崩壊(ほうかい)
そこでヤオノの話は一息つく。
それを聞いていた周囲の皆もしんみりとなる。
「僕は店や飢饉への対応に掛かりっきりでしたから、
あまり事件のことは知らなかったのですが・・・そんなことが。」
アマヅメがヤオノの空になった御猪口(おちょこ)に酒を注ぎながら言う。
それを受けてウロブサが続ける。
「何せ内容が内容じゃからな。ワシやシュカ、ランはある程度知っていたが、
本人の口から言うまでは勝手に言ってよい内容でもなかろうと思い。
悪いがアマヅメには今日まで言えなんだ。」
「いいんです。無理も無い話です。それで・・・その・・・」
「その後は、その後はどうなったんや? それで終いやと色々おかしいやろ。」
言いづらそうに言葉を濁すアマヅメ、
そしてそれとは対照的にずばりと切り込むナジム。
そんな二人を見てくすりと笑うヤオノ。
「そうね、これでお終いじゃないわよ当然。
これでお終いじゃあ到底話せる内容じゃないもの。
それといきなりで何だけど、今日はみんなの他にもゲストを招いているの。」
そう言うと、ヤオノはみなで囲む火に背を向け、シルエットになっている森に声を飛ばした。
「お待たせ、もう出てきてもいいわ。」
((っ?!))
それまで何も感じなかった森の中に、気配や匂い、魔力などの出現を感じ驚く狸達。
そして森の中から出てくる4人の人影、男3人に女1人の編成である。
その女性は薄手の格好で、ワイヤーのような細い尻尾をゆらりと生やしている。
「その匂い、あなたは・・・」
「何時ぞやは・・・」
アマヅメを見て軽く一礼する女性。噂どおり必要以上は語らぬ信条らしい。
「やはり、僕の結界を破って店から盗みを働いたクノイチさんですよね。」
「はい・・・それと、そこのあなた。」
「ん? なんじゃい。」
クノイチはウロブサの方へと視線を向ける。
「依頼者のヤオノ様は兎も角、あなたも驚きませんでしたね。」
「ああ、場所や人数まではわからなんだが、潜んでおるのは知っておったからの。
こちとら御主が生まれる前、クノイチとやりあったことも何度かあるでの。
見抜き方は企業秘密じゃが、まあコツがあるのよ。」
シュカは立っている面子の中に見知った顔(?)を見て話しかける。
「よう、ひさしぶりじゃねえか。相変わらず変なお面してんのな。」
「流派の当代が代々受け継ぐ物にござる。変呼ばわりは勘弁願いたいでござるよ。」
「その格好、物部様・・・でしょうか?」
「・・・その通りでござるよ。ええと、アマヅメ殿にござるか。」
「はい、よろしくお願いいたします。」
礼儀正しくお辞儀をするアマヅメを面の中からじぃと見つめる物部。
「・・・? ええと、何か?」
「・・・いやいやいやっ、な・・・何でもござらんよ。何でも。」
そしてアマヅメはクノイチの隣に立つもう一人の男性にも声を掛ける。
「とすると、その御顔と体付き、あなたは武太夫様でございますね。」
「いかにも、私は武太夫だ。」
「今までの話はこの人達の私との関わりの説明でもあったわけ。」
ヤオノはアマヅメとナジムにそう説明する。
「成る程、どういうつもりでこの会談を開いたのか、
それについてこいつらも一枚噛んどるっちゅうわけか。」
「ええ、その通りよナジム。」
「・・・ちょっと待ってください。ええと、ではあと一人、
この方は・・・いったいぜんたい、どなたでいらっしゃいますか?」
場に現れた4人のうち、最後の1人の該当者が解らないアマヅメはヤオノに尋ねた。
「それはこれから話すわ。アマヅメ。」
※※※
畳が敷かれたかび臭い一室、
少々薄暗いながらも室内を見渡せば其処には机や座布団もあり、
一見ただの普通の部屋のように見える。
しかし、廊下との境に目を向ければその異常性が一目瞭然である。
四角く太い木材が格子状に組まれ、部屋と通路を仕切っている。
ここは五郎左衛門が秘密裏に作らせた座敷牢である。
二の丸にある建物の一つに、どんでん返しで壁が動く場所が有り、
その奥に必要なら人を軟禁するために作られた代物である。
今、其処に一人の男が閉じ込められていた。
明かり取りの窓が高所に設置されているので昼か夜かは解る。
だが食事や糞尿を入れる壷の交換など、
必要最低限の接触を除けば誰も来ない此処で一人。
ただ男は閉じ込められ続けていた。
其処で男は窮地に立たされていた。
(腹はいいが・・・喉の渇き、如何ともしがたい・・・な)
じりじりと照り付けられるように体は乾きを彼に訴える。
しかし無い袖は振りようがない。
自分の尿を再び取り込むことで誤魔化してきたが、
それもそろそろ限界らしい。
ここ数日、来るはずの食事や飲み水の補給が一向に来ない。
ついに生かしておく価値が無くなったので自分を殺すことにしたのだろうか?
それにしても飢え死にを待つとは、なるべく苦しませてから殺そうとでも?
それとも、彼が何日持つのか賭けでもしているのだろうか。
あの五郎左衛門ならやりかねない。
彼はそう考えて憂鬱な気分を増した。
あとどれくらい、この焦燥のような焼ける苦しみに耐えればよい?
最早思考も飛び飛びで意識は断続的に落ちる。
いよいよ限界が近いのだろうと肌で感じでいるこの頃だ。
うつ伏せで動けぬ彼の耳に音が聞こえた。
誰かが入ってきた音だ。その音は徐々に近づき、牢の外でその足を止めた。
「まだ生きておるか?」
彼は声を出せる程喉が潤っていないので、軽く指で畳を引っかくことで返事とした。
「結構。それにしても臭いなやはり。」
男は無遠慮に鍵を開け牢内に入ってくる。臭いのは当然だ。
壷に入れた糞尿も取り替えていないまま数日が経過している。
蓋は閉めてあるがそれで誤魔化せる域はとうに過ぎていよう。
もっとも、この室内にずっといる彼の鼻はもうとうに馬鹿になっていて、
格段臭いとは感じないのであるが。
文句を言いつつも、それから男は彼に対し水を始めとして食事を振舞ってくれた。
甲斐甲斐しく口にまで運んで彼に食事を取らせてくれる男。
「・・・餓死させる・・・つもり・・・かと・・・」
湿った唇と舌、そして潤った喉は久しぶりに彼の口から言葉を発することを許した。
「すまぬな。そのような気はまったくなかったが、
ここ数日とても立て込んでいてな。命令系統もめちゃくちゃになってしまい、
ただでさえ存在を知る者の限られる御主の世話係。
それに命じる立場の者がいなくなってしまったのでな。」
男の言葉を聞いた彼の脳みそは、
その言葉に込められた意味を飲み込むのに時間を要した。
人心地ついて間もなく、まだ茫漠としたままの頭が何か警鐘を鳴らしている。
「・・・それは・・・」
「まだ飲み込めておらぬ様子だな。もっと具体的に言おう。
数日前・・・五郎左衛門が・・・死んだ。」
なんの誇張も形容も無く、ただの事実というにはあまりに重い一言を男は発する。
流石にそれを聞いて彼の瞳に驚愕の色が浮ぶ。
「何故・・・誰が?」
「因果応報・・・自業自得・・・もっとも、原因の一端を私も担っていたがな。」
※※※
清々しい朝。
このような朝を迎えるのはどれくらい久しい事であろうか。
体が軽い、そして世界が色鮮やかに鮮明に見えてくる。
それは勝利に浮かれる心がもたらした精神的なものだけではない。
(これ程の物とはのう。何故もっと早くこれを試さなんだか・・・)
昨晩、水で薄めて微量に試した人魚の血。
長寿というだけでなく、老体を若返らせる効果があるらしい。
五郎左衛門、彼の健康状態は驚く程の回帰を見せていた。
極微量であったため、見た目が大きく変化するほどではなかったが、
その効能は凄まじいの一言であった。
今朝の食事は格別であった。食欲も増して箸が自分でも驚く程進んだ。
血色や肌の張りだけでなく、顔の皺も減っていた。
見比べれば別人のようでさえあったが、
若返りなど考えもしない周囲の者達はどうしたのかと首を傾げるばかりである。
彼の世話係達も内心の驚きを隠せないでいる、そんな様が彼にはおかしかった。
若返り、五感が鋭敏さを取り戻すことにより、
五郎左衛門は十二分に世界を堪能する。
体は意のままにきびきびと動き、久しぶりに木刀で素振りをし汗をかき、
後に鼻と舌、胃袋で贅をつくした昼食を堪能。
邪魔者に頭を悩まされること無くのびのびと藩政を執り行い。
天守から城下を見下ろして悦に入りながら酒を嗜む。
(素晴らしい 素晴らしい 素晴らしい
これが若さか、健康は何にも勝る宝というが、至言じゃな。)
五郎左衛門は絶頂であった。
勝利という美酒と若さという至高の宝が同時に手に入り。
今や彼を脅かすものは何も無い。
晴々とした彼の心はまるで天守から見渡せる空の色と同じようであった。
そんな彼の溢れる若さがあるものを彼に所望する。
何十年も失われ、忘れ去られていた感覚だ。
疼く様なそれは喉が渇いた感覚に似て。強烈に彼を突き動かす衝動となる。
「ふふ、何とも久しい。この熱き滾り。どうはらしてくれよう。」
町に繰り出し女でも買うか、などと考える五郎左衛門の頭にある人物の顔が思い出される。
「そういえば、あれ以来会うておらぬな。部下共にまかせっきりであった。
どうれ、何も知らぬただの箱入りがどうなったか、
見に行きがてら若さを謳歌するとしようかのう。」
下卑た笑みを浮かべつつ、五郎左衛門はある一室を目指した。
本丸の二階、階段に見張りが立ててあり、此処を通らねば誰も他の階にはいけない。
無理に出ようとするなら壁や窓の格子を破るか、屋根を伝って下に下りるしかない。
前者は女の細腕で出来ることではないし、
後者は屋根にいるうちに他の見張りに見つかる。
この二階全体を使い、御紺を実質軟禁状態にしてある
間を広く取ったのは、見張りに行為を聞かれているとあっては興が削がれるからである。
五郎左衛門は当然顔パスで見張りの前を抜けると、階段から奥まった所にある一室に向かう。
どのような顔をして自分を見るのか、その顔に浮ぶは諦念か、激情か、それ以外の何かか。
五郎左衛門は少々楽しみになり、うきうきしつつ御紺のいる部屋を目指す。
扉の向こうには崩れ落ち、着物を着崩したままぴくりともしない女性がいた。
脚も太股まで覗き、胸元も大きく開いたままだ。
部屋には据えた獣の匂いが漂い、空気が淀んでいるように感じられる。
「随分とお盛んだったようだな。こんな所にばかり精を出しおって。」
シンとした室内に五郎左衛門の苦笑が響く。
すると人形のように崩れていた御紺が反応を示す。
ずずっと衣擦れの音と素足が畳を擦る音が空気を引っ掻く。
顔が持ち上がり空ろだった表情に色が戻る。
その顔色を見て五郎左衛門は打ち震えた。
頬はこけ始め、化粧で誤魔化しが効かなくなってきている。
目の周囲も窪んでいるが、目だけがギラギラと輝いていた。
まるで手負いの獣を檻の外から眺めているようだ。
五郎左衛門はその表情に、天守に乗り込んできた化け狸と同じ色を感じ興奮する。
(これだからやめられぬ。なしとうて悪であるわけでないが、
このような表情をした者を蹂躙し、魂の搾りかすをさらに砕くのは何とも言えぬ愉悦よ。)
狡猾で用心深く、これまで幾度と無く死線を見据え潜ってきた男。
海千山千の五郎左衛門、この日彼には油断があった。
以前の彼なら、彼女の表情から・・・部屋に入った瞬間漂う死臭から・・・
嗅ぎつけたであろう。自分の目の前に広がった暗い落とし穴を。
肌で感じたであろう。自分に迫る死神が立てる足音を。
だが、勝利に浮かれ、若さという美酒に酔い。
性という久方ぶりの欲望に目を曇らせた彼は近づいてしまった。
手負いの獣にも牙や爪はあるということを失念したまま。
※※※
五郎左衛門が部屋を訪ねる数刻前、同じ室内には動かない御紺と一人の男がいた。
「恨んでいるか?」
男はぴくりともしない御紺に一人語りかける。
だが御紺は男の言を聞いているのかいないのか、
何も反応を返さず。男の前にこの部屋に来た者に犯された姿のまま動かない。
武太夫、彼に女と無理矢理事をなす趣味はない。
だが、今は御紺と子作りすることが半ば強制の業務となっている。
持ち回りで事をなすことで、みなで共犯となり連帯感を強め。
裏切りを防ぎ罪悪感を薄めさせる。
肝の小さな者達の矮小な自己満足。
それに異を唱えられる立場に彼はいない。
与えられた時間。ただ何もせず此処にいる以外にすべはない。
「・・・これを・・・」
武太夫は彼女に懐から出した匕首(あいくち)を渡す。
「自害するなり、拙者に斬りかかるなり好きにいたせ。」
指を開き、それを御紺に無理矢理握らせるが、彼女は反応せず虚空を見つめたままだ。
そのまま時間が過ぎ去り、武太夫は部屋を黙ったまま去った。
一人になった部屋の中で、御紺は少しずつ動き、匕首を懐に隠した。
それを聞いていた周囲の皆もしんみりとなる。
「僕は店や飢饉への対応に掛かりっきりでしたから、
あまり事件のことは知らなかったのですが・・・そんなことが。」
アマヅメがヤオノの空になった御猪口(おちょこ)に酒を注ぎながら言う。
それを受けてウロブサが続ける。
「何せ内容が内容じゃからな。ワシやシュカ、ランはある程度知っていたが、
本人の口から言うまでは勝手に言ってよい内容でもなかろうと思い。
悪いがアマヅメには今日まで言えなんだ。」
「いいんです。無理も無い話です。それで・・・その・・・」
「その後は、その後はどうなったんや? それで終いやと色々おかしいやろ。」
言いづらそうに言葉を濁すアマヅメ、
そしてそれとは対照的にずばりと切り込むナジム。
そんな二人を見てくすりと笑うヤオノ。
「そうね、これでお終いじゃないわよ当然。
これでお終いじゃあ到底話せる内容じゃないもの。
それといきなりで何だけど、今日はみんなの他にもゲストを招いているの。」
そう言うと、ヤオノはみなで囲む火に背を向け、シルエットになっている森に声を飛ばした。
「お待たせ、もう出てきてもいいわ。」
((っ?!))
それまで何も感じなかった森の中に、気配や匂い、魔力などの出現を感じ驚く狸達。
そして森の中から出てくる4人の人影、男3人に女1人の編成である。
その女性は薄手の格好で、ワイヤーのような細い尻尾をゆらりと生やしている。
「その匂い、あなたは・・・」
「何時ぞやは・・・」
アマヅメを見て軽く一礼する女性。噂どおり必要以上は語らぬ信条らしい。
「やはり、僕の結界を破って店から盗みを働いたクノイチさんですよね。」
「はい・・・それと、そこのあなた。」
「ん? なんじゃい。」
クノイチはウロブサの方へと視線を向ける。
「依頼者のヤオノ様は兎も角、あなたも驚きませんでしたね。」
「ああ、場所や人数まではわからなんだが、潜んでおるのは知っておったからの。
こちとら御主が生まれる前、クノイチとやりあったことも何度かあるでの。
見抜き方は企業秘密じゃが、まあコツがあるのよ。」
シュカは立っている面子の中に見知った顔(?)を見て話しかける。
「よう、ひさしぶりじゃねえか。相変わらず変なお面してんのな。」
「流派の当代が代々受け継ぐ物にござる。変呼ばわりは勘弁願いたいでござるよ。」
「その格好、物部様・・・でしょうか?」
「・・・その通りでござるよ。ええと、アマヅメ殿にござるか。」
「はい、よろしくお願いいたします。」
礼儀正しくお辞儀をするアマヅメを面の中からじぃと見つめる物部。
「・・・? ええと、何か?」
「・・・いやいやいやっ、な・・・何でもござらんよ。何でも。」
そしてアマヅメはクノイチの隣に立つもう一人の男性にも声を掛ける。
「とすると、その御顔と体付き、あなたは武太夫様でございますね。」
「いかにも、私は武太夫だ。」
「今までの話はこの人達の私との関わりの説明でもあったわけ。」
ヤオノはアマヅメとナジムにそう説明する。
「成る程、どういうつもりでこの会談を開いたのか、
それについてこいつらも一枚噛んどるっちゅうわけか。」
「ええ、その通りよナジム。」
「・・・ちょっと待ってください。ええと、ではあと一人、
この方は・・・いったいぜんたい、どなたでいらっしゃいますか?」
場に現れた4人のうち、最後の1人の該当者が解らないアマヅメはヤオノに尋ねた。
「それはこれから話すわ。アマヅメ。」
※※※
畳が敷かれたかび臭い一室、
少々薄暗いながらも室内を見渡せば其処には机や座布団もあり、
一見ただの普通の部屋のように見える。
しかし、廊下との境に目を向ければその異常性が一目瞭然である。
四角く太い木材が格子状に組まれ、部屋と通路を仕切っている。
ここは五郎左衛門が秘密裏に作らせた座敷牢である。
二の丸にある建物の一つに、どんでん返しで壁が動く場所が有り、
その奥に必要なら人を軟禁するために作られた代物である。
今、其処に一人の男が閉じ込められていた。
明かり取りの窓が高所に設置されているので昼か夜かは解る。
だが食事や糞尿を入れる壷の交換など、
必要最低限の接触を除けば誰も来ない此処で一人。
ただ男は閉じ込められ続けていた。
其処で男は窮地に立たされていた。
(腹はいいが・・・喉の渇き、如何ともしがたい・・・な)
じりじりと照り付けられるように体は乾きを彼に訴える。
しかし無い袖は振りようがない。
自分の尿を再び取り込むことで誤魔化してきたが、
それもそろそろ限界らしい。
ここ数日、来るはずの食事や飲み水の補給が一向に来ない。
ついに生かしておく価値が無くなったので自分を殺すことにしたのだろうか?
それにしても飢え死にを待つとは、なるべく苦しませてから殺そうとでも?
それとも、彼が何日持つのか賭けでもしているのだろうか。
あの五郎左衛門ならやりかねない。
彼はそう考えて憂鬱な気分を増した。
あとどれくらい、この焦燥のような焼ける苦しみに耐えればよい?
最早思考も飛び飛びで意識は断続的に落ちる。
いよいよ限界が近いのだろうと肌で感じでいるこの頃だ。
うつ伏せで動けぬ彼の耳に音が聞こえた。
誰かが入ってきた音だ。その音は徐々に近づき、牢の外でその足を止めた。
「まだ生きておるか?」
彼は声を出せる程喉が潤っていないので、軽く指で畳を引っかくことで返事とした。
「結構。それにしても臭いなやはり。」
男は無遠慮に鍵を開け牢内に入ってくる。臭いのは当然だ。
壷に入れた糞尿も取り替えていないまま数日が経過している。
蓋は閉めてあるがそれで誤魔化せる域はとうに過ぎていよう。
もっとも、この室内にずっといる彼の鼻はもうとうに馬鹿になっていて、
格段臭いとは感じないのであるが。
文句を言いつつも、それから男は彼に対し水を始めとして食事を振舞ってくれた。
甲斐甲斐しく口にまで運んで彼に食事を取らせてくれる男。
「・・・餓死させる・・・つもり・・・かと・・・」
湿った唇と舌、そして潤った喉は久しぶりに彼の口から言葉を発することを許した。
「すまぬな。そのような気はまったくなかったが、
ここ数日とても立て込んでいてな。命令系統もめちゃくちゃになってしまい、
ただでさえ存在を知る者の限られる御主の世話係。
それに命じる立場の者がいなくなってしまったのでな。」
男の言葉を聞いた彼の脳みそは、
その言葉に込められた意味を飲み込むのに時間を要した。
人心地ついて間もなく、まだ茫漠としたままの頭が何か警鐘を鳴らしている。
「・・・それは・・・」
「まだ飲み込めておらぬ様子だな。もっと具体的に言おう。
数日前・・・五郎左衛門が・・・死んだ。」
なんの誇張も形容も無く、ただの事実というにはあまりに重い一言を男は発する。
流石にそれを聞いて彼の瞳に驚愕の色が浮ぶ。
「何故・・・誰が?」
「因果応報・・・自業自得・・・もっとも、原因の一端を私も担っていたがな。」
※※※
清々しい朝。
このような朝を迎えるのはどれくらい久しい事であろうか。
体が軽い、そして世界が色鮮やかに鮮明に見えてくる。
それは勝利に浮かれる心がもたらした精神的なものだけではない。
(これ程の物とはのう。何故もっと早くこれを試さなんだか・・・)
昨晩、水で薄めて微量に試した人魚の血。
長寿というだけでなく、老体を若返らせる効果があるらしい。
五郎左衛門、彼の健康状態は驚く程の回帰を見せていた。
極微量であったため、見た目が大きく変化するほどではなかったが、
その効能は凄まじいの一言であった。
今朝の食事は格別であった。食欲も増して箸が自分でも驚く程進んだ。
血色や肌の張りだけでなく、顔の皺も減っていた。
見比べれば別人のようでさえあったが、
若返りなど考えもしない周囲の者達はどうしたのかと首を傾げるばかりである。
彼の世話係達も内心の驚きを隠せないでいる、そんな様が彼にはおかしかった。
若返り、五感が鋭敏さを取り戻すことにより、
五郎左衛門は十二分に世界を堪能する。
体は意のままにきびきびと動き、久しぶりに木刀で素振りをし汗をかき、
後に鼻と舌、胃袋で贅をつくした昼食を堪能。
邪魔者に頭を悩まされること無くのびのびと藩政を執り行い。
天守から城下を見下ろして悦に入りながら酒を嗜む。
(素晴らしい 素晴らしい 素晴らしい
これが若さか、健康は何にも勝る宝というが、至言じゃな。)
五郎左衛門は絶頂であった。
勝利という美酒と若さという至高の宝が同時に手に入り。
今や彼を脅かすものは何も無い。
晴々とした彼の心はまるで天守から見渡せる空の色と同じようであった。
そんな彼の溢れる若さがあるものを彼に所望する。
何十年も失われ、忘れ去られていた感覚だ。
疼く様なそれは喉が渇いた感覚に似て。強烈に彼を突き動かす衝動となる。
「ふふ、何とも久しい。この熱き滾り。どうはらしてくれよう。」
町に繰り出し女でも買うか、などと考える五郎左衛門の頭にある人物の顔が思い出される。
「そういえば、あれ以来会うておらぬな。部下共にまかせっきりであった。
どうれ、何も知らぬただの箱入りがどうなったか、
見に行きがてら若さを謳歌するとしようかのう。」
下卑た笑みを浮かべつつ、五郎左衛門はある一室を目指した。
本丸の二階、階段に見張りが立ててあり、此処を通らねば誰も他の階にはいけない。
無理に出ようとするなら壁や窓の格子を破るか、屋根を伝って下に下りるしかない。
前者は女の細腕で出来ることではないし、
後者は屋根にいるうちに他の見張りに見つかる。
この二階全体を使い、御紺を実質軟禁状態にしてある
間を広く取ったのは、見張りに行為を聞かれているとあっては興が削がれるからである。
五郎左衛門は当然顔パスで見張りの前を抜けると、階段から奥まった所にある一室に向かう。
どのような顔をして自分を見るのか、その顔に浮ぶは諦念か、激情か、それ以外の何かか。
五郎左衛門は少々楽しみになり、うきうきしつつ御紺のいる部屋を目指す。
扉の向こうには崩れ落ち、着物を着崩したままぴくりともしない女性がいた。
脚も太股まで覗き、胸元も大きく開いたままだ。
部屋には据えた獣の匂いが漂い、空気が淀んでいるように感じられる。
「随分とお盛んだったようだな。こんな所にばかり精を出しおって。」
シンとした室内に五郎左衛門の苦笑が響く。
すると人形のように崩れていた御紺が反応を示す。
ずずっと衣擦れの音と素足が畳を擦る音が空気を引っ掻く。
顔が持ち上がり空ろだった表情に色が戻る。
その顔色を見て五郎左衛門は打ち震えた。
頬はこけ始め、化粧で誤魔化しが効かなくなってきている。
目の周囲も窪んでいるが、目だけがギラギラと輝いていた。
まるで手負いの獣を檻の外から眺めているようだ。
五郎左衛門はその表情に、天守に乗り込んできた化け狸と同じ色を感じ興奮する。
(これだからやめられぬ。なしとうて悪であるわけでないが、
このような表情をした者を蹂躙し、魂の搾りかすをさらに砕くのは何とも言えぬ愉悦よ。)
狡猾で用心深く、これまで幾度と無く死線を見据え潜ってきた男。
海千山千の五郎左衛門、この日彼には油断があった。
以前の彼なら、彼女の表情から・・・部屋に入った瞬間漂う死臭から・・・
嗅ぎつけたであろう。自分の目の前に広がった暗い落とし穴を。
肌で感じたであろう。自分に迫る死神が立てる足音を。
だが、勝利に浮かれ、若さという美酒に酔い。
性という久方ぶりの欲望に目を曇らせた彼は近づいてしまった。
手負いの獣にも牙や爪はあるということを失念したまま。
※※※
五郎左衛門が部屋を訪ねる数刻前、同じ室内には動かない御紺と一人の男がいた。
「恨んでいるか?」
男はぴくりともしない御紺に一人語りかける。
だが御紺は男の言を聞いているのかいないのか、
何も反応を返さず。男の前にこの部屋に来た者に犯された姿のまま動かない。
武太夫、彼に女と無理矢理事をなす趣味はない。
だが、今は御紺と子作りすることが半ば強制の業務となっている。
持ち回りで事をなすことで、みなで共犯となり連帯感を強め。
裏切りを防ぎ罪悪感を薄めさせる。
肝の小さな者達の矮小な自己満足。
それに異を唱えられる立場に彼はいない。
与えられた時間。ただ何もせず此処にいる以外にすべはない。
「・・・これを・・・」
武太夫は彼女に懐から出した匕首(あいくち)を渡す。
「自害するなり、拙者に斬りかかるなり好きにいたせ。」
指を開き、それを御紺に無理矢理握らせるが、彼女は反応せず虚空を見つめたままだ。
そのまま時間が過ぎ去り、武太夫は部屋を黙ったまま去った。
一人になった部屋の中で、御紺は少しずつ動き、匕首を懐に隠した。
12/09/19 10:26更新 / 430
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