ある狐と男の話
ことこと、ことこと。
お鍋の中から漏れ出す空気がカタカタと蓋を揺らす。
良い感じに温まってきたか。俺はちょっと蓋を取ると、おたまでスープを少し掬う。軽く冷ましてから口に運ぶ。なかなか美味……ではあるが、もう少し濃い味の方が良いか。俺自身は薄味上等だが、今から来るだろう隣人は薄いよりは濃い味派だからな。
塩を少しずつ加えながら混ぜ、均等に混ざった頃合でもう一度味見。……まあ、妥協点と言うことにしておこう。
ともあれ、夕飯の準備は終わりだ。エプロン代わりの前掛けを外すと、手を洗ってリビングに戻る。夕飯まで時間はあるが、何をして過ごそうか。剣を振るのも良いし、逆にごろごろしているのも良いかもしれない。
「あ、マルク〜。あがらせてもらってるわよ〜」
そんなことを考えていたが、リビングには先客がいた。
ソファに寝転がって本を読んでいた女性は、俺が部屋に入ってくるとにこやかに手と、七本の尻尾をふるふると揺らす。加えて頭の上の方にある耳から分かるように、四肢は人間のそれでも、明らかに人間ではなかった。
世間一般に言うウルフ種の魔物、『妖狐』のアカネさん。俺の家の隣に住んでいて、一応絵描きの仕事をしているらしい。らしい、というのは、俺はアカネさんの絵を見せてもらったことがないためである。生活できる程度の収入はあるようだから、それなりに上手いのだと思う。
「アカネさん、来てたんですか。……あれ、マルヌさんは来てないんですか?」
「玄関で呼びはしたんだけどね。返事がないから置いてきちゃった。寝てるんじゃないかな」
マルヌさんというのも隣人なのだが、いない人の説明は割愛させていただく。三人とも一人暮らしなので、俺たちはこうして食卓を囲むことがよくある。実質、三人の共同生活のようなものだ。さすがに女性の家には出入りできないが、俺の家には二人とも自由に出入りしているため、今回のようにわざわざ連絡してから集まることは少ない。……それにしてもマルヌさんが寝ているとなれば、日付が変わる前に起きてくるか不安だ。
そんな俺の表情を読んだか、アカネさんはにやりと笑う。
「起こしてきたほうが良かった? 私一人じゃ物足りないかにゃ〜?」
「にゃ〜、って猫じゃないんですから……あと物足りないとかはないです」
「褒め言葉?」
「お好きなように受け取ってください」
俺がソファの手すりに腰掛けると、アカネさんが背中に垂れかかる。いつもならそこで甘い言葉でもかけてくるのだが、今日はそのまま暫く時間が流れた。
アカネさんは、こちらに来て最初に出会った人(魔物)だ。出会い頭が最悪だったのはマルヌさんの方だが、当初の仲の悪さならアカネさんに勝る人はいるまい。
それが、今はこの関係である。なんとなく、アカネさんもそれを思い返している気がした。そう考えると少し気恥ずかしい。
「マルク?」
「なんです?」
「エッチしよ」
「お好きなように」
そう言うと、アカネさんは恨めしそうに耳に噛み付く。甘噛みと言うには強すぎて、普通に痛い。何度も噛み付く、痛い痛い。血が出ますって。
「やる気が感じられない〜。適当に抱いて欲しくないの〜」
「適当になんて、するわけがないです」
「わかっててもそんな風に言われたくないの〜! 私はマルクじゃなきゃ嫌なんだもん!」
耳から首筋に口を下ろし、またがじがじと噛み始める。相対的に痛みは軽くなったが、一応アカネさんは妖狐な訳で……人間より歯も尖っているわけで……首筋噛まれるって、何気に危険度が増しているのでは……?
「がじがじ。がじ……ん。ちゅ。ぺろ。ちゅ、ちゅ」
首筋に噛み付いているうちに、いつの間にか唇が首筋を這い回っている。時折吸い上げる唇の感触はなまめかしく、それでいて子供が触るようなくすぐったさがある。生温かい舌が唇の間から肌を舐め回す感触は、いつ感じてもぞくぞくする。
「マルク……エッチしよ」
半ばソファに押し倒している状態で、アカネさんは再度尋ねてくる。何を言って欲しいのか容易に想像がつく眼差しで。
「……喜んで」
「美味し〜! この味凄く私好み!」
一口口に運んだ瞬間、アカネさんは顔を綻ばせてそう言ってくれた。そんなに美味しそうに食べてもらえれば、作った甲斐があるというものだ。
情事が終わったのは、とうに日も暮れた夜だった。案の定マルヌさんは来ないし、従って止める人もいないし、アカネさんは可愛いしでついつい止まらなくなってしまう。寝かせておくつもりだったシチューも冷め切ってしまい、ついさっき火を通しなおしたのだが、もしかするとそれが良かったのかもしれない。自分で食べてみても、味見したときよりずっと美味しい……気がした。
「も〜、マルクの料理美味しい! こんなの食べてたら自分で料理作りたくなくなっちゃうわよ」
「褒めすぎですよ。それとアカネさんの料理が食べられないのは困ります」
今度また作ってくださいね、と言うと、嬉しそうに頷いてくれた。これでまた楽しみが増えた。リクエストなども考えながら、自然と俺の顔も綻ぶ。
「あ、にやにやしてる。やらしーこと考えてたんでしょ」
「すいません、さっきのアカネさんを思い出してたら、つい」
俺が言うと、傾けていたコップの中のお茶が噴き出される。俺に噴きかからなかったのは良いが、その分自分で被害を被ったアカネさんがげほげほとむせる。
「げほ、ごほ……もう、マルク!」
「すいません。本当はアカネさんの料理が楽しみでした」
「…………上手なんだから」
「お世辞ではないですよ。アカネさんは可愛いです」
そう言うと、アカネさんの顔がみるみる紅潮していく。やがて恥ずかしそうに視線を逸らし、なにかごにょごにょと呟いたが、さすがにそれまでは聞こえなかった。笑い出しそうになるのをこらえながら、俺はシチューを口に運ぶ。
「……ね、マルク」
「はい?」
「今日、泊まっていっても良い?」
上目遣いに尋ねる。俺が頷くと嬉しそうにはにかんだ。
「じゃ、泊まっていくね。マルヌちゃんには悪いけど……今日は寝かせてあげないわよ?」
そういえば結局来なかったなあ、とふと思い出す。が、まあそれはそれだ。
「マルク……好き♪」
抱きついてくるアカネさんを受け止めて、俺は心中呟く。
俺もです。
お鍋の中から漏れ出す空気がカタカタと蓋を揺らす。
良い感じに温まってきたか。俺はちょっと蓋を取ると、おたまでスープを少し掬う。軽く冷ましてから口に運ぶ。なかなか美味……ではあるが、もう少し濃い味の方が良いか。俺自身は薄味上等だが、今から来るだろう隣人は薄いよりは濃い味派だからな。
塩を少しずつ加えながら混ぜ、均等に混ざった頃合でもう一度味見。……まあ、妥協点と言うことにしておこう。
ともあれ、夕飯の準備は終わりだ。エプロン代わりの前掛けを外すと、手を洗ってリビングに戻る。夕飯まで時間はあるが、何をして過ごそうか。剣を振るのも良いし、逆にごろごろしているのも良いかもしれない。
「あ、マルク〜。あがらせてもらってるわよ〜」
そんなことを考えていたが、リビングには先客がいた。
ソファに寝転がって本を読んでいた女性は、俺が部屋に入ってくるとにこやかに手と、七本の尻尾をふるふると揺らす。加えて頭の上の方にある耳から分かるように、四肢は人間のそれでも、明らかに人間ではなかった。
世間一般に言うウルフ種の魔物、『妖狐』のアカネさん。俺の家の隣に住んでいて、一応絵描きの仕事をしているらしい。らしい、というのは、俺はアカネさんの絵を見せてもらったことがないためである。生活できる程度の収入はあるようだから、それなりに上手いのだと思う。
「アカネさん、来てたんですか。……あれ、マルヌさんは来てないんですか?」
「玄関で呼びはしたんだけどね。返事がないから置いてきちゃった。寝てるんじゃないかな」
マルヌさんというのも隣人なのだが、いない人の説明は割愛させていただく。三人とも一人暮らしなので、俺たちはこうして食卓を囲むことがよくある。実質、三人の共同生活のようなものだ。さすがに女性の家には出入りできないが、俺の家には二人とも自由に出入りしているため、今回のようにわざわざ連絡してから集まることは少ない。……それにしてもマルヌさんが寝ているとなれば、日付が変わる前に起きてくるか不安だ。
そんな俺の表情を読んだか、アカネさんはにやりと笑う。
「起こしてきたほうが良かった? 私一人じゃ物足りないかにゃ〜?」
「にゃ〜、って猫じゃないんですから……あと物足りないとかはないです」
「褒め言葉?」
「お好きなように受け取ってください」
俺がソファの手すりに腰掛けると、アカネさんが背中に垂れかかる。いつもならそこで甘い言葉でもかけてくるのだが、今日はそのまま暫く時間が流れた。
アカネさんは、こちらに来て最初に出会った人(魔物)だ。出会い頭が最悪だったのはマルヌさんの方だが、当初の仲の悪さならアカネさんに勝る人はいるまい。
それが、今はこの関係である。なんとなく、アカネさんもそれを思い返している気がした。そう考えると少し気恥ずかしい。
「マルク?」
「なんです?」
「エッチしよ」
「お好きなように」
そう言うと、アカネさんは恨めしそうに耳に噛み付く。甘噛みと言うには強すぎて、普通に痛い。何度も噛み付く、痛い痛い。血が出ますって。
「やる気が感じられない〜。適当に抱いて欲しくないの〜」
「適当になんて、するわけがないです」
「わかっててもそんな風に言われたくないの〜! 私はマルクじゃなきゃ嫌なんだもん!」
耳から首筋に口を下ろし、またがじがじと噛み始める。相対的に痛みは軽くなったが、一応アカネさんは妖狐な訳で……人間より歯も尖っているわけで……首筋噛まれるって、何気に危険度が増しているのでは……?
「がじがじ。がじ……ん。ちゅ。ぺろ。ちゅ、ちゅ」
首筋に噛み付いているうちに、いつの間にか唇が首筋を這い回っている。時折吸い上げる唇の感触はなまめかしく、それでいて子供が触るようなくすぐったさがある。生温かい舌が唇の間から肌を舐め回す感触は、いつ感じてもぞくぞくする。
「マルク……エッチしよ」
半ばソファに押し倒している状態で、アカネさんは再度尋ねてくる。何を言って欲しいのか容易に想像がつく眼差しで。
「……喜んで」
「美味し〜! この味凄く私好み!」
一口口に運んだ瞬間、アカネさんは顔を綻ばせてそう言ってくれた。そんなに美味しそうに食べてもらえれば、作った甲斐があるというものだ。
情事が終わったのは、とうに日も暮れた夜だった。案の定マルヌさんは来ないし、従って止める人もいないし、アカネさんは可愛いしでついつい止まらなくなってしまう。寝かせておくつもりだったシチューも冷め切ってしまい、ついさっき火を通しなおしたのだが、もしかするとそれが良かったのかもしれない。自分で食べてみても、味見したときよりずっと美味しい……気がした。
「も〜、マルクの料理美味しい! こんなの食べてたら自分で料理作りたくなくなっちゃうわよ」
「褒めすぎですよ。それとアカネさんの料理が食べられないのは困ります」
今度また作ってくださいね、と言うと、嬉しそうに頷いてくれた。これでまた楽しみが増えた。リクエストなども考えながら、自然と俺の顔も綻ぶ。
「あ、にやにやしてる。やらしーこと考えてたんでしょ」
「すいません、さっきのアカネさんを思い出してたら、つい」
俺が言うと、傾けていたコップの中のお茶が噴き出される。俺に噴きかからなかったのは良いが、その分自分で被害を被ったアカネさんがげほげほとむせる。
「げほ、ごほ……もう、マルク!」
「すいません。本当はアカネさんの料理が楽しみでした」
「…………上手なんだから」
「お世辞ではないですよ。アカネさんは可愛いです」
そう言うと、アカネさんの顔がみるみる紅潮していく。やがて恥ずかしそうに視線を逸らし、なにかごにょごにょと呟いたが、さすがにそれまでは聞こえなかった。笑い出しそうになるのをこらえながら、俺はシチューを口に運ぶ。
「……ね、マルク」
「はい?」
「今日、泊まっていっても良い?」
上目遣いに尋ねる。俺が頷くと嬉しそうにはにかんだ。
「じゃ、泊まっていくね。マルヌちゃんには悪いけど……今日は寝かせてあげないわよ?」
そういえば結局来なかったなあ、とふと思い出す。が、まあそれはそれだ。
「マルク……好き♪」
抱きついてくるアカネさんを受け止めて、俺は心中呟く。
俺もです。
10/03/04 01:07更新 / 染色体