
──それに、そう……それから……
それから…………
それで………
それで……
溢れる想いは止まることを知らず、それからしばらくの間、わたしは延々と、後悔とも、願望とも、恨み言とも取れるような呟きを一人ひたすら繰り返した。
もしかしたらその時のわたしは泣いていたのかもしれない。
そして、そんなわたしのうわ言の様な独白の間中、声は静かに、まるで懺悔を受ける聖職者のように、わたしの傍らにそっと寄り添っていてくれていた。
『どう? 少しは落ち着いたかしら?』
どれくらい経っただろう。ひとしきりの想いを吐き出したわたしに、声がやさしく尋ねてきた。
── ……ええ。おかげ様で……
かけられた声は穏やかで、わたしを強く案じてくれているのがわかる。
そして積もりに積もった想いを一気に吐き出したわたしは、ここ最近味わったことのないとてもすっきりとした気持ちでいた。まるで思いっきり泣いた後のような、どことなくけだるいながらもすっきりとした、あの感じ。
『ふふ、そうみたいね。それに随分きれいな顔になったわ』
──そう?
『ええ、そうよ。やっぱり女の子に思いつめた顔は似合わないわ。確かに女の子の泣き顔はそそるものがあるけれど、涙の理由がそんなことじゃ悲しいだけですものね』
──それは悪いことをしたわね。……ていうか、発言がどことなくおじさんっぽいわよ?
思いっきり自分の気持ちをぶつけたからだろうか、何のてらいもなく素直に声と向き合えているのが自分でもわかる。それに、やっぱりさっきわたしは泣いていたみたいだ。おかげで心のもやもやをたくさん洗い流せたようだけれど、人前で泣いたのなんて随分久しぶりだったからか、今更ながらに恥ずかしさがこみ上げてきた。
『あ、あら、そう? ……ちなみにどこらへんかしら?』
── “女の子の泣き顔はそそるものがある”あたりが。
『……そう、かしら? 言われても私は変に思わないんだけれど……』
──自覚がない、っていうのが一番危ないんじゃないかしら? そういうのって自覚症状がないぶん、どんどん悪化していくっていうし。
『ぐぐ……そ、そうね。以後気をつけるわ』
なので、わたしは恥ずかしさを誤魔化すかのように、声のどうでもいい些細なところを拾って突っかかっていく。本当は泣き言に付き合ってくれて感謝しているのに、まったくもって素直じゃない。
きっと、わたしのこういったところはどんなことがあっても変わらないのだろうと、わたしは思う。きっと、これがわたしの本質……とはいかなくても性というやつなんだろう。
そう思うと、自分を素直に認められたことが嬉しくもある反面、自分の一番嫌いなところが自分の心の核となっていることを認めなければいけない……つまり、嫌な自分を治すことは不可能なことだと認めざるを得ないということでもある。それがひどく、わたしを悲しい気持ちにさせた。
『え、えと。それじゃ本題に戻るけど……』
膨れ上がっていた気持ちを解き放ち軽くなっていた気分。それが再び重くなっていく。
嫌な自分を変えられないのであれば、それはつまり彼との幸せはもう望めないないということだ。今のままでは自分はおろか、彼までも不幸にしてしまう。
唐突に訪れた答えは、最も望まない答えだった。
すなわち、彼とこれ以上はもういられないという答え。
一体何度目だろう。いや、何週目だろう。堂々巡りだったいつもの負の思考が遂に終点にたどり着く。
そんな時だった、これもまた一体何度目か、認めるにはつら過ぎる事実に絶望し完全に内に向いた意識は、例の声によって心の奥底から引き戻された。
『あなたは今の自分が嫌いで、そんな自分を変えたいのね?』
── ……そうね。確かに変えたいけど……わたしにはもう無理なことよ……
いきなりな質問だった。が、今更なにがあったところでどうなることでもない。答えたところで何かが変わるわけでもない。
なのにわたしは答えを返す。打ちひしがれた心では力のない返事にしかならなかったが、それでもしっかりと声に対して答えを返していた。
そう、声。もう随分長いこと掛け続けられている不思議な声。
この声にはなぜか、抗い難い力があった。それが何かはわたしにはわからない。けれど、それでもこの声にはなぜかわたしを惹きつけてやまないナニかがある。それに魅せられたかのように、わたしは答える。
特に今掛けられた真摯な声には、今までで一番の“力”があったように感じられた。
そこには「だいじょうぶ。私はまだまだうら若い乙女よ……」などと自信なさ気に呟いていたさっきまでの“姿”はもうどこにもなかった。
その姿はわたしの心のふたを取り払った、あの包み込むような安らぎの、暖かな姿だ。
『なぜ、そんなことを言うかは聞かないわ。なら、“彼”のことは好きかしら?』
──もちろん……!
ほとんど反射的に答えた。これに関しては自信を持ってはっきりと言える。それはさっきまでとはまるで違う生気に満ちた返しだった。
『なら、大丈夫。あなたはまだ大丈夫よ』
── ……? なにを言ってるの?
『あなたはちゃんと人を好きでいられる。なら自分も好きになれるということよ』
──今さら何を言って……!
正直、声のこの発言には少し怒りを覚えた。なにせ、わたしをこの結論まで導いてきたのは他の何者でもないこの声なのだ。わたしからしてみれば、自分で引導を渡しておきながらのこの態度は盗人猛々しいにも程があるとしか思えなかった。
『考えてもみなさい? あなたは本心では何を望み、何がその障害となっているのかを』
それこそ今さらだ。それはわたしももちろん、きっとこのわたしの全てを見透かしているであろう声にとってももう解りきっている事のはずだ。
それをわざわざまたわたしに自身に確認させようだなんて、意地が悪いにも程がある。
けれど、声はそんなわたしの想いとはかけ離れた、宥めるようなやさしい声で話を進めていく。
『あなたは彼との幸せを欲している。けれど素直になれない自分の心がそれを邪魔している……そうよね?』
その通りだ。
『なら答は簡単じゃない。あなたが素直になればいい。それだけじゃなくて?』
──だから!
それが出来ないから苦しいのだ。つらいのだ。悲しいのだ。それができるような人間じゃないからわたしは……!
『わかっているわ、だから私が来たの。あなたが自分の気持ちに素直になれるようにしてあげるために』
なんだそれは? そんなことできっこない。声もわかっていると思うけれど、わたしの天邪鬼っぷりは半端じゃない。筋金入りだ。それも極太だ。鉄骨だ。超合金だ。声が何者かはわからないけれど、無理に決まっている。
『大丈夫、任せて頂戴。絶対にうまくいくわ』
──なんでそう言い切れるのよっ!?
『最初に言った通りよ。私たちは私たちを必要としている人間の前にしか現れない。そしてあなたは確かに私を必要とした。だから私はこうして現れた。確かにあなたが意図して私を呼んだ訳ではないけれど、でも心の奥底では助けを欲した。
そう、私が今ここにいるのはあなたが求めたからであり、ある意味で私はあなた自身の変化が形になったもの。だから私はあなたを助けるし、助ける事が可能なの。これはあなたが変わろうとした努力が実ったもの。だからあなたは当然の帰結として助かるし……そうね、そういう意味では私はあなたという事になるのかもしれないわね』
──なによそれ、何が言いたいのかさっぱりわからないわよ! すっごい意味不明! 結局何が言いたいのよ!
『ふふ、そうよね。だから時間もかかるし、理解してもらえるかもわからないし、大して重要な話じゃないと言ったのよ。ああ、それにいずれはわかることだとも言ったかしらね。まぁ、とにかく早い話が……』
──早い話が、なによ。
『こうすればいいのよ』
── ……んん! ふぐ……んちゅっ!!
そう言うや否や、声はわたしに“キスをした”。
それは信じられないほどの熱さでもって、わたしの唇と口腔内を蹂躙した。
“声”の“唇”がわたしの唇にかぶさり、“舌”が重なった唇から割り込み口内に侵入してくる。
そのあまりの出来事に思わず放心してしまったわたしだったが直ぐに我に帰り、自分の体内に侵入してきた異物を排除しようと舌に力を込め賢明に抵抗を始める。
しかし、わたしの精一杯の反抗をあざ笑うかのように、差し込まれた舌は巧妙にわたしの抵抗をかわして口の中でのたうち始める。その感触に、何故かわたしは相手が女性であると理解した。
──ん、んちゅ、ちゅ……ちゅ、ちゅ……ん! んんんっ……んぱ、んちゅ……
相手の舌先がわたしの舌先や歯茎を這い回り、それは次第に激しくなりながら前歯をなぞってきたり、内頬を撫でてきたりする。その度に舌の触れた先から熱くなり、わたしの口内はじっとりと熱を帯びてくる。
──ちゅ、ちゅ……じちゅ、ん、じゅる……ん、んぷ、んぷはぁっ……!
舌が絡まるほどにわたしの意識はとろけ、とろけるほどに涎があふれ出してくる。気付けば自分の出しただ液で溺れるかと思うほどで、それが恥ずかしさを呼ぶが何故か同時にその事に興奮を感じている自分に気がついた。息苦しさも手伝い、頭はとろけるばかりだった。
──ふはぁ! はぁ、はぁ……んぐ、ん、うむん……んむ……む、んちゅ、んん……
息が詰まるギリギリで声は一旦わたしを解放した。その隙に足りなくなった空気を一気に取り込むが、それは冬のひんやりした綺麗な空気ではなく、どこか重く粘ついた湿っぽいそれだった。吸い込んだ熱気は胸を焦がし体を火照らせる。全身に汗が噴出す予兆を感じた次の瞬間にはわたしの口は再び塞がれた。
──んふぅ、ん、ん……ちゅ、ちゅる……ん、ちゅっ、んはぁ……んちゅ、ちゅちゅ……っ!
思い切り吸い込んだ空気の甘い匂い。肉壁となってついばみ続ける唇の弾力。擦り合わせられる舌の不思議な味。それらにわたしの理性は徐々に、しかし確実にこそぎ落とされていく。
気がつけば始めに抵抗したのが嘘のように相手を受け入れて自分からも舌を動かして応えていた。
──ん、んちゅ……ん、んふぅ……ん! じゅる、ん、んは、ぷはぁ……んはぁ、あん、んく……
唇で足りない分を補うように舌を伸ばし絡めあう。息が続く限りキスをして、たまに息をし、また貪る。息をつくたびに隙間から逃げるようにして吐息が漏れ出し、その熱気に自分が酷く興奮している事を嫌がおうにも知らされる。
──あふぅ、うむぅ、んっ……ちゅる、れろ……ん……ん、ちゅちゅる……んんんっ……んっ!
荒い吐息に激しい鼓動。口内に溜まっただ液が隙間からあふれ出し、口端を流れていく。粘度の高いねっとりとしたそれがわたしの肌を伝っていく感触にさえ、わたしはひどく官能を刺激されて強く相手を求めてしまう。
はっきり言って、わたしは酷く興奮し、そして感じていた。それは彼に感じたことのない、彼から与えられた事の無い、性的な興奮だった。
それも当然だ。なぜならわたしはまだ彼とキスしたことなどないのだから。
そんな考えが脳裏によぎり、ファーストキスもまだな彼氏を差し置いてこんな得体の知れない相手──おそらく女性的なものだと思うのが若干の救いではあったが──とこんなことをしていると自覚した一瞬、寂しさと悲しさと怒りと申し訳なさが胸を締め付けた。
──ん! んむ……む、んちゅ、ちゅるる、んづ……ん、んぐ、んんん──、んぷ、んはぁ…!
だが声はそんな考えなど頭から放り出させてやるとばかりな勢いで一気に攻め立ててきた。そして事実わたしの頭が再び性欲に染まり始めたところで……
『それじゃあ、仕上げよ。ふふ、これであなたは新しい自分に生まれ変わるわ』
頑張ってねと、声が最後に言い添えると、
──ん、んぐ! ふぐ! は、はっ、はぁ、あ、あ、あ、あっ! ひぃゃやぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
何か熱く重いものがわたしの口に吹き込まれ、体中に一気に流れ込み駆け抜けた。
その脳髄から指先まで突き抜けた痺れる感覚に、わたしは全身を突っ張らせるようにして震え、そして────
とある街のとある広場。その片隅で、一人の少女が空を見上げていた。
彼女の瞳に映るのは、今現在自分が寄りかかっているレンガ造りの建物の壁と、その上に広がるきれいな冬の夜空だ。日が暮れて久しい澄んだ天空には、街の明かりにも負けずに輝くたくさんの星たちが浮かんでいる。
視線をゆっくりと地上へと下ろして行くと見えるのは、石畳できれいに舗装された広場の中央、街灯に照らされて淡い暖色に色づいた噴水の幻想的なきらめきだ。その噴水の後ろ、広場を囲むように建つ意匠の統一された幾つもの背の高い建物の窓には灯りがともり、無数のやわらかな光が広場をやさしく包み込んでいる。
そしてその目の前の広場には、多くの男女が睦みあっている。
肩を抱いて噴水を眺める男女。初々しさが眩しい青年と少女。それらを見守るベンチの紳士淑女に、それらすらもベランダから覗き込み見渡す夫婦。
彼氏の先をくるくる回ってはしゃぎながら歩く少女に、逆に年下だろう彼氏を嬉しそうに引っ張って行く気の強そうな女性。ポケットに手を突っ込んだ中年の男の腕にそっと自らの腕を絡めてついて行く女性に、一つのマフラーを互いの首に巻いて彼氏にもたれかかるベンチに腰掛けた女の子。
そんな彼らを見ている彼女は自分が長いこと暗い物思いにふけっていた気がしていたが、実際はそうではなかったらしい。顔を下げる前からいたカップルは一組も減ってはおらず、むしろそのいかにも幸せそうな組み合わせは先ほどと比べ数を増していた。
ということは、本当は結構時間が経ったのかもしれない。だが、そんなこと今は心底どうでもよかった。今あるのは、自分も目の前の彼女達のように、愛する男性と今日という特別な日を過ごしたいという素直な気持ちだけだった。
そんな彼女の視線が広場から駆け寄ってくる一人の人影に気付いて向けられた。
彼女はその人影を見た瞬間に誰なのかを理解する。ぱっと、彼女の心は跳ね上がり嬉しさが広がるが、つられて動きそうになった体をほぼ条件反射で制止してしまう。
彼女は手袋の無い冷えた両手をポケットに突っ込んだ姿勢で突っ立ったまま、立てたコートの襟でマフラーを忘れた首を辛うじて寒さから守り、厳しい表情のまま、こちらに駆けて来る彼を迎える。
(ああ、もう、なんでまたかっこつけちゃってるのよわたし……)
ついいつものように見栄を張ってしまった自分に腹を立てる彼女。その事が余計に彼女の顔を厳しくしてしまっていた。
それに気がついたからかはたまた家を飛び出した彼女と顔を合わせづらいのか、彼はあと少しというところで駆けていた歩調を緩め、歩いて彼女への下へと近寄ってきた。
(ああん、もう! なんで一気にきてくれないの!?)
傍から見れば近寄らないでオーラを出している彼女ではあるが内心は正反対だ。一刻も早く彼に自分の直ぐそばまで来て欲しいと思っている。
(来て、今すぐに! お願い!)
しかし彼女のその想いは届かない。それはその想いを形にしていないから。彼女はここに来て、過去の自分のあり方を後悔した。
彼はゆっくりと歩いてくる。それは本当は大した距離ではないし、確実に近くなってきている。けれど彼への鬱屈した想いが募っている彼女には果てしない時間と距離に感じられた。
(お願い! 早く、早く! ……そう、ああ、あとちょっと!)
彼女からすれば何時間にも感じられた時間をかけ、彼は彼女にあと二三歩という所まで近寄って来た。するとその距離で彼は歩みを止めてしまった。
(えっ? ……う、うそ? え、な、なんで? どうして止まっちゃうの!?)
ようやく、ようやく触れられるというところで止まってしまった彼。その事に対して彼女は一気に混乱し不安が押し寄せてきた。
やはり自分は彼に嫌われてしまったのか? 今日のことでとうとう愛想をつかされてしまったのか?
そんなネガティブな考えが次々と浮かんできて、彼女は途端に途方にくれる。
ならば、彼の口からそんな言葉が──死刑宣告にも等しい別れの言葉が出る前に、彼の唇をわたしの唇で塞いでしまえば……そんな考えが浮かんできた。
彼女は今までの自分では思いつきもしないようなその考えに我ながら驚き、その光景を想像した途端あまりの甘美さに腰から背筋をゾクゾクしたものが這い上がってきた。
この体を震わす甘い誘いに乗ってしまおう。そんな今までの自分からは想像できない心の動きに従おうとしたところで……
「これ」
少し距離をとって自分の前に立つ彼が、おもむろにその懐からある物を取り出してこちらに差し出してきた。
それは彼女が発作的に部屋から飛び出してきたときに忘れてしまった手袋とマフラー。
かつて彼からもらった彼と色違いでおそろいの淡い暖色の毛糸のそれ。
それを寒空で震える彼女にかけようと一歩踏み出してきたところで、彼女の中でなにかが一気に弾けた。
──ぽすん。
「うわ……っ、とと……」
気付けばわたしは正面から彼に抱きついていた。それも自分から。
とうとう、わたしはやったのだ。彼からではなくわたしから、わたしの想いのままに彼に甘えられたのだ。
抱きしめて触れる彼から、わたしの突然の行動に驚いている様子が伝わる。
けれど彼は恐る恐るといった様子ながらも、優しくわたしの首筋にマフラーを巻き、そしてそっと抱きしめ返してくれた。
「ごめん」
わたしの髪に顔をうずめるようにして彼が言う。
「……ばか」
彼の胸に顔をうずめるようにしてわたしが言う。
「うん。だからごめん」
申し訳なさそうに彼が言う。
「……わたしが悪いのに謝るんじゃないわよ、ばか」
わたしもつっけんどんではあったけど、精一杯の申し訳なさを込めて呟く。
「そか。ありがとう」
どことなく、嬉しそうに彼が言う。
「……ひどいこと言われてなに感謝してるのよ。ばか」
わたしも何故か嬉しそうに言う。
「だって初めて君からこうしてきてくれたろう? だから、それが嬉しくてさ」
そういって彼は抱きしめていた手を緩め、一度顔をわたしから離す。
感じていた彼のぬくもりが去ってしまう事に寂しさを覚えた私がとっさに顔を上げると、そこには本当に心の底から嬉しそうな、今まで見たことのない彼の満面の笑顔があった。
「あ……」
その笑顔を見た瞬間、ぼっと音を立ててわたしの顔が真っ赤になったのがわかった。
そして同時に理解する。やはりわたしが彼に無理をさせてしまっていたことに。彼に寂しい思いをさせてしまっていたことに。
彼もわたしにこうして欲しかったのに、けれど意地を張ってそれが出来なかったわたし。
でも彼が喜んでくれたように、求めていてくれたように、わたしだって本当はこうしたかったのだ。さっき彼を見つけたときにも自分から駆け寄って、飛びついて、思いっきり首っ玉に噛り付きつきながらキスをしたかったのだ。
でも、やはりそこまではできなかった。幾分素直になったとはいえ、とっさに体を凍らせてしまうのだ。だから、
──ちゅっ♪
わたしのほうから彼の唇にキスをする。ただ唇と唇が触れるだけの、ついばむような幼いキス。
これが今のわたし精一杯。だからもっともっとこれから時間をかけてゆっくりと、わたしの中の“好き”を形に出来るように頑張ろう。
「え、あ、今……えぇ!?」
恥ずかしくてまた彼の胸に顔をうずくまらせてしまったわたしに、彼のおどろいたような、困惑したような、そして嬉しそうな声が聞こえてくる。
「な、なあ、今もしかして……」
「なによ、わたしとじゃ不満なの? あんなにわたしと、その……き、キス、したがってたくせに……」
「ふ、不満なわけあるか! すっげぇ嬉しかったよ!」
「そ、そう。ならよかったじゃない」
「いや、だけどさ、嬉しかったんだけどなんていうか……」
早すぎてよく味わえなかったから、とつぶやく彼。
「だから、もう一回、いい?」
「……っ!! ば、ばか! 人前でそんなに何回もあんな恥ずかしいことできるわけ無いでしょ!?」
「そんな〜」
またも、恥ずかしさに負けて拒否してしまうわたし。でも、彼のその言葉はとても嬉しかった。だから、
「帰ったら、またしてあげてもいいわよ……そ、その、あなたがしたいっていうんなら、キスの、その……先までだって……」
「え? お前……それってもしかして……」
最後は消え入るように言ったわたしの言葉を彼はしっかりと聞いていたらしい。
それがわかって、わたしのこれ以上赤くはならないだろうと思っていた顔がまた赤く熱くなる。
「さ、さあ。それじゃあ早く帰るわよ!」
それ以上の追求がきたらどんな醜態を晒すかが怖くなって、わたしは勢い良く彼から離れくるりと後ろを向く。
「あ、ああ、わかった……って、そうだ、これも」
彼もわたしの勢いに押されてか、それ以上は言ってこなかった。代わりに先に歩き出したわたしを追いかけながら、持ってきたわたしの手袋を渡そうとしてくる。
「ありがとう」
わたしの隣に並ぶ彼。わたしは歩きながら手袋を受け取り、左手にだけはめる。
その様子に不思議そうにする彼。そんな彼が何か言おうとした瞬間、わたしは先手をとって彼の左手から手袋を抜き取ると、むき出しの冷えた右手で強引に鷲づかみ、そのまま彼のコートのポケットへ押し込んだ。
わたしのいきなりの行動に驚く彼。でも直ぐに彼はいつもの優しい笑顔になってわたしを見つめてくる。
「……こっちのほうが、暖かいでしょ……」
「そうだね」
彼のその眼差しはとても優しくて、暖かくて、でもなんでもお見通しだと言わんばかりのその表情は、なんとなく悔しかった。
「冬の夜に随分と待たせてくれたわね。おかげですっかり冷えちゃったじゃないの」
「ごめん」
瞬間、ポケットの中で繋いだ手を、彼がぎゅっと強く握ってくれた。その力強くも優しい握り方から、彼の気遣いと温もりを感じる。わたしの精一杯の強がりは瞬殺された。
「反対の手もこうしてあげられたらよかったのに」
「そうしたら歩けないじゃない。ばか」
「そうだね。あ、そうだ俺の手袋、お前のより大きいからその上から着けてみたら?」
「……そうする」
言われた通り、わたしは彼の黒い手袋をわたしのそれの上に着けた。
それはやっぱり大きくて、まるで彼のようにわたしの冷えた手を優しく包み込んでくれた。
「どう? 少しはあったかくなった?」
「まだ寒い……」
「そか」
わたしの一言に、彼は苦笑い。でもその表情はどこか嬉しそうで、それがわたしとのことで嬉しく思ってくれているのだと思うと、わたしも心が温かくなる。
彼とのこうした何気ない会話が楽しい。それは今までもそうだったけれど、今日のはわたしが少し素直になれたからか、それとも彼と手を触れているからか。まるで今までとは違う嬉しさがあった。そして、わたしは触れ合うことで得られる喜びをもっと先へと進めたかった。
「そうよ、全く誰のせいだと思っているのよ」
「だからそれはごめんって」
「当然よ。だから、責任持ってわたしを温めなさいよ」
「了解です、っと」
彼はそういうと、包み込むようにして握っていた手を、指を絡めるように握りなおす。
また一つ、わたしの心拍数が上がる。
「ん。でもそれじゃあ足りないから帰ったらすぐお風呂に入る」
「だね、それがいいよ」
「だから、あなたは責任持ってわたしを温めなさい。いっしょにお風呂に入って」
「……え!?」
わたしのあまりの発言に、彼がひどく驚くのが解った。でもわたしは止めない。
「そのあとは、もちろんわたしの体もあなたが拭くのよ? 女の子は髪の毛を乾かすのに時間がかかるから、その間もわたしが冷えないようにしっかり気をつけるように」
「…………」
「それで最後は一緒に寝るの。布団のなかでもわたしを温めなさい? わたしが眠るまでずっとぎゅってしてるのよ。いい?」
「…………」
「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
「あ、ああ。ごめん……でも、その、なんていうのか……」
「なによ」
「ホントにいいのか? だってお前ついさっきまであんなに……」
「……わたしがそう言ってるんだから変なこと気にするんじゃないわよ、ばか」
今さら自分の言った事の大胆さに気付いて赤くなるわたし。でも、それはやはりわたしの嘘偽り無い本心からの言葉だった。
「あ、いや、うん。お前がいいんならそれでいいんだ、うん。ただいきなりだったから驚いただけでさ」
そういう彼は、珍しく焦った様子で顔を赤くしていた。どことなく視線もきょろきょろと泳いでいる。
「だけどさ、その、なんというか……」
「……?」
「そんな状況になったら、俺、自分を抑えきれる自信が無い」
「……っ!?」
それでもいいのか? と念を押してくる彼。真剣な表情を向けてくる彼に見つめられ、わたしは顔ごと目を背けながら囁くように言った。
「……かまわないから言ってるんじゃない。察しなさいよ、ばか」
「……そ、そうか、その、ごめんていうか、ありがとうというか、うん。ごめん。ありがとう」
「なによそれ、ほんとばかなんだから」
「ん、でもありがとう。そう言ってくれて嬉しかった」
「……ばか」
それ以降押し黙ってしまうわたしたち。でもその沈黙は嫌なものじゃなくて、二人を包む空気は言葉が無くても繋がっているというような、どこか浮ついた幸福感に満ちていた。
わたしの歩みに合わせて、背の高い彼が歩幅をあわせてくれながら歩いていく。繋いだ手から、彼の優しさとぬくもりが、心ごと伝わってくるように感じる。それだけで、わたしは幸福だった。
そしてお風呂で、布団の上で、わたしが彼に愛されていると想像するだけで……実にはしたなく破廉恥な妄想ではあったけれど、得も言われぬ多幸感が陶酔を伴ってやってきた。
彼の唇が、指が、吐息が、胸板がわたしの肌を這う様を思うだけで……腰の辺りからゾクゾクした震えが全身に走り、それがたまらなく心地よかった。こんなことは初めてだったし、それゆえに、とめどなくこの心地よさを求めてしまう。ましてこれがもし現実に彼から与えられたらと思うと……もうそれだけで脳髄からとろけてしまいそうだった。
彼はわたしがそんな事を考えながら歩いているとは夢にも思っていないだろう。だけどそれが今のわたしだった。『生まれ変わる』と“声”に言われたわたしなのだ。
でもきっと、それはわたしが全くの別人になったという意味ではないだろう。もともとわたしの中にあった、それでいてつまらない意地に邪魔されて心の表に出て来れなかったわたしなのだ。
これからはこのわたしで彼に接し、彼を愛し、彼に愛されるように努力していこう。
今まで出来なかった、彼との幸せな毎日を生きていこう。
今日はその第一歩。その大切な一歩目を、わたしは今まさに踏み出そうとしているのだ。
いよいよ、わたしの部屋に前に着いた。
部屋を飛び出したわたしは鍵を持っていない。彼は一度わたしの手を離しポケットから鍵を取り出そうとする。その様子は、どこか浮ついて見えた。おそらく彼もわたしの変化に若干動揺し、緊張しているのだろう。
ガチャリと鍵が開く、彼が取っ手に手をかけようとした瞬間、わたしはその手を取り、彼を真っ直ぐ見つめながら告げる。
「今までごめんなさい、そしてありがとう。これからもこんなわたしだけどよろしくね」
「ああ、こっちこそありがとう。そしてこれからもよろしく」
彼が飛び切りの笑顔で答えてくれる。ときめく胸でその笑顔を見ながら、わたしは告げる。今まで一度も言えず、その度に後悔したわたしの心からの想いを。それは、
「わたしはあなたが大好きです!! 今までも、これから先も、ずっとずっと大、大、大、大好きです!!」
そう大声で叩きつけるように言って、わたしはたまらず部屋の中に駆け込んだ。
やっぱり直ぐに素直になるのは難しかった。でも、
「俺も、お前が、大、大、大、大、大好きだああああああああ!!」
扉を開け放ち、外から彼がそう叫んでくれた。温厚な彼からすればすごく珍しい事だ。
予想外の彼の返事に、またわたしの顔が熱くなる。
いきなりは無理でも、でも、素直になった甲斐があったと、彼の声の大きさの分だけ愛されていると実感できてとても幸せだった。
きっと、今のわたしならうまくいく。そう確信したわたしはでも早速、このあとどんな顔で彼に会えばいいのか、どうやって彼をお風呂に誘えばいいのかということに、頭を悩ませるのだった。
その二人のやり取りを、高い搭の屋根から見守る影があった。
薄闇の中でも豊満な体つきの女性だとわかるその影は、満足げに微笑むと、ばさりと蝙蝠のような翼を伸ばして羽ばたかせる。そのまま軽く二三度はばかせると、影はすべる様にして搭から旅立った。
今日は聖者の誕生日。しかしてその日を遠因として今宵生まれたのは、はたして正邪のどちらに属するものだろうか。
それは、だれにもわからない。
10/12/29 09:27更新 / あさがお